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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 時代の移り変わりと西条工場

 (1) 工場の様子

ア 発展途上の工場

 「私(安藤良文さん)が西条工場に入社した昭和25年(1950年)当時は、第一工場では人絹が、第二工場ではスフが製造されていて、私はスフの生産部で勤務していました。入社後、新人教育を受けている間は昼専(昼勤務専門)で勤務して、この期間が終わると三交替勤務となり、それからはずっと交替制で勤務をしていました。私はスフの製品の工程で仕事をしていました。私が担当していた工程は、仕上げや出荷など、出来上がった製品の最終的な作業を行う工程で、スフの工程の中でも後ろの方の工程になります。私が入社した当時は、昭和11年(1936年)6月に西条工場が操業を開始してから14年ほどしか経(た)っていませんでした。工場自体がまだ発展するかどうかというような途上の状態でした。」

イ 秘密の保持

 「工場では、構内でカメラを持つことができるのは本当に一部の人でした。勝手にカメラを持ち込むことがないように、工場への出入りの際には身体検査があったくらいです。また、終戦直後のころにはパルプが工場の外へ持ち出されることを防ぐ目的もあったようです。パルプについては、玉之江(たまのえ)(現西条市玉之江)にある紙漉(す)き業者が紙を漉く際に、パルプを混ぜて漉くと相当に良い紙ができていたことから売れていたようなのです。私(青木義雄さん)が勤めていた時には、それほど厳しい身体検査まではありませんでしたが、工場の出入口には必ず守衛さんがいて、従業員の出入りをチェックしていました。もし、何かを工場から持ち出そうとするような人がいれば、守衛さんに止められて検査をされていました。カメラで工場内を撮影されたり、工場内のものを持ち出されたりすると、企業の秘密を守ることができないことから、企業としては当然のことだと思います。工場内にも『カメラ持ち込み禁止』という貼り紙がされていたことを憶えています。近くには同業他社があったこともあって、工程などの作業内容について話すことはもちろん、他社の社員との接触についても厳しく制限されていました。」

 (2) レーヨンの製造

ア 学び続ける姿勢

 「私(青木義雄さん)が入社した昭和31年(1956年)当時は、まだ日本の経済が上向いているというような実感はありませんでした。実際、景気が良くなったと実感できたのは、昭和37年(1962年)ころだったと思います。昭和30年代当時は、レーヨンの原料となる針葉樹をカナダから輸入していました。製造に際して、その配合率を70%にし、50%にし、35%にと、どんどん落として最後には25%にまで落としていたと思います。L7(パルプの品質)というチリ紙のような製品を、配合率85%相当の出来率にまで高めていく仕事には苦労しました。82%くらいの出来率になったときには、うれしさのあまり『これは末代までなくなることはない。』と思えたほどでした。西条工場はレーヨンを製造する工場だったので、経済の好況不況の波に大きく影響を受けました。また、先物売りで夏に増産体制がとられるため、工場内が暑くて大変でした。好況のときには冷却設備を使うことがあったのですが、不況になると節約でそれを動かさないということがありました。
 レーヨンは半年先の需要分を製造します。冬に需要が増える太物の製造する夏場は、ビスコースの量が増えるため仕事が忙しくなり、冬場は夏に需要が増える細物を製造するので、仕事が少し楽になっていました。当時、景気が良いときには製造すれば製造するだけの製品が売れていました。大量に製造をしても製品が不足するようなことがあったくらいで、工場はフル稼働の状態でした。
 仕事は流れ作業で、108チャージとか120チャージというような、生産量を示す単位であるチャージ数で時間を管理して、その流れで仕事を行っていました。計量したパルプを浸漬、圧搾、粉砕、老成、硫化、というような工程通りの流れ作業でビスコースが製造されていました。流れ作業であるからこそ、ほかの工程の仕事内容を理解しておかなければならず、特に時間と温度には細心の注意を払っていました。大体65分で硫化時間というように決められていましたが、温水の流れが機械によって違い、補正をしているため、機械ごとに『老成時間を5分プラスしなければならない。』というような、マニュアルにも記載されていないような細かいことを全て覚えておかなくてはならず、仕事としては難しかったと思います。
 私が多くの工程を習得するのにはかなりの時間を要しました。フィラメントの製造工程では、硫化時間が2時間15分など、それまでのレーヨンの工程とは多少違いがあるので、これらの基本的な事柄を全て頭に入れるのに相当な時間を要したと思います。これは私だけのことではなく、技術職として働く従業員の誰しもがそうだったのではないかと思っています。」

イ 不景気への対応

 「景気が下降した場合でも勤務は三交替制が採られていました。ビスコースは工程を止めてしまうと固まってしまうため、機械自体を停止させることができませんでした。紡糸の噴出時間は52時間が最適であると決まっているので、機械を止める場合でも工程に沿って順に止めていかなければ、次に工程を立ち上げるときにうまくいかなくなるのです。
 私(青木義雄さん)はクラレに勤めている間に好不況のそれぞれを経験しましたが、それぞれに思い出があります。景気が悪くなると、パッキンなどの備品が不足してきます。しかし、景気が良くなるとそれらは山のように準備されていたことを憶えています。また、景気が悪くなると『不要な蛍光灯を点(つ)けっぱなしにしない。』などと言われていましたが、景気が良くなると、それも言われなくなっていました。電気に関しては『自家発電しているのだから少々のことはええんじゃが。』という考え方がありましたが、不景気のときには『この電気を8時間消したら4円になる。1か月続けたらナンボになる。』というように少しでも節約をしなければなりませんでした。それだけ工場での経費についての管理がしっかりされていたということだと思います。」
 「私(北寛一さん)が昭和27年(1952年)に入社して以降、工場の中は、手で押して作業をしていた部署にコンベアが導入されるなど、次々と新しい設備に更新されて本当に目まぐるしく変わっていきました。製品の生産量も多かったので、本当に忙しい毎日を送っていたことをよく憶えています。新しい機械が導入され、新しい工場が建設されるなど、仕事をしながら技術の進歩を目の当たりにしてきた、そんな時代だったと思います。しかし、それも昭和48年(1973年)のオイルショック(石油危機)まででした。オイルショックの影響は大きく、全てにおいて停滞を招いたと言えます。」
 「西条工場では、昭和37年(1962年)にフィルム(ポバールフィルム)が、同44年(1969年)にクラベラ(ポリエステル長繊維)の生産が始まりました(写真3-1-8参照)。その後はオイルショックの大不況があり、それからそれを打開するために、新しいものが次々に取り入れられていきました。オイルショックは繊維産業には大打撃で、クラレでもボーナスが現物支給になったり、ボーナスの一部で社内製品を購入したりしなければならないほどでした。オイルショックから昭和50年代の後半くらいまでは、会社としても大変な時期だったのではないかと思います。繊維産業は『景気の良い期間が短く、そうでない期間が長い。』と言われていました。繊維産業は早々と成熟した産業でしたから、昭和40年代までは、割と好不況といっても不景気の期間が長く、好景気になったとしてもすぐに景気が下降するという状態の繰り返しであったと私(安藤雅康さん)は聞いています。」

ウ 海外での勤務

 「オイルショックが起こった昭和48年(1973年)に私(北寛一さん)はインドネシアに赴任しました。当時、クラレがインドネシアに工場を建設するということで、西条工場からたった一人、私が派遣されたのです。派遣された場所は首都ジャカルタの西約20kmにあるタンゲランという町で、単身赴任でした(図表3-1-2参照)。工場設立の準備に携わる人は先に現地へ派遣されていて、工場の建設には新居浜の鉄工所の方が派遣されていたようです。私は工場の建設と製造工程の試運転が終わり、いよいよ正常運転に入るというときに派遣になったのです。
 当時、インドネシアへは飛行機で行きました。西条から伊丹(いたみ)(大阪国際空港)へ行き、伊丹から香港(ホンコン)へ渡って、香港からシンガポール、シンガポールからジャカルタへという行程でした。インドネシアへ赴任中に帰国したのは1回だけで、赴任をして1年半くらい経ったころに休暇をもらって帰国したことを憶えています。現地での仕事を終えて帰国するときには、ジャカルタからシンガポールへ渡り、シンガポールからは東京への直行便で帰国しました。
 機械課にはベネズエラへ派遣された私と同期入社の社員もいました。ベネズエラは生活環境が悪く大変だったようですが、インドネシアでの生活は比較的良かったと思います。勤務日には仕事に一生懸命に取り組んで、休日や余暇の時間を十分に楽しむというように、メリハリのある充実した日々を送ることができました。新設されたクラレの工場の近くにはクラボウや帝人、東レと日本企業の工場が多く建設されていました。ちょうど日本企業が東南アジアに進出を始めたころだったのではないかと思います。インドネシアには2年余り滞在していました。大体2年での交代だったようで、私の後にも1人ずつ派遣されていたようです。私が赴任した時には工場内の機械がすでに動いていましたが、現地の従業員の多くがその機械の操作に慣れておらず、運転の状態を示すランプの意味を理解せずにそのランプを一生懸命に押している、というような状況でした。機械を正常に動かすには適当にボタンを押すということがあってはならないので、現地の方の指導にはとても苦労しました。赤や青といったランプが点灯しているということ自体、現地の人にとっては興味深いものだったのかもしれません。機械が本格的に動き出してもこの状態だったので、私より先に来ていた方が、『建設当時はもっと大変だった。』と言っていたことを憶えています。私は工程の中でも最初の方の監督をしていましたが、玉(たま)島(しま)(現岡山県倉敷市)の工場からは工程の後の方を監督する人が来ていました。インドネシアでの仕事は大変なことが多かったのですが、休暇にはバリ島へ行ったり、少し足を伸ばしてオーストラリアへ行ったりすることができたので、良い経験ができたと思っています。また、大変な時期にインドネシアで仕事をすることになり、不安がありましたが、会社や家族の協力のおかげで無事に役割を果たすことができたと思っています。」


図表3-1-2 タンゲランの位置

図表3-1-2 タンゲランの位置