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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 新田開発

 西条領内の新田

 伊予八藩のうち干拓による新田開発が最も盛んであったのが西条藩である。西条藩の領域は、東西に走る石鎚連峰の北側に沿っており、急峻な山地から流下する関・国領・室・加茂・中山の諸河川は年々広大な砂洲を形成していた。松平西条藩が成立する以前からこうした自然条件に着目した領主や在地の有力者によって干潟の干拓が行われ、元和年間(一六一五~二四)には西泉新開、承応~万治年間(一六五二~六一)には半弥新開が開かれ、室川・加茂川・中山川の河口部に広大な新田が開発された。こうした開発意欲は松平西条藩時代には有力町人の資本も加わって更に加速された。すなわち、寛文年間(一六六一~七三)の近江屋新開、享保年間(一七一六~三六)の花屋新開・恵美須新田・三河屋新開と続き、安永七年(一七七八)から五年の歳月を要して完成した禎瑞新田が藩主の家産として開発されるに及んで一段落した。
 一方前述の河川流域以外でも、阿島・又野・落神の三河川が流入する新居郡黒島・垣生山・郷山に囲まれた地域で塩田が開発され(多喜浜塩田)、同時に新田開発も付帯事業として実施された。多喜浜塩田(享保一八年の開発以後の呼称)は、すでに宝永元年(一七〇四)ころから開発が始められ、享保九年天野喜四郎らによって一〇町六反の塩浜が造成されて以後、藩政時代を通じて築造が行われ、二四〇町歩に及ぶ大塩田となった。

 市塚新田

 市塚新田のうち、近江屋新開と通称されるのは、室川の西岸、新居郡朔日市村(現西条市朔日市)の地先に開拓された新田である。寛文年間(一六六一~七三)近江屋の徳助・与兵衛兄弟が新田を開き、与兵衛の子甚左衛門も事業を受け継ぎ、延宝年間(一六七三~八一)に新田を開いた。これらの新田は各々「徳助新田」・「与兵衛新田」・「甚左衛門新田」と呼ばれ、約一〇町二反、六〇石余であった。開発に従事した近江屋一族は、本姓を木村と称し、松平頼純の入部以前より西条陣屋町に住み、大年寄役を勤めた家柄である。
 元禄四年(一六九一)近江屋与兵衛・甚左衛門は、前述の甚左衛門新田(のち深の洲内新田と改称)に続く地に新田を築き「深の洲外新田」(宝永四年一〇月の大地震と同六年の高潮により水没)と呼んだ。
 近江屋新開に隣接して「大唐新開」・「長十郎新田」・「太兵衛新田」・「花屋新田」・「庄八新田」・「唐樋新田」・「御舟蔵新田」などの群小新田が開発された。開発の時期はいずれも不詳である。

 多兵衛・恵美須・大黒新田

 加茂川・中山川の下流域は早くから干拓が進められ、「西泉新開」(正保二年=一六四五 西泉村成立)・「氷見新開」(氷見村地先の諸新開の総称)に続いて、多兵衛・恵美須(現蛭子)・大黒・布袋新田が築造された(布袋新田は築造後水没)。
 多兵衛新田は、中山川の河口部、左岸西方にあり、開発者渡辺多兵衛にちなんでこの名称がある。多兵衛は延宝五年(一六七七)三月風早郡から氷見村に移住、貞享五年(一六八八)に没している。新田の開発は、多兵衛の生存中に完成したかどうか不詳であるが、面積が約一八町歩であるところから比較的短期間で完工したであろう。
 多兵衛新田の北方に隣接する恵美須・大黒新田は、面積約六〇町歩、元禄八年(一六九五)の起工で、大町組大庄屋田中喜右衛門と氷見組大庄屋高橋一左衛門らの努力によって宝暦年間(一七五一~六四)に完成したとされる。

 古川新田

 加茂川下流東岸に位置する古川分(現西条市古川)にある諸新田を総称してこのように通称する。江の内・仙蔵・泉・八丁・西八丁新開などである。江の内新開は、大町の大蔵屋の祖である阿部善久の妻(明和二年没)が開発したと伝える。これに隣接する仙蔵新開(四町六反)は、泉新開(三三町余)が宝永年間(宝永四年の大地震と同六年の高潮によるものか)廃田となり、その一部を再開発したものである。

 禎瑞新田

 西条藩領内の新田開発のうち、最大であり、藩主直営新田として知られるのが禎瑞新田である。加茂川と中山川の河口部に形成される干潟を利用したもので、西泉新開・氷見新開の北方に築造された約三〇〇町歩(「西条誌」には二三四町余とある)の干拓地である。
 安永七年(一七七八)一月一六日(根元帳には同年二月二日とある)、竹内立左衛門が新田築方御用掛に任命された(西条誌)。同年四月七日鍬初、安永九年一二月七日には最大の難工事であった汐留に成功した。完工の翌年(天明元年)、開拓地の八幡地区(現西条市禎瑞八幡)で泉が自噴した。江戸からの指令でこの泉は「金泉」と呼ばれることとなり、開拓地も九月一八日「禎瑞」と呼ばれることとなった(「禎瑞」が村として公称されるようになったのは明治四年以後であり、それまで公簿上では東部を西泉村下分、西部を氷見村下分と表示していた)。
 禎瑞新田は前述のように、藩主(松平頼謙)の私金によって構築したことと、その規模の壮大さ、開拓の迅速さにおいて他の新田開発を圧倒している。開拓工事着手以来六〇年余経過した天保年間における禎瑞の様子を「西条誌」は次のように記している。

 堤総回り七八町三七間、田二一九町余、畑一四町余、田畑総計二三四町三反二畝二一歩、宛米総計一、五八四石四斗四升、百姓屋敷および宛添一〇町余、家数二〇八、人数一、一七八、船数六艘、東部の在所(相生・加茂)、西部の在所(八幡・高丸・産山)

 西条藩では、藩主の私費で開発したとはいえ、藩の事業としての認識を持ち、経営のための「禎瑞方」役所を置いた。職員は、禎瑞方上役二人・受払方一人・下役二人・南蛮樋上番一人・下番加番とも九人であった(治藩の余波)。
 汐留工事完工後、伊予のほか阿波・讃岐・備後・備中・安芸・石見などからの入植者があって、家数も急速に増加し、享和年間(一八〇一~〇四)の一二九軒・六八〇人が、天保年間(一八三〇~四四)二〇八軒・一、一七八人となり、文久元年(一八六一)には二四八軒・一、四〇三人となった(禎瑞方記録・資近上五―二九)。年貢の納入も一、六〇〇石に達した。
 禎瑞は加茂川・中山川に挾まれており、水災もしばしば発生した。水の管理は禎瑞新田の死命を制する最重大事であったから、産山に設置された南蛮樋には常時一〇人の役人を置いて五つの樋門を開閉させた。

図2-27 西条干拓図

図2-27 西条干拓図