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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

五 地震

近世伊予の大地震

 慶長九年(一六〇四)から安政四年(一八五七)の大地震まで、九回の大地震を数えることができる。このうち慶長九年の地震については、伊予に地震のあったことを示す記録はまだ発見されていない。しかし阿波・土佐・讃岐とも大地震で、当然伊予も大地震があったものと推定される。したがって『愛媛県気象史料』(昭和二七年)にも、これを加えている。また『小松藩会所日記』嘉永七年(安政元年=一八五四)一一月一三日の記録によると、周敷郡北条村碧泉寺の本尊の檀板裏面に書かれた「元禄八年一〇月四日、同年一二月一二日大地震」とあるものの、この地震に関する他の地域での記録はない。

宝永四年の大地震

 宝永四年(一七〇七)一〇月四日、午後一時過ぎ、ほぼ日本の全土にまたがって、大地震が発生した。このうち伊豆~九州、そして宇和海沿岸にも津波が来襲した。『増補御年譜微考』によると、午後二時頃、高潮は宇和島城下の馬場前まで侵入した。『記録書抜』『伊達家御歴代事記』に、浜御屋敷、新浜・元結木・持筒町・佐伯町付近は、床上一メートル五〇センチメートルにも達したとある。五日、六日、七日(これ以後は省略とある)は時々地震、下げ潮も平日より大きいとしている。また同月二一日の項に、幕府へ届けるため領内の被害をまとめているが、これによると、田五〇三町二反一畝、家その外数々破損・流失、死人(沖之島も含む)一二人、半死二四人と記録されている。
 「元禄・宝永年代堀江村記録」(『松山市史料集』5)には、宝永四年大地震及び余震、被害状況、出稼ぎ漁民の津波の見聞記録などが含まれている。これによると、大地震は一〇月四日午後一時から三時頃まで、四日~七日までは、一日平均七、八度の地震、この間人々は屋外の仮小屋で過ごした。また七日~一四日までの間は、一日に三、四度、余震は、その後翌年の正月まで、二、三日に一度の割合で続いた。郡内の被害は、安城寺村で瓦葺長屋の倒壊した以外は、村々に大痛みはなかったとしている。このうち四日の大地震で道後温泉の湯が止まり、このため藩主は、国家安全の祈祷を、道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、藤原薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺観音、大三嶋明神(大山祇神社)の領内七か所で行うことを申し渡している。この大地震のさい、和気郡堀江村の漁民三四人が、豊後国佐伯領内のいわし網の日傭稼ぎに出稼中であった。大地震のあった四日は、たまたま佐伯湾外で操業していたが、地震直後佐伯湾岸を襲った大津波で、佐伯浦の家々は残らず沖に流され、数多くの死者があったことを伝えている。なお堀江漁民は一四日に、命からがら逃げ帰った。

嘉永七年の大地震

 嘉永七年一一月二七日に安政に改元されたが、この直前の同月四日やや強い地震がおき、翌五日は未曾有の大地震に襲われた。さらにこの余震は安政二年にまでまたがって続いた。嘉永七年ほど大地震の頻発した年はなかった。五月二〇日、六月一五日には現在の近畿地方を中心にした大地震が発生し、五か月後の一一月には伊予が大地震に見舞われることになった。この一一月の大地震は、四日の東南海道沖大地震、五日の南海道沖大地震、七日の伊予西部地震と呼ばれている。『小松藩会所日記』の一一月八日の項に「今治辺五日の地震当辺より強し」と今治付近が小松より強かったこと、また「町人とも西方から帰り、大洲、宇和島辺が最強、松山も海辺に強き趣き伝え聞く」とあるのは、小松藩役人が領内の商人から得た情報であるが、これによっても、南予、また中予では沿岸部に被害の大きかったことがわかる。
 宇和島の場合『桜田親興日記』によって、ある程度まで知ることができる。背後に山の迫った宇和島は、海に土地を求めるしかなく、したがって遠浅の海岸を埋め立て、家中(武家)屋敷の建設、城下町を拡大、発展をさせた。この結果、五日に発生した大地震による家屋の倒壊、さらに約一時間後に来襲した津波によって被害は一段と強まった。藩でも市内に御救小屋を設け救済に当たった。
 このときの大洲藩内の地震の状況を記したものとして『地震の評説』がある。地震の原因は天地の病から起こるもので、人々の神の信仰が失われた結果であり、また、今回の地震のように、被害の大きくなったのは、衣食住がすべて華美になったためであると、世の人々に警告を与えている。この論説の最後に一一月四日から同一〇日までの間に起きた地震、特に五日、七日の大地震を中心に、発生の時刻、継続時間を克明に記している。ただ被害状況は具体的に示されていない。
 『松山叢談』によると、一一月四日を江戸地震、同五日および七日を松山大地震として、家中ならびに郷(村)、町分の被害を取りまとめているので、これを表五-87に示した。また道後温泉も五日の「大ゆれ」から余震の消滅する翌安政二年二月末頃まで湧出が止まった。死者(即死)の少なかったのは、五日、七日とも大地震が昼間に発生したこと、瓦屋根の少なかったことによるものであろう。
 当時大洲領であった郡中三町(灘町・湊町・三島町、いずれも現、伊豫市)の地震を記したものに『塩屋記録』がある。これによると五日の大地震の刻々の動きが記録され、惨状が生々しく描かれ、松山に比較して被害の一段と強かったことがわかる。これは海岸の低地と、背後にある断層山地との接線に位置しているためであろう。
 地震の模様を最も忠実に書き留めたものに、今治市大浜の柳原家文書『地震日記』(資近上三-134)と『小松藩会所日記』がある、このうち後者には、被害状況も詳しく書かれている。これによって地震の推移(表五-88)、小松領内の被害(表五-89)を表記した。五日および七日を中心としたこの地震の余震は、その後安政二年二月二六日を最後に、日記上からは姿を消している。被害は村別にまとめられ、このうち北条村(現、東予市)は、堤防・用水路・田地・それに百姓屋敷等に無数の亀裂ができ、地下水・土砂の噴出があった。また家屋倒壊などの被害も領内最大規模であった。なお、小松領内で建て替えを必要とした半、全壊の百姓家(納屋は含まない)は三六戸であるが、これは松山藩領内の一、二七三戸と比較して、被害の程度は軽い。しかし、五日および七日の大地震から二〇日以上を経過した同月二九日、小松領内の在町に対して「妄説ニ惑ひ所々に寄り、所業を怠り、或は無益の費等があるのは、甚だ不心得の事」とした触書を出しているのは、なおその時点で、不安の大きかったことを示している。

安政四年の大地震

 安政四年八月二五日、『松山叢談』の「池内家記」に「辰下刻松山大地震」、また『塩屋記録』には「昼四ッ時、前々通り大地震」、大洲でも『加藤家年譜』に「御在所大地震」、南予では『宇和郡上松葉村諸差紙類控』に「当地大地震」とある。『小松藩会所日記』には、「四時前地鳴、頗ル大震……去ル寅歳地震ニ差シ続ク、右ニ比スレハ短シ」と記している。これらの資料から、この地震は八月二五日午前九時頃、伊予全域を襲った大地震であることがわかる。地震の強さは、前回の嘉永七年一一月五日、同七日のものにほぼ近いものであったが、継続時間が短かった。これが被害をやや軽くした原因であろう。余震も小松の場合表五-90で示しているように、八月二九日以降にはみられない。
 『松山叢談』によると、この地震のために、家中からの差上米を一〇〇石に五俵の割合で軽減したとあるので、松山城下での被害も大きいものであった。伊予郡西高柳村では『大西家永代日記覚』によると、「大地震、こけ家大分有り、ねりへ多くこげ、土手筋大分はれ、田地所々いたみ」とあるので、家屋・堤防等の被害のあったことがわかる。『塩屋記録』によると、郡中灘町・湊町・三島町付近では、家屋・門塀の倒壊によって数人の死傷者もあった。『安政四年、和気郡姫原村巳歳諸御用日記』に「去ル廿五目大地震ニ付、痛所ノ有無御尋ニ仰聞レ承知仕候、少々ノ痛御座候得トモ、御達シ中上候程ノ御痛御無ナク候」と、大庄屋に報告している。城下町松山、伊予郡方面に比較して、和気郡内では被害が軽かったのではなかろうか。後にこの地震は安政四年の「伊予・安芸地震」と呼ばれている。

表5-86 伊予の大地震(江戸時代)

表5-86 伊予の大地震(江戸時代)


表5-87 松山領内の被害

表5-87 松山領内の被害


表5-88 小松藩会所日記の地震記録(嘉永7年~安政元年)

表5-88 小松藩会所日記の地震記録(嘉永7年~安政元年)


表5-89 地震の被害状況(小松藩)

表5-89 地震の被害状況(小松藩)


表5-90 小松藩会所日記の地震記録(安政4年)

表5-90 小松藩会所日記の地震記録(安政4年)