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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

五 実業補習学校の設置

 実業補習学校の開校

 実業補習学校は、ドイツに範をとって我が国に導入された勤労青少年のための実業補習教育機関である。文部省は明治二三年(一八九〇)の小学校令の規定に基づき同二六年一一月に「実業補習学校規程」を定め、実業補習学校の目的・教育内容・設置基準などを示した。しかし、小学校・中等学校の充実に追われる府県・市町村にとって勤労青少年の教育を顧みる余裕はなかった。明治三〇年時全国の実業補習学校設置数はわずか一〇八校に過ぎず、本県ではこれの創設を願い出た市町村は一つもなかった。
 文部省は、明治三五年一月に「実業補習学校規程」を改正して、修業年限・教科目・教授時数・教授の時期に関する規制を緩め、時勢の進歩と地域の情況とに応じて適当な施設で教育するようにした。この改正を契機に、愛媛県にもようやく実業補習学校を設立する動きが表れた。明治三五年(一九〇二)度に九町村が設置申請書を県知事に提出、一二校の開校が許可された。
 本県で最初に認可されて明治三五年六月一日に開校したのは、南宇和郡西外海村(現西海町)経営になる福浦水産補習学校であった。この村は南予の辺地に位置する漁村であり、村興起の策として水産事業の改良発達を図るために実業補習学校設置に踏み切った。村当局は、福浦尋常小学校の近くに一一五坪の校地を求めて、教室一五坪・実習地五坪を設営、缶詰用器・燻製器などの実習機械を備えた。この学校は水産業に従事しようとする児童に小学校教育の補習と水産業に要する簡易な知識技能を授けるのを目的とし、修業年限は三年で、入学資格は尋常小学校卒業以上の学力を有する者であった。教科目は修身・読書・算術・理科・水産科で、女子には水産科の漁業・養殖を省いて裁縫・機織を課した。この福浦水産補習学校は実業補習学校の理想像に近い経営形態であったが、この年に設立された西宇和郡の喜須来農業補習学校など一一校はいずれも小学校に付設され夜間に授業を行う二年程の定時制であった(『愛媛県教育史』資料編二六七~二七三)。
 明治三六年度には、県立商業補習学校をはじめ一七の実業補習学校が開校した。一月に文部大臣の認可を受けて四月から開校した県立商業補習学校は、生徒定員一〇〇名で、教科目は修身・国語・商業、毎週の教授時数はおよそ一二時間、教授終始の時刻は時期により適宜定められ、入学は随時、入学資格は尋常小学校卒業の者か学齢を過ぎた男子、修業年限はおよそ二年であった(『愛媛県教育史』資料編二八〇~二八一)。県はこの県立商業補習学校をもって実業補習学校の軌範とするとともに各市町村にその設置方を促した。また日露戦争の勝利による勤労青少年教育の振興が叫ばれたので、明治三九年八月末には一二五校の実業補習学校が存在することになり、小学校数のほぼ五分の一に達した。しかしその実態は、小学校教員が本務のかたわら教授する夜学校の域を出ず、生徒数も定員に満たない所が多かった。模範となるべき県立商業補習学校ですら定員一〇〇人のところ例年五〇人足らずで、明治三八年一二月に同校規則を改正して生徒定員を五〇人に減じ、教科目を縮小する有り様であった。

 実業補習学校の規制と改善

 実業補習学校は大正二年(一九一三)三月時で一七二校を数えるに至った。増設に伴い、これまで不統一であった設置廃止申請書式や学則の内容を規制することが必要となったので、県は大正七年八月九日に「実業補習学校設置並廃止ニ関スル規程」や「実業補習学校学則準則」を定めた。
 第一次世界大戦後、教育の機会均等を求める要望が高まるにつれて、勤労青年の教育機関である実業補習学校の意義が再認識され、大正六年の臨時教育会議でも実業補習学校の振興を図ることが強調された。この結果、大正九年一二月に明治三五年の「実業補習学校規程」が大幅に改正され、学校組織・修業年限・教授時数・学科目などについて相当の規制が行われた。この新しい実業補習学校規程の公布に基づいて、愛媛県では大正一〇年五月六日に「実業補習学校設置並ニ廃止ニ関スル規程」を改めた(『愛媛県教育史』資料編四九〇~四九二)。また県学務部に社会教育主事を置き、同九年七月一六日に「社会教育主事職務規程」を定めて、通俗教育、青年団処女会並びに補習教育、生活改善思想善導及び社会教育に関する事項の職務を担当させることにした(『愛媛県教育史』資料編四八一)。
 実業補習学校に関する規程によって、県内の既設の実業補習学校では学則を改正して、大正一〇年度中に県に提出した。女子部を付設する学校は次第に増加し、大正一二年七月時で一〇五校・同一五年度で一七九校の男女共学校があった。女子のためにのみ補習教育を授ける学校も大正一二年時で六校存在した。
 また組織の改善と内容の充実を図るため実業補習学校の整理統合が進められた。大正八年に六〇校の多きを数えていた伊予郡の場合、同一一年には一挙に二三校に整理された。松山市では、従来市内の各小学校に実業補習学校を併設していたが、その経営は好成績とはいえなかったので、面目を一新するために六実業補習学校を一校に統一して松山実業補習学校と称した。専任校長に師範学校首席訓導の清水亀九治を迎えて、大正一四年四月に開校した。同校は松山第一尋常小学校に併置され、松山第二・第三尋常小学校に分教場を設け、本科のほかに本科後期修了者のために高等科、女子のために女子裁縫専修科を加えた。授業は年間を通じて実施し、その時間は本科・高等科毎夜二時間・女子裁縫専修科昼間六時間であった(『松山市史料集』第一一巻三六一~三六六)。
 松山実業補習学校に加設された高等科は、実業補習学校規程では別格扱いにされていたが、県内の学校では大正一五年(一九二六)時で三八九校中二八二校に置かれた。喜多郡と北宇和郡には高等小学校卒業者のみを収容する大洲高等農業補習学校・吉田高等公民学校が設立された。
 こうして勤労者を対象とする実業補習学校が体制面で整備された。国と県では実業補習学校経常費の五〇%程度に当たる補助を支給していたが、大正一四年三月に同九年六月に制定されていた「実業補習学校補助規則」を改めて、専任の学校長・教員の年俸に対し三分の二以内を補助することにした(『愛媛県教育史』資料編五四二~五四三)。これにより、専任教員設置が奨励され、大正一五年には専任教員が一四六人となった。しかし県下の実業補習学校教員数一、九三六人からみるとわずかに一割にも達しなかった。このため実業補習学校教員養成所の開設が急がれることになった。

 実業補習学校教員養成所の開設

 愛媛県は実業補習学校の専任教員を養成するために、大正六年以来県立農業学校研究科で農業学校卒業生を一か年間収容した。また同九年から女子師範学校で高等女学校卒業生を収容し、一年間にわたり家事・裁縫科を専攻させた。両機関の修了生には小学校専科正教員の資格を与えて補習学校教員に任用することになっていたが、志望者も少なく成果を上げることができなかった。そこで県学務部は本格的な教員養成所を創設するために各方面と折衝を重ね、昭和二年三月文部省の設立認可を受け、三月二五日に「愛媛県実業補習学校教員養成所規則」を令達して、直ちに生徒募集に着手した。養成所は県立松山農業学校に併設され、修業年限二年、生徒定員五〇名であった。入学資格は師範学校か甲種農業学校の卒業生で、生徒には毎月一定の学資を支給し、卒業生には二年間県内実業補習学校に奉職する義務を課していた。
 こうして発足した実業補習学校教員養成所は、初年度生徒募集を行ったところ六〇余人の志願者が集まったので、試験をして二〇人を選んだ。同所は四月二五日に入学式を挙行し、月額二五円の学資を支給して専任教員の養成に努めた。ところが第一回卒業生を送り出す昭和四年三月になると、卒業生二〇人のうち実業補習学校に就職した者はわずかに六人、翌五年三月も一九人のうち六人に過ぎないという有り様であった。県は、「コレ町村財政逼迫ノ結果補習学校専任教員ヲ新設スル余裕ナキニ依ルモノニシテ已ムヲ得ザルニ出ヅト雖モ遺憾ニ堪ヘズ」(昭和五年度「学事年報」)と嘆いているが、この需要状況を無視することができず、同五年度からは生徒を隔年募集に変更するとの措置を講じなければならなかった。更に同六年度には女子の専任教員養成のために設けていた女子師範学校裁縫講習科も県財政縮小から廃止されたので、実業補習学校教員専任化の方針は大きく後退した。

 実業補習学校の不振

 実業補習学校は大正末期に至り組織的に整い、ようやく勤労者教育の成果が期待される段階になったが、昭和初期における経済不況のしわよせを受けて、その発展は頓挫した。その原因の一つは、これまで学校経営を経済的に援助してきた国庫・県費の補助が削減されたことにあった。昭和四年合計四万円ほどあった補助金は同五年三万円となり、同七年には二万円に減額された。この結果、従来専任教員を置いていた町村の中には、教育費緊縮を名目にこれを兼務に変更する所が出てきた。昭和四年度県内実業補習学校に全教員一、九四六人中二一四人いた専任教員は、同五年度一九九人、同八年度全教員二、一三九人中一七二人と年々減少の一途をたどった。また各地で学校の整理統一が盛んになった。県はその申請の多くを教育の機会均等破壊につながるとして却下したが、一部はやむを得ず認めなければならなかった。昭和四年(一九二九)度に三九三校を数えた実業補習学校は、同五年度三八六校、同八年度三八二校に減った。
 実業補習学校の停滞は愛媛県会でもしばしば問題になり、実業補習学校の補助金増額を希望する意見書を可決したりしたが、その不振を挽回することはできなかった。

 青年訓練所の設置

 第一次世界大戦終了後、世界的な趨勢として軍備縮小の動きが表れ、我が国でもその一環として現役兵在営年限の短縮が実施された。その結果、当然弱体化される兵力を補充するために、軍隊以外で男子青年に軍事教育を施してその欠陥を補う方策が立てられ、大正一五年四月に「青年訓練所令」が定められた。青年訓練所は、「青年ノ心身ヲ鍛錬シテ、国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的」に、市町村・市町村学校組合と私人が設置して、一六~二〇歳の男子に教練と修身公民科・普通学科・職業科の学科を授ける所とした。同日、文部省は「青年訓練所規程」を公布して、訓練期間を四年とし、訓練時数・設置基準などを示した。本県は、この細則として大正一五年五月一八日に「青年訓練所設置廃止ニ関スル規程」を定めた。
 県は文部省の指向する大正一五年七月一日の開所を目標に設立申請を督促した。県内市町村は相次いで設置願書を提出し、七月に三七六の青年訓練所が開所された。その多くは公立実業補習学校を充用するかこれに併置しており、実業補習学校教員と在郷軍人を指導員に当てていた。この外、住友の惣開・新居浜・端出場・四阪島の四工場・東洋紡績川之石工場、三島紡績工場に六私立青年訓練所が開所した。同六年には東洋紡績今治工場と伊予鉄道電気会社、同八年に丸喜綿布八幡浜工場にそれぞれ設けられた。
 青年訓練所の訓練状況について、久万青年訓練所の場合を例示すると、大正一五年(一九二六)七月一日久万小学校校庭で入所生二七名全員が出席して開所式を挙行、以後毎週月曜と金曜に教練を実施した。八月二八日~三〇日には夏季強化訓練、一一月二〇、二一日には面河への一泊行軍を行い、一二月六日教練査閲を受けた(「久万青年訓練所日誌」)。
 大正一五年度の教練査閲は一一~一二月に県内青年訓練所の六割に対して実行され、その成績は概して良好であると報告された。また昭和二年五月一九日から五日間教練指導員講習会を松山の連隊営内で開き、現役将校を講師に教練に関する教育と実習を施した。この査閲と指導員講習会は以後毎年実施された。当初心配されていた入所率と出席率は、昭和二年度五九・五%、五八・七%、同五年度七二・二%、六五・五%と漸次上昇した。なかでも東洋紡績川之石工場・温泉郡五明・宇摩郡関川・北宇和郡高光・新居郡中萩・西宇和郡喜須来の各青年訓練所は、昭和五年度で入所率九三%以上、出席率八二%以上の好成績を収めて、同六年七月一日の青年訓練所創立五周年記念日に優良青年訓練所として表彰された。
 こうして青年訓練所が広く各地に設置されたので、小学校を卒業した大多数の男子勤労青年は教育訓練を実業補習学校と青年訓練所という二つの社会教育機関において受けることになった。法規の上では、実業補習学校は公民教育及び職業教育を主とし、青年訓練所は心身の鍛錬を主とするとされていたが、教練を除けば両者には共通の面が多分に存した。現実に多くの青年訓練所は実業補習学校で充当されており、両者を別個の教育機関として併立しておくことにそれほどの意義がなかった。このため、実業補習学校と青年訓練所の統合を要望する声が、府県の教育会や市町村会などで高まった。本県でも県教育会が昭和八年四月に青年教育機関の統一を速やかに実施されたいと文部大臣に建議している。

表3-82 大正年間の郡市別実業補習学校の推移

表3-82 大正年間の郡市別実業補習学校の推移