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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 製紙業

 西条藩の製紙業は、同じ伊予国にあっても、宇和島藩・大洲藩よりかなり遅れて発達した。その技術は隣藩小松より学んだと考えられ、起源は一八世紀後半とされている。同藩の奉書は良質のものとして声価高く、越前奉書などとともに、江戸においては浮世絵版画の錦絵を摺る用紙として使用された(「西条誌」)。藩では、原料生産から製紙に至るまで全工程を統制し、専売制をとって一手に大坂蔵屋敷に積み出した。
 西条藩に製紙業を発達させた立地条件は、山間部を中心とした楮の産出と、加茂川の伏流水の良質で大量の水に恵まれていたことであった。楮は石鎚連峰山腹に位置する東三か山(千町、藤之石、荒川)、西五か山(西之川、東之川、中奥、黒瀬山、前大保木)を主産地とし、東三か山の楮は大町、西五か山の楮は氷見に設けられていた楮皮座にすべて収納されることになっていた。この楮皮座は、楮皮の収納の外、楮栽培資金の貸与、楮苗の供給などにあたる施設であった。
 製紙場は、加茂川の伏流水による湧泉に恵まれた神拝村におかれた。すなわち、同村新町泉に隣接して紙役所一棟(三間×四間)、紙蔵二棟(三間×五間)、楮皮蔵二棟(三間×一二間、三間×一〇間)、紙漉長屋一八軒をおき、紙漉にあたった。紙役所は、紙漉資金の貸付、原料である楮皮の支給、製品の収納にあたる施設であった。紙漉長屋一八軒では、三六株に分かれた職人が紙漉にあたっており、これら職人の中には、領内出身者とともに、他領より雇い入れられた者もあった。また、農民が農業のかたわら紙漉にあたることも認められており、これは前記三六株の外とされていた(「西条誌」)。このように、西条藩における生産形態は、宇和島藩・大洲藩などが農家の副業として紙漉を保護・奨励したのとは異なり、藩が直営の紙漉場を設け、そこで専門の職人による生産を行わせたところに特色がある。
 江戸期における生産高を知ることはできないが、明治初年度における神拝村よりの奉書移出高一万束、代金は一万四、〇〇〇円であった(「地理図誌稿」)。