データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)
四 漁業と漁業生産
漁場漁民の保護
漁場や魚族の保護は、各藩とも十分意を用いた。漁船・漁網・漁具数は株として制限し、漁場・漁期の制限は勿論、使用についても細かい規定を設けた。他領からの入漁は鑑札で制限し、漁期には番船を出して侵漁や紛争を警戒した。今治藩では藩主が建干漁を行う蒼社川川裾沖合は御殺生場で、網漁は厳禁であった。鯛の乱獲防止のため四月二〇日から五〇日間は、沖合一帯の鰆流し網と夜の鯛釣りを禁じた。大洲藩では産卵を助けるため採藻期を定め、藩主在城の年は、肱川に鮎の禁漁区を設げた。宇和島藩文化八(一八一一)年の「掟書」には鰯網袋底の網目制限、海藻採取は自家肥料用の最少量とすること、焚寄せ漁・焚釣り禁止、注毒捕魚の禁止、麻布製のみの漁網禁止、海辺魚付山の伐採禁止などの条項がみられる。
不漁で漁民が困窮した場合、藩は運上の減額や延期を許し、更に窮乏の場合には救助米を貸し下げた。多勢の水主役を負担する大島・黒島では元文以前から維新まで、扶持米四〇~六〇石が西条藩から貸与された。御用鯛を上納する新居浜浦や今治領の大浜・魚島村では、貸下米や漁具調整・梶子雇入など漁事仕度銀の貸し付けで、他村より優遇された。享保一八年(一七三三)三月、新居浜浦の釣船一一艘、五智網二〇艘は、例年の通り米七石と仕度銀を漁獲で支払うとして、魚座方から無利息で借用している(愛媛県水産例規集)。
宇和島藩でも宝暦七年(一七五七)一二月、不漁で困窮の浦方に銀五〇貫を一〇年賦で貸し、明和七年(一七七〇)六月にも諸網救助として銀札一〇貫目が一〇年賦で貸し付けられた(『于和島・吉田両藩誌』)。網船新造や修理の場合には、藩有林から木材を払い下げ、藩外からの漁業資材の購入にも便を図った。
紛争と取り締まり
漁場は地先海面と沖合いに分けられた。地先は村浦の専有、沖合いは領内各村の入会が原則である。地先の根付漁場は漁村の自活上専有は当然であり、沖合いは自藩の警備上また網漁による財源として重要であった。地先漁場の隣村との境界は、岬や島の見通し線で定められ、沖合いへの範囲は明瞭でないが松山藩では三〇間(約五四・五メートル)、今治藩地方で一〇町、島方で半里(約一、九六四メートル)、宇和島藩では五〇町とする史料がある。地元に漁民がいない場合や、いても支障のない範囲で、使用料や分一銭を取って他村の入漁を認めることもあった。沖合いは網漁業の発達から、次第に有力漁民や漁村の専有漁場化した。
漁場をめぐる争いは極めて多く、その起源も古い。釣漁と網漁の対決は宿命的でもあり、大型網漁業の展開する中後期では、従来の慣行で律し切れないため、紛争が激しくまた長期化した。漁獲が増えれば、それまで浦人が大目にみていた入漁にも神経質となった。紛争の解決は出来る限り漁頭や庄屋の自主的処理にまかせ、解決のつかぬ場合にのみ番所や藩が裁定した。大洲領米湊と松山領松前浜との争いは、替え地にからむ紛争で、松前漁民は加藤嘉明時代からの慣行権により大洲領に入漁した。しかし大洲側の米湊・尾崎・本郡・森の諸村は領分違いとしてこれを拒否し、万治元年(一六五八)には大洲藩から藩士や大筒を繰り出す争論となった。解決は同年八月の高知藩の調停によった(『北藤録』)。宇和海でも宝暦ごろから他領の釣船、小網船の侵漁がふえ、宇和島・吉田両藩は鑑札を発行して取り締まった。
燧灘の紛争
燧灘は狭い上に多くの藩境が接する漁場で、それだげに紛争も多い。漁期中今治藩は威筒や足軽を乗せ藩旗を掲げた追船を出し、浦方も番船を出して警戒した。侵漁を発見すれば軽い場合は妨害をし、追い払いで済ませた。通例は後証のため鑑札か漁具を取り上げ、相手方の詫びによって返却する。その期間は一か月内外であったが、安政元年(一八五四)に備後日生村の漁師一〇人が鰆流し網を曳いた時には話し合いがこじれ、帆三枚・櫓七挺の返却が翌年五月となった(大浜柳原家文書)。
釣漁対網漁では大浜村漁民と五智網の漁師町・志津見との争いが典型的である。藩は寛文八年(一六六八)に違反網を取り上げる旨を布告し、寛政七年(一七九五)の裁定でも統数制限の遵守、禁漁区の指定、操業期間の短縮で釣漁民を保護せんとした。しかし文化一五年(一八一八)の示達をみると、この裁定は全く守られておらず、その後藩はむしろ網側の強い要求と収入増から網数増加策をとり、釣漁民の立場は全く不利となった。結局両村は天保六年(一八三五)五月と文久三年(一八六三)四月に乱闘事件を起こした(大浜柳原家文書)。
同漁場での網漁村同志の争いでは新居浜と壬生川、壬生川と河原津、河原津と桜井などがある。幕領の中村・東西黒本・高田の四か村は貧困対策と肥料自給を目的に、明和七年(一七七〇)に地先での地曳網など新規操業を笠岡代官所に出願した。代官所が壬生川側に照会すると専有網代を主張して反対、四か村は松山藩庁の入会漁場で操業の古例ありと訴え、代官所も同藩と粘り強く交渉したが認められなかった(『壬生川浦番所記録』)。
安芸国からの侵漁は宝暦ごろから現れ、文政以降に急増した。尾道・二窓・広・才(幸)崎・能地・原・沖浦などの各村から西条喜多浜・伯方・弓削・宮窪・魚島・岡村などの沖合いに侵漁するもので、入漁統数や境界線、入漁料、違反網の使用などをめぐって争われた(愛媛県水産例規集)。
俵物の生産
煎海鼠・干鮑・鱶鰭の三品を俵物という。元禄一〇年(一六九七)から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品であった。ために幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられた。その集荷には長崎の俵物元役所があたり、伊予の各浦も生産量が割り当てられ、価格が公定された。ただ割り当てが過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられ、買い上げ価格が安いため、各村ともその対策に苦慮した。他領から購入したり、漁師を雇って製造しても目標ぱ達成出来なかった。松山藩の割り当ては約五、〇〇〇斤であるが、天保~弘化期一〇年間の出荷率は約六割であった。しかしその間の総量二万九、〇〇〇斤の値段は、一斤が平均銀二匁として銀六八貫となる(表三-43)。
俵物方では督促と密売防止のため役人を派遣し、伊予でも天明五年(一七八五)、寛政一一年(一七九九)、文化八年(一八一一)、天保四年(一八三三)の四回、全領の回村が行われた。各海域では各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割り当て量の調整等が行われた。寛政ころの請負人は西条藩が西寒川村の祐十郎、今治藩城下新町の三州屋藤兵衛、松山藩は小部村の長五郎、大洲・新谷藩が周防大島の胡屋平七、宇和島藩が安永ごろに菊池宇右衛門・清家久左衛門であった。
今治領でも元禄期から集荷されたが、公定の請負高にはよらず慣例で上納していた。しかし余りにも集荷率が低いため、寛政年度回村の際に大浜村一九〇斤、今治村一四〇斤など浦方一一か村の請負高一、〇〇〇斤が正式に決定された(大浜柳原家文書)。また新谷藩では、同年度より約三倍もの増額となっている(表三-44)。なお大洲藩は文政三年(一八二〇)一月、大浦・元怒和等忽那島七か村に御用うに一石四斗の上納を命じた(畑里堀内家文書)。
養殖と加工
寛文三年(一六六三)の春、松山藩では三津魚間屋に命じて安芸から牡礪七〇俵を購入させ、浦々に分けたが(『松山叢談』・『新修広島市史』3)、その後史料を欠く。西条藩では禎瑞沖手で天保五年(一八三四)、大師町の長太郎が禎瑞方に願って飼養し、僅かではあるが運上を納めている。嘉永七年(一八五四)から六三郎と槌之丞の二人が五年間、安政五年(一八五八)から六三郎が続けて五年、文久三年(一八六三)更に同人が継続を願った(『西条市誌』)。しかし、いずれの時期も出水時の流失が問題であった。
同藩の海苔養殖は垣生と黒島で早くから行われ、須賀川と中山川尻産が美味であった(『西条誌』)。天保一二年には紀伊の和歌浦から新技術を入れて改良し、同年禎瑞で飼養するため黒島の文次を移住させた。元入銀は貸し、運上と道具損料二二〇匁を課したが、弘化三年(一八四六)には天候不順で失敗した。嘉永元年から五年間は禎瑞の武右衛門と広次が同額で、嘉永七年から五年間は一〇〇匁で伝次が養殖を行った(「禎瑞方記録」)。
鰹漁と鰹節製造は紀州が先進地であるが、伊予では土佐の技術を導入した。中期以降に調味料用、祝儀の贈答用に利用が増え、各藩でも製造が行われた。宇和島藩では宝暦元年(一七五一)に沖ノ島から六〇〇挺、鵜来島から五挺を藩に献上した。寛政期既に有名産地となったが、鰹漁の盛行により鰯網と紛争を起こした。同一一年四月に吉田藩では鰯網代を避けるなど六か条を布達して制限を加えた(安土浦庄屋文書)。鰹漁の中心は外洋に面した外海・深浦などで、漁夫を互いに雇うなど土佐と交流が深い。
鯨 漁
伊予には捕鯨はないが、沿岸に流れ寄った場合は、各藩の規定額を上納した。川之江では文久四年(一八六四)一月に二頭の鯨を捕らえ、鯨分一法により入札価格の一〇分の一、五両二分三朱を上納させた(川之江村役用記)。立間尻では寛文一一年正月と天和二年八月に捕らえたが、吉田藩では諸魚流れ寄の規定に準じて入札の三分の二を上納させ、他領に販売する肉・油については地船は一嫂当たり三匁三分、旅船同六匁三分の礼銭をとった(『郡鑑』)。今治藩では延宝六年四月、弓削に流着の鯨の入札代価銀札四八〇匁の全てを藩の収入とした(国府叢書)。大洲領でも天保一二年と一三年の冬に、櫛生に出没の記録がある。
宇和島藩では慶応元年(一八六五)五月、賜を専売として各浦の組頭を取り締まり方兼世話人とし、物産方に集荷した。寒天草もすべて藩の買い上げとし、製造した寒天は物産方の手により長崎等へ販売した。
川 漁
伊予の漁業の対象河川はそれ程多くなく加茂川・乙女川・大江川・蒼社川・衣干川・重信川・石手川・肱川・岩松川・来村川などであった。対象の魚は鮎・鯉・鰻・鱒・鰍・鱸・鯔・蟹などである。特に鮎は代表的で、大洲藩では焼鮎を江戸城中へ献上した。御築場へは鮎目付を置き、唐網は封印して監視した(『元文日録』)。川漁師にも鑑札が渡されるが、同藩の取り締まりは極めて厳しく、漁期や網の使用、貸借について必ず規定を守る旨の誓紙を書かせた(有友家文書)。肱川は藩主の遊漁場である地蔵淵と臥竜淵は一切の操業が禁止され、他の水域でも鮎漁は漁法により年中禁止区と有限禁止区に分けられていた。また投網は足軽以下庶民には許さず、大網・底曳網は家老四家のみに許した。
来村川も五~七月は御留川であるが、八月一目には上級武士のみに解禁されて連枝は網数五帖、御一門は月一、二回三帖、家老は年一、二回の二帖、郡奉行は月一、二回一帖と遊漁権が与えられた。藩主が在城中は制限をする石手川の築鮎漁、藩主の初網後開放される乙女川の網漁など、川漁は藩主との関連が注目される。加茂川でも一定区域は禁漁とし、築場では運上をとって鮎漁を許し、築場より上流で獲ることは禁じた。なお今治藩では、百姓の川漁は厳禁であった。
水産物の流通
初期の水産物の消費はほとんど城下に限られており、藩も藩士今町人の魚の消費量確保に意を用いた。そのため今治城下の新町や吉田の魚棚町では魚問屋を指定し、流通面を担当させた。漁師はすべてこの問屋に販売しなければならず、沖合いでの抜げ売り、仲買いへの密売は厳禁された。今治藩貞享二年(一六八五)の法度では、沖売りは庄屋・組頭まで同罪とし、元禄一五年(一七〇二)には、各村浦から一切沖売りしない旨の手形をとっている。
しかし、中期以降は農村でも魚や魚肥の需要が高まり、地方にも仲買や魚市が増加した。漁師も公定で安価な城下への販売よりも新興商人を選んだ。問屋もまた漁師に代わって運上を上納したり、操業や生活資金を貸し付けて漁村経済の中に深く侵入した。干鰯を中心とする宇和島藩では各浦々に問屋があり、自己の所有船か商人の回船を招いて販売した。但し領外積み出しは、家老裏判の鑑札所持者に限り、数量は番所で改めて五分一銀を徴収した。しかし中期以降は生魚・塩魚・干物などの取り引きも増え、在郷の商人や出買商も活躍した。無税にもかかわらず、寛政以降は生魚を城下の問屋に出荷する者が減少し、町人は魚不足に困った。
宇和島藩も流通統制の強化に乗り出し、文化八年(一八一一)九月「諸物産積出締合之儀申聞覚」を発し、在郷商人の台頭を押さえようとした。一二年一月に初めて生魚主株を設定し、上札四〇匁、中札三〇匁、下札二〇匁の運上を命じた。干鰯の製造は庄屋級の上札、販売は組頭や網元級の中札以上に限った。下札商人は一般百姓であり、生魚のみの近郷販売を許された。
魚市場
三津では元和二年(一六一六)に松屋善左衛門が魚類販売の世話をし、寛文三年(一六六三)一一月に唐松屋ら三名が魚問屋を許された。その後元禄六年(一六九三)に三戸、同九年五戸、同一四年に七戸が増株となった。元禄一五年には二軒が問屋株を返上したが、その後別に一三軒の出店取扱人が指定されて、集荷圏を拡大し、城下松山への生魚供給地として伊予第一の市場となった。魚市の経営は魚問屋規約によった。天保期には自らの資金で港湾改修を行うほどの資力を貯えている。
壬生川には四軒の魚問屋の下に三〇軒の仲買人がおり、各六、七人の行商を抱えて周布・桑村両郡域を商勢力として繁栄した。しかし文政九年ころには仲買の支払いが滞って魚市の経営が不振となった。ために漁師は河原津、喜多浜など他領に販売し、仲買も現銀で同地へ買い出しに出かけた。壬生川ではすでに二軒の問屋は質場引き請けとなっていたが、残る大頭屋・升田屋も村方が引き請け、流通体制の立て直しを図った。まず漁師・仲買人に定法通りの売買を命じ、同年三月の定書では、漁師は問屋場の一番座から順に魚を持ち込むこと、口銭は一割一分(七分問屋納・三分仲買戻・一分安掛渡)とする、問屋場で口論をせぬ、漁師へは仕切銀を滞りなく渡す、滞銀した仲買へは魚を売らぬ、魚代は正銭か国札に限るとしている(『壬生川浦番所記録』)。
幕領の川之江・河原津・桜井は、文政初年に成立した新興魚市場である。これらは港としては古く、漁師も多く、明和以前から網代運上を上納している。領内の漁師はすべて三港の問屋に販売し、抜け売りをすれば魚は取り上げられた。問屋は問屋運上と魚売場扱高の一〇〇分の一を上納した。この魚売場運上は天保期には三〇〇匁前後であった。川之江では浜方は浜庄屋(浦年寄)が支配し、魚問屋は世襲の新屋、これに次ぐ有力商角屋・戎屋ら七、八軒が魚売年行司をつとめて新屋を補佐した(愛媛県水産例規集)。
西条領では喜多浜の他黒島・大島・新居浜に魚市があった。活動期は寛政ごろからで、元禄以前には備前・讃岐の買回船が入港し、上方へ運んだ。藩は享和年間に新居浜浦に魚座を設け、増収を図ると共に漁師に漁事の支度銀や困窮時の延米の貸し付けを行った。魚座の構成は魚座方役人に藩士七名、掛役に漁師代表九名、他に水主二名であった。文政元年(一八一八)現在の新居浜浦への貸付高は銭四六三貫余、うち返却分は二七九貫余で未納分か多く、漁師の困窮の様が窺われる(西原家文書)。