データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)
四 藩の治水策
治水の推進
農民から徴収する年貢米に税収の大半を依存している藩では、治水は最も重要であった。領内の耕地と住民を、河川の氾濫と干魃から守るため、河道を整えたり、堤防を固め、井関を設け、また溜池を築造して用水を有効に配分するとともに灌漑面積を拡大することは、生産の安定・増産に貢献するから領主にとって重大な基本政策であった。
今治藩は、所領が三つの地域に分かれている。一は、越智郡の地方で、奈良原山脈の風化した花崗岩地帯に水源をもつ流路の短い総社川(現在は蒼社川)と頓田川が貫流している地域である。二は、越智郡の島方で雨は少なく、山は低く、川らしい川のない地域で、大島・伯方島・弓削島などが含まれる。三は、宇摩郡の法皇山脈の北側の急斜面を主要部分とする一八か村である。いずれの地域も一部を除いて乏水地帯であり、且つまた大雨が降れば洪水の被害を受けた。こうした諸般の事情から用水の確保・治水は藩政担当者にとって急務であった。
稲作農業にとって水利権は不可欠の要素であったから、その地方の事情に応じて独得の慣行が成立した。慶長五年(一六〇〇)加藤嘉明と藤堂高虎が伊予で二〇万石ずつを与えられて、領土を平等に分けるため、村は勿論、島まで二分割したところがあった。この時両者は、
一、在々相付山林や草刈場・放牧場・村の井水はいずれも前の如くすること。
と、従来の慣行通りの使用を協定した。従って藤堂領の総社川と加藤領の頓田川の利用は従来の慣行そのままであったと推定される。
「伊予一国絵図」(寛永四年~寛永一一年製作と推定)には、藤堂領(藤堂高虎の養子宮内少輔高古)の中央を流れる総社川と、蒲生領(旧加藤嘉明の所領)越智郡陸地部の中央部を蛇行しながら流れる頓田川が描かれている。同図は大洲旧藩主加藤家の所蔵であり、伊達家の所領(宇和島藩)を除く伊予一国を鳥瞰図式に描き、これに行政区分・村名・道路などを色分けして記入している。
地図に記された総社川は、八幡村(越智郡玉川町)の下で谷山川と合流してほとんど真東に流下し、今治城の南側に至って海に注いでいる。現在の河道もほぼこれと同様で、流路にほとんど変化がなかったことが知られる。
頓田川は、朝倉上村に発し、宮崎(宮ヵ崎)村に至り、そこから高市中村のあたりで複雑に蛇行しながら拝志・寺河原村の北で海に注ぐ。
寛永一二年(一六三五)松平定行が松山藩主、松平定房が今治藩主となった。この時従来蒲生家領であった頓田川流域の大部分が今治領に編入された。
定基の治水策
今治藩では、初代定房の時代以来幕府の公役を勤めることが相次ぎ、その上に江戸屋敷の類焼(正徳三年・享保二年・同三年)や城下町の大火(享保五年)があり、財政が窮迫したため藩士の俸禄を借り上げて急場を凌いでいたが、四代藩主定基は、治水政策の推進によって財政収入の安定を図ろうとした。
享保七年(一七二二)六月総社川筋に大洪水があり、今治城南方の蔵敷村で堤が決壊し、濁流は城下に流れ込み、西ノ門(現今治市旭町付近)から三ノ丸濠に溢れ、郭(家中屋敷)を浸して城の北口に架かる辰ノ口橋も流失した。一方野間郡の山路筋から城下町の北側に流下する浅川も堤が切れて町の北側が水没した。この洪水で冠水した田地は五七二町歩余に及び、被害は約八、〇〇〇石、家屋の倒壊四八〇戸と幕府に報告している(資近上三-116)。
定基はこの苦い経験に懲りて、洪水時の対策として早速士卒で防護組織を作り、あらかじめ防護の場所・任務を定め、必要用具を準備させた。その直後の同年八月に再び大雨が降り、河川は溢水寸前になったが、防護活動も効を奏して災害を免れた。しかし、これは応急策に過ぎなかった。
宗門掘り
そこで定基が根本策として思案し、享保九年から試みたのが藩の事業として実施した宗門掘り又は瀬掘りと称されるものである。これは水害の多い地方の宗門帳に登録されている百姓のうち、一五歳以上六〇歳までの男子を、年に一日ずつ出役させて、郡奉行・代官の督励の下に、村単位で総社川の瀬掘りを行わせ、同時にそこで得られた砂礫で堤防を強化することであった。藩では作業を効率良く行わせるため、あらかじめ村々に作業場所を割り当て、当日は河心の砂礫を両岸に運び、堤を嵩上げしたり腹づけをさせた。こうした作業は郡奉行・代官・庄屋の督励により比較的能率良く進捗したが、砂礫の堆積は人力を超えた。特に総社川が急斜面を流下して平野部に出る法界寺村から高橋村の辺りへの堆積は著しく、河道を埋めた砂礫は出水に際して堤を越え、あるいは破って平野部(多くは新開地)に拡散した。
例えば享保一一年(一七二六)の洪水に際し、総社川左岸の小泉村では、天正検地を受けた本田に川成地はなかったが、天正以後開拓された高三〇石余の新田はすべて川成地となり、年貢米徴収は不可能となった。この時対岸の中寺村でも天正検地分の高一、〇〇八石の田地には浸水がなかったので、前年同様の五ツ八歩の免が課せられたが、高三四石の新田は大部分が川成地となった。
また、元文四年(一七三九)八月の暴風雨による被害も甚大であった。総社川では左岸の高橋村、右岸の中寺・八町・郷の村々で堤防が決壊し、頓田川でも高市・中村の辺りで決壊し、折からの高潮と重なり、越智平野の低部一帯は一大滞水地となり、おびただしい被害のため、藩財政は大危機に陥った。
藩では最後の手段として、町人にも宗門掘りに参加の義務を負わせ、作業対象に今治城の堀の底ざらえを加えた。また、全宗門人の出役日数を一日に限定せず、郡奉行以下の関係藩吏は総員出動、藩主も在邑時には、作業日の午後現場に臨んで全員を激励した。作業に出動した藩士には戦時食、庶民には夫食として一日米五合が給与された。
総社川・頓田川の状況が、年貢米収入に依存する藩庫の貧富と直結していたので、両河川の管理は家老の責任となっていた。総社川については、元禄中期より法界寺村(現玉川町)庄屋の浮穴善助が、同村より下流の管理責任者に指定され、平常の手入れや管理は彼の裁許によって行われた。これは浮穴家が、総社川の左岸に広く配水する北方の堰元地の庄屋であったからである。
延享三年(一七四六)四月、総社・頓田両河川の堤防の破損箇所の修復が実施され、同年一一月には総社川の瀬掘りも行われた。これに続いて寛延二年(一七四九)には総社川、同三年春には頓田川の瀬掘りが行われた。
総社川河道付替問題
今治藩家老服部家の家譜によると、宝暦元年(一七五一)服部外記が総社川付替普請御用係に任命されたと記している。明治二七年渡辺章が編さんした『今治拾遺』にも、宝暦元年三月総社川付け替えが命じられた旨を明記している(資近上三-123)。同書によれば、家老服部外記、大目付松田平兵衛、郡奉行平野久五右衛門、勘定目付大沢恵左衛門が普請担当となり、実務は河上兵作(安固)が担当したとしている。
「今治拾遺」によって総社川付け替え説は定説化した。しかし、これに対し『国分叢書』の編者である加藤友太郎(旧国分村庄屋家の生まれ)が反論を加え、総社川が城の北を流れて(現浅川と想定)いたとする説を否定した。加藤家は頓田川の釜ノ口に近く、松山藩領宮崎村などと用水配分について争った苦い経験を有していたため、水利に関して特に深い知識と関心を持っていた。
『今治市誌』を編さんした玉田栄二郎も「浅川に流下していたというのは総社川が氾濫して、その分流が流れていたものであろう」としている。これに加えて今治市水道局が玉川ダム建設に際して専門家に委託して実施した調査でも「蒼社川は多少の分流くらいはあったかも知れないが、元禄以前も浅川に注いだという説は証明されない」との見解が示された。
以上総社川の流路に関する諸見解を挙げたが、次に免の変動から検討を試みよう。「服部家譜」や『今治拾遺』に記された総社川付け替えが実施されたとすれば、川成引高や免率に変化が生じるはずである。そこで、河道付け替えに着手したとされる宝暦元年より前の寛延二年(一七四九)から、付け替え終了後と想定される宝暦一二年にかけて、総社川流域河北諸村の川成引高と免の変動を、愛媛県立図書館所蔵の「免定帳」によって数表化してみたのが表二-22である。
川成引高を調査対象としたのは、河川付近の村々では、年貢米を上納するため免定を受ける際、河水の浸入などによって荒廃した面積は川成として課税対象から除外されていた。そこで川成引高の推移によって河川の実情を知ることが出来ると考えたからである。河道付け替えがあれば、新河道が通過する村々で、川成引高が急変するであろう。こうした推定から表を作成したが、河川の付け替えが認められるような変動を読み取ることは出来なかった。
犬塚池と鹿ノ子池
洪水対策に次いで重要なのは、乏水地における貯水池の築造である。佐礼山麓・鷹取山麓は後背地が浅く、斜面の耕地への安定的灌漑は困難であった。寛文九年(一六六九)旱魃に苦しむ村人を救済しようとした松尾村(現今治市五十嵐松尾)の庄屋が、在府中の藩主に減免嘆願をして成功したが、自らは四人の子と共に、国家老の命で襲撃した武士の凶刃に倒れた。それ程水不足は深刻であった。
藩では、この地域の水利を軽視したわけではなく、寛永一六年(一六三九)には犬塚池の基礎が作られている。初代藩主定房が伊勢より随行させた長島衆の一人上野半兵衛家譜に、「御領内検地仰せ付けられ相勤め候、この時八幡村へ池開かしむ、農を勧む、当時称する犬塚池也」とあり、また元禄五年(一六九二)、別所村・八幡村の地坪が実施された時の野取帳に「大池ノ裾」・「大池ノ水口」・「犬ノ墓ノ水口」などのホノギ(小地名)が見られるから、佐礼谷の谷川水を湛えた大池(犬塚池)が築造され利用されていたことが証明されよう。
前述の佐礼山に続く鷹取山麓には、元和年間(一六一五~一六二四)すでに古谷川の水を塞き止めて、農耕に利用していた。元和六年(一六二〇)この地を支配していた加藤嘉明が検地を実施し、その際作成された「古谷村検地帳」によれば、「かのこ」の記載があり、「池ノ内」に後年の地割帳には記載されていない田二枚がある。当時の池は、現在古土手と呼ばれている極めて浅く狭まっている自然的上手が残っており、これが鹿ノ子池の原型であろう。
明和八年(一七七一)二月より、六代藩士定休の命で鹿ノ子池の水域拡張と、土手の本格的構築・嵩上げが実施され、二九年を要して完成した。前述の犬塚池も寛政七年(一七九五)から改修に着手され、二三年後の文化一四年(一八一七)に竣工した。両溜池の完成によって、山麓部は勿論、平野部の農耕に多大の貢献があった。藩財政に寄与するところも大であった。