データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 松山高等学校・松山高等商業学校の設立

 高等学校誘致運動

 松山に官立高等学校を誘致しようとする動きは、早くも明治三〇年代に始まっている。同三二年(一八九九)に文部大臣らが四国四県の学事視察を行った。これを聞知した伊予教育義会は松山に高等学校を誘致する運動方針を確立するとともに、県と協力して政府に働きかけ、在京の県出身の政治家・財界人に協力を求めた。
 ところが、その後財界は不況となり、新規事業はすべて打ち切りとなったので、この運動も一時中止された。寺内内閣の時に、時勢の進運に応ずるため、官立の高等学校機関を増設しようとする計画が論議された。県でもこの機運を察して、各方面から熾烈な運動が展開された。松山市及び県でも、参事会を招集して積極的に運動を促進することになった。松山商工会では、その誘置運動につき、高等専門学校に固執するわけでないが、いずれにしても文部省の直轄学校の設置を最終目的とする旨を声明した。また愛媛県教育協会でも臨時評議員会を招集して、設置についての意見書を可決し、知事に提出した。更に県民有志大会が開催され、この運動の実現を期するために、設置に要する寄付金は県費及び有志者の拠金などを充てる案が議決された。
 大正六年(一九一七)となり、政府内においても高等教育が論議され、高等学校及び高等専門学校を関西以西に設置する方針である旨が報道された。そこで四国四県の知事が連合して、四国地区に高等学校の新設を要請する旨を陳情した。愛媛県教育協会では、新設学校の設置場所が位置・交通・風土・人情・産業経済の各方面から考察して、松山市が最適である旨を強調し、在京の県人の有力者・代議士らに連絡して、大いに気勢をあげた。
 文部省の高等学校四校新設案が具体化すると、高校誘致が困難な場合は高商校を目標とする柔軟な態度をとっていた松山市は、運動を高校一本にしぼった。同六年一二月に入り、四国の高校新設地に強力なライバル高松市を破って松山市が選ばれ、県民を狂喜させた。地元では高等学校設置協賛会が組織され、寄付金の募集に当たった。その総額は四〇万円であって、同校の設立費として納付された。
 新設の高等学校の敷地については、県は(1)道後村大字持田、(2)朝美村、(3)石手川堤防、(4)石井村天山の四候補地を申達した。文部省は持田を最良の地と選定したので、道後村長らの斡旋によって地主との交渉が進捗し、同八年一月に敷地一万九、八三三坪を購入した。
 
 高等学校令等の公布

 第一次大戦後には、中等以上の教育機関の拡充に全力が注がれた。殊に高等教育に対して抜本的な大改革が加えられた。それは文部省が高等学校制度の改革について、臨時教育会議に諮問していたところ、大正七年一月と五月に高等普通教育の基本的要項、及び内容・方法について答申されたことによる。それは、松山市に高等学校設置の内定を見た後のことであった。
 この臨時教育会議の答申に基づき、同年一二月に「高等学校令」が公布された。高校設置の目的については、従前の高校が大学への予備教育機関のみであったのを改め、完成教育を一つの目標に掲げ、地方における各種事業の経営者、また地方行政に従事する官吏となり得ることを期待した。他の一つは、従来のように帝国大学の基礎教育機関とした。翌八年(一九一九)三月に、さきの高等学校令の施行規則である「高等学校規程」が公布され、学科課程・学年・授業日数・編制・設備・設立及び廃止などに関する規定が明らかにされた。翌四月に「官立高等学校高等科入学者選抜試験規程」が布達された。

 松山高等学校の設立

 大正八年四月一四日に、文部省直轄諸学校官制中の改正が行われ、従来の第八高等学校の次に、新潟・松本・山口・松山の四新設校を加えた。更に翌日「松山市ニ松山高等学校ヲ設置シ、本年九月ヨリ授業ヲ開始ス」との令達を発した。学校長には第三高等学校教授であった由比質が任命された。文部省では仮事務所を萱町二丁目の松山市公会堂に移し、入学志願者の受付を開始した。定員一六〇人(文科八〇・理科八〇)に対し志願者は九八六人に達し、競争率は六・二倍であった。入学した学生の本籍は愛媛五三、広島・大阪各一二、兵庫・徳島・岡山・大分各八、香川・和歌山各六となっていた。これによって、入学者が瀬戸内海周辺地域から集まって来たことが分かる。仮校舎は公会堂(二階建て)のうち、二階全体を四教室に区分して使用した。九月一一日に仮校舎の講堂で、入学式が挙行された。由比校長は「諸君は高等学校に入学した以上将来国士となるべきだ。諸君は国士をもって任じなければならないから万事束縛なく自由に事に処することができるが、自分の行動に対しては責任を飽くまで持たなければならない」と訓示した。これが松高の「質実剛建主義」の校風″ユーバーアッレス″の基調となった。
 九月一日に制定された「松山高等学校規則」によると、学科目は「文部省令第八号所定ノ高等学校高等科文科及理科」の規定によるのであって、外国語は英語及び独語とした。試業は二種類とし、前者はその学期中に履修した学業を、後者は学年中に履修した学業を検査するものであった(『愛媛県教育史』資料編四六一~四六五)。この学校規則を実施するために細則が定められた。細則は教務分掌規程・文書処理規程・学級主任規程・学級総代規程・指導教官規程・教官会議規程・生徒心得・寄宿舎規則・生徒服制及び服装規定などから成っていた。
 かねてから持田に建築中の新校舎が落成したので、翌九年八月に仮校舎からこの地に移り、九月に第二回入学式と始業式とが新校舎で挙げられた。その後、講堂・生徒集会所などの新築工事も落成して、持田地区に官立学校としての威容を誇ることになった。

 私立高等商業学校設立の動き

 松山高等学校の記念式典で、伊予教育義会会長井上要は「……高等学校の開校は四国大学を前提とし……高等学校を最終窮極の目的としたものでない」と述べ、四国大学に対する構想を紹介し、その実現に努力すべきことを強調した。
 北予中学校長加藤彰廉は、加藤恒忠(同一一年五月から松山市長となる)と協議し、まず実現の可能性のある松山高等商業学佼の創設を企図した。両人は更に井上要や県会議員らと検討の結果、単独に設立する方針のもとに創立費一二万円と教員洋行費三万円とを加えて一五万円を基金とすることにした。井上・両加藤らは、この計画書を持ってまず愛媛県知事の説得に当たった。知事は双手をあげて賛成し、県も費用の半額を負担することを口約した。そこで加藤(恒)は親交のある新田帯革製造所の社長新田長次郎に、民間寄付の金額を負担するよう依頼した。新田はかねてから教育事業に熱意を持っていたので、その申し出を快諾した。そのために、この計画は予想以上に前進し、学校の実現も時間の問題であると考えられた。
 次に松山地方の有力者三〇人によって協賛会が組織され、そのなかから設立発起人として、井上要・岩崎一高・井上久吉らが選出され、設立事業も軌道に乗った。発起人会では、県から七万円、市から三万円の援助を受け、残額を新田に負担してもらう計画案が決定した。ところが、知事は政府の財政緊縮方針によって、私立高等商業学校の設立に対し、県費の支出ができない旨を明らかにした。この県の助成の打ち切りは、発起人会にとって一大痛撃であった。加藤(恒)はこの間の変化を新田に説明したところ、新田は拒否された県への割り立て金額を負担する旨を述べ、かえって発起人たちを激励する有り様であった。

 学校積立金の問題

 この計画の遂行に当たって、一同は予想しなかった一大難関に遭遇した。それは文部省が私立高等商業学校の設立には三〇万円の積立金の準備を必要とすると通告してきたことであった。この指示には、関係者一同全く自信を失い、設立計画も挫折するのではないかと憂慮された。
 そこで加藤(恒)は前途に見込みのない実情を新田に報告したところ、人々の予想を裏切り、新田はこの積立金の支出をも引き受ける旨を明らかにし、あくまでもこの計画を貫徹すべしと強調した。この新田の義俠的な行動によって難関は完全に克服され、関係者は狂喜する有り様であった。経済的に見れば全く新田の積極的な犠牲によって、実現したといってよいであろう。新田はかねてから郷土における学校設立のために多額の寄付を考慮していた。この時、新田は自己所有の大阪市木津川町の三、〇〇〇坪の土地を提供し、学校がその譲渡を受け、その土地から生ずる一万五、〇〇〇円の利益を学校経常費に充当することになった。
 新田の積極的な援助によって計画は前進した。新田は創設事務のすべてを在松の関係者に一任したので、先に選出された八名の発起人が設立者となった。同一一年一一月に、「財団法人設立ノ義ニ付申請」書が設立者連署のもとに文部大臣に提出された。また同日付けで設立代表者加藤彰廉から「松山高等商業学校設置願」が送付された。学校の位置は味酒井ノ口(坪数二、五九六坪)であって、翌一二年四月に開校する予定であった。同時につくられた「松山高等商業学校規則」は三四条からなり、修業年限は三か年、定員は一五〇人とし、学年を二期に分け、第一学期を四月一日~一〇月三一日、第二学期を一一月一日~翌年三月三一日とした(『愛媛県教育史』資料編五二五~五三二)。

 松山高等商業学校の開校

 翌一二年(一九二三)二月に、文部省から同校設立者岩崎一高外七名に対し、財団法人松山高等商業学校設立を許可する旨が通告され、同日付で松山高等商業学校の設置が認可された。そこで前記の規定に従い、理事・監事が選出された。同時に開かれた第一回理事会で加藤彰廉が同校校長に推挙された。加藤は、以後一〇年間校長を務め松山高商の基礎を築いた。温厚謹厳で高尚な人柄は慈父のごとく敬慕され、彼の説いた「実用・忠実・真実」の″三実主義″は今日まで松山高商~松山商大の校訓となっている。
 大正一二年四月二五日に、同校はめでたく開校した。仮校舎としてしばらくの間北予中学校内の新校舎を借用した。開校式は北予中学校の講堂で、三〇余名の来賓の出席のもとに挙行された。理事井上要は同校設立の経過を説明し、創立功労者として故加藤恒忠(同年三月逝去)と新田長次郎の二人をあげ、その業績を讃えた。この時の入学者は六一人で、本県内の者四五人、県外一六人であった。
 翌一三年四月に、新築中の鉄筋コンクリート造りの校舎が竣工したので移転した。これと同時に定員が二五〇人に増加し、更に聴講科・講習夜間部も新設され、前者は一学科または数学科を聴講しようとする者を、後者は夜間、商業に関する学科目を聴講する者を対象とした。