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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

3 塩田の開発

 松平氏以前の塩田

 新居郡垣生村(現新居浜市垣生)では、室町時代末期ころより製塩が始まり、慶長一三年(一六〇八)には、伊藤彦左衛門らによって村の南部に位置する前浜二〇町歩(一部松神子村にもかかる)が開発され(明治以前日本土木史)、加藤嘉明時代から運上銀を上納していた(西条誌)。村の北部には弁財天浜があり、両浜共に赤穂流の入浜式塩田よりも古い形式の塩田と思われる。「西条誌」によれば、前浜は一一軒・弁財天浜は九軒で構成され、両浜ともに定運上であり、四斗入三七五俵(一俵当たり銀二匁八分)に相当する銀一貫五〇目を納入していた。
 垣生村・松神子村・郷村の地先海岸は、屈曲のほとんど無い遠浅の海岸であり、干満の差が大きく、また垣生山・黒島・大島などがあるため風の影響も極めて少ない。また黒島浦は、潮待ち港として知られた良港で、漁師の出漁根拠地としても利用されていた。

 黒島前干潟開発に着手

 元禄一三年(一七〇〇)三月、阿波の浜師六左衛門が黒島前の干潟を見て、塩浜築造に適している旨を、黒島浦年寄五兵衛に話した。五兵衛は西条藩留守居森惣兵衛に届け出た。翌年九月西条藩より五兵衛に対し塩田開発の資金調達・開発技術者を依頼することなどが指示された。五兵衛は上方で奔走し、元禄一六年升屋源八・讃岐屋新左衛門・奥村丈助・深尾権太夫の四名に塩浜築立引請を承知させることに成功した。深尾権太夫らは宝永元年(一七〇四)着工したが、資金難や災害(宝永四年の大地震・同六年の高潮)などもあって完成に至らず、享保五年(一七二〇)には責任者である権太夫が病死したため、塩浜築造計画の推進さえ危ぶまれる状況となった。

 天野喜四郎黒島へ渡来

 黒島前干潟の干拓計画は、郷・松神子・垣生の三か村にまたがる壮大な構想であったため、汐留に成功しても風水害や地震などの都度被害を受けるため、補修に莫大な資金を必要とした。こうした状況の中で、黒島の好兵衛・武左衛門が、向地吉和浜(現広島県尾道市)で塩浜を経営していた天野喜四郎に、黒島前干潟干拓事業継続を依頼した。享保八年(一七二三)七月、喜四郎は同業者五人と連名で開発願書(資近上五-56)を提出し、同年九月九日鍬初め式を行い開発に着手した。
 享保九年、喜四郎らの努力で工費銀一一七貫余を費して塩浜一一軒一〇町四反余(のち一九町八反余)が築造され、翌一〇年九月二六日一一軒の経営は開発者六人で分担することとなった(資近上五-57)。同一二年一一軒分は新居郡郷村に所属することとなった。塩浜の持主は享保一八年五月の「塩浜拾壱軒分畝高御改帖」によれば、一・二番浜は善左衛門、二~五番浜は喜四郎、六~八番浜は与市郎、九~一一番浜は忠兵衛となっている。(資近上五-58)。

 多喜浜

 享保一八年、前年の大飢饉により多数の難民が発生した。西条藩では天野喜四郎の献策によって飢人救済事業として、塩浜一七区二五町三反余の築造を開始し、総工費銀二七五貫余を費やして前述の一一軒(古浜)の東に完成した。この事業は飢人救済にも貢献したところからこの地を多喜浜と称するようになり、古浜は西多喜浜、新開発の一七浜は東多喜浜と称することとなり、文化元年(一八〇四)西多喜浜を多喜浜、東多喜浜を多喜浜東分と改称するまでこの呼称が用いられた。
 開発の中心となって活躍した喜四郎は、西条藩より西多喜浜庄屋に任命された模様である。天保八年(一八三七)の多喜浜庄屋役由緒書(資近上五-70)にも、開発九か年目に多喜浜の検地があり、岡畑年貢米の上納が義務付けられることとなって、それを機に庄屋給が与えられるようになったと記している。

 多喜浜西分(久貢新田)

 天野喜四郎は、古浜一一軒・多喜浜東分一七軒を築造し、宝暦六年(一七五六)一二月二九日に没したが、その子孫は代々喜四郎と称し、初代喜四郎の遺志を継いで塩田築造事業に邁進した。
 宝暦九年二代喜四郎らの奔走により銀一三〇貫目余が調達された。出資者が非常に多かったため、金子村真鍋伝左衛門・畑野村嘉右衛門・小林村藤助・大島浦弥市右衛門の四人が銀主惣代となって多喜浜西干潟の新田開発を出願することとなった。同年四月五四名の銀主は、前述の銀主惣代と喜四郎を加えた五人を新田開発肝煎として、沢津組大庄屋小野与惣右衛門を経由して開発を出願した(資近上五-61)。願書は同年九月二七日受理され、工事は順調に進められた。同年一〇月七日西条藩の支援を得て、四、二五〇人の人足が領内村々より徴収され、二万八四五俵の土俵を使用して汐留が行われた。このようにして築堤工事が完了した干拓地は久貢新田(のち文化元年より多喜浜西分)と呼ばれ、総畝高は九六町五反五畝(内塩田分一四町四反七畝)に達し、同年一二月一二日には銀主達への上地配分も終了した(総普請終了は宝暦一〇年七月、総工費は銀二六六貫余)。
 久貢新田は、これまでの西多喜浜・東多喜浜のように塩浜開発を主目的としたものではなく、新田畑の造成に意を用いていたため、新規に築造されようとした塩浜はわずかに九軒であった(その後立地条件悪く急速に減少し、幕末には二軒となる)。
 宝暦一三年二月一日より久貢新田の検地が実施され、同月一九日に終了した。検地が終了して新田経営が軌道に乗ろうとした矢先の同年三月一九日喜四郎は西多喜浜・久貢新田庄屋を罷免され、垣生村庄屋甚左衛門がこれに替った。喜四郎が西多喜浜庄屋として帰役するのは明和四年(一七六七)六月五日である。
 久貢新田に築造された塩浜は、開発より一〇年を経過した明和五年には、すでに営業中のものは五浜に減少し、そのうち三浜は年毎に塩の生産が減少するという有り様であった。
 文化元年(一八〇四)従来の西多喜浜は多喜浜、東多喜浜は多喜浜東分、久貢新田は多喜浜西分と改称された。

 北浜(新浜)

 文政六年(一八二三)天野家四代目の代助が藩に再三干拓を建白した結果、西条藩直営の塩浜として、一七軒分が多喜浜東分の北部に築造された(総畝高四〇町六反余、総工費五、〇〇三両余と藩札一、二〇〇貫目)。この塩浜はこれまでの開発分が一軒分一町から一町二、三反であったのに対し、約二町歩平均と規模が大きかった。天保一三年成立の「西条誌」には、一七浜のうち七浜は未だ成らずと記されており、藩直営の塩浜ではあったが小作の引受手がなかったと思われる。実際の浜の運営には藤田庄三郎と喜四郎とが当たり、世話料として年々銭一五〇目を藩から支給された。
 北浜の築造以後、幕末に五代目天野喜四郎によって、前神寺積善講の講金を元手とした三喜浜塩田六区の開発が行われたが、初代喜四郎時代に開発した多喜浜に比べて立地条件が悪く、収益力が低かった。このように、西条藩の手厚い保護を受けつつ元禄年間から幕末にかけて、多喜浜地区に築造された塩田と新田畑は二四〇町歩に及び、塩浜数も幕末期には五二軒となった。この間、天野家は初代喜四郎以後五代喜四郎に至るまで常に開拓の中心的存在として活躍し、伊予最大の塩田地帯形成の原動力となったのである。