データベース『えひめの記憶』
松山市
寒川鼠骨(1875~1954)
俳人。松山城下の三番町(現、松山市)出身。本名は陽光(あきみつ)。旧制松山中学校(現、県立松山東高等学校)時代、河東碧梧桐から子規の和漢詩文集『七艸集(ななくさしゅう)』を見せられて子規を知り、第三高等学校(現、京都大学)在学中、碧梧桐とともに、神戸で療養中の子規を見舞ったのが最初の出会いであった。第三高等学校を中退し、新聞『日本』に投句を始め、子規から「敏捷」と評された。明治30(1897)年、大阪朝日新聞社に入社するが、子規に勧められて新聞『日本』に入社した。
世話好き、話上手で座談がうまく、病床の子規にはなくてはならない存在であった。子規没後は根岸の子規庵保存に生涯を捧げるとともに、子規遺墨集や分類俳句全集などの出版につとめ、子規顕彰に力を尽くした。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)