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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 天保飢饉

霖雨と冷夏

 天保飢饉は、全国的には天保四年(一八三三)から八年までとされているが、伊予の場合同二年~一〇年としなければならない。天保二年は春以来多雨で、宇和島藩では、気候順行、天気回復の祈禱を行っている。このため麦も不作で、さらに六月四日には豪雨があった(表五-83)。同三年は六月三日~九日まで豪雨のあと一転して雨が降らず八月上旬まで大干ばつが続き、宇和島・大洲・新谷・西条領等では被害が大きかった。
 天保四年は六月中旬の土用入り直前までは天候も比較的順調であったが、下旬以後は冷夏、さらに秋の長雨が続いたので田畑とも実入りが悪かった。翌五年には八月六日に東予方面で洪水があったが、冷夏の続いた天保年間としては珍しく稲作に都合がよかった。六年には大洲で、五月一四・二一日および七月八日と三回の豪雨があった。七年は春の長雨の反面、梅雨期には雨が少なかった。しかし、六月の土用入りころから雨天と冷夏が続き、七月六~八日、八月三・四日と豪雨があって、これ以降も雨天がちであった。このため稲作・畑作ともに実入りが悪く、各藩とも大凶作となった。同八年は麦が不作、同九年も夏に多雨と低温が続き、同一〇年は干ばつによる不作であった。また疫病は天保元年宇和島領内で、同八年は今治で流行した。
 図五-26は元禄二年(一六八九)から江戸時代末まで、肱川洪水(一四尺以上)の際水位の上昇分を図示したものである。このうちほぼ二〇尺(六メートル)以上の場合は、城下町大洲も浸水したものと推測される。この水位の図からも明らかなように、天明飢饉を含む天明~寛政期、天保飢饉を含む文政~天保期、幕末の弘化~安政期にかけて、洪水の際特に高水位が集中していることがわかる。

損毛状況

 天明飢饉以後における伊予各藩の損毛状況を判明分について図五-27に示した(図五-24参照)。幕末までの間、弘化二年(一八四五)の大洲・新谷藩の損毛を除いては、すべてこの図に網羅されている。
 このうち松山藩の文化一一年(一八一四)・文政六年(一八二三)・天保三年(一八三二)・同一〇年の損毛は干ばつ、その他の年は霖雨(長雨)・風水害が主原因であった。同藩における天保年間の損毛(一万石以上)は、七・一〇年が特に多いが、それでも文政年間のものと比較すると損手局が少ない。大洲藩の損毛は、天保三年が石高の六四パーセント、七年六五パーセント、九年五七パーセント、一〇年五四パーセントを占め、天保飢饉の際の損毛高の大きかったことがわかる。新谷藩も大洲藩とほぼ同じ程度の比率を示している。また、今治藩の天保七年の損毛は石高の七〇パーセントを占めている。すなわち、各藩とも天保七年の損毛高がピークを示しており、資料のない宇和島・吉田・小松・西条の各藩についても、ほぼ同じ傾向であったとみられる。
 図五-28は大洲藩の天保三・四・七年の損毛の内容を田畑に区分して図示したものである。このうち天保三年の損毛は、六月上旬(田植え直後)の洪水による水入り、六月中旬以降八月上旬までの干ばつによる損毛を合わせ、田畑全体で三万一、八四〇石余である。このうちには直接被害はなかったが水入り分はすべて含まれているため、実質的な損毛高は、田方九、一八八石余、畑方一万五、六二〇石余、合計二万四、八〇八石余で、損示局の七八パーセントに当たっている。これに対して、天保四年と七年は冷夏による実入り不足のための損毛でめった。宇和島藩も天保三年に続いて翌四年も凶作で、年貢引き高が三、三三三俵余であるから、損毛高は少なくとも二万石以上と推測される。また天保七年も大凶作で、具体的な損毛高は明らかでないが、相当量の損毛、年貢引きがあったものと思われる。

藩の救済策と米価

 宇和島藩は天保二年七月、洪水(六月四日)による災害の復旧と困窮した農民を救済するため、夫食を支給して「井川除御普請」を実施することを申し渡した。この該当地域は御荘組を除く九組の九四か村で、全体の村数の四四パーセントに当たっている。その夫数は一〇万六、〇四〇人、夫米として七一三石七斗四升余を支給した。また同五年一月にも、願い出によって八万八、七四八人の夫数に夫食米五九七石二斗余を支給した。
 表五-84は、天保飢饉における宇和島藩を中心にした各藩の飢饉対策をまとめたものである。天保三年六月の豪雨で田畑の流出した野村組の広田村に、五加年間毎年三〇俵の米を与え、同七年六月年々難渋している同組の白髭・松谷・富野川村に対して合わせて米一七五俵・大豆一二五俵を貸与した。また同一〇年川原淵組の大宿村に米三〇俵を三か年間支給した。しかし、これらの記録を除いては、享保・天明飢饉のように村浦ごとに頻繁に飢扶持(夫食)を支給していない。また藩が一括して他所米(旅米)を購入し、各組の村浦に貸与することもなかった。これに対して、村浦は凶作による食糧の不足を補うため、藩の許可を受けて他所米を移入した。藩はこの食糧の搬入には運上銀を免除している。同三年一二月領内の難渋者に組ごとに義倉米を割り渡した。
 年貢納入について宇和島藩は、同三年は干ばつのため畑方は皆無同然であるから、給人に対して大豆銀納を申し出る者について受け取りは二八匁(石当たり)までとするよう指示した。また藩に納入する物成大豆は、石当たり七升五合上納を免除した。翌四年は物成り引き方三、三三三俵を申し渡した。天保七年は冷夏による凶作で、物成り大豆一俵について三割八歩、すなわち一斗四升を免除した。
 大洲藩は天保五年九月、頻発する凶年の手当のため、藩士に対し一〇〇石にっき一年に米二斗の割合いで、五か年間の家中貯米を命じた。また領内の富裕者に対しても寸志銀を拠出させた。幕府が各藩に囲籾を申し渡したのは寛政元年(一七八九)九月で、翌二年から高一万石について五〇石囲籾させることになった。寛政五年籾から摺米に切り換え、毎年一、二五〇石を新米で詰め替えることにした。ところがこの天保七年の大凶作のため、この囲米を損毛の手当と、家中の扶助に使用し、その補てんは翌八年から三か年に行うことを幕府に申請し許可された。
 松山藩は、文政六年(一八二三)以降ほとんど連年損毛が続くなか、天保三年には幕府から上納金三万両の拠出を命じられた。これは翌年一月までに一応納入されたが、藩士の出米四万俵、郷方の差上米五万俵、それに町方の出銀によって賄われた。また同九年四月にも江戸城西丸再建のため三万両の上納を命ぜられている。この出米のため、同四年四月家中に一か年間の人数扶持を申し渡した。今治藩も同六年一〇月、翌年の藩士俸禄を人数扶持とすることを申し渡したが、損毛高は明らかでない。同八年四月今治藩は飢人救済のために別宮村大山祇神社境内に救小屋を設け、一人一日六勺の割りで五〇日間粥を施与した。
 幕府領越智郡八か村は、松山藩の預かり地であったが、天保八年の難渋者は戸数で三四二戸、人口で二、三二八人(孫兵衛作村は記入漏れ)であった。当時の戸数、人口は不明であるが、表五-85にあるように文政八年(一八二五)と比較すると、難渋者は戸数で三六パーセント、人口で五五パーセントにも当たっており、困窮者の比率の高いことがわかる。松山藩はこの難渋者救済のため、大頼母子の設立に合力米を与え、友救いによる米麦等の拠出を勧めた。友救いでは、天保三年西条領の新居郡郷村の百姓二四人が、米八石余(代銀もある)を拠出して難渋者を救済した。また天保八年、同じ西条領氷見地区の二六人が米三〇俵を御救米として差し出している。小松藩は天保四年領内の米価の高騰を抑えるため、町方商人に小売米三〇俵を払い下げている。
 天保五年から一〇年までの米価について、幕府領川之江村の資料(川之江村役用記)がある。図五-29はこれを示した。
 米は上・中・下米に区分されているが、このうち上米は石当たり天保五年七月一〇〇匁、翌六年は七二~七三匁三分、七年四月八一匁、これ以後暴騰して、大坂で大塩平八郎の乱の起こる直前の天保八年一月に一四七匁、同年四月に二一○匁になった。宇和島では天保二年一〇月米一俵四七匁、同四年六月下旬松山の米価は二俵(石)九七~九八匁であった。同年一〇月小松では白米一升一〇八文で石に換算して一八〇匁になる。また一一月松山の米価は二俵(石)一三五~一三六匁であった。翌五年二月の兵庫相場では中国米一四〇匁、伊予米一三四~一三五匁である。七年の松山相場は一~四月まで、二俵(石)八〇匁前後、七月は六一匁二歩~三歩に下落したが、九月には一三四~一三五匁に暴騰している。

表5-83 天保飢饉の災害

表5-83 天保飢饉の災害


図5-26 肱川の出水量

図5-26 肱川の出水量


図5-27 近世末期の伊予各藩損毛高(文化11年~天保10年)

図5-27 近世末期の伊予各藩損毛高(文化11年~天保10年)


図5-28 大洲藩の損毛状況

図5-28 大洲藩の損毛状況


表5-84 天保飢饉と藩の対応

表5-84 天保飢饉と藩の対応


表5-85 天保8年幕府領越智郡8か村の難渋者

表5-85 天保8年幕府領越智郡8か村の難渋者


図5-29 川之江の米価

図5-29 川之江の米価