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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 財政策と地坪

 財政の確立と運営

 封建領主の収入のほとんどは、百姓が耕地の借用賃として納める年貢米で、これを本途物成といった。藩政はまず、水利の整理改良に努めて米の生産を安定させ、旧来の田畑(本田畑)のみならず、新田畑を開き、増殖・増産をはかる方策を講じ、一粒でも多く産し、半粒でも多くの米を収穫し、公正に年貢米として上納させるのが民治の要点であった。
 このため領主は、まず天正・慶長期の検地によって算定された石高を基盤としながら、自らの工夫を加え、その後の変動に対応した。
 定房の所領となった越智郡の村々の田畑は、天正の後期(一五九一年以降か)に検地された数字が基礎となるが、定房は、この検地は面積の計算(六尺五寸を一間とする)には異論はないが、品位(生産力)の評価では田を九段階に区分したのは複雑に過ぎ、また畑の区分は実状に合わず、また屋敷を一律に一石五斗代(一反に米一石五斗生産する土地)に評価しているのも、再考すべきであると考えた。そこで定房は表二-13のような基準を作って再検地を行った。
 なお、荒田・荒畑は測量はするが、生産力は評価せず、従って、その田・畑の高盛は行わず、村高にも加えないで総村高は従来通りに据え置くこととした。
 定房は、将軍家光の特別な期待に応える善政を念願し、前述の計画に従って、入封の翌寛永一三年(一六三六)春から検地を実施させた。検地は藩吏数名ずつで、数班の測量・評価を行う班を組ませ、地方・島方に分けて実施された。島方班は年内に完了したが、地方は寛永一四年春に至って完了した。この結果村々における田畑の面積と生産力が正確に、かつ妥当に評価され、分米高(法定生産力)が明確になった。
 そこで、藩庁は、作柄が決定的となる九月末から一〇月初旬にかけて吏員を毛見(作柄見分け)に回村させた。藩吏は、作柄やその年の風・水・虫害を地目(本田=古田・新田・新々田畑など)毎に精密に調査した。結果は徴租関係のすべての上司が閲覧し、家老の賛同も得て、村々が納むべき年貢率(免)が算定されて、各村に提示された。免は地目毎に、庄屋・組頭・村中百姓連中に通知される。村では、庄屋・組頭・百姓が共同責任でこれを請け、庄屋・組頭が合議して、百姓個人・個人の持高に応じて納むべき数量と、外に納付量の四分(四㌫)に当たる口米(目方の減少の補い)と夫米(藩への奉仕の役料)=持高の二分(二パーセント)に当たる米、を加えた数量が公示される。納付は村中の共同責任で、示された日に指定された場所に納める。未進(滞納)もなく完納するのが原則で、納め終われば藩庁から皆済の通知が下り、庄屋も百姓も初めて安心できたのである。

 藩財政の実情

 一般に領主が農民から徴収する年貢米を本途物成というが、畑の畔や、畔岸に育つ櫨や漆の収得にも課税された。これらを小物成といった。今治藩では小物成の種類は多いが、数量はわずかであるので、ここでは省略してもっぱら本途物成について述べることにする。
 定房がいつから本途物成(以下物成と記す)の徴収を始めたかは詳かでないが、寛永一七年(一六四〇)から以後三〇年間の物成収納高(納辻高)は表(表2-14)の通りである。
 この統計は『今治編年史料』から抄出して作成したものである。納辻高とは、当時の慣用語で納合計高の意である。今治藩は寛文五年(一六六五)には関東で所領一万石を加増されたが、そこから何程の物成を受けたかは、全く不明である。三代藩主定陳が襲封した延宝四年(一六七六)以後の納辻高も特に今治納辻局として挙げられているから、この数値は、今治地方の三万石からの収納高と見て間違いないであろう。
 この当時の一俵には、一斗量りの京升四杯と、京判釣懸の一升の納升一杯がいれられていたというから、前掲の表における平年作の年の年貢米収納高を約四万五、〇〇〇俵と見れば、玄米で概略一万八、〇〇〇石(~一万九、〇〇〇石)が地代として上納されたことになる。この量は、三万石の生産力(分米局)の領地に対して六割二―三分の取箇(六公四民)であり、封建初期の徴収高としては、安くもなし、高くもなしといえよう。この税率は、豊臣秀吉が天下統一後の文禄四年(一五九五)に徳川家康・宇喜多秀家など五大老が連署で公布した「御掟」の追加法である「御掟追加」の第三条の「御領知方」に

 一、天下領知の事は、毛見の上、三分の二は地頭が取り、三分の一は百姓が取るべし、とにかく田地が荒れない様に申し付けよ、

とある。これは徴租の根本方針にかなうものであった。
 今治藩は元禄一一年(一六九八)に関東にあった五、〇〇〇石の領地を幕府に上地し、代わりに伊予国宇摩郡内にあった幕府領のうちから一八か村(村高六、六〇〇石余)を与えられた。この地域は寛政九年(一七九七)に作成された各村明細帳によれば、天正一五年(一五八七)に福島正則が検地したという上山・中曽根・下川の各村、元和九年(一六二三)に加藤嘉明が検地したという三島・柏・寒川山の各村があり、また福島・加藤がともに検地に関係したとも伝えられる村松村もあって、検地実施事情は複雑である。これら一八か村の村高の合計は六、六〇〇石で、その定米(毎年の基本年貢米)は元禄一一年の引継時には二、六八七石とされたから、取箇は均して四ッ取りである。従って村高に対して平均六ッに当たる年貢を徴収されていた越智郡地域と比べると、甚だしく低免の地域である。これには次のような見逃せない自然の理由と重要な沿革がある。
 宇摩郡は中央に石鎚山脈の支脈である法皇山脈が東西に走って地域を南北に二分している。南のいわゆる嶺南地方は雨に恵まれているが、嶺北の三島・中曽根・柏・妻鳥・村松の村々は雨が少なく、かつ急傾斜地である。従って夏季の時折の慈雨も鉄砲水となって流失する。加えて地質が三波川系の結晶片岩の砕礫が沖積したもので、地味も瘠薄である。農耕を営むには、何よりも灌漑水を確保して、有効に配分することが必要である。
 このような事情があったため、加藤嘉明以後のこの地の領主は、まず溜池の構築や井手・関の改修に配慮した。その後この地域を預かり地として支配した松山藩の松平氏も、溜池の築造を実施し、「古来明細備忘録」によれば表(表2-15)に示す通り努めて低率の年貢を課していた。
 しかるに、延宝五年(一六七七)に再び天領となり、元禄一一年(一六九八)に今治藩に渡された時には、村高の平均四ッ取りに当たる二、六八七石がこの地域の定米となっていた。そこで今治藩では、卓抜の行政力を持つ代官を派遣して、まず灌漑用水の補給のため、特に溜池の構築や、井関の修理に努めた結果、江戸時代中期以降は大略二、七〇〇石が年貢米として収納されるようになった(愛媛県立図書館「寛政四午子秋地嶋御物成米寄」)。
 結局今治藩は、越智郡内の一万八、〇〇〇石前後と、宇摩郡からの二、七〇〇石、合計二万七〇〇石前後が平年作の年の歳入であった。
 一方歳出の主なものは、家臣らへの俸禄で、これに次ぐのが今治・江戸にある庁舎の維持運営費と、参勤交代費・幕府への臨時の助役などであった。
 今治藩では家臣の知行は、高禄者であっても初めから知行地を宛行うことなく、藩が百姓から徴収した米(禀米)から支給し、知行高一石は禀米一俵であった。
 家臣はその父が死亡するか、隠居した場合、父が受けていた俸禄を遺跡あるいは家督として相違なく受けるのが通例で、隠居した父は在職中の地位や勤務に応じて隠居料としての扶持米を受けた。また父が在職中に倅が成年に達して見習などの勤番に入ると、子は別に一時的な合力米か、何人分かの扶持米を受けた。一般に勤務成績が特に良ければ加増もあったが、その反対に特に悪い場合には減禄もあった。
 定房が江戸城大留守居役となり、江戸に常駐して、職務上多数の家臣を江戸の屋敷に留める必要があり、藩主自身も将軍家や側近の重臣達との交際も繁くなった寛文の中頃からは、江戸の風に染まり華美となって経費の膨張はやむを得なかったのであろう。殊に寛文九年(一六六九)秋、女御藤原氏が入内したのを祝して、将軍の名代として八〇〇人近くの者を従えて京都に上った時には、幕府の負担した費用の外に、定房が個人として支出せねばならぬ場合(例えば宮中や女御・諸公卿達への献上品や土産品など)もあって、これらのために定房は幕府より金一万両を借用して任務を果たした。金一両が米一石に相当した時代であろうから、この借り入れは、歳入二万石少々の今治藩にとっては、大きな負担と言わねばならない。
 定房は、この後も五年間大留守居役の任にあって、江戸における藩の地位を高めたが、延宝二年(一六七四)七〇歳に達したのを機に大役を辞し、同時に藩主の地位も子の定時に譲って今治に帰り、延宝四年に卒した。
 定時は、藩主に就任した時既に壮年に達していたが、病弱であったため在職わずか三年で没した。父定房が没してから後わずか数か月であった。定時には三子があり、長子定直は延宝二年松山藩主松平定長の養子となり、同四年四月すでに四代松山藩主に就任していたので、第二子定陳が三代今治藩主となった。定陳は父の遺言に従って弟定道(後に定昌)に関東にある領地の半分(五、〇〇〇石)を譲って一家を建てさせ、自らは残りの三万五、〇〇〇石を継いだ。

 三代定陳の財政策

 彼の施政の初期、天和元年(一六八一)には、関東・伊予の領土ともに不作で年貢米が激減した。藩の主脳部は諸藩の例(広島藩では寛永一六年実施)にならい、俸禄の定額から一律に五分を借り上げ、九割五分を支給した(青野春水『大名と領民』)。この処置は一年限りで済んだが、松平氏の今治藩始まって以来はじめてのこととあって(資近上三-13)家臣らにかなりのショックを与えた。
 不作は元禄四年(一六九一)にもあり、俸禄の割引支給が考えられたが、今回は次のように上に重く下に軽い率の借り上げであった(資近上三-15)。この措置は五か年間継続して実施された。

 給人六歩一、中小姓・御歩行並まで八歩一、足軽より中間まで拾歩一、隠居扶持の場合は一人扶持を借米 京・大阪・江戸の合力米は借用、松源院・光林寺・永寿院・常照院への合力米は借用せず
 
 事態がこのように切迫した原因を明らかにする史実は見当たらないが、強いて臨時の支出を要したものを列挙すれば、元禄元年の今治城の本丸と二ノ丸の修復、定房の晩年に職務上生じた藩債の返却費の捻出や二代藩主の病弱・三代藩主の青少年期に政務を委せた家老森川勝吉などの放漫財政などの累積の結果と見る外なかろう。
 三代藩主定陳は父の死後わずかに一〇歳で襲封し、父の遺臣森川勝吉などの補佐を受けて成長したが、青年期に至って、家臣委せの政治・財政の実体を知って驚き、藩政の刷新を決意した。まず元禄二年血縁の服部伊織正純を家老に登用し、同三年には森川勝吉を退けて、代わりに江島為信を用いて全面的な改善を行うこととした。
 財政再建策として着手したのは、家臣の俸禄削減率を高めることであった。同時に定陳は歳入の増収策について家老とともに研究し、特に松山藩における事例を調査した。第二章第一節で前述したように、松山藩では天災が続発し、寛文五年(一六六五)には諸郡の滞納米が約二〇万俵もあったが、奉行高内又七の改革が奏功して、年頁の増徴が可能となった。又七は前任の奉行である中島又右衛門が実施して失敗に終わった「春免制」を復活し、また風早郡(現北条市)柳原在住の与力林源太兵衛の献策による「地坪」を実施した。この地坪は、今治藩に近接する越智郡孫兵衛作・長沢・桜井・旦・登畑・宮ヶ崎・朝倉上村などの諸村、及び野間郡高部村において天和二年(一六八二)以後次々と実施され、その情報は今治藩庁へも伝達された。

 今治藩の地坪

 今治藩でも地坪は既に実施されたことがあった。このことは延宝四年(一六七六)の「予州越智郡鴨部郷与和本村地平し畝高帳」(愛媛県立図書館蔵)が今日に伝えられていることで証明される。しかしその内容は、個人毎の耕地面積の測定と生産力の評価にすぎない。藩庁の態度も傍観的で、代官が指名した他村の庄屋一~二名を後日地平しが公平に行われた証人として参加させているに過ぎなかった。その後藩庁も年貢徴収の公平を図る手段としての地坪の価値を認めて、測量は藩吏が行うことに改め、更に貞享四年(一六八七)には、領内の庄屋・組頭を集めて、地坪を行う際とるべき基準を「今治藩検地証文及段盛之事」として詳しく指示した(国府叢書)。この年より二、三年の間は地坪が広範囲に広められ、税負担の公平化が推進された。しかし公平化の達成率は低く年貢の安定と増徴にはあまり貢献しなかった。 
 定陳が関心を持ったのは、松山藩が実施していた新しい地坪であった。すなわち松山藩では、林源太兵衛が提案した租税の負担能力を個人持高に応じて平均するという新方式を採用していた。具体的実施方法としては、まず、すべての耕地を一応個人の管理からはずして村の共同管理とし、公平に測量して面積を出し、村の高持百姓全員が立ち会って田畑一筆毎の生産力を評価する。次に生産力に差のある土地を平均的に組み合わせて一定単位の鬮地を作る。次にその平均的鬮地の数と同数の鬮組を作る。この鬮組は百姓の従来の持高に応じて編成され、鬮組の代表者(鬮親)に鬮引の権利が与えられる。鬮引が終わると鬮親は鬮子に対して、その旧来の持高に応じて耕地を配分する。以上が松山藩における地坪であり、百姓達の持高は従来と大差なかったが、持地が変わったことにより租税負担の公平化が促進されたのである。
 松山藩における地坪の提案者林源太兵衛は、貞享四年(一六八七)から元禄四年(一六九一)にかけて野間郡奉行(兼代官)として波止浜に来住し、前任の園田藤太夫時代から開発が始められていた波止浜塩田の開発に従事していた。定陳は、源太兵衛を波止浜に訪ねて地坪実施の事情を詳細に聞き、いよいよ松山式の地坪を導入することに決した。
 元禄五年今治藩では、松山藩の援助の下に、源太兵衛の配下の手代池内七右衛門・長江安兵衛および三名の吏員と実務にくわしい風早郡北条村庄屋四郎右衛門を雇い入れ、これらの人々から事務や技術を習得するため地元の庄屋二名を加え、別所村と八幡村(ともに現玉川町)を実施場所に決定した(資近上三-63参照)。実施に際しては、家老服部伊織や郡奉行西山文太夫・児玉儀左衛門なども時々立ち会っ
た。両村の実測は、同年一月一八日より開始され、一か月近くを要して終了した。用いられた間竿は六尺五寸のものであった。測量の結果は表二-16の通りである。
 別所村・八幡村ともに田地においては古畝(以前からの帳簿上の面積)よりも新畝(新しく測量した面積)の方が大であり、畑地においては古畝よりも新畝が小である。田地面積の増加は新田開発によるものであろうが、畑地が減少しているのは、百姓達の土地改良への努力の結果地目が変更されたと見るべきであろう。
 測量に次いで、田畑一筆毎の生産力の評価が行われた。この作業は、土地の再配分後その土地の耕作者となる百姓の年貢高と作得(収益)に直接関係するため、村中の高持百姓(耕地を所有する百姓)が総て現場に立ち会って慎重に討議して決定するわけだが、あらかじめ次の通りの基準が示された。

(図表「土地の評価基準」)

 別所・八幡両村は地続きであるが、八幡村の田地のほうが評価が高いのは、同村は犬塚池の池掛りで水の不安がないためであろう。
 さて測地が終わり、一筆毎の分米(生産量)が決定すると、その段階で調査前の帳面上の面積と、新しい面積とが明瞭になり、この両村でも相当な出畝があることがわかった。地坪の指導者たちは、この出畝を利用して百姓の希望する水路・農道の改良や新設される庄屋役地など公共の用に充てることとし、また百姓の居屋敷をあらかじめ控除しておき、残余の耕地を前述した松山藩の手法と同手順で鬮地とし、従来の持地高に応じて鬮取らせ、これを永代の作職とした。この事務こそ、今までの地坪に見られなかった点て、新しい地坪の眼ともいうべきものであった。
 地坪の結果、百姓が得た作職について、持地の品位が平均したか、田畑の所在地に偏りはないかなどということは地坪の要点であるので、その一例として別所村庄屋三郎右衛門・組頭善右衛門・小農小兵衛・極小農加左衛門の四名について比較してみたのが左表である。
 定陳が両村で試行した地坪の結果、左表のように持地の品位がほぼ平均し、田畑の所在地も一か所に固まらず、広く村内の各所に分散したので、百姓には不便もあるが、洪水や旱魃の場合も被害は分散し、百姓の税負担能力も平均化し、藩の税源も安定した。また、これまで高持百姓に寄生していた無高の百姓にも、村中が願い出るという形で、出畝の中から若干の農地が与えられる場合もあったので、村中の全住民に新しい活力が生まれた。
 定陳は地坪の導入の成功を喜び、源太兵衛ら松山藩の指導者の労を厚くねぎらい、その後三年間は、続いて松山藩の代官や庄屋に指導を依頼し、地方の村々の地坪を行わせた。やがて地坪は大島などの島方にも及んだが、定陳が元禄一五年(一七〇二)に三六歳で没したので、島方の全村に地坪が実施されたかどうかは詳かではない。なお定陳は地坪の結果が徴税に及ぼす好影響は大きく評価したと考えられるが、これによって直ちに春免に変えたり、免上げをしようとした跡は認められない。

 宇摩郡の税制

 定陳が財政確立に果たした功績の一つに、宇摩郡で与えられた一八か村の税率を決定したことがあげられる。
 宇摩郡五一か村の支配者は、戦国時代末から近世初期にかけて目まぐるしく交替し、江戸時代中期以降も常に複数の領主が宇摩郡諸村を分割して統治していたため、その詳細を明らかにすることは困難である。すなわち長宗我部元親・小早川隆景・福島正則・池田秀雄・小川祐忠・加藤嘉明・蒲生忠知らが郡域全部もしくは大部分を領有した。寛永一一年(一六三四)蒲生忠知が没して、その所領が収公されてからは、宇摩郡における複数領主時代となる。幕府領(天領)・一柳氏(直盛・直重・直家・直照)の時期を経て、幕府領・西条領(寛文一〇年=一六七〇より)・今治領(元禄一一年より)が複雑に錯綜し、なおかつ時折領地の交換が実施されるという状況であった。
 支配者が交替すると問題になるのは、租税率(免)である。今治藩が元禄一一年に宇摩郡のうち一八か村を関東地方の所領五、〇〇〇石を上地しか代償として与えられた当時、藩財政は窮乏しており、前述したように天和元年(一六八一)及び元禄四年(一六九一)の二度にわたって減俸が実施されていた。特に二度目の減俸は五か年間継続された。
 こうした情勢の下で実施された替地であったから、藩当局では宇摩郡地方の一八か村に対して、越智郡地方で課していた税率(平均六ッ免=村高の六割)に近似した課税を期待することはやむを得ない念願であったが、宇摩郡地方の特殊な自然条件(前述)と幾度か交替した支配者の徴税の実績があるから、これらを十分考慮した上で税率を決定する必要があった。
 宇摩郡における税率の変遷の一部を例示してみよう。松山藩が預かり所として支配した寛文六年(一六六六)の税率を「宇摩郡周布郡共午年御免控町」(今治市河野信一記念文化館蔵)から抄出したのが表2-18である。
 文言には馬立村が欠落していたり、領家村の村高が誤記されているなど欠点はあるが、大勢は知れよう。さらに一村限りの税率の変遷を柏村の庄屋藤枝家の当主が書き継いだ「藤枝雑記」(川之江市立図書館蔵)によって示せば次ページ表二-19の通りである。表のうち、松山藩預かり地(第二期目)時代の承応三年(一六五四)以降延宝四年(一六七六)までは、三ツ以上の免はわずかに一年で、大部分は二ツ五歩以下であり、この時期に藤谷池・兒池が築造された。
 延宝五年から柏村は天領(直轄となり代官が置かれた)の一村となり、それを機に免は一挙に一ツ(一割)上げられた。
 百姓はこの免上げ(増税)には理由がないとして、郡民が結束して代官に再考を求めようとした。この間の事情を「藤枝雑記」は、「公料ニ相成、免壱ツ上り、郡中縺訴訟拵へ候て、大庄屋迄差出候ところ、達而御留候故差出さず、手代両人に嘆願書差出候」と記録している。百姓の動きも当然ながら、代官所も上から示されて一度公示した免を多少の反対で変更するはずもなかった。柏村の場合、二年後の延宝七年に虫害のため初めて二ツ近くの免下げがあった。百姓はこの一年限りの免下げでは承知出来ず、翌八年九月には村々から選ばれた庄屋達が代官所のある備後国笠岡に赴いて陳情した。その結果柏村ではようやく八分(八パーセント)見当の減免を見た。しかし代官所側の免上げの意志は強く、そのため柏村に柱尾の池や川原堂池を築くなど農業基盤を改良し、元禄期に入ると徐々に免上げし、元禄一〇年(一六九七)には、ついに本田は四ツ五歩、新田二歩四厘とし、村の上納高は四九〇石を超えるに至った。
 元禄一一年柏村は宇摩郡内一七か村とともに今治藩領に編入された。前述したように今治藩が関東で領有していた五、〇〇〇石を上地した代償としての替地であった。今治藩ではこれら一八か村に対する課税率を決定し公示したが「藤枝雑記」には柏村について、

 今治領ニ成初めて御年貢四百六拾八石七斗三合、口米拾四石四斗弐合、又弐夫米拾四石弐斗六升六合、又弐斗七升三合、〆五百六石六斗五升弐合上納、御小物成御料之節同様(中略)〆百五拾九匁四厘二毛

と記録している。この物成の上納高は非常に高額であって、柏村では天領時代にもかつて経験したことがなかった。その後四年間についての記録はなく、元禄一五年七月には大風によって村内で五四戸が破損する大被害があったが減税の陳情もなく、同一六年に至って稲作の痛みについて初めて立毛の見積もりを請願し、減免が実現して四五〇石の上納となった。しかし翌宝永元年(一七〇四)には四九四石に復している。
 宝永二年柏村は村高六〇六石ずつの上柏村・下柏村に分かれた。両村の年貢率は表二-20のように、率には多少の高下はあるが、両村合わせて五〇三石余りの上納となり、これが平年作の課税額と考えられる。
 更に詳細に検討すれば次のようなことが分かる。すなわち、毎年秋の検見は厳正に行われており、税率(免)はわずかながらも増加していることも知られる。こうした増税が実施されているにもかかわらず、百姓の納税に対する反発は全く記録されていない。不思議と言わねばならない。このことは有能な初代代官中西儀右衛門が在任一〇か年余の間、灌漑施設の改善に努力し、農業基盤を著しく向上させたためと言うべきではなかろうか。
 宇摩郡のこの地方を統治する者は、水を治め・水を与えることが政治の初めであり、同時に終わりであることを心掛けた。さきの加藤嘉明は柏村と妻鳥村境に一町四反余の黒波瀬池を築き、松山藩の預かり地時代には柏村の一貫田に藤谷池・兒池(いずれも池床は狭いが、深くて貯水量は多い)、妻鳥村の平木町の用水・同所内原首池なども構築され、また天領時代には妻鳥村上ノ丁の池谷の池が築かれた。
 今治藩では統治を受け継いだ直後から一一年間に数多くの池を構築した。「宇摩郡古来明細備忘録」によれば、中曽根村の八幡原池・石床の池、上柏村の平林池・川原堂の池、下柏村の筒井の池・新池(池床は上柏にある)、村松村の楠池、妻鳥村の上ノ丁市楽の池・平木町井添の池を築き、老朽の黒波瀬池の樋替も実施したと記されている。
 代官のこうした施政は、水に恵まれない法皇山脈の北斜面の百姓等には、この上もない善政で、増産と生活の安定に直結したから、多少の高免は意に介するに足らぬものと受け取ったのであろう。

表2-13 今治の検地基準

表2-13 今治の検地基準


表2-14 今治藩物成収納高の推移

表2-14 今治藩物成収納高の推移


表2-15 宇摩郡諸村年貢率

表2-15 宇摩郡諸村年貢率


表二-16 別所村・八幡村、古畝、新畝表

表二-16 別所村・八幡村、古畝、新畝表


図表 「土地の評価基準」

図表 「土地の評価基準」


表二-17 別所村元禄五年土坪後の生産力別新割地状況

表二-17 別所村元禄五年土坪後の生産力別新割地状況


表2-18 宇摩郡18か村の税率と物成高

表2-18 宇摩郡18か村の税率と物成高


表2-19 今治領宇摩郡の税率推移表

表2-19 今治領宇摩郡の税率推移表


表2-20 柏村物成上納高の推移

表2-20 柏村物成上納高の推移