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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

六 青年団体の発展

 青年団体の育成

 日露戦争以来、政府は青年団の指導と育成に当たったため、青年団体は急速に発展した。県内の青年会は明治末期から大正初期にかけてほとんどの町村に設置され、大正三年(一九一四)度には設置町村二九一、青年会数六九二を数えた。
 大正四年九月、内務大臣・文部大臣連名で青年団に関する訓令が発せられ、政府が指導し奨励しようとする青年団の性格を明らかにするとともに青年団の組織経営などの標準を示した。愛媛県は、一〇月二二日にこの訓令と設置標準を伝達した。訓令は、青年に忠孝の本義を体得させ、品性の向上と体力の増進及び知能を錬磨して国家の進運を保持する精神と素質を養成するのを目的とした修養機関であると青年団の位置付けを行い、「局ニ当ル者ハ須ク此ニ留意シ、地方実際ノ情況ニ応シ最モ適実ナル指導ヲ与へ、以テ団体ヲシテ健全ナル発達ヲ遂ケシメムコトヲ期スヘシ」とした(資近代3六六六~六六七)。設置標準では、青年団体は義務教育修了者もしくはこれと同年齢以上の者をもって組織し、その最高年齢は二〇歳を原則とすること、青年団は市町村を区域として組織するが、土地の状況により部落または小学校通学区域などを限定して組織するか支部を置いてもよい、青年団の指導者は小学校長・市町村長・名望家に当たらせ、市町村吏員・学校職員・警察官・在郷軍人・神職・僧侶・篤志者を指導員とすること、青年団の経費は努めて団体員の勤労による収入をもって支弁することなどを示していた。県・郡市当局はこの趣旨により各町村青年団体の改善指導に努め多少の整理廃合を進めた結果、大正五年には団体数が三四〇とやや減じたものの団体員は六万四、九二五人に増加した。
 「大正六年県政事務引継書」には、県学務部がまとめた大正五年九月一日時の「青年団体ニ関スル調査表」が収録されている。これを見ると、その設置区域は大正四年の設置基準に従ってほぼ一町村一青年会となっているが、地域によっては一町村二~五の青年会が存在しているところもある。創立は明治四二~大正二年の間が大多数を占めており、愛媛県の青年団体はこの時期に相次いで誕生している。会長にはそのほとんどが町村長ないし校長が就任しており、会員は一般に一五歳から二五~三〇歳までであって、二〇歳を基準としてその前後を普通会員(青年部)と特別会員(壮年部)に分けて団体種別をしているところが多い。経費はほぼ会費で賄われているが、町村が補助しているところが少なくない。事業内容は、夜学による補習教育、講話会や通俗文庫の新聞雑誌購読による知識の修養、武術・体育・運動会による体力の錬磨・風俗改善・勤倹貯蓄・道路改修などの土木事業、夜警・消防などの治安維持などであった。

 郡市青年団体の結成と大会

 郡青年団・連合青年会は、明治四一年七月に新居郡青年団、一一月に伊予郡青年会連合団が結成されたのを最初に、大正二年までに大半の郡に設立された。先の大正五年九月時の「青年団体ニ関スル調査表」により県内郡市青年団体の創立年月日・支部数・団員数などをあげると表3―83のようである。なお、この表にない宇摩郡と周桑郡青年団は大正七年一月と大正八年に設立されている。各郡市青年団は、町村青年団の統督と発達助成に当たり、補習教育の振興に努めた。
 郡青年団は、団体員の交流と団結とを図るために毎年大会を開催した。その例をあげると次のようである。
 大正四年一二月二二日、温泉郡青年会第三回総会が開催され、加盟青年会の代表者九五〇人が県公会堂に参集した。午前九時開会、会長片野淑人の戊申詔書捧読、知事代理県内務部長前田秀実の訓示、会長挨拶、優良青年団体の表彰、事務報告の後、議事に移り、「第一、強健なる体力の養成は従来努めて怠らざる所なりと雖も、時局に鑑み自今一層之に留意すること。第二、秩序を正しく礼儀を重んじ長老を尊敬するの美風を養ひ、以て日本国民たるの体面を発揮すること」の青年会員実行事項決議案を可決するなどして、午前一一時閉会、午後は山崎農学士の講演を聴講した。
 大正五年三月一七日、越智郡連合青年会大会が和泉座に二、〇〇〇名を集めて開催された。会長の開会の辞、戊申詔書捧読、「一、団体員の運動競技等を奨励し、以て体力気力の増進を図ること、二、風紀を匡正し善良なる民風を振作する施設をなすこと」の青年実行要項の決議、優良青年会の表彰式、郡長と知事代理の訓示、今治町長の祝詞、青年会総代の答辞、小島農学士の講演と続き、午後は吹揚公園で体育大会を行った。この外、四月二四日には大洲町高河原に一、四〇〇余名を集めて喜多郡青年会連合大会が開かれ、五月八日には久万尋常小学校で上浮穴郡青年大会、一〇月には新居郡青年団、伊予郡青年会連合団、北宇和郡青年団連合会などが同様の大会を開催した。一〇月三一日の天長節を期して松山市青年会の発会式も挙行された。

 青年団体の指導と活動

 青年団の増設に伴い青年が社会主義思想や浮薄な風潮に染まるのを恐れた政府は、大正七年(一九一八)五月内務・文部両大臣連名で第二回の訓令を発した。愛媛県では五月二一日に知事若林賚蔵の名でこれを県内の郡市長に伝達した。この訓令は、第一次世界大戦後激化せんとする国際競争の中で帝国の基礎を堅実にするためには国家活力の源泉である青年の努力に待つ所が多いとして、青年としてますます国体の精華を尊重して心身を研磨し、その操守を堅くして篤実剛健の気風を興させることに努めるよう求めた。青年団体の健全な発達に資すべき要項としては、補習教育の普及と徹底、公共精神の涵養、公民的性格の陶冶、読書指導、身体の鍛錬、指導者の善導と養成及び相互連絡などの具体的項目をあげた。
 この訓令での指導の強化は、青年団を形骸化するものとの批判を浴び、大正デモクラシー思潮の影響下青年団体の運営は青年自身に委ねるべきとの世論が起こった。このため、政府は大正九年一月に第三回の訓令を発し、青年団体の組織を自治的にして統率者は団体員の中から推挙するのを本則とすると説いて、自主自立の運営を期待した。愛媛県は二月六日にこれを伝達したが、一年半後の「海南新聞」は、「従来団長には学校長や村長をあてていたのを青年団員中の有力者から選んで公民訓練の基礎たらしめたため、非常に好い影響をきたした。その結果団員は自治的観念を強め責任を感ずるため、すべての方面に活気が横溢するにいたった」と評価している。
 青年団の活動状況については、「愛媛新報」がよくこれを取り上げた。殊に県内青年団体中喜多郡の町村青年団が最も目覚ましい活動をしているとして、大正一一年三月四日~二五日と同一四年五月一七日~二七日の二回にわたり、三善・新谷・出海・五十崎・満穂・田処・大成・瀧川・大瀬・村前・喜多山・平野・南久米・上須戒・立川・宇和川などの青年団の沿革と活動を紹介している。これらの青年団の活動を摘記すると次のようである。
 団体の知徳の修養については、実業補習学校の就学出席の励行をはじめ、巡回文庫の回覧、読書会・講習会・講話会・雄弁会などを開催している。なかには講師を招いて一、二日の宿泊修養会を行っているところもある。共同生産事業としては、村の植林及びその管理への労力奉仕の外に、稲作・桑園の共同試作など地方産業の開発にも力を尽くしている。また団員として一坪試作田を経営させて農事改良を競わせたり、養鶏などの副業奨励に一役買っているところもある。社会奉仕としては、男女青年が協力して敬老会を開催し、道路改修・神社清掃などの作業を行い、夜警を実施して防火・防犯にも貢献している。健康増進については、体育・運動を重んじ、遠足登山を行い、柔道・剣道・相撲などによって心身を鍛錬している。民力涵養運動にもその担い手となり、勤倹貯蓄の節約を励行、時の記念日行事などを推進している。このような活動は他地域の青年団にも共通して見られた。

 県下青年団の発展にかんがみ、松山市の曽我鍛(正堂)は県社会教育主事と図って大正一二年に愛媛青年処女協会を設立、同年一一月『青年と處女』を創刊した。創刊号には、松山高等学校教授高木武、松山高等女学校長高橋勝一、帝国農会幹事岡田温、伊予鉄道電気会社社長井上要らの青年に関する論説や景浦直孝・北川淳一郎らの史談・紀行を掲載、各郡市青年団と処女会の活動状況を報じた。以後三年間、青年団体の機関誌としてその活動の啓蒙発展に寄与したが、経営難のため大正一五年(一九二六)一二月第四巻第一二号をもって廃刊した。

 処女会の発足と活動

 大正期には青年団体の発展に呼応して女子青年によって組織する処女会が各地に発足するようになり、大正一一年度には県内市町村総数二九〇中二四九か所に二六六の処女会が存在し、同一四年度には三一三と増加した。こうして各町村に処女会が誕生したので、郡処女会・郡連合処女会の結成が急がれ、大正一〇年の温泉郡処女会・周桑郡連合処女会を最初に、同一一年に南宇和郡連合処女会、同一二年に新居・上浮穴・喜多・西宇和・東宇和郡各連合処女会、同一三年に松山市・伊予・北宇和郡などの連合処女会が相次いで設立した。
 皇太子殿下御成婚を記念して設立されることになった伊予郡連合処女団の発会式は、大正一三年四月二七日県立伊予実業学校で挙行された。星野伊予郡教育部会長が開会の旨を告げ、団則の議決、役員の選挙を行い、団長の詔書捧読並びに知事代理の告辞朗読に続き、森盲天外の生活改善に関する講演があった。午後は、各町村処女会代表による処女団の現況と処女の覚悟に関する報告発表を行い、小学校児童の唱歌劇などがあって、午後四時に閉会した。当日の出席団員六〇〇名、来賓など三〇余名であった(「青年と處女」第二巻第六号)。
 松山市処女会連合会の発会式は六月一日松山第一尋常小学校で挙げられた。出席者五〇〇名、来賓に市長岩崎一高・船田操ら多数臨席、国歌斉唱の後倉根市助役が精神作興に関する詔書を捧読、西村社会主事から連合会組織についての経過報告があり、次いで会則を議定し会長倉根是翼などの役員を選び、「一、実質を旨とすべきこと、一、婦徳の修養に力むること、一、時間を尊重すること」の申し合わせをした。会則では、処女会相互の連絡統一を保ちその進歩発達を図ることを目的とし、講習・講話・見学・表彰、各処女会の援助の事業を行うなどと規定していた(「青年と處女」第二巻第七号)。
 「愛媛新報」は大正一四年五月六日~一三日の間「喜多郡各町村の活動せる処女会」と題して、天神・菅田・長浜・喜多灘・出海・大洲などの処女会活動を紹介した。これによると、会員の知徳の啓発については、実業補習学校に学び、料理・裁縫・作法などの各種講習会を再三実施し、名士を招聘して女子の修養及び生活改善に関する講演会を開催、毎月修養会を開いて読書・談話・意見交換などを行っている。体育衛生については、家庭体操・遊戯ダンスのほか、小学校と連合して運動会を実施し、時々遠足旅行をしている。また衛生講話会を開催して衛生生理に関する一般知識、特に伝染病の知識と予防注意の方法を周知するよう心掛けている。社会奉仕作業としては、神社その他の公共建物及び道路の美化作業を励行し、敬老会を催している。日常の生活改善については、質素を旨とし、消費節約・勤倹力行・貯金積立に努め、時間励行・家庭内整理を怠らないようにしている。
 政府は、大正後期における全国的な処女会の急速な発達にかんがみ、女子青年団体を男子のそれと区別して育成指導する必要性を認識して、大正一五年一一月に内務・文部両大臣の連名による「女子青年団体ノ指導誘掖ニ関スル件」を発した。この訓令と同時に「女子青年団体施設要項」の通牒が出され、女子青年団の設置基準や構成・事業内容が示された。この訓令と通牒を受けて、愛媛県では女子青年団体の指導を徹底させるために、一一月二六日県知事香坂昌康の名で、「宜シク局ニ当ル者ハ内務文部両大臣訓令ノ趣旨ヲ体シテ鋭意団体ノ刷新振興ヲ企図シ、以テ女子青年団体ノ目的達成ニ努カセラルヘシ」と市町村に訓令、同時に女子青年団体の名称も処女会を改めて女子青年団に統一した(資近代3八九三)。

 愛媛県連合青年団と同連合女子青年団の結成

 大正一四年(一九二五)四月、大日本連合青年団が創設され、二八道府県連合青年団が加盟した。この当時愛媛県は県単位の連合組織を持っていなかった。九月、香坂昌康(後の大日本連合青年団理事長)が県知事に赴任すると、県連合青年団の設立準備が急速に進められた。大正一五年二月二六日県連合青年団組織に関する協議会が県公会堂で開かれ、三市一二郡青年連合団から各二名の代表が出席して愛媛県連合青年団の設立を決議、団則(『愛媛県教育史』資料編五五五~五五六)などを定め役員を選んで、大日本連合青年団への加盟を申し入れた。
 県連合青年団の発団式は、折からの郡役所廃止に伴う郡連合青年団の組織替えなどで手間取ったが、昭和二年(一九二七)四月三〇日に第一回大会を県公会堂で開催した。出席者は各郡市の代表二五〇名であった。午前九時一同入場敬礼の後、開会の辞・君が代の斉唱があり、団長常賀松之助(県内務部長)の令旨捧読・総裁香坂昌康(県知事)の告辞、来賓の祝辞で開会式を閉じた。次いで議事に入って、県諮問の「市町村青年団をして一層自主的に振興せしむる方法如何」と各郡市連合青年団の提出になる協議題を討論して昼食休憩、午後は松山高等学校教授重松俊章の講演があった(「愛媛新報」昭和二・五・一付)。
 県連合青年団の結成に続いて、昭和三年一一月一二日の県下女子青年団長会議で県連合女子青年団の設立が決議された。同会議は団則(『愛媛県教育史』資料編六一〇~六一一)を定め、昭和二年一〇月に結成された大日本連合女子青年団に加盟を申請した。愛媛県連合女子青年団発団式は、同三年一二月二日に県立松山高等女学校講堂で一、一〇〇名が参加して挙行された。式は開会の辞・君が代斉唱・教育勅語捧読・令旨捧読・創立経過報告・総裁告辞・来賓祝辞・団員謝辞と続いた。次いで、「一、皇室を敬ひ国の為人の為に尽します。一、智徳を磨き身体を練り女子の本分を尽します。一、生活の改善を図り文化の向上に尽します」といった女子青年団信条の大会決議をした後、松山高等商業学校教授一柳学俊の「女子青年団の使命」と題する講演を聞いた(「海南新聞」昭和三・一二・三付)。
 県連合青年団・女子青年団の結成以後、県学務部は県・郡市連合男女青年団の体系を通して町村青年団に対する指導を強め、その組織と事業を画一化していった。また青年団長講習会・幹部講習会・体育衛生講習会などを実施し、市町村青年団の講習会に講師を派遣したり「青年団綱領」や「女子青年団綱領」を送付するなどして、直接間接に指導の徹底を図った。市町村青年団・女子青年団の団長には市町村長・小学校長ら団員外の名士が就任するようになり、成人による内部統率が進められた。

 少年団の発足

 少年の自治的訓練を目的とした少年団は、大正後期から昭和初期にかけて漸次各地で誕生した。少年団と総称される団体には、学校少年団・少年赤十字団・大日本少年団連盟系一般少年団・宗教少年団・各種団体組合所属少年団・防火少年団・通学自治団・子供組などがあった。昭和四年九月二二日には少年団三〇団体四〇〇余名が道後公園東トラックに参集して愛媛県少年団連合の創立発団式が行われた(「海南新聞」昭和四・九・二三付)。昭和一〇年時、県内の少年団体は六〇一を数えたが、学校少年団が半数以上の三二二で、少年赤十字団一八六がこれに次いだ。

表3-83 大正5年時の愛媛県内郡市連合青年団一覧

表3-83 大正5年時の愛媛県内郡市連合青年団一覧