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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

五 中期の財政策

 地方役人の貢献

 藩政の中期以降、村々の庄屋や町年寄などの役職にある人々(地方役人)が藩財政に尽くした功績は大きい。地方役人たちが、差上銀・差上米・御用銀などへの応募、取りまとめに尽力した役割と、これに報いるべく、藩が彼等に与えた扶持や格式、あるいは席次について検討することも、封建社会の質的変化を知る手掛りになろう。
 富裕な商工業者が藩主に御目見得する風が始まったのは、寛永一四年(一六三七)であった。藩と町人との関係は緊密で、三代藩主定陳の時代、天和二年(一六八二)には大年寄別宮貞通に五人扶持を与え、元禄一〇年(一六九七)には、金融に窮した大商人一〇名を救うため、藩が高利の金を大坂商人から借用して、藩内の商人には低利で融資するなど優遇措置を実施している。
 藩が地方役人に与えた俸禄や格式、およびそれらが与えられることになった藩に対する奉仕活動を列挙すると、四代藩主定基の時代、宝永六年(一七〇九)宇摩郡における今治領内唯一の大庄屋である中曽根村の団七(今村氏)に苗字帯刀を許可した。享保九年(一七二四)には、今治城下町の大年寄別宮喜兵衛に対し、御用銀差し上げを賞して紋付の帷子一着を与え、同時に町内の豪商ら一〇名にも「御用銀度々出精相勤」めたのを賞して、賞金を与えたり、場合によっては苗字を称することを許可した。彼等の中には、御目見得を許されたものもあった。
 享保一一年宇摩郡の城右衛門・儀太夫(ともに今村氏)、藤右衛門・与三右衛門・藤四郎・源右衛門(以上真鍋氏)に苗字を名乗ることを許した。また、同年大年寄別宮喜兵衛と黒部重好の御用銀調達や借用について努力したことを賞し、喜兵衛には帯刀を許し、重好には紋付上下を与えた。
 同一三年には、御用銀調達に尽力した黒部重好と卜部太兵衛に五人扶持(一人扶持は一日に米五合)を、清水屋次郎左衛門・岡村屋与右衛門・樽屋宗右衛門に三人扶持を与えた。これらの俸禄は、豪農や富商にとって収入としては、わずかなものであったが、封建社会においては、君侯から他人に優る地位や待遇を認められることこそ大きな社会的意義だったのである。藩では、これらの人々に特典を与えるに際して「今後は別して世話せよ」と付け加えることを忘れなかった。
 四代定基の時代は、領内の限られた町役人や村庄屋に頼るだけで正租の不足分を補うことが出来たが、享保一七年(一七三二)五代藩主となった定郷は、就封後国元に入部する際その支度金に窮し、専ら江戸の用達を勤める吉田屋長右衛門の力に頼った。定郷は長右衛門に五人扶持を与えてその功に報いた。
 定郷が今治に着いた同年七月頃は、享保の大飢饉の始期に当たり、領内の田畠は蝗(ここではウンカのこと)による被害が大きかった。定郷は、祈祷所の畑寺村光林寺や拝志村真光寺に祈祷を命じ、自らも日吉村の青木神社に参詣して災害防止を祈願した。彼はそれと同時に、百姓や商人の手持ちの米穀が領外に流出することを禁止したり、町方打回り番人を申し付けたり、領内市郷や島方にある米穀倉庫を抜売防止のため封鎮封印したりした(資近上三-119)。また家臣などには総登城を命じ、書院で家老から事情を説明して、家中人数扶持を申し渡し、上下相互に扶助し合ってこの食糧危機を突破するようにさとした。
 享保一七年八月になると、本年の収穫は皆無の見込みとなり、藩財政の枯渇も明瞭となったので、同月三日に領内の富裕な庄屋・豪商など十六名を指名して城内に集め、藩主臨席の下に、家老から財政の窮状を述べ、辞を低くして、当分の間継続して資金を藩に仕送りしてくれるようにと要請した。この時藩が要求した金額は明確で
はないが、町方五人衆の一人である片山与右衛門が「御用銀九〇貫目、右の五人の者へ仰付らる」と記している
から、町方の有力者五人が協力して銀九〇貫目を拠出したものであろう。この時御用銀拠出を要請されたのは次
の人々であった(資近上三-74参照)。

(図表「御用銀拠出の要請を受けた人々」)

 蝗害の深刻化に伴い、今治領内の郷村の飢餓は深刻となった。農村では九月に入ると稲の盗難が頻発し、これを防止するため、藩庁は徒士六人を昼夜巡回させた。町人のなかには飢人に施与する三原屋武兵衛・神宮屋市郎兵衛(米屋町の年寄)らがあった。武兵衛は藩庁の御用銀調達にも尽力したので苗字を許され、市郎兵衛は町年寄筆頭に任ぜられた。

 御用銀と反対給付

 享保の大飢饉以後、藩が地方の有力者に頼ることが増加し、その反対給付としての優遇措置もこれまで以上の待遇が見られるようになった。享保一九年(一七三四)、大坂の銀主鴻池新七の手代である鴻池勝三郎と、同地の銀主粕屋安兵衛が御用銀を斡旋したので、その労を賞して勝三郎には三人扶持を、安兵衛には一五人扶持を与えた。
 享保二〇年、藩は宇摩郡中曽根村(現伊予三島市)の大庄屋小左衛門に対して、知行一〇〇石を与えて郷士とし、給人(一〇〇石以上の家臣)として扱うこととした。この時小左衛門は大庄屋役在職中であるから、藩主の参勤交代に際しての送迎は、他の給人と同様には勤めなくてもよいが、その代わりに「今後御用銀を仰せ付けられた時には出精するように」との申し添えがあった。「藤枝雑記」によれば、小左衛門は元文二年(一七三七)大庄屋辞退を願い出て許されている。巨額の御用銀を申し付けられたためであろうか、あるいは元文元年に給人並の馬廻役に任命された身体的苦悩のためであったのか、その辞退理由は明確ではない。小左衛門の後任の大庄屋は、領内宇摩郡一八か村の庄屋間の互選によって、小左衛門の一族である中曽根村庄屋唯左衛門が選出された。
 城下でも武士と町人の癒着が繰り返された。元文三年には、すでに数年間御用銀の用務を勤めて五人扶持を与えられていた風早町の黒部重安と卜部太兵衛が年寄から大年寄格に昇格となり、これに伴って三人扶持を追加されて八人扶持を給されることになった。片原町年寄の清水屋田房政武・同町町方総年寄上席の岡村屋片上祐助・風早町年寄の樽屋卜部宗右衛門にもそれぞれ二人扶持が加えられて五人扶持が与えられた。こうして城下の主だった商人には五人扶持以上の俸禄が与えられ、城へ出入りする機会を与えられた。彼等の社会的地位は向上したが、他面では藩から何時差上銀や借入銭・御用無尽講への加入を求められるか、あるいはその斡旋を命じられるか、不安も増大したであろう。しかし彼等にとって、そうした不安よりも、藩から与えられる地位を他の商人たちに誇示できる方が勝ったのであろう。御用無尽とは、藩が借り主となる「頼母子講」で、金子や米などを拠出する。岡村屋片山与右衛門祐昭の家譜には「享保一三年八月に壱万俵、御用無尽仰出され、御加入申上候」と記されているから、この無尽講には庄屋たちも協力して応募している。
 宇摩郡領内でも元文三年三島村の真鍋与三右衛門・同新右衛門を郷土格に昇格させ、今までの八人扶持を一五石に直して給与することになった。同五年初代今村小左衛門が没したので、今村常左衛門が跡を継いで一〇〇石を与えられ給人に列せられた。常左衛門は、寛保元年(一七四一)に家督相続後初めての御用銀として三〇〇貫の用達を命じられている。
 また藩は、大坂に設けた蔵屋敷に出入する蔵元(蔵物の出納・販売、さらには金銭の用達にも関係する)の鴻池六兵衛と天王寺屋藤右衛門の両名に対し、寛保三年に一〇人扶持ずつを与えた。彼等はこれに対し充分な返礼を行ったので、翌延享元年(一七四四)藩は改めて「御仕送銀過分出精候に付(中略)知行二〇〇石下され、御家来分になされ候、もっとも帯刀の儀は勝手次第たるべし」との優遇措置を講じている(資近上三-91)。
 宝暦八年(一七五八)九月、宇摩郡三島村の真鍋好助は御用銀三、〇〇〇貫を命じられ、上納しているが、これは恐らく同年九月九日に焼失した三島村の今治藩陣屋と、その下屋敷三軒の復興資金として課せられたのであろう。
 また文政七年には今治で、御用聞砂田綱治と近藤包勝が御用銀一、〇〇〇貫ずつを上納したので、藩庁は彼等に三〇人扶持ずつを与え、郷士並の地位を与えた(資近上三-35)。
 また、文政七年(一八二四)三島村の真鍋善左衛門が米一万五、〇〇〇俵を上納(四か年に分割して納入)することになった(資近上三-36)。彼は天保一三年(一八四二)にも一、〇〇〇両を上納し、藩から一〇人扶持、給人席の待遇を与えられた(藤枝雑記)。

 御用銀拠出層拡大

 こうした富農(大庄屋・庄屋)や豪商に裏工作(地位や俸禄その他の名誉を与える)をしての献納にはおのずから限界がある。そこで藩庁は、文政年間から方策を転換して、庶民の上層部から差上銀・差上米などを募ることにした。これについては「藤枝雑記」に基づいて、宇摩郡の例を示そう。
 宇摩郡における今治藩領は一八か村(村高合計六、六〇〇石)で、一八世紀末ころは平均して村高の四割が年貢として徴収されていた。例えは、寛政四年(一七九二)の年貢納入高は二、六八〇石であった。この地域は前述したように元禄一一年(一六九八)に幕府領から今治領に転じたところで、幕領時代には低税率であったが、今治藩領知後は次第に税率が引き上げられた。増税を可能とした背景としては、藩が水利の改善に不断の努力を続けたこと、寛政以来隣国讃岐で甘蔗栽培と、白糖製造で巨利を得たことに刺激された宇摩郡の豪農が、「家来」という家付の家族労働力を活用して、砂質の土壌に合った甘蔗を栽培して白下地(白糖に至る前の工程の砂糖)を製造したこと、棉の栽培を行ったことなどがあげられる。上層の農家は増税が実施されたにもかかわらず、資産の蓄積が可能であったのである。
 従って、年貢を上納してなお余裕のある百姓は、藩債に応募し、献金・差上米要求にも応じている。例えば柏村では、文政三年(一八二〇)藩が初めて全領内で募集した、期間三年・利子年五朱(五パーセント)の藩債に六名が応じ、また同七年末の差上米の勧めにも四名が応じた。藩では最も多く献納した百姓を庄屋格とした。
 その後差上米の募集は勿論郡内の今治領全村に及んだが、東山分の四か村(半田・領家・柴生・下川)は協議して拒否する態度をとったが、裕福な柏村では、個人的に応募の雰囲気が盛り上がり、献納者が相い次いだ。その内訳は、米五〇俵から一五俵までが一三名、一四俵から七俵まで六名、六俵から一俵まで三七名であった。
 天保期に入ると不況が一般化し、天保七年(一八三六)には、全国的に天候不順のため凶作となって物価が騰貴した。同八年には、大坂天満の元与力大塩平八郎が窮民救済のために挙兵した。翌九年も稲の植え付け期に多雨となり、藩内の損毛は一万六、〇〇〇石にも及んだ。藩では、幕府の意を受けて年期を限って倹約を命じたが、さしたる効果はなかった。そのため、ついに同一三年には領内に表二-23に示すような金品の借り入れを割り当てた(資近上三-40)。
 宇摩郡では割り当ての九割強に当たる一、六六八両を差上金として拠出し、残りの一五四両を藩への貸し金とした(藤枝雑記)。
 以上の例が示すように、領民殊に百姓は本途物成の外、小物成の負担は勿論、差上銀や差上米などにもはげんでいる。
 天保一四年(一八四三)、藩主勝道(初名定保)は初めて宇摩郡を巡視し、今村熊之丞を始め御用達衆に対し、山本雲渓筆の画面一幅ずつ、庄屋衆には桝一個と扇子一張、平百姓にも鎌一挺ずつを与えた。

 藩士の俸禄削減

 藩政中期の重要政策の一つに、藩士への俸禄削減(借上げ)があった。今治藩では、すでに天和元年(一六八一)の不作によって「借上げ」の名目のもとに俸禄の削減が実施され、元禄四年(一六九一)にも行われた。藩庁では財政収入の安定を図るため、松山藩方式の地坪を導入して、俸禄の安定支給に努力した。しかし幕府の土木工事への助役(元禄一六年の地震によって破損した虎ノ門修復の助工)や、領内の災害(宝永元年八月の大暴風雨など)復旧・大坂蔵屋敷の建設など臨時支出が相次いだため、藩の勝手元は不如意となった。
 そこで、宝永三年(一七〇六)一〇か年を限って俸禄の減額を布達したが、この限定期間中にも災害(宝永五年の暴風雨)や農民の騒擾事件(宝永五年の下弓削村土生騒動)などがあって、財政は安定せず、かえって同七年には次のような基準で俸禄削減を強化せねばならなかった(施行期間五か年)。

 一、給人は二割(高一〇〇石につき二〇俵)借上げ  一、中小姓一割七分借上げ  一、徒格一割六分借上げ 
 一、足軽一割四分借上げ  一、中間九歩借上げ  但し、江戸在勤者は上記の例の半分を借上げ

 正徳二年(一七一二)になると、借上げ率はさらに増加した。給人は高一〇〇石につき三〇俵(三割)の借上げとなり、下級藩士に至るまで、これに準じて俸禄が削減された(資近上三-18)。
 享保年間に入ると、大きな災害が続発した。享保三年(一七一八)には、大旱魃があり、未進米も累加して七、〇〇〇俵にも達し、同四年には貨幣制度に改革があって米価が下落した。たまたま江戸の今治藩上屋敷も類焼したので、藩庫の窮迫にもかかわらず再建を始めねばならなかった。地元の今治でも室屋町三丁目・同四丁目で町家が多数焼失して、その援助が必要となったため、藩財政は全く行き詰まり、同年暮れから五か年を限ってまたまた借上げ率を累加せねばならなかった。
 このように借上げが累進し、慢性化すると、家臣の間にはおのずから上を軽んじる風が生じることも憂慮されたので、同五年には、扶持米の引き方を免じたり、格禄によって率を定めて四宝銀を貸し与えるなどして心機一転を図った。しかし当時の家臣等の窮乏は下級家臣のみにとどまらず、家老級も同様に苦しんだ。同九年七月、服部伊織と久松八左衛門の両家老に対し、藩主名で銀二貫目ずつを貸与している。このころ幕府も財政的に行き詰まり、これより二年先(享保七年)、大名に上げ米を命じ(一万石につき一〇〇俵を上納)、その代償として参勤交代の在府期間を半減する措置を講じた。
 享保一一年(一七二六)藩庁は非常に厳しい借上げを、翌一二年から五か年を限って実施すると予告した(資近上三-22)。その概要は、

 一、給  人  高一〇〇石につき五割引き
 一、中小姓  三割四分引き 但し、高一〇石につき三石四斗の積り
 一、歩行格  三割二歩引き 但し、高八石につき二石五斗六升の積り
 一、足軽格  二割八歩引き 但し、高六石につき一石六斗八升の積り
 一、中  間 但し、五俵につき四斗五升の積り(一割八分引き)
 一、金給の者  これに準ずる
 一、知行に付随している扶持米・役料扶持・隠居扶持  四分の一引き
 一、中小姓以下は扶持米のうち一五分の一引き、扶持米ばかりの者も同様
 一、寺社領  一〇分の一引き

などであった。中心となる家臣等には、給与が本給の半額となったのである。このように万事節約に努めている最中に、またまた災害があって財政再建を阻害した。享保一二年(一七二七)には江戸上屋敷が再度類焼し、同一四年には越智・宇摩両郡内で大暴風雨があり、城の石垣や塀が破損し、田畑の被害も甚大であった。そこで同一六年に江戸深川の下屋敷を幕府に還付して経費を節約するとともに、倹約を更に強化するため久松八左衛門を倹約担当家老に任命した。しかし、このような努力にもかかわらず、同年八月には暴風雨、続いて長雨となって不作、更に翌一七年の大飢饉へと災害が連続したのである。藩主定基は万事意のままにならず、かつ健康も勝れなかったため、隠居を願い出で、叔父の子に当たる定郷が五代藩主となった。

 人数扶持

 定郷が就封した時の藩財政の困窮は甚だしく、今治入部に際して旅費の捻出に苦しんだ(金策は専ら江戸の用聞き吉田屋長右衛門が行った)。定郷が今治入りしたころは、享保の大飢饉の初期に当たり、蝗(浮塵子)の被害が甚だしく、稲作は収穫皆無とさえ予想され、世間には深刻な不安が漂った。藩庁では諸社寺に祈祷を命じ、藩主も自ら日吉村の青木社(現在姫坂神社に合祀)に参詣した。穀類の価額も暴騰し、藩庁では領内の穀倉を封印したり、見張所を設けて穀類の領外への流出防止に努めた。
 こうした中で、武士階級への俸禄支給は人数扶持が布達された。この制度は全く非常時体制で、各家の家族数と、俸禄に応じて抱えている使用人の数を合計し、それに応じて食糧を俸禄の代わりとして配給する制度である。
 藩庁では、金融も硬塞したので、その突破策として、城下の豪商五名・越智郡内の裕福な庄屋五名・宇摩郡の庄屋など一六名を特に名指しで城内に召集し、家老から緊急の事情を説明して、用銀の仕送りを求めた。今治藩では、近隣諸藩に比べて餓死者の割合が少なかった。家老江島為信が元禄五年(一六九二)に日向国飫肥(現宮崎県日南市飫肥)から導入した甘藷が作付けされていた所があったこと、前述のように藩庁が細部にわたる配慮を行ったことなどがその原因としてあげられよう。
 家臣への人数扶持渡しが飢饉後も継続されたので、武士階級の生活は困窮をきわめ、ついには士道も節操もすたれ、汚職・詐欺・怠業などの破廉恥事件も発生した。元文三年(一七三八)藩庁では、町内の裕福な商人からの融資によって、家臣等への減俸を緩和しようと図った。ところが翌四年に暴風雨があって、総社・頓田両河川の堤防が決壊して、大きな被害があったため、せっかくの計画も挫折してしまった。
 寛保三年(一七四三)の暴風雨も被害激甚であったため、領内の富農や豪商の協力によって、危うく保っていた藩財政も行き詰まり、延享元年(一七四四)大坂の御用聞町人天王寺屋藤右衛門・同鴻池六兵衛の仕送銀によって窮局を糊塗することを得た。
 藩庁としても家老久松長孝を支配掛倹約司とし、藩主から藩士の末に至るまで、公・私にわたって倹約に努めることとし、藩士の員数削減さえ実行したが、期待したほどの成果はあがらなかった。
 万策尽きた藩主定郷は、延享三年に藩政について広く家臣の意見を書面で具申させた。上申書には、最近の政治の不振・士道の頽廃の原因は、家老久松長孝とその子長昌の私利・非行と両人を取り巻く一派の跳梁に基づくものであるとする意見が多かった。

 定郷による粛清

 定郷は事の意外さに驚き、早速事実を究明して、重用していた一族の久松長孝が藩政不振の元凶であることを知り、長孝の家禄(一、〇〇〇石)を没収し、家老職を罷免して沖島(現越智郡魚島)に配流した(資近上三-26)。罪は係累にも及び、妻の服部氏と長男長昌は伯方島(現越智郡伯方町)に流罪となり、近親者や関連した一味は、罪状によって追放・永暇・閉門・逼塞などに処せられた。この事件は、世に「今治騒動」と呼ばれた。
 この事件で沖島に流された長孝の祖久松織部は、久松家の祖佐渡守定俊の弟で、長孝は長島以来五代目の重臣で、定郷にとっては服部家と共に最も信頼すべき家臣であったから、財政再建の大黒柱として倹約司に任じていたのである。こうした彼が悪政の首魁として死にも勝る苦刑に処せられたのであるから、藩主自身も省みるところが大きかろうが、家臣に与えた影響は更に大きかった。長孝の子長昌と長孝の妻服部氏はのち許されて郭内に戻され、長昌は再登用され、昇進もしたが、長孝は宝暦七年(一七五七)に地方の日吉村に移され、六〇歳を超して更に小鴨部村(現越智郡玉川町)の配所に移された。家族の出入りも婦女のみに限定され、長孝はこの配所で罪を許されることなく七〇歳の生涯を終えた。

 俸禄制の改革

 今治騒動は藩にとって未曽有の不詳事であったが、このような高級藩士までの頽廃は、長期にわたる減俸にも起因すると考えられるが、かといって百姓からこれ以上の年貢を徴収することも不可能であり、名案もなかった。藩庁では苦悩の末、寛延元年(一七四八)に実施した五割渡しを、今後は本知渡しの名目で確実に支給することとした。半知(五割渡し、下級武士になるに従って削減率が減少するので、全員が俸禄を五割削減されるわけではない)を固定給にしようというわけである。以下二、三の例をあげてみよう。

(1) 筆頭家老服部家の場合
  高一〇〇〇石
  総 支 給 額   五〇五俵二斗二升二合
  控  除  額    七二俵三斗一升一合(役米六二俵二斗六升七合、舫米一〇俵四升四合)
  手  取  額   四三四俵三斗一升一合(年七回に分けて支給する)

 ・役米とは高五〇石以上の藩士が奉職の御礼に藩主に献上するもので、藩主はこれを藩庫の収入とする。
 ・舫米は全士卒が互助の精神で分相応に拠出し、又は受ける場合もある。

(2) 高五〇石の場合(全渡三八俵三斗五升六合、当時四三石七斗五升渡し)
  総 支 給 額   三四俵一合
  控  除  額    四俵八斗九升五合(役米四俵三升三合、舫米二斗七升二合など)
  手  取  額   二九俵一斗六合(年七回に分けて支給)
(3) 二〇石取の場合(全渡し四四俵一斗七升八合、当時一六石五斗渡し)
  総 支 給 額   三六俵二斗六升七合
  控  除  額    一俵三斗三升三合(舫米一俵三斗二升二合など、役米なし)
  手  取  額   三四俵三斗三升四合

 ・高五〇石未満の者には、二〇石取・一五石取・一四石取・七石取などがあったが、彼等は役米を納めず、舫米のみを拠出した。したがって実際の手取米の割合からすれば、高禄の武士よりも分が良いのである。

 このように計画した禄制改革であったが、寛延三年(一七五〇)・宝暦元年(一七五一)と風水害が続いたため、財政収入は減少し、外借の藩債も累積したため、規定通りの支給は困難となり、宝暦元年には一年限りとの条件付きで減俸を実施せねばならなかった。そこで藩主定郷は、宝暦一〇年新たに「御渡方御基本」を策定して収支の改善を図ろうとした(資近上三-30)。その見積もり概要は次の通りである。
 年貢収入(平年作) 五万六、〇〇〇俵(うち一万八、二〇〇俵売却、銀四五五貫となる)
 雑 税 収 入   銀四五貫目
 俸禄など米の支出  三万九、〇一一俵
  (上級武士俸禄一万一、七八七俵、下級武士俸禄一万一、三一四俵、大賄渡扶持米八、五五二俵、山里様御合力三、〇〇〇俵、上方合力一、二一四俵、郷中諸入用一、〇〇〇俵、雑穀代八八五俵、その他、但し役米として上納される一、二一一俵を含む)
 銀による支出    四五五貫目(江戸入用三〇〇貫目、今治大坂諸入用一〇〇貫目、藩主旅費五五貫目)
 差 引 残 高   銀四五貫目
 こうした財政窮迫のなかで、宝暦一三年(一七六三)六代藩主となった定休(初名定奉)は、新規財源を求めて山麓地帯の開発、商人への課税に着目した。定休は、明和八年(一七七一)鹿ノ子池の拡張に着手し、山麓地帯の増産に貢献した。七代定剛もこの政策を継承して寛政七年(一七九五)犬塚池改修に着手している。

 商業取引税

 定休は時代と共に盛んになった商業界からの運上金・冥加金にも着目し、安永元年(一七七二)には、今治の町内で取り引きされる茶・出綿実・入綿・家代銀(家賃)に対し一歩の運上を課し(これを古歩一という)、翌年にはさらに拡大して、出入米・出入麦・出入大豆・出入木綿にも一歩の運上(新歩一と呼ぶ)を課すことにした。
 七代定剛(在職一七九〇~一八二四)の時代、鹿ノ子池・犬塚池の改修も完工し、山麓地帯の増産に成功した。また別宮村(現今治市)南光坊の住職寛雄が高野山三宝院の仏前から頂戴し、持ち帰った籾種は、新品種三宝米として越智郡内で栽培され、兵庫・大坂市場で豊筑米に劣らないとの好評を博すようになった。このように財政収入に寄与する事柄も散見されるようになったが、藩財政は相変わらず窮迫の状態にあった。文政四年(一八二一)百姓を対象として年利五朱(五パーセント)で藩債を募集したり、家臣への減俸を実施したことなどは、この間の事情をよく物語っている。
 文政七年、八代藩主となった定芝は、豪商・豪農および裕福な農民(砂糖・綿の生産などに従事している者など)に協力を求めて財政危機を乗り切ろうと図った。同年田野屋砂田綱治と米屋近藤庄蔵(包勝)がそれぞれ銀一、〇○○貫目を、また宇摩郡の真鍋善左衛門が米一万五、〇〇〇俵(四か年分割上納)を差し出した。このほか領内の富農層からの差上銀米があったから、藩財政も幾分好転した。しかし文政九年の大暴風雨は藩領全域に大きな爪跡を残したので、一か年に限っての減俸が実施された。
 当時領内の金銭貸借は節度に乏しく、貸付金の金利や返済期日についても不統一であったため、「御用所金歩一銭貸付法」を定めて、藩が融資業務を始めた。天保三年(一八三二)には、今治領宇摩郡の庄屋のうち数人が「願貸付銭取締方」に任命されているから、藩庁資金の民間への貸し付けについて彼らが諮問に応じていたものと思われる。一方給与の支出を抑制するため、給人や無足級(下級藩士)の相続についても検討を加えた。すなわち、父が藩から受けていた俸禄(家禄)は、子がそのまま相続する慣例であったが、文政六年(一八二三)からは、相続人が嫡子であるか、末期養子であるか、またその者の年齢が勤番年齢に達しているか、否かによって、支給される俸禄に差をつけることが定められた。
 定芝は、天保三年大坂から技術者を招いて、城の正面の埠頭の改修に着手し、防波堤を築き、砂とめの山(天保山)を作るなど、港の機能と外観を一新した。
 同五年江戸城二ノ丸修築の助役を命じられ、五、〇〇〇両を負担した。このような負担の増加に追い打ちをかけるように、天保の大飢饉がおこり、同七年には損毛高二万四、五〇〇石に達し、藩士は物価の高騰と給与の削減とに苦しめられた。このような四囲の情勢悪化の中で藩主定芝は脚気にかかり、天保八年、四七歳の若さで逝去した。

図表 「御用銀拠出の要請を受けた人々」

図表 「御用銀拠出の要請を受けた人々」


近世上 _0338 表二-23今治藩の金品借り入れ割り当て

近世上 _0338 表二-23今治藩の金品借り入れ割り当て


図2-18 今治港と天保山(国土地理院5万分の1地形図、今治東部使用)

図2-18 今治港と天保山(国土地理院5万分の1地形図、今治東部使用)