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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

五 塩田経営の推移

塩浜の支配

 塩は食品の加工今日常に、領民の自給上極めて重要であるが、西条・今治・松山の三藩は、領外移出をも目的として開発に力を入れた。ただ塩が豊富であったため専売政策ぱとらず、塩田経営も販売も商人にまかせ、藩は諸運上収入を期待した。生産の少ない宇和島藩でも、元禄一〇年(一六九七)七月には城下横新町と竪新町に塩座を設けて五枚の札銀をとったが、宝永七年一〇月にはこれを廃してどの町でも自由に販売させた(『愛媛県編年史』7)。
 塩浜は村方とは区別し、浜役所が設置されて元締め・年寄・手代などの塩役Λが任命された。役所は経営全般の取り締まりや修築工事、原材料・燃料の仕入れ等に当たるが、その費用や役所の維持・手当て(浜方小人用)も浜師の負担であった。例えば、多喜浜塩田の元締めである天野喜四郎は、薪購入額の二分、多喜浜から一〇〇目、同東分一七浜から各二〇目当ての役料を得た。
 塩浜の負担の第一は現物納で、多喜浜では藩主への献上塩(焼塩花塩)、家中の使い塩約二〇石内外、和歌山藩や江戸藩邸の御用塩が宝暦一二年五月に八〇俵(五斗入)などがあった。塩田は開発三年後に検地を受け、田畑より遙かに高額の年貢を負担した。多喜浜では持浜ごとに仲間で等級を定め、総高を割って一浜平均銀一五〇匁前後を負担した。生産局に対する運上は一俵一匁であった。塩問屋の運上は、享保期は喜四郎一人で年二貫目である。明和ころには多喜浜の米屋半五郎、黒島の升屋伊左衛門も問屋を営み、回船も所有していた。文化ごろ、宇和島藩岩松の小西家は、二〇年間定額の一貫目上納で近家塩田を払い下げられている。塩の行商・小売については許可条件も緩く、文化一二年多喜浜では三五人もいた(『多喜浜塩田史』)。
 今治藩でも塩田には塩浜銀・浜銀・坪銀・釜屋銀などが課せられ、漁業関係の小物成に比して極めて高額であった(表三-46)。屋敷地、持船などは負担免除であるが、それらをしのぐ額であった。

塩田の経営

 塩浜は基本的には奉行所からの「塩田改め」や「浜方定書」に基づいて維持され、仲間の協定によってより具体化された。代官園田藤太夫の名で天和四年(一六八四)二月、波止浜塩田に発せられた定七か条では塩俵の精製と升目吟味、問屋を通さぬ直売り禁止、生産量や薪仕入先及び代銀の報告、浜子雇い入れの身元確認や休日等に関するものであった。後任の林六兵衛は貞享三年(一六八六)一月上甲更にぬいの掘り方、浜の引き様、濃塩水の汲み方など作業面についても細かい指示をしている。
 寛政一三年(一八〇一)一月、多喜浜塩田の「惣浜初寄合定書」では松葉調方・浜仕成方・浜方不参賃の事・浜子賃・塩俵買方・莚運賃・大俵運賃の七項目一九か条について、浜師三四名の協定事項を、惣肝煎、東・新多喜浜両組頭、西浜庄屋の名で藩に報告している。享保二〇年(一七三五)一二月の塩売仲間定七か条、宝暦一一年(一七六一)四月の塩改め一〇か条、天明五年(一七八五)一月の三か浜初寄合定帳二〇か条(資近上五-65)もほぼ同じ内容で、時折確認されたものと思われる。天明期からは、藩は生産状況や値段、塩買船の入港状況などの「模様書」を年四回提出させている。

休浜の仕法

 元禄以降、瀬戸内を取り巻く諸藩は大規模な塩田開発を行い、塩の生産が急増した。しかも初期の揚浜は一軒前が一~二反、入浜が五~六反であったものが瀬戸内では一町~一町五反と大規模で、その上良質で好能率の塩田であった。航路や商業の発展で全国の流通網が確立すると、各藩の自給体制も崩れ、文化期には伊予・讃岐・周防など瀬戸内沿岸の一〇州に、全国生産五〇〇万石の九割が集中した。天保期に加賀・越後では一俵銀八匁六分の塩が、波止浜では四匁五分であった。利害を同じくする一〇州はいつか協調し、生産調整のため十州塩田組合を組織した。
 塩の生産過剰は塩価を下げ、塩田経営を圧迫し、塩買船の入港を争って更に価格を下げた。しかも各藩は塩田開発や増反に力を入れるという悪循環を引き起こした。過剰対策と生産原価の引き下げのため考案されたのが休浜法で、宝暦九年(一七五九)に安芸国瀬戸田の三原屋貞右衛門が二九法、明和八年(一七七一)に同じく三田尻の田中藤六が三八法を提唱した。三八法とは三月から八月を営業し、操業条件の悪い九月から二月の半年を休業とするもので、浜子を更に減らすため、塩浜を二分して一日に半分ずつ作業をする替持法も同時に行われた。
 二九法は芸備と伊予では波止浜、安永四年ごろ多喜浜も参加したが永続しなかった。三八式も軌道に乗るのは文化一四年(一八一七)の「十州塩田同盟」成立以降であった。同盟では備前輸珈山と安芸厳島を交替会場として毎年会合を重ね、休浜実施の徹底を図った。しかし反対者もあり、塩田の立地条件や大小で利害も異なり、少し塩価が回復すると協定が守られないため、完全な実施は困難であった。伊予では文化一五年三月の集会に多喜浜・津倉は不参加であったが、波止浜の説得で多喜浜は文政元年から、津倉が同七年から実施したが会には不参加、木浦塩田は未実施の状況であった。期間も文政一一年に周防・長門では六か月の休浜、安芸・備後・備中・備前および伊予では四か月半、阿波・播磨は三か月と不統一で、しかも中断ありといった状況であった。
 市況がやや好調の文化・文政期から、塩価が半分以下に暴落した弘化・嘉永期には、それまで受動的であった伊予も、波止浜の大沢常右衛門らの努力で足並みを揃えた。小浜の理由で不参加の津倉・木浦も弘化四年から参加し、嘉永四年(一八五一)四月集会では、互いの監視条項等も規定した(十州塩田同盟史料)。しかし文久ころから塩価が回復すると再び乱れ、有名無実となるが、形式的には明治まで引き継がれた。

浜地主と小作

 塩田経営は所有者の浜主と使用人である七、八人の浜子でなされた。塩田一軒前は一町前後であるが、大きいほど労賃や諸経費で有利なため、後期には分ヶ浜等で次第に大浜化した。初期の浜主は開発者・出資者自身で一浜を持ったが、次第に階層分化が進み、没落する者、数浜を所有する者も現れた。また塩業を投資の対象とし、自らが経営する専業浜主の他に、他人に経営をまかぜる浜小作も行われた。築造当初の波止浜塩田は、浮穴・風早など松山藩領下各郡有の郡浜七軒の他は、すべて一人一浜の所有であった。それが九〇年後の明和ころには八浜を持つ渡部政右衛門以下七浜一人、四浜と三浜各一人、二浜二人、一浜六人と分化している。
 多喜浜塩田の開発者天野喜四郎は、黒島人村時に尾道・三原・竹原などの商家から銀二五貫余を借用し、工費一一七貫余で一一軒前を築いた。うち三浜を所有し、薪・塩問屋を兼営し、庄屋・元締役となった。しかし同時に人村した仲間五人のうち、天野屋七右衛門は松葉代に窮して享保一四年二浜を売却、津保屋・樽屋も共に売却した。喜四郎は享保二〇年に五軒を持ったが、燃料代に窮して藩の山方に四浜を売り、他の一浜も失った。寛保元年(一七四一)、開発者のうち浜持は米屋忠兵衛のみであり、明和三年(一七六六)二月には米屋市兵衛・津保屋庄助・樽屋孫右衛門は土地や屋敷を売って安芸に帰国した。
 代わって台頭するのが松神子村庄屋小野家である。同家は元文元年ごろ塩田経営に着手、宝暦初年質商、明和元年酒造業も営み、文政元年(一八一八)には七浜を所有、二浜を自営し五浜を小作させていた。小作契約は一年更新で釜屋・浜子小屋等の建物は地主負担、諸道具申その修理・浜子賃・運上など経費のすべては小作人の負担であった。小作料は、前年の塩価を基にして契約時に定めるので小作人には不利であった。塩の生産量は一浜で二、〇〇〇~三、〇〇〇俵であったが、一浜で銀一貫以上の利を生むためには三、〇〇〇俵以上を産し、塩価も三匁五分以上が必要であった(『日本塩業史大系』近世)。仕入銀を貸し付ける地主側も不況期には資金が回収出来ず、荒浜にしたり塩田を手放すこともあった。
 塩田収支は中期までは好況であったが、過剰により享保中ごろから不況となり、薪と労賃の値上がりで宝暦・明和ごろも不景気であった。塩価の動きをみても天明期はやや持ち直すものの、その後の好況期は数回、数年間のみであった。不況時には塩買船の入港がなく、蔵は古積塩や水塩であふれ、これを一俵一~二匁で担保として借財し更に不況をあおった。文政元年一一月、多喜浜一番浜の清六は、年貢銀の上納に困り居宅を担保に六貫目を借用したが塩価は回復せず塩浜も失った。塩価は盆前が高く例年三分の一を捌くが、多喜浜では天保一五年(一八四四)にはこの時期に三、四般しか入港しなかった。ために七月、在庫二万俵の販売を目当てに、惣浜中から一五〇両の借財を多喜浜役所に願った矣野家文書)。なお西多喜浜の明和元年の塩田景観は、塩浜一一軒で一〇町六反余、家数七四軒でうち居宅一四軒、浜師居宅九軒、店屋三軒、土蔵一軒、塩浜付建物四七軒(釜屋一一、塩倉一一、浜子小屋一一、台坪一四)、総人口は二一三人であった(「西多喜浜惣改帳」)。

石炭の使用

 製塩原価のうち、燃料費が約四割を占めるので、浜主は燃料用の松葉の確保と値上がりに苦労した。中世の弓削島塩田では、塩浜と同面積の塩木山を付属させたが、近世には塩田の七、八倍の松林を要した。多喜浜では浜主の私有林、藩有林の払い下げ、領外からの買い入れで賄った。西多喜浜一一浜における明和五年分の薪仕入代五七貫七九一匁余のうち領内分は二九貫八八二匁、領外分二七貫九〇八匁余であった。多喜浜へは河原津・波止浜・菊間よりの松葉船の入港が多いが、元文六年(一七四一)三月には、小松領の松葉を積み込んだ黒島の船三艘が大風で難破している。藩有林は、山方役所公認の請元を通じて定めの価格で購入した。ただ代価が塩の生産販売後の支払いのため、燃料代が滞ると塩浜が藩の手に集中することになった。
 この松葉高騰・塩価下落の救世主として登場したのが石炭である。ただ藩側は藩有林収入の減少と正金の流出、農民側も伐採や運材収入の減少と悪臭により歓迎しなかった。石炭の使用開始時期は瀬戸田で宝暦一〇年、三田尻安永七年であるが、十州塩田で一般化するのは文化・文政期である。多喜浜では文化四年(一八〇七)に五・七番浜で使用した。不馴れで釜もたれ、釜損じ等もあったが結果としては好成績で、翌年は三浜が石炭焚きと石炭代借用を願い、以降恒例となった。文政四年では高島炭・松島炭・唐津炭・佐田炭を使用しているが、高値の上に炭質が悪く、その上人手も困難であった(資近上五-68)。
 津倉浜では文政五年から庄屋豊蔵が石炭問屋を始め、運上銀八六匁、冥加銀二枚を上納した。小松領北条村塩浜では弘化四年から使用している。幕末には石炭の需要が益々ふえ、伊予から九州へ買い付けに行く船も増えた。さらに文久四年(一八六四)二月には、今治領の千祥丸他二艘および他の予州船四艘の計七艘が、各八〇両の掘立金を支払って、三池炭田平野山で採掘も行っている。三喜浜では安政二年(一八五五)一〇月、石炭上荷平太船一五石積を一七艘所有していた(多喜浜天野家文書)。

塩の流通

 塩の消費量は一人一日三~四勺であるが、著しい生産増は食品加工用塩の需要増加と、全国流通の拡大を思わせる。塩の販売は「塩浜定書」などによると領外へは問屋、領内は小商人に限られ、浜主の直売りは厳禁であった。多喜浜では米屋・升屋二軒の問屋と、問屋の注文により浜師に俵数を割り付げる泉屋・京屋など五軒の仲間役がいた。
 塩買船の船頭らは番船に乗って入港し、問屋に泊まって商談を進める。船頭により問屋がほぼ固定するが、問屋は不必要な競争を避け、入港も公平にする申し合わせを行っていた。明和四年(一七六七)四月の定めでは抜けがけの禁、新船は抽籤、客の酒食のもてなしは一回限り、客女は雇わず水主衆の酒食の接待は丁稚とする、塩以外の売買はしないなどである。多喜浜では公定五分の喰塩の他、入津を誘うため味噌塩・薪代などの心付けがあった。俵は仕向地により大小・名称が多様であったが、大略大俵五斗三升入、中(分)俵二斗六升五合、小俵一斗五升であった。
 伊予の塩は江戸と北陸が主な販路であるが、波止浜塩は出羽・秋田・信州・甲州へも入っている。多喜浜の寛政二年(一七九〇)では勢州五・江戸三・北国二の割合であった。輸送は問屋の持船か諸国の塩買船により、伊予では伊勢湾を根拠地とする野間回船の入港が多い。回船を持たない多喜浜へは紀伊・安芸・讃岐からも入港した。
 他国船の場合は、前年度に入金済みの予約買い付けが慣例である。これは、価格上は浜側に二、三割の不利となり、紛争の原因ともなるが、燃料仕入れ・浜子賃前渡等の経営上は好都合であり、安心して生産が行えた。したがって予約一入港船の少ない不況期では、近領へ売り込みに出かけたり、藩に借財を願うこととなった。

浜子の労働

 多喜浜塩田の定めでは、常雇いである浜子・奉公人は大浜で一二人、小浜で八人とし、別に年間一五〇人の旦雇いが必要であった。浜子の仕事は炎天下の重労働であり、厳しい職階制と給銀の前渡制で、身分的にも縛られていた。職階名は場所・時代で異なるが、波止浜では大工・頭上・指上・目代・上脇・水はなえ・水・寄・炊(波止浜円蔵寺文書)、多喜浜では大工・頭・副頭(中人)・配荷・釜大工・釜焚・浜寄・炊と、旦雇いの当銀・夏人・夏寄子・沼井踏らがいた。浜主は、作業の熟練者兼親方の大工のみを雇い、以下の者は大工に任せる場合が多い。大工は家族と共に大工小屋に永住し、他の長屋住まいの浜子を監督した。多喜浜享保九年(一七二四)三月の場合、浜子一九五人中男が一六二人、宝暦三年(一七五三)三月では一九〇人中男一五六人で、男が中心であった。
 浜子の雇い入れや給銀は、浜主側の定めた「浜法」によった。初期は年雇いであるが後には不況や休浜法により月雇い・日雇いが一般となった。定員不足や病人があっても補充せず、他の者が仕事を分け合い、その分の給銀も分配する「不参賃定め」の慣例である。給銀の他盆や祭りには酒手・祝儀があり、日常の飯米・味噌・醤油・燃料等はすべて支給された。給銀は文政ごろの多喜浜で月二七~五五匁、日雇いで一匁七分~三匁であった(資近上五-68)。文政七年多喜浜四番浜の勘定帳によると労賃は四貫四六匁余で、うち給銀座九人、二貫四四六匁余、日用分一三人、六五〇目余、寄元分七人、三六四匁余、中元祝儀七九匁、当銀日用分六五人、四四〇目余、職人寄座(樽屋六人、かじや三人、大工四人、鍛冶屋二人、鋳掛ヶ屋一人、沼土入替八人)四八二匁となっている(松神子小野家文書)。
 浜子の出身は周辺農村が主であるが、かなり広範囲から集められた。延享二年(一七四五)三月の東多喜浜一六軒分、西多喜浜一一軒分の浜子改によると、合計二六九人中領内は郷村三四人、金子村三三人、阿島村一三人など三〇か村一九三名、領外は周布・桑村・越智・野間の各郡や讃岐国など七六名であった(天野家文書)。なお、享保八年一一月、多喜浜塩田の「浜法」によると、浜子の逃亡の場合は手錠をかけてのち許す、縄をかけて浜中を引き回す、二、三日さらして片頭を剃って追放する等の処分を定めている。また、越智郡の島嶼部、特に大島では塩田出稼ぎが盛んで、「大島者」といえば山陽筋でも、勤勉でよい技術の浜子の代名詞であった。

表3-46 申多喜浜塩田の年貢銀

表3-46 申多喜浜塩田の年貢銀


図3-18 多喜浜塩田塩価の推移―1表につき 銀目―

図3-18 多喜浜塩田塩価の推移―1表につき 銀目―


表3-48 多喜浜塩田一浜当たりの経営状況

表3-48 多喜浜塩田一浜当たりの経営状況