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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

1 俳句・川柳

 大正・昭和前期の俳壇は、愛媛県人が主流となったといっても言い過ぎではあるまい。子規没後、河東碧梧桐と高浜虚子とに俳壇は二分し、更に松根東洋城は「澁柿」を主宰し、昭和前期には芝不器男(天の川)が登場、更に中村草田男(ホトトギス)、石田波郷(馬酔木)、篠原梵(石楠)らは人間探求派と称され、新興俳句運動の富沢赤黄男(旗艦)らが輩出、子規一派の明治期の内藤鳴雪・柳原極堂・村上霽月らも活躍し、子規山脈がその後全俳壇に開花した観さえ生じ、山口県の種田山頭火も松山で生涯を閉じた。

 虚子と「ホトトギス」

 明治三八・三九年「ホトトギス」に漱石は「吾輩は猫である」「坊っちやん」を掲載、その刺激を受けて、高浜虚子は小説に熱中し、明治末期の「ホトトギス」は文芸誌となった。この間、碧梧桐の新傾向派は全国を風靡するにいたったが、新傾向にあきたらぬ者、伝統を支持する者も多く、虚子は明治四五年(一九一二)七月「ホトトギス」に雑詠選を復活し、大正二年(一九一三)三月から、誌面の半分を小説・写生文類、半分を俳句欄とした。
 俳壇復帰を決意した虚子は、「暫くぶりの句作」(「ホトトギス」大正二年三月号)において、六回の句会中、

  霜降れば霜を楯とす法の城  虚子 一月一九日
  春風や闘志いだきて丘に立つ    二月一一日

と、「闘志」は新傾向に対し、「楯」は一七字定型・季語をさし、俳句本来の二つの制約の中で新しみを加えんとし、自らを「守旧派」と称した。大正三年子規一三回忌を機として、「子規の句六回講義」を鳴雪・虚子で行い、大正五年『子規句集講義』を出版して新指針とした。更に「俳諧散心」の鬼城・水巴・蛇笏らの力を得、写生に基づく季題趣味を求めた。

  白牡丹といふといへども紅ほのか  大正一四年

 昭和三年、新写生論として「花鳥諷詠」を唱え、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象並びにそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂」と説き、俳句を自然諷詠詩に限定し、客観写生をその方法とした。
 昭和初頭、秋桜子・青畝・誓子・素十の四S時代を迎え、ホトトギス王国は興隆の一途をたどり、本県人として芝不器男、昭和五・六年には中村草田男が登場した。昭和六年一〇月水原秋桜子は、「ホトトギス」の瑣末傾向を嫌い脱退し「馬酔木」を創刊、その後編集に参加した石田波郷が頭角を現してきた。昭和九年改造社版『高浜虚子全集』一二巻が刊行された。時に虚子六〇歳であった。
 昭和一一年欧州に俳諧の旅をした虚子は、特にフランスの前衛派のハイカイ詩人たち(日露戦争後に医師クーシューが来日し、俳諧を紹介、以来前衛派詩人に愛好されていた)と交歓、これが俳諧の海外流行の緒となった。

  蒲公英にオックスフォード近きかな 戻り来て瀬戸の夏海絵の如し

 昭和一六年虚子は満鮮旅行をした。翌年日本文学報国会が結成されたし、同一八年には俳諧文庫設立に尽力し、同文庫を愛媛県立図書館内に置き、『正岡子規』も出版した。昭和一九年戦火を避けて鎌倉から小諸に疎開。年尾(虚子の長男)は、小諸時代は「虚子俳句の最も昇華した」時代と述べている。

  ラヂオよく聞こえ北佐久秋の晴 昭和一九年 山国の蝶を荒しと思はずや 同二〇年

 緊迫化して敗戦を目前にひかえた時期に、俳三昧の境に生きている楽しみを味わっていたといえよう。

 松根東洋城と「澁柿」

 松根東洋城は東京生まれであるが、宇和島を郷里とし、松山中学以後漱石門下に入り、漱石を通じ子規庵を訪ねた。宮内省式部官、明治四一年「国民新聞」の「国民俳壇」を虚子に託され、撰句集『新春夏秋冬』を編集刊行、明治末期の守旧派唯一の牙城として、新傾向派に対抗した。大正四年二月「澁柿」を創刊(大正天皇への奉答句「澁柿のごときものにては候へど」に拠る)。翌五年「国民俳壇」は虚子の手に移り、以後「ホトトギス」と袂を分かった。誌上寺田寅彦・小宮豊隆・東洋城の「漱石俳句研究」や、連句などを連載し注目され、前者は大正一四年刊行、毎号の巻頭語は『俳諧道』として昭和一三年還暦記念に出版された。芭蕉の俳諧精神に傾倒し、道としての俳諧道場の掟など参禅の酷しさを堅持、昭和期に連句の意義を高揚した。本誌に拠る俳人中、県下の俳人は圧倒的に多く、村上霽月も支援した。

  島々や湾の外まで春の海 我が祖先は奥の最上や天の川   (句碑二句一基伊達博物館)

 子規派の人々

 子規の俳句革新運動に参加した人々で、大正期以後も活躍したのは、内藤鳴雪、上京してきた柳原極堂であろう。勝田明庵(主計)は、再度大蔵大臣や文部大臣を務め、句を楽しんだ。内藤鳴雪は、本名素行から鳴雪と号し、日本派の長老として尊敬された。二二俳誌紙の選句のみならず、「ホトトギス」の募集俳句選、評論・輪講・芝居評を連載、終生「ホトトギス」に協力した。生前二種の句集のほかに『鳴雪自叙伝』(大正二年)、『哲理的文芸論』(大正一三年)などがある。常盤会寄宿舎の旧舎生らが翁の徳を敬慕して道後公園に寿碑を建てた。

  元日や一系の天子不二の山 (寿碑)初冬の竹緑なり詩仙堂(『鳴雪句集』)

 柳原極堂は、子規と同庚(同年齢)、明治三〇年「ほとゝきす」を二〇号まで松山で刊行し、子規一派の新派俳句の普及興隆に協力した。伊予日々新聞社長を退任、昭和三年上京して句作生活を復活、同七年「雞頭」を創刊、子規の事蹟を調査探求して連載した。疎開帰郷して、昭和一八年『友人子規』を刊行、子規研究上必須の書となった。松山子規会、子規堂建設など子規顕彰に情熱を注いだ。
 下村為山は小山正太郎門下の画家で、子規一派の初期俳句、松山松風会の興隆に貢献した。「ホトトギス」の口絵を描き、のち俳画家として鋭い筆致が賞されている。
 寒川鼠骨は諸事粗忽からの号、病臥子規に看病上手といわれ、大正一三年(一九二四)以後アルス版・改造社版「子規全集」や「分類俳句全集」の刊行に努力し、昭和三年(一九二八)以後根岸の子規庵の保存に努めた。
 
 昭和前期の新人と新興俳句運動

 昭和前期中央俳壇で活躍した人々として、芝不器男・富沢赤黄男・中村草田男・篠原梵・石田波郷らについて略述しておこう。
 芝不器男は北宇和郡松丸(現松野町)の出身、宇和島中学・松山高等学校から東北大学に進み、大正末から九州の吉岡禅寺洞の「天の川」に投句し、「彗星のごとく俳壇の空を通過した」といわれた。小説家梶井基次郎にも比すべき人で、「的確無比な表現で、感動と印象とが具象化され」、内面的欲求から万葉語を駆使し、近代俳句の先駆者といわれる。

    二十五日仙台につく みちはるかなる伊予の我が家をおもへは あなたなる夜雨の葛のあなたかな (松丸小学校句碑)

 右の句に対する虚子の批評は、歴史的な名鑑賞といわれている(「ホトトギス」昭和二年一月号)。
 富沢赤黄男は西宇和郡川之石生まれ、大正一二年早稲田大学在学中、松根東洋城を訪ね、「澁柿」に投句したが、昭和一〇年日野草城が「旗艦」を創刊するや、その新興俳句運動に参加し、詩壇のシュールレアリズム的傾向を発揮し、人気作家となった。再三の応召で異色の戦場俳句は注目された。新興俳句弾圧後の昭和一六年句集『天の狼』を上梓、斬新な俳風を確立し、問題を提起した。

  爛々と虎の眼に降る落葉  昭和一六年『天の狼』   石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり  昭和一六年『蛇の笛』

 草田男と波郷―人間探求派―

 昭和一〇年代に新興俳句運動と伝統俳句の理念を止揚し、新風を鼓吹したのは、人間探求派であろう。草田男は波郷より一二歳年長だが、同じころ「ホトトギス」「馬酔木」で開花した。
 中村草田男は中国厦門生まれ、松山を郷里とし、小学校・松山中学・松山高等学校を経、東京大学国文学科を卒業した。思想的遍歴を続け、斎藤茂吉の短歌をよみ詩歌に開眼、昭和六年(一九三一)ころ「ホトトギス」に新人として登場した。詩人的な草田男は、素材と表現の新化をねらう新興俳句運動を皮相的と批判し、虚子の自然への随順、花鳥諷詠、客観写生にあきたらず、自己の心理・思想や生き方を季題を活用させて表現する象徴手法へと進んだ。
 昭和一四年八月「新しい俳句の課題」を中心とする座談会に、草田男(ホトトギス)、石田波郷・加藤楸邨(馬酔木)、篠原梵(石楠)らが対談、四人共通の傾向として人間探求派と呼ばれるようになった。楸邨以外は俳系を異にしていたが、いずれも松山出身であり、草田男を先輩として松山中学の同窓、梵・八木絵馬(石楠)は松山高等学校の同窓であり、子規グループ以後の松山俳壇の東京進出ともいえよう。
 昭和一五年暮には日本俳句協会ができ、同一七年日本文学報国俳句部門となり、草田男のシュールレアリズム的傾向の作品は抑圧されるという事態も生じた。
 近代俳句の展開は、子規の写生を基点に、虚子の花鳥諷詠があまねく風靡し、新興俳句運動はわずかに叙情性などを生かしたが、それは「虚子先生の掌の上であばれているような」状況に過ぎなかった。しかし、草田男らの出現によって、俳句は詩人的態度に支えられ、各自個性的態度が重視されるようになった。戦時下にあって、こうした気運を確立した点で、草田男らの動きは歴史的に大きな意義を有する。

  降る雪や明治は遠くなりにけり  昭和六年『長子』   万緑の中や吾子の歯生え初むる  昭和一四年『火の鳥』

 篠原梵は松山高等学校で川本臥風の指導を受け、昭和六年東大に入学し、臥風の紹介で臼田亜浪門に入門、卒業後中央公論社に入社した。「鋭敏な感覚と知的且つ抒情味豊かな俳風」で「石楠」の花形作家となり、人間探求派の一人で評論にも活躍、昭和一六年刊『皿』では五〇句に及ぶ吾子俳句が注目を浴びた。
 八木絵馬は、中学・高校・東大と梵と同級、俳句もともに臥風門・亜浪門、「石楠」で、近代的理知の眼もおだやかといわれている。

  寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼  梵   ばった翔つ弧の入りまじる中をゆく  絵馬

 石田波郷は温泉郡垣生村(現松山市)生まれ、松山中学時代、同級の大友柳太朗(のち俳優)の勧めで俳句を始め、澁柿派や村上霽月の指導を受け、余土村(現松山市)の五十崎古郷に入門、「波郷」の号を得、古郷の師水原秋桜子の教えを受け「馬酔木」の編集に従った。「馬酔木」の叙情主義にあきたらず、昭和一二年石塚友二と「鶴」を創刊、作品は次第に私小説的、人間生活の色彩が濃くなり、同一四年人間探求派と呼ばれるようになった。古典の技法と格を重んじ韻文精神を説いたが、同一八年応召、中国大陸に渡った。

  女来と帯纒き出づる百日紅  昭和一四年「風切」
  雁やのこるものみな美しき  昭和一八年『病雁』

 人間探求派の三人、草田男は複雑にしてきわまりなく、思想・心理の多様性・矛盾性を俳句表現の中に圧縮し、天来の妙音を発するかと思えば、はかりしれぬ難解句もあり、梵は近代的知的欲求を懐き、波郷は韻文的風格を示すと評されている。
 昭和二〇年終戦にいたるまでの、(一)戦場俳句、(二)銃後俳句、(三)終戦の大詔を拝して、諸俳人の句をあげよう。

  (一)困憊の日輪(ひ)ころがしてゐる戦場   赤黄男
     雷落ちて火柱見せよ胸の上        波 郷
  (二)国の秋測り知られぬ力あり        虚 子
     皇土はつかに存すと虫の鳴き入りぬ    東洋城
  (三)空手に拭ふ涙三日や暑気下し       草田男


 碧梧桐の新傾向

 河東碧梧桐は、門下の荻原井泉水の「層雲」に拠っていたが、季題廃止から意見を異にし、大正四年(一九一五)中塚一碧楼と「海紅」を創刊、『新傾向句集』も出版した。大正五年自己の把握した感激をあるがままに表現し、個我の尊重となり、翌六年には「人間味の充実」として、「炭挽く手袋の手して母よ」のような句となった。大正七年定型を破棄して自由律口語調へと進み、一碧楼とも相容れぬようになり、大正九年一一月から同一一年二月の間、ベニス・パリ・ロンドンなど欧州を巡遊した。

  ミモーザを活けて一日留守にしたペットの白く (ローマ三句の中)

 帰朝後、再び「日本及日本人」の選句をしたが、同一一年末には「海紅」とも訣別、翌一二年二月個人雑誌「碧」を創刊、俳句を〈詩〉と称するにいたった。同一四年三月風間直得編「東京俳三昧稿」と「碧」と合併して「三味」を創刊、句を〈短詩〉と称した。碧梧桐は感情の律動的内容から表現上のリズムを重視し、「潮のよい船足を瀬戸のかもめはかもめつれ」などと詠んだ。
 昭和三年(一九二八)ころから、写実求真の線に添う表現として、直得の試みたルビ付俳句を試みた。

  手ずれな正月(ハル)は遍路が笠を肱によせ松

 「正月」に「ハル」のルビは、視覚的に一見して会得しうる表現であり、二重性の効果をねらったものだった。
 昭和五年一月号「日本及日本人」で、〈日本俳句〉を〈三昧俳句〉と改めた。子規の伝統を継承した碧梧桐が、これを超えようとした意図の表れと見るべきであろう。昭和七年には「三昧」は「紀元」と改題され、直得が主宰するようになった。碧梧桐は「隠退の辞」を載せ、同八年三月一日号の「日本及日本人」に「俳壇を去る言葉」を発表した。隠退後は、子規研究・蕪村研究と書に熱中し、昭和九年『子規を語る』『蕪村名句評釈』、一一年『蕪村研究』『正岡子規読本』『子規言行録』などを刊行した。
 俳句を第一義的芸術とみて真剣に追求し、生活的に、社会的に時代に生かそうと苦闘し続けた碧梧桐の一生は、あまりにも急進的、超俗的性格が災し、結局、自分一人の道を歩くほかなかった。こうして四〇年にわたる独自の俳壇生活に終止符をうち、昭和一二年六五歳で没したが、その歩み自体は、後世大きな意味を持つであろう。

 県下の俳人・俳誌

 日本派最初の結社松風会が、松山に誕生し、直接子規の指導を受けたので、その関係者も多く、碧梧桐系は一部に、やがてホトトギス系が全県に普及していった。
 〈子規の日本派の人々〉
 村上霽月は明治二六年「蕪村句集」を入手、最初に蕪村を学び蕪村を会得した畏るべき人と子規に評された。今出絣株式会社頭取・県信用連合組合長などの要職にあり、「野中の一本杉」として、伊予にあって孤高を持し、天下の俳友・文友と深い交わりを続けた。〈業余俳諧〉を唱え、漢語調俳句に特色があり、大正九年瑣末写生主義にあきたらず、漱石の漢詩を熟読、その感興が句となり、「転和吟」を創始、「題画吟」も試み、『霽月句集』三巻に収めている。

  朝鵙に夕鵙に絣織りすゝむ(句碑) 酔眼に天地麗ららかな(句碑)

 野間叟柳は新派俳句の「松風会」創設の発起人の一人で、校長・松山市学務課長など歴任、子規派の俳風興隆に力を尽くした。明治二八年子規送別会の句「我ひとりのこして行きぬ秋の風」の碑が、生家跡近く、松山市湊町にある子規歌碑の少し東に建っている。外孫永野為武は孫柳と号し俳系を継いだ。
 仙波花叟は「ほとゝきす」創刊号から子規の指導を受け、大正四年(一九一五)地元の北条地区に「風早吟社」を興し、昭和三年「この松の下にたゝずめば露のわれ 虚子」の句碑を、西の下(北条市)大師松の下に建てた。「腰折といふ名もをかし春の山 花叟」の句碑が鹿島にある。
 岡田燕子は明治二九年子規から「日本」に投句を勧められ、「白牡丹さくや四国の片すみに」の句を送られた。燕子は、北宇和郡内小学校教員で、東洋城に共鳴し、宇和島の「滑床句会」を指導し、昭和四年~一六年「南予澁柿」を主宰、多くの優秀な俳人を育成した。
 森田雷死久は真言宗の僧、明治三三年子規庵での蕪村忌に参加、海南新聞俳壇選者、明治四三年碧梧桐を迎えての荏原村(現松山市)での俳夏行に加わり、以後、新傾向に徹した。
 野村朱燐洞は明治四三年碧梧桐に接し、翌年「層雲」に参加、十六夜吟社を結成、雷死久に師事し大正四年層雲松山支部を創立して「層雲」の選者となり、嘱目されたが、世界的流行性感冒で夭逝した。鬼才を惜しみ、井泉水は遺稿集『礼讃』を出版した。吟社中、阿部里雪・白石花馭史らがやがて活躍するようになった。
 塩崎素月は愛媛県師範学校在学中、松永鬼子坊・桧垣括瓠・村上壺天子(のち「澁柿」の代表俳人)らと村上霽月の指導を受けた。明治四二年「四国文学」の主筆、大正一三年俳誌「葉桜」(大正一一年創刊)を玉木北浪から継承した。昭和二年葉桜会主催(幹事長塩崎素月・会長酒井黙禅)で、第一回関西俳句大会を道後公会堂で開催、高浜虚子一門、王城・禅寺洞・野風呂ら一八〇名参加し大盛会であった。素月は同四年宇和島に転任し、昭和七年「葉桜」は通巻一一一号で休刊となった。
 大正・昭和初期の八幡浜俳壇では、松本松碧楼・西村泊春・毛利明流星らが活躍したが、いずれも夭逝した。
 八木花舟女は、昭和六年松山で「まつやま」を発行、池内たけし・高浜年尾らが選者で、昭和一七年三月まで刊行した。森薫花壇は、昭和七年松山で「糸瓜」を発行し野間叟柳の奨めで富安風生の選を受けた。
 旧制松山高等学校では英文学の林原耒井・独文学の川本臥風らが「松高俳句会」を結成、昭和八年「星丘」を創刊、市民も参加して継続した。卒業生に芝不器男・五十崎古郷・中村草田男・品川柳之・谷野予志・小川太朗・大野岬歩・永野孫柳・篠原梵・八木絵馬・西垣修らがいる。
 俳誌は、大正期以後「葉桜」など四誌(松山)。昭和期に「南予澁柿」(宇和島)、「双葉」(岩城)や、ホトトギス系の「ふくべ」(中萩)、「鷗」(今治)、「燧」(西条)など、松山以外の各地で発行された。昭和一七年二月戦争目的完遂のため愛媛県俳句作家協会を設立し、各誌統合して「莖立」が発刊されたが、一九年四月廃刊した。学徒動員・傷痍軍人ら生々しい戦争の悲惨さが誌面に横溢している。
 酒井黙禅(福岡県出身)は大正九年日赤愛媛支部病院に赴任、後院長を務めるかたわら「ホトトギス」課題選者として、愛媛俳壇の興隆に貢献した。句集『後の月』(昭和一八年刊)がある。

  春風や博愛の道一筋に (松山赤十字病院内句碑)

 種田山頭火は山口県防府生まれ、大正三年井泉水に師事し「層雲」に投句したが、酒造業が再破産し一家離散した。熊本で出家し各地行脚、昭和一四年広島の大山澄太や松山の高橋一洵らの好意で、松山市の御幸寺門外一草庵に定住、道後温泉を愛し、人情に恵まれ、終の栖とした。句集『草木塔』(昭和一五年刊)がある。

  鉄鉢の中へも霰 (一草庵句碑) 分け入つても分け入つても青い山

 なお、昭和一八年一月「松山子規会」、三月「俳諧文庫」が創設された。


 川柳

 窪田而笑子は大正元年(一九一二)「新柳眉」を発行した。翌二年以後歩兵第22連隊(松山)の「凩」や久万・郡中・松山垣生・今治などで柳誌が発行されたが、永続しなかった。大正八年「海南新聞」で新年文芸を募集、酒井大楼、次いで前田五剣(伍健)らが登場、大正九年から而笑子選となり、新進台頭により、而笑子は柳誌「媛柳」を九三号まで終生続けた。三瓶・一本松・伊予三島・松山石井に柳誌が誕生した。
 昭和二年大阪の「番傘川柳社」の松山支部が設置され、同四年秋に創立記念大会を催した。以後近代柳風となり、前田伍健は〈川柳真情美〉を唱え、而笑子の遺業を継ぎ、「松山媛柳社」を結成、而笑子の『一糸集』も出版した。この頃吉海町・吉田町・宇和島・伊予三島・大洲・今治・砥部をはじめ各地に柳社が結成され、柳誌も発行された。
 昭和一四年松山の矢野虻の麿は、県下柳誌を統合して「川柳伊予」を創刊、紀元二六〇〇年記念『川柳伊予総合句集』を刊行した。昭和一九年山本耕一路は「川柳あゆみ」を創刊、やがて終戦を迎えた。