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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

三 漁村と漁業制度の確立

漁村の成立

 藩体制の確立には海域の境界の決定など海面の掌握も不可欠であった。漁村の存在は家中や城下へ魚類や塩の供給の他、小物成収入、物資の輸送や水主役など藩経済の維持にも重要な意義をもった。一般に近世初頭には、釣や家内的小漁業を中心とした均質な小漁村が成立する。初期の漁業条件のよくない小漁村では、地先海面は漁民が共有で平等に使用された。しかし操業の歴史も古く、専漁的傾向の強い漁村では、漁場は個人持ちが多く、漁民は使用料を納めて利用するか被傭者となった。
 南予では中世以来の浦方の実力者である村君や庄屋所有の網代が多く、吉田藩寛文六年(一六六六)の鰯本網、結出網八六のうちの七五を独占し、共有は一一網であった(『郡鑑』)。東中予では網代は、戦国期の有力家臣や名家が、主君から拝領する例が多い。松山藩では野間郡小部村の木村新兵衛、今治藩の越智郡椋名村の柳原宗治郎らがこの例で、宗治郎は全領域の鱸網代二〇か所を、初代定房から拝領した。
 浦ごとに水主数を定める際、今治領の漁師町のように、中心の浦方に多くの網代を与えることも一般的であった。中期以降は漁業の発達や人口増によって、新浦の開発が積極的に行われた。宇和島藩では天明以降に、鰯本網に支障のない場所でめじか網、ぼら網などが許された。成立した新網、小網二〇五網代のうち八二が弘化以後であった(「浦々鰮前網代銀帖」)。椋名村の村人も周辺の名駒、馬島、津島などの新浦を開発して入村した。
 享保以降は家船で生活する漂海漁民の定着も著しい。彼等は運上銀を納めて入漁するが、はじめは納屋を借るか小屋掛けをして逗留し、魚と芋麦を交換して生活した。ついで仮宗門に加えられ、宅地の援助をうけ、やがてその土地の寺院の檀徒となって住民化する。定着地は、地元に漁師がないか、あっても少数の場合が多く、住民の許可が必要であった。文政九年(一八二六)一二月、松山藩は逗留中の者でも往来手形のない者は、仮宗門に加えてはならないと布告した。同月、越智島大庄屋菅大之進からの報告によると、春期の入漁船は安芸の古和船四六艘、阿賀浦と二窓浦一〇艘で、入漁料は一日一艘一分であった。逗留中の者は明口村三人、瀬戸村一人、生名村一人であった。甘崎村に逗留していた能地漁師政助は、三津船手発行の鑑札を持ち銭札一二匁を上納していた。政助は往来手形は持っていたがまだ宗門には加えず、家族に病死者が出ると能地へ埋葬させた。しかし不都貪があって文政八年一一月に、妻子ともに追放した、と書き添えている(宮浦村御用日記)。この能地や二窓漂海漁民の定着地は、大三島の他に岩城・伯方・生名・岡村・弓削・中島や興居島などの各島と対岸の柳原・和気浜・菊間浜・波方などに及んだ。

漁村の支配

 伊予の漁村は浦方と呼ばれ、ほとんど半農半漁村であった。漁村は農業条件は悪く、また漁獲は不安定で、災害も受けやすい。村人は共同体意識が強く、行動的であり、藩の対応も慣例主義で流動的であった。しかし支配組織は農村(里方)と特に区別せず、郡奉行・代官配下の村役人に従った。時に浦奉行や魚目付が置かれることがあり、幕末には運上や紛争を扱う浦方、漁事方を設げた藩か多い。宇和島藩では元和八年(一六二二)二人の浦方奉行の名があり、ほぼ常時浦方が設置されていた。
 農村にない役職では、小浦小組ごとに漁(師)頭、十人頭などがいた。宇和島・吉田藩では札頭・横目が漁民の取り締まりに当たった。札頭は諸鑑札を扱い、庄屋が兼任の場合もある。寛文三年(一六六三)三月の定めでは、網一帖に付き五匁、船一反帆に付き一匁の手当を得た(『宇和島藩家中由緒書』)。宇和島藩では寛文六年三月と天和二年(一六八二)一〇月に、惣札頭、庄屋、横目中から五か条の起請文を提出させた。その内容は干鰯・掻鰯俵の適正化、諸魚積荷五分一銀の徴収、沖売り行為の取り締まりなどであった。村君は形式上は札頭の下であるが、旧家や網元で、浦方の実力者であった。
 漁業鑑札の発行、漁船の管理、漁獲物の積み出しなどは一般商船と同様、藩の船手方や番所が担当した。幕領の川之江村では浦手改役人と浜手番人が、船や海上に関する取り締まり全般に当たった(長野家文書)。

宇和島藩初期の漁業制度

 近世初頭、既に宇和島藩の漁業制度は、伊予諸藩中最も完備されていた。隣接し海域を二分する吉田藩もこれに習い、新法を規定する時は、宇和島藩と協議した。両藩の漁獲の中心は鰯で、塩鰯は幕府への献上品、煮干しや干鰯は藩財政に大いに貢献した。従って漁業政策も鰯漁、特に元網の保護が中心となり、他の網漁はむしろ制限の対象と考えられていた。
 初期の宇和島藩の布達は、漁村の取り締まりや分一税に関するものを中心とした。まず寛永一八年(一六四一)三月に、浦方の公事訴訟について奉行所の公平な吟味を命じた。ついで同二〇年七月、漁場の利用と魚類の販売について八か条、翌八月に網や船、漁獲物(魚価を公定)についての運上、分一の規定など一七か条を、藩主名で指示した。これらは従来の漁業慣行を成文化し、複雑な漁業年貢の単純化を図ったものである。この三法は同藩漁業制度の根本法で、その後慶安四年三月、寛文三年、正徳六年二月などに多少改正をみたものの、大きな変革はなかった。その内容は、漁獲に関しての五分一銀の上納、他領からの入漁網は更に五分一の漁場使用料、抜け売り禁止と積荷の改め―陸路は伊方
越・野田、浦路は佐田・日振等の番所で―、浦方の紛争は庄屋・札頭の取り扱い、村君と漁師を組み合わせ、背いたり逃走したりしない、本網・結出網など古網の売買禁止と新網の停止などであった(伊達家史料)。
 五分一銀制の確立には魚価の公定が必要である。吉田藩の寛文八年(一六六八)三月の規定をみると、大小一三三魚種にも亘る詳細なものである。例えば地干鰯一俵銀五匁五分、掻鰯一石五匁、小鯛二〇〇枚二匁、小鯵・鯖三〇〇疋一匁などである(『郡鑑』)。鰯大網の元網(本網と結出網)数は、近世を通じて宇和島藩は一六一~一七〇、吉田藩は八七にほぼ固定された。専用漁場を確保される代わり、参勤交代や海上諸役の水主役を負担し、網船は非常の際には軍船として徴用された。吉田藩では一帖に付き銀四三匁の運上を負担した。

西条藩の漁業制度

 一柳時代は不明であるが、松平頼純入部時の基本法である寛文一〇年(一六七〇)一一月の「納所方万定書」に浦方への規定がみられる(資近上五-5)。しかし同年末及び延宝七年(一六七九)一一月に、大島浦に発した諸網運上銀の但し書きに「加藤嘉明代、松平以前より」といった文言があるので、初期の漁業制度は従前の慣行を整理したものと思われる。新居浜浦でも、正徳二年(一七一二)の大坂宿銀や春大網、鰯網などの諸網運上など一〇種類の営漁税は、幕領であった寛文六年の負担とほぼ同一同額であった(愛媛県水産例規集)。
 漁村は諸浦役を負担し、慣行の操業は自由に行った。しかし大型の網漁や新規に営業する場合は、ま屋から郡奉行に申し出て許可を得た。漁師のいない地先海面は、近村の専用漁場となるが、入漁料を支払った。船屋・氷見地先のちぬ簀、八重簀などの借区漁業の場合は、他村の入漁を禁じた。漁場紛争は宇和島藩同様に大庄屋・庄屋の処理にまかせ、奉行の扱いとなっても裁許は避けて、説諭や内済の形としている。宝永七年(一七一〇)八月、中須賀の漁民が新規に鱸網を操業し新居浜浦東須賀の漁民と紛争を起こした。両浦は共に中村組大庄屋真鍋孫太郎に訴えたが、結局鱸網を没収し、操業を停止させた。これは既得権と慣行重視の例である。
 西条藩の水主役定数は一二七軒であるが、陣屋近くに漁師がおらず不便なだめ、享保一三年ごろに屋敷を御免地とし、新居浜浦から三二軒を喜多浜に移住させた。西須賀よりの来住者は漁船二六艘を白舶、東須賀からの来住者は一三艘を黒舶に塗り分け、網代運上も白黒二株に二分した(『西条誌』)。同藩は新居浜浦・大島・黒島などの大漁村が多いのに漁場は狭く、早くから他領への出漁がみられた。元禄六年(一六九三)八月、新居浜浦の六艘三一人が豊後熊毛浦で鱸網を操業した。同浦の庄三郎が元禄一六年九月に発した淡路江井浦への貸金催促状により、同地の他に薩摩、伊勢へも出漁していることが分かる(愛媛県水産例規集)。文化以降は魚市を兼ねる魚座役所が新居浜に設置され、漁事取り締まりや運上徴収の他、漁師への仕度銀貸し付けも行った。

漁業政策の転換

 元禄以降は漁法の進歩や漁獲物の商品化が著しく、それに対応して各藩の漁業制度も変化した。特に一八世紀末の寛政期から一九世紀半ばの天保期にかけては網が大型化し、多種の網が現れ、釣漁は延縄が主体となり漁獲が増加した。魚問屋が前貸制によって漁民と漁獲物を支配し、時には漁具の修理や飯米まで給付の形をとることもあった。この商人らの進出で漁民は階層分化し、漁村のまとまりや藩の統制もやや乱れた。
 網は曳網・船曳網・敷網・刺網・施網・建網のすべてに亘り、ほとんどの網が漁場に応じて使用され、その総数も増加した。新網は淡路や紀伊等を伝来地とするものが多く、これら網漁は多くの労働力を要するので、漁業生産は大漁村・大経営が中心となった。ために幕末には乱獲によって不漁となり、漁場紛争も多発した。新居浜浦では正徳二年(一七一二)に、幕領新須賀の漁民が新網を操業し、年々の上納に差し支える旨を上申したが、そのなかできす子網・藻手操網・こち網・片寄など二〇種の網をあげている。
 好漁場に囲まれる今治藩では、中期以降は漁業税の増収に積極的となり、享保四年(一七一九)に運上銀をすべて五割増とした。椋名村柳原家に与えていた鱸網代に他者の入漁を許し、やがてその三分の二を取り上げた。漁獲の不安定な鯛にかえて、鰆を領海第一の魚とし、従来鯛漁の障害として制限していた鰭流し網を増やし、他所網の雇いを自由とした。鰆網は文化文政期に急増し、嘉永年間には四阪島近海だげで五〇帖以上が操業していた。鰆は藩の専売となり、漁師は一〇本に六文の運上を払った上で、すべて城下の塩屋藤吉に売らねばならなかった。加工出荷も藤吉の一手請負で、抜げ売りをすれば鑑札取り上げの上過料一〇貫文の規定であった。
 従来は禁止が原則の延縄も公認され、釣漁師と争いを起こした。運上は釣一匁に対し、一縄五匁であった。文久四年(一八六四)四月、漁師町の延縄は従来の五〇艘から八六艘に増株が行われ、場所(深さ)や餌の制限も無くなり、釣漁師には大きな打撃となった。天保以降は商業資本の競争が活発となり、城下新町、漁師町はじめ各浦々の庄屋網元らも生魚歩買商株を手に入れ、魚の買い集めを行った。中には漁場に酒や米、漁具を持ち込んで、魚と交換する問屋もいた。この期に他領から進出していた魚問屋には尼ヶ崎の壁屋仁兵衛、同八左衛門、松山藩来島村の忠五郎、野忽那村吉右衛門らがいる(愛媛県水産例規集)。

宇和島・吉田藩

 宇和島・吉田の両藩でも正徳六年(一七一六)二月の網方控七か条、同定二五か条、寛政七年(二七九五)五月の網方定一一か条をみると、漁村の変化、それに伴う藩の漁業制度の変化が明らかである(『宇和島吉田藩漁村経済史料』)。まず漁業の基本として絶対的保護を加えて来た元網の売買や貸借、網代の質入れ等が頻繁となり、藩も黙認せざるを得なくなった。網主と網子の関係も薄れ、網子が出漁を拒否したり、他所網に雇われたり、他郷へ退転する例もみられる。吉田藩では網元と網子の取り分は七対三であったが、文化文政期では網子の要求から六対四が一般となった。さらに天保期にかげては人口増加により外浦・岩水・船越など各
所で新網の許可願いが出され、塩成では小網の大網化を願った。希望の漁法はめこか網・ぼら網・はつ立網・かます網など数十種にも及んだ。
 藩側も天保二~三年の間に思い切った漁業政策の転換を行った。網方掟十か条、諸魚取扱定七か条を布達し、一帖ごとに五、六か所も専有していた元網の漁場をすべて引き揚げ、一帖に網代一か所を配当した。余った漁場には小網、新網、百姓網を積極的に認め、新浦の開発を保護した。元網の勢力を押さえ、網子の独立を図ることは藩の増収にもなるが、何より南予漁村の人口圧、貧困による一揆多発の不穏の世情に対応したものと思われる。例えば天保元年の二見浦騒動では、漁場の独占に関して網子らの一七か条もの要求があり、藩も庄屋の非を認めて立ち退きの処分とした。
 また高額ではあるが浦手商札、生魚商株を発行して、従来、庄屋・網元層に限定していた魚の売買、干鰯や鰯塩漬などの加工を百姓にも許した。他領からの釣船運上は、天保三年に四匁を六匁に増額し、弘化二年(一八四五)に一二匁、慶応元年(一八六五)には二〇匁と値上げをした。漁事仕度のための貸付銀も、天保期にはそれまでの倍額の四貫目とし、鰹釣船まで用意して貸しており、藩の漁業政策が、元網を中心とした漁村や漁場の秩序保持よりも、増収策に転じたことを示している。

宇和海の鰯漁

 宇和海の鰯船曳と瀬戸内の鯛網は、伊予を代表するだけでなく、全国有数の漁場、漁獲として著名であった。共に一網数十名の網子を要する大規模な漁法である。宇和海は西国一の鰯漁場といわれ、平安期から操業の記録があるが、綿花や甘蔗など商品作物の肥料用としての需要の伸びにより、量産が行われた。寛永四年(一六二七)には上方いづみ浦、播磨なばやくしから入漁しており(「幕府隠密探索書」)、鰯大網も淡路福良からの伝来と伝えている。また鰯は、宇和島藩は元和六年(一六二〇)、吉田藩は寛文五年(一六六五)から黒漬、甘漬、塩鰯、掻鰯などの名で江戸城中に献上した。献上品は鰯方を置き、七、八月に日振島近海産の良品を選んで塩製した。両藩とも漁獲の第一位は鰯で、漁業政策も鰯中心に展開した。
 鰯網には種々の名があるが、基本は本網・結出網と新網で世襲を原則とした。本網は伊達氏入部以前から相伝の大網で、数か所の専用漁場を持ち、入会漁場では優先権を持った。砂浜の少ない宇和海では操業は沖合いで、網船二、手船三、漁夫三〇~五〇人を単位として行う。網部分は長さ約三〇〇メートル、幅五〇メートルであった。結出網は伊達氏入部後に、本網の支障にならぬ海域で主として庄屋層に許された網で、大きさと成立期で大小および新古の名があった。元和~寛永期に五六網、貞享までに全七二網が成立した。
 新網は元禄以降の成立で、新浦開発後、戸数二〇戸に達した場合に許された。別に大網に付随して小網があり、漁獲の少ない時期に使用された。網の所有形態は(一)個人有、(二)村有、(三)共同有・催合有、(四)網代は前・控等の名で呼ばれる専用、(五)一定期間使用許可の請・入会、(六)公儀網代と分けられた。公儀網代は藩有で、二歩銀を上納して使用させた。これら諸網は寛永以降の網方掟によって操業された。

鰯網の経営

 大網の経営維持には多大の労働力と資金を要した。文政二年一月、吉田藩内で売られた小結出網は、網代と網子一八人を添えて銭八貫七〇〇目であった。そのため網師仲間で銀一〇貫目、藩からも一〇貫目を出して備蓄し、干鰯積み出し時に一俵に付き一匁を積み立て貸付元金とし、網船購入時には浦方役所も一〇~二〇年賦で銀二貫目を貸した。労働力は網子の他に浜揚げ時の手伝い人、加工者、船の修理や網干し等に老若男女を問わず浦ぐるみの総人数が必要であった。村人は前借りや耕地の小作関係でも網元に依存し、家族以上の浦ごとの共同体が成立する。操業の分け前は、経費や公役分を差し引いて網元六対網子四が一般であっ
たため、多くの家族を抱える網子の生活は、ひどいものであった。
 鰯はほとんどが干鰯に加工されて上方へ出荷され、藩には公定価格の五分の一が収入となった。宇和島藩の収入は、豊凶の差が激しいが銀五〇~二〇〇貫くらいであった(『不鳴条』)。藩では収入確保のため生鰯の販売や、網子の歩取り分の加工を禁止し、自家肥料分は製造時に土灰を混入する灰掻とさせて区別をした。吉田藩の漁業収入は明暦三年(一六五七)~天和二年(一六八二)の間豊漁で六〇貫、不漁で一〇貫、二六年間の平均は三二貫余であった(『郡鑑』)。なお干鰯の製造と販売は、西条、松山、大洲各藩でも盛んであった。

燧灘の鯛漁

 燧灘は鯛・鰭の漁場で、干鯛・塩辛・からすみが西条・今治・松山各藩から江戸城中へ献上された。鯛漁は一本釣り、延縄の他、近世初期までに葛網・地引網・地漕網・沖取網、中期以降に五智網・縛り網・築磯・手繰りなどの漁法が発達した。最も大規模なものは縛り網で、漁船一〇般と網子五〇人を使用する。しかし一般には漁船八~一〇艘と二五、六人で操業する好能率の五智網がよく行われた。
 網元は化政期で魚島六(天保期は九)、上弓削三、岩城二、漁師町一三(天保期は二三)、宮窪三(同六)、友浦村四である。操業は「鯛網網代番付」により網代を順に交替して行われた。網株は岩城村文政二年の売買例では諸道具をつけて三〇両、上弓削村嘉永二年の例で銀二貫匁であった。今治藩は御用鯛を大浜・魚島二村に命じ、五月の盛漁期には掛役を派遣して鯛漁の保護、製造の監視に当たった。享保四年(一七一九)大浜は鯛一、四九三枚、干鯛一〇〇枚、塩辛四斗五升を上納、天保ごろでは干鯛三〇〇枚、塩辛三斗であった(大浜柳原家文書)。魚島村は弘化五年(一八四八)三月、干鯛三五〇枚、塩辛五斗の上納を命じられた。
 新居浜浦の五智網は、九州五島から移入され、寛文六年(一六六六)には七帖あった。塩辛は元文五年(一七四〇)には既に献上されており(白石家文書)、製造は藩直営で東町海岸で行われた。当初八斗三升三合を上納したが、文政五年(一八二二)から六斗九升八合となった。しかし、その製造には鯛約二、〇〇〇枚を要した。からすみと腹あけ鯛・鰭は、塩漬けとして江戸や上方へ出荷された。壬生川村には鰭流し網があって、からすみ五〇〇挺を献上した。

表3-40 宇和島藩諸浦々の家数と諸負担

表3-40 宇和島藩諸浦々の家数と諸負担


表3-41 宇和島藩網舟の構成

表3-41 宇和島藩網舟の構成


表3-42 今治藩島方(21か村)の漁業関係小物成

表3-42 今治藩島方(21か村)の漁業関係小物成