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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

2 短歌

 歌人

 中央で活躍を続けた歌人は、石榑千亦と森田義郎であろう。県下では中央歌誌の影響下に、戦時下を迎えた。石榑千亦は終生帝国水難救済会の経営に尽瘁し、佐佐木信綱の「心の花」を編集した。海洋旅行中の詠草が『潮鳴』(大正四年)、『鷗』(同一〇年)、『海』(昭和九年)の歌集に結実した。石鎚山を詠んだ歌も多い。

  たゝなはる山ことごとく黒ずめりひとり白きは石鎚山かも

 真鍋嘉一郎は西条出身、松山中学で漱石の教えを受け、東京大学内科物理療法講座を担当した。
 今井嘉幸は法学博士、衆議院議員、嘉一郎と同年でともに竹柏会「心の花」で活躍した。
 森田義郎は県下唯一人の子規門、のち「心の華」に拠り、右翼政治運動に参加した日本主義歌人であった。

  石鉄の冠の滝のおちたぎつおとのとゞろと山鳴りとよむ


 県下の歌壇

 大正時代は、若山牧水の「創作」、窪田空穂・松村英一の「国民文学」の歌風が浸透してきた。三浦敏夫は大正二年越智郡岩城島に牧水を迎え、「創作」の計画に参画、牧水は歌集『みなかみ』を編集した。当時愛媛師範学校に牧水ファンが多く、卒業後森下笹吉(伊予市)、山口夕花(城辺)ら各地で短歌活動の先達となった。松山商業学校生らは、空穂の重厚な歌風にひかれ、大正八年「幽光」を発行、同一三年第二次を発行した。また田窪八束は、今治吹揚神社宮司で父勇雄に学び、大正一二年から昭和一九年まで「旭日」を発行、周辺の歌人を指導した。
 昭和前期には斎藤茂吉・土屋文明の「アララギ」、花田比露思の「あけび」、橋田東声の「覇王樹」系が普及した。昭和二年(一九二七)、旧制松山高等商業学校の学生を中心に、文芸誌「黒潮」を歌誌「風艸」と改題して一〇号まで発行した。編集責任者友広保一はアララギ会員、同人に加わった白木素風(裕)は城北高女教諭で茂吉門であった。また同人の佐伯秀雄は、岡野直七郎の「蒼穹」の同人として活躍した。
 この時期には「にぎたづ」「やまぶき」などの歌誌が発行された。前誌は、昭和六年四月岩浪藤尾・大野静ら「あけび」系の人々中心に、県下の歌壇統一を意図して第四号まで発行された。後誌は昭和九年三月岩浪藤尾らが発行、人形芝居の三味線師鶴沢又春など異色の歌人もいたが、昭和一二年六月終刊した。昭和六年八月には八幡浜で「笞荊」を創刊、数行書き前衛短歌を先駆的に試みたが、数号で解散した。「青雲」は昭和七年四月、今治の二歌誌が合同して、村上正人・中谷秋羅を編集者として発行、後半には竹田正夫・竹田行雄らも参加したが、昭和一七年八月一一三冊で終刊したが、一〇年間に県下にその勢力を広めた。昭和七年八月には南宇和郡御荘町で「くさの葉」が発行され、これを宇和島の中井コッフ・森田虎雄・弘田義定らが支援した。中井コッフは橋田東声門下の最古参で、南予各地から高知県幡多郡にまで歌風は普及したが、昭和一六年二月九六冊で終刊した。

  向つ嶺に日の入り行きて久しきに山鼻ゆ日光(ひかげ)峡のねにさす  中井コッフ

 昭和一五年護国神社宮司矢野義晶らが愛媛奨弘会を創立、題詠による和歌指導を行っていた。昭和一七年には愛媛歌人協会が設立し、県内外の歌人を総動員し「神南備」を発行したが戦時下第二号で廃止した。

 来遊歌人

 昭和六年一月花田比露思は、松山の県下短歌会後、大洲、面河、石鎚へ、一一月与謝野鉄幹・晶子夫妻は、東予から石鎚を詠み、松山城周辺を探訪した。昭和一一年松村英一は四阪島・新居浜・松山・面河渓へ来遊した。吉井勇は昭和五年宇和島へ、同一二年伯方島有津に滞留二二か月に及び、潮騒に心耳をすました。昭和一二年斎藤茂吉は道後に滞在、松山城・子規埋髪塔に詣で、同一八年土屋文明は重信町見奈良の軍人療養所で慰問講演をした。

 狂歌

 狂歌で知られる高橋恒麿は、松山市の医師、山草研究家で、天下の青人・四国のさる人などと号し、狂歌をつくり、東雲神社・還熊八幡神社山上など各所で、同好の士と飲み会ならぬ「朝餐会」を楽しんだ。狂歌集『日寿乃窟集』(昭和六年)がある。

  米人スミスの飛行機来る  (詞書)
  飛行術まだ若草や春日野のとぶ日のまれに飛ばぬ日ぞ多き めし恒