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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 農民への対策

 藩政と農民

 今治藩は三万石で発足したが、創立当初より領民に石高の六割前後の税率を課して、毎年一万八、〇〇〇石から二万石の年貢米を徴収していた(前項の財政策と地坪参照)。
 領内の村毎の免率を知ることが出来る史料として、愛媛県立図書館に、享保七年(一七二二)から藩政末期に至るまでの免定帳が保管されている(資近上付録3)。免定帳は同図書館の架蔵番号四二一から五三四にあり、領内を代官の支配別に三つの地域(南方・北方・島方)に分けて記帳している。

 南方に含まれる村(蔵敷・鳥生・辻堂・拝志北・寺河原・古国分・国分・拝志上・高市・松木・町屋・新谷・古谷・山口・朝倉中・朝倉上・鬼原・畑寺・高野・中村・小鴨部・別所・八幡・鈍川)
 北方(大新田・石井・別宮・日吉・馬越・片山・小泉・別名・高橋・法界寺・大野・三反地・摺木・与和木・鍋地・桂・御馬屋・葛谷・龍岡・長谷・四村・徳重・中寺・八町・郷)
 島方(今治・大浜・椋名・正味・臥間・津島・本庄・名・八幡・仁江・福田・泊り・田浦・早川・余所国・宮窪・友浦・南浦・叶浦・伊方・北浦・有津・木浦・佐島・上弓削・下弓削・魚島)

 免定帳のうちから、南方・北方・島方の数か村を選んで免の推移を表示してみよう(表二-21)。
 今治藩における免率が最高であったのは三反地村(現玉川町)で、村高に対して一一(一一割)であった。また最低は魚島村の一ツ九歩(一割九分)である。一般的には、地方の平坦部が高免で、後背地の狭くかつ低くて雨の少ない島方では免率が低い。前者では六ツあるいは七ツが普通であるが、後者では比較的平坦地の見られる名村や宮窪村でも五ツに達せず、大部分の村では二ツ五分前後であった。稲作には水が不可欠であるが、天正検地時の評価の妥当性にも問題があろう。
 前に示した表によれば、個々の村の免率は、広範囲の天災の場合以外は変動させない方針であったことが分かる。例えば、享保一一年(一七二六)から明治二年(一八六九)までの間、享保の大飢饉に際しての変動は表示していないが、宝暦二年(一七五二)に免率の低下が認められる。同年は干魃で苗の植え付け不能に陥った村があったため免下げが実施されたのである。免下げの率が村によって相異するのは、被害の程度によって差をつけたためであろう。
 新田の免については表に引用しなかったが、新田は古田畑(本田畑)とは別に免を定めている。一般に開墾が遅れたため水利の条件も劣っており、また藩も新田開発を奨励する意図もあって低い免が課せられた。
 川成田畑の免及び天災時の免の定め方は次のようであった。江戸時代は治水対策が不充分な場合も多く、洪水などで河川が氾濫して耕地が川となったり、土砂が流入して砂入り地となることがあった。そのような場合、洪水による被災地の実情が精密に調査され、被害を受けた村々に適正な税の減税が行われた。その実例として寛延二年(一七四九)の別名村(現今治市)の場合を示そう。

(図表「別名村の減税」)   

 農民の反抗

 農民は納税者として最も重要であったから、藩でも免率の決定には諸条件を考慮して決定した。ところが、こうした配慮にもかかわらず、税に対する見解の一致しない場合もあり、農民側の指導者は死罪を覚悟して藩側に再考を願って反抗したこともある。通常藩側では記録を残さないように努め、反対に農民の側では義挙としてその死を悼み農民の守り神として永くその功績を伝える風が残されている。今治藩においては、百姓一揆もしくはそれに類するものは、松尾村庄屋の減免運動・武蔵国東葛飾郡民の免下げ運動・下弓削村土生騒動・佳例山事件の四例が報告されている。以下その概要を示そう。

(1) 松尾村庄屋の減免運動 寛文九年(一六六九)地方の松尾村(現今治市五十嵐松尾)では旱魃があり、水掛りの悪い不作地域を含むので、歳末の納税期を予想して庄屋の八右衛門は今治藩家老に(当時藩主定房は在府中)免下げを嘆願した。この嘆願を却下された八右衛門は、熟慮の末己を捨てねば村人の難を救う道はないと決心し、ひそかに江戸に上り、在府中の藩主定房に訴えを通じた。定房は庄屋を引見して、減免を許した。なお事後の八右衛門の立場を察して、愛用の頭巾を与えて農耕中も着用するよう付言した。八右衛門は帰郷後一〇月一〇日藩主より拝領した頭巾を被らないまま農作業に出たところ、仕事中を武士に襲撃された。彼にはこの結末は十分覚悟済みであったろうが、四人の子供が凶刃に倒れたことは村人にとって耐え難い悲しみであった。いつの間にか菩提寺の浄寂寺の一隅に墓石が建てられ、今に至るまで一〇月一〇日を五人主衆の命日として村人はその霊を弔っている。
(2) 武蔵国東葛飾郡民の免下げ運動 事件は元禄六年(一六九三)東葛飾郡民がこぞって訴訟に及んだが、藩主の側にも不例のことがあって処罰の機を失い、農民側も軽挙を深くわびたので、今後を戒めて不問に付した。
(3) 下弓削村土生騒動 宝永五年(一七〇八)下弓削村土生部落に起こり、二度目は村の全域にも波及した減税を求める騒動である。
 事件の発生した弓削島は、上弓削・下弓削の二か村に分かれ、最高所でも三二三㍍の低い山地から浜辺の狭い平地に至り、ここに集落が発達した。元禄二年(一六八九)の調査では、上村は田畑合計五三町七反、高四一一石で、下村は田畑合計五三町二反、高四一五石であった。
 住民は貞享元年(一六八四)の調べでは、両村共戸数の約半分が本家であるとしている。残りの半数については不詳であるが、弓削町役場の史料室の調査では無給層であると推定している。
 ほぼ同じ条件の両村であったが、免については、上村が二ツ二歩(二二パーセント)であるのに対し、下村は二ツ七歩(二七㌫)が課せられていたので、下村の人々は強い不満を持っていた。たまたま宝永元年(一七〇四)と同三年に災害が続いたので、同五年閏正月土生部落の高持百姓五郎左衛門が主唱して、これに組頭庄右衛門及び小百姓の弥兵衛・由兵衛・助十郎が連名で村の庄屋村井氏に年貢米の軽減を要求した(要求書に名を連ねた人々のうち、弥兵衛以下の三名は、二〇年以前の元禄二年の記録では、屋敷も田畑も持たない者であったが、宝永頃には屋敷・田畑を持つ百姓になっていたと推定される)。
 庄屋は五人から事情を聞いたが、それ限りで何の音沙汰もなかった。五郎左衛門らは、土生の住民一〇名(いずれも百姓と推定される)を加えて、庄屋に願い出て「もし聞き届けがなければ一同今治へ直訴する」と迫った。庄屋は主謀者と見られる五人を捕えて今治に送り入牢させ、他の一〇名は村方の土蔵に押し込めて、藩庁の指図を待った。やがて藩から、一〇名も今治へ送るよう指示があったので送り届けて入牢させた。その後一括して判決があり、首謀者の五郎左衛門は領内追放、庄右衛門は組頭免職、他は帰郷の上追い込みとなった。
 処罰を受けたのみで、減免要求が全く不首尾に終わった百姓らは憤懣やる方なく、宝永五年末、庄右衛門を中心と 住民は貞享元年(一六八四)の調べでは、両村共戸数の約半分が本家であるとしている。残りの半数については不詳であるが、弓削町役場の史料室の調査では無給層であると推定している。
 ほぼ同じ条件の両村であったが、免については、上村が二ツ二歩(二二パーセント)であるのに対し、下村は二ツ七歩(二七パーセント)が課せられていたので、下村の人々は強い不満を持っていた。たまたま宝永元年(一七〇四)と同三年に災害が続いたので、同五年閏正月土生部落の高持百姓五郎左衛門が主唱して、これに組頭庄右衛門及び小百姓の弥兵衛・由兵衛・助十郎が連名で村の庄屋村井氏に年貢米の軽減を要求した(要求書に名を連ねた人々のうち、弥兵衛以下の三名は、二〇年以前の元禄二年の記録では、屋敷も田畑も持たない者であったが、宝永頃には屋敷・田畑を持つ百姓になっていたと推定される)。
 庄屋は五人から事情を聞いたが、それ限りで何の音沙汰もなかった。五郎左衛門らは、土生の住民一〇名(いずれも百姓と推定される)を加えて、庄屋に願い出て「もし聞き届けがなければ一同今治へ直訴する」と迫った。庄屋は主謀者と見られる五人を捕えて今治に送り入牢させ、他の一〇名は村方の土蔵に押し込めて、藩庁の指図を待った。やがて藩から、一〇名も今治へ送るよう指示があったので送り届けて入牢させた。その後一括して判決があり、首謀者の五郎左衛門は領内追放、庄右衛門は組頭免職、他は帰郷の上追い込みとなった。
 処罰を受けたのみで、減免要求が全く不首尾に終わった百姓らは憤懣やる方なく、宝永五年末、庄右衛門を中心として、前回の関係者の外に、土生で九名・下弓削部落で三名・其の他村内の四部落で一名ずつを加えて計二九名が連判して再度減免を願い出た。
 庄屋はこれを藩庁に取り次いだので、今治から郡奉行以下足軽・中間三〇余人が弓削島に渡り、庄右衛門以下全員を逮捕し、主だった九名は今治に連れ帰り入牢させ、他は地元で入牢させた。一年半後、庄右衛門・弥兵衛・徳右衛門の三人は島に送還されて斬首獄門に処せられ、同時に倅も斬首となり、妻子は追放された。其の他の一〇名は妻子ともども追放された。
 村人達は彼等の処刑を悼み、庄右衛門の旧屋敷に供養堂を建てて、また檀那寺の定光寺の門前に関係者の墓を建立した。
(4) 佳例山事件(宮窪村騒動とも言う) 古くから慣行のある山林の利用に関し藩主が利用慣行のない村方に利用権を与えたことから生じた騒動である。
 宮窪村(現越智郡宮窪町)の背後に佳例山という約一四ヘクタールの山林地がある。恐らく加藤嘉明が大島を支配した時より前からと推定されるが、東側の宮窪村と西側の余所国村の村民が入り会って枯木・枯枝を伐ったり、落葉をかき集めたり、下草を刈り取る慣行があった。利用の規定もあって、古くから両村民は日常生活に大きな利益を受けていた。ところが、宝暦六年(一七五六)のころ、今治藩主が参勤交代の帰途路銀に窮し、その時江戸に秋田から米を積んで入港していた伯方島有津村(現越智郡伯方町)の庄屋に融通を求めたところ、庄屋は積荷と船を売って献金した事がある(野間家譜では寛永一九年とある)。
 藩主はその功に報いるため、その後庄屋に対し、村民が佳例山に立ち入り、利用することを許可した。有津村民の入山に驚いた宮窪・余所国の両村民は従来の慣行を主張して有津村民の立ち入りを防ごうとしたが、有津村民は藩主の許可を楯に退かなかった。
 これに対し宮窪・余所国村側は今治への出訴を計画し、宝暦六年九月六日、青・壮年者を総動員して今治城下へ詰め掛けた。藩では城門を開いて彼等を招き入れ説諭の上、一応引き取らせ、調査のため大目付などを現地に派遣した。その結果、藩は有津村に佳例山の入会を許した事についての非は認めたが、大挙して渡海出訴したことは、御定法を破る大罪であるとして主謀者を差し出すよう要求した。そこで宮窪村の弥惣右衛門・嘉右衛門・伝蔵、余所国村の武兵衛が責を負って今治の牢に入った。弥惣右衛門たちを救うため宮窪・余所国両村では、檀那寺である名村の高龍寺や宮窪村海南寺の住職を仲介者として、藩主の信仰の厚い松源院や光林寺の住職に働き掛けて四人の保釈を嘆願した。これに対し藩側の措置は厳しく、入牢より二年後「御大法に背き徒党を企て、御城内に詰め掛けた頭取の罪、その上偽りを以て役人の名を出し余所国の人々まで誘って渡海した罪」により、宮窪村の三人は討首となり、余所国村の武兵衛は耳切り追放となった。
 この騒動は、城下に近接した場所で発生し、規模も前の三件とは比較にならない大事件であった。しかし処罰の対象が首謀者本人にとどまり、親類縁者に及ばなかったことは、この事件の大きな特徴である。その理由は、事件の根本原因が藩主の側にあったため、藩の側でも反省するところがあったのであろう。処罰された四人の所持していた田畑は、その親に与えることとし、親たちの村内居住も許可した(一時的に閉門を命じられている)。ただ余所国の庄屋は隠居を命じられ、有津村の庄屋・組頭は閉門逼塞を命じられた。
 藩の側でも、郡奉行二名・島方代官が指導不行届のためお叱りを受けた。佳例山の入会権については古来よりの慣行通り宮窪・余所国両村に限定されることとなった。
 事件の犠牲者三人に対する村民の追憶・尊崇の念は厚く、海南寺境内に地蔵尊像を建て、日常の参詣は勿論、盆には盛大な踊りを催して供養を続けた。明治三六年四月宮窪村を一望に見おろす佳例山の丘に若宮社が建立され、犠牲者の霊を祀るとともに、村の守護を祈願して毎年三月に祭典を営んでいる。

 農民の生活

 前述のように農民に課せられた年貢米は極めて重かったから、百姓は寒暑・晴雨にかかわらず農耕に精励して増産を図り、衣・食・住は分相応に質素倹約を守らねばならなかった。藩では百姓の生活指針として延宝二年(一六七四)五月「郷村諸法度」を発布して、これを毎月庄屋宅で実施する村吟味講で徹底させた(国府叢書)。その内容は次のようなものであり、無駄を省き、農耕に精進して、納税に励むようにと布告している。

 一、衣類は布(麻布のこと)、木綿の外一切使用してはならない。
 一、身分不相応の家作は禁止する。居住が破損した時、もしくはよんどころなく普請しなければならない時は、代官所へ出願してその差図を受けること。
 一、相互の音信や、贈答は堅く差し止めること。振舞(施与)は一切禁止のこと。祭礼・仏事などの節は近い親類の外は寄合ってはならない。
 一、村々の吟味講は毎月油断なく行い、小百姓等寄合い、万事和合して申し合せよ。講の時も食物を出してはならない。

 農民も藩の指示に従い、文字通り「晨に家を出て野良に行き、夕に星を戴いて家路に向かう」根詰めの日々であった。しかも摂る主食は、麦七~八分・米二~三分が普通で、副食物も、ほとんど自家菜園の菜や根菜の煮物や塩漬物であった。白い米飯などは、大百姓でも食べることは珍しかった。今治地方の盆踊り歌に、

   盆が来たらこそ、麦に米まぜてエーソレ
   それにササゲをチョットまぜて
   ヤーレおかしいかエー

と歌い、農民の食生活を自嘲したものがある。
 農民が毎年ほぼ定率の年貢米を滞りなく上納するためには、まず耕地の地力を培養して生産を安定させねばならない。このため農民は、糞尿を大切に貯蔵し、牛馬の排泄物や厩舎の敷草を使用した堆肥を作って、適期に充分施用することが必要である。
 今治地方の地方には、奈良原山の山麓一帯にきわめて広い野山と呼ばれる六三か村入会の草刈場があった。百姓たちは入会慣行に従って刈り取り、馬の背に積んで持ち帰り自給肥料を作った。今日この入会地は、今治市・玉川町・朝倉村共有山組合の所有となっており、植林が行われて蒼社川の治水と、飲料水・農工業用水の水源涵養林として貢献しているが、今治藩時代には、草刈夫たちの競い場でもあった。

図2-15 今治領越智郡地方諸村

図2-15 今治領越智郡地方諸村


表二-21 今治領本田畠税率の推移

表二-21 今治領本田畠税率の推移


図表 「別名村の減税」

図表 「別名村の減税」


図2-16 上弓削村・下弓削村及び大島佳例山

図2-16 上弓削村・下弓削村及び大島佳例山