データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 久米郡衙推定地―久米窪田Ⅱ遺跡―

 立地

 本遺跡は高縄山系の山麓に、重信川及びその支流の小野川等の開析により形成された扇状地扇端付近(標高四六・四六メートル)の湧水の多い高台にある。
 遺跡の北方、約六〇〇メートルのところに国道一一号線が東西に走り、南方一・二四キロの平野部の独立丘陵上には、古墳時代後期の前方後円墳である波賀部大塚古墳がある。また、西方約三・二キロのところに「伊予風土記」逸文で名高い天山がそびえ、天山の東南方には白鳳期の来住廃寺跡(国指定史跡)がある。廃寺跡は久米窪田Ⅱ遺跡から約八五〇メートル西に位置している。

 遺跡の歴史的背景

 久米地区の原始文化は鷹子町や北久米の山田池周辺の山麓に発生した。国府型のナイフ型石器を出土した旧石器時代の五郎兵衛谷遺跡や縄文時代の久米山田池遺跡(後、晩期)がその例である。
 弥生時代になると二環濠が検出された来住Ⅴ遺跡(前期)、パン小麦出土の来住Ⅲ遺跡(中期)、越智町遺跡・居相遺跡・天山北遺跡(後期)などが洪積台地上や平野部に出現する。
 次の古墳時代は平井町の観音山古墳(中期)をはじめとして、天山・星ノ岡・東山古墳群、温泉郡川内町の北方古墳群、北梅本・南梅本の播磨塚古墳群、平井町平井谷の平井谷古墳群、平井町今吉のかいなご古墳群、鷹子古墳群(芝ヶ峠・山田池・たんちやま古墳)などの後期古墳が山頂や丘陵に分布している。平野部にある高井町の波賀部大塚前方後円墳や、今は消滅してないが巨石古墳と伝えられている新畑のタンチ山古墳は鷹子古墳群に属するものであろう。また、温泉郡川内町南方の川上神社古墳は北方古墳群に含まれるであろう。 波賀部の大塚古墳は後期最大の前方後円墳であり、川上神社古墳ともどもいずれも六世紀末から七世紀前半に比定される首長墓である。播磨塚古墳群は丘陵上に一〇数基立地する群集墳であり、清寧、顕宗両帝の擁立に功のあった播磨の国司、伊予の来目部小楯の墳墓と伝えられており(愛媛面影)、周囲の古墳群は小楯一族の墳墓と推定される。これら終末期の首長墓に対して、やや先立つ首長墓が天山一号墳である。天山一号墳は有銘の半円方形帯神獣鏡を副葬していた六世紀前半の首長墓である。
 古墳時代後期における久米地区の発展は、これら古墳の分布状況から推測すると、天山、星ノ岡周辺から順次東部の鷹子、平井、梅本、北方の山麓や平野部、さらに重信川流域に拡大されていったのであろう。
 松山平野の他の古墳群は大きく分けて、主なものを挙げれば北部の北谷古墳群(権現町)、西山古墳群(高浜、勝岡、衣山、大峰台)、道後古墳群(祝谷、御幸、石手寺)、桑原古墳群(お茶屋台古墳群)、津吉古墳群(津吉、矢谷)のほか、先の久米及び北方古墳群などに分類される。この古墳の分布圏は当時の豪族勢力圏をも示している。
 大化改新(六四五)以後の律令時代になるとこれら有力豪族は権威の象徴としてかつての古墳に代えて寺院を建立した。久米地区の廃寺には白鳳期の来住廃寺、天山付近には、朝生田廃寺、波賀部神社付近には千軒廃寺(高井町)が知られている。このほか、松山平野には同時期の廃寺として、湯之町廃寺(祝谷)、内代廃寺(上市)、中村廃寺(中村町)、上野廃寺(上野町)もあり、かつての温泉郡や久米郡に古代寺院が多い。
 奈良時代の久米郡は小郡であり、里は二~三で郡庁の官吏には四等官の領一人、主帳一人がおかれていた。外に雑任として書生、案主などがいた。
 里は霊亀元年(七一五)に郷と改められたが、元慶五年(八八一)の久米郡の郷数は三郷あり、領職も大領、少領各一人となり増員された。元慶八年(八八四)の久米郡内の課丁数は七〇二人で一郷平均二三四人となる(類聚三代格)。郷数は承平年間(九三一~九三七)に成立した和名抄の流布本では天山、吉井、石井、神戸、余戸の五郷となっている。この中には久米郷の名はみられない。
 久米郡内の条里制は旧久米村の北久米、来住、南土居のほぼ中央部から西方の天山、星岡、東石井、越智、今在家、土居、北土居、森松、西石井、居相の各町一帯にかけては明瞭に認められる。しかし、北久米、南土居の中央部から東方の平野部は一部を除いて希薄である。条里割りが認められるのは新畑、久米窪田町、高井町、南高井町あたりまでである。それも、小野川や内川の氾濫により消滅しているところが多い。久米窪田Ⅱ遺跡と来住廃寺は同一条里線上に位置していると思われる。
 生産遺跡は時期は判然としないが、小野地区北梅本の悪社窯跡、平井駄馬窯跡などの須恵器焼成窯が存在する。久米地区外では奈良時代の衣山窯跡、伽藍窯跡(温泉郡重信町)で瓦、須恵器が焼成されていた。

 地方豪族久米氏

 大化前代における国造制度下の久米地方には久味国がおかれ、国造として軽島豊明(応神)朝の代に神祝尊一三世の孫である伊予主命が任命されたとある(国造本紀)。また、神魂命の八世の孫に味日命があり、その後裔を久米直としている(新撰姓氏録)。つまり、伊予主命の子孫が久米氏である。一方、「古事記」の久米歌には久米直の祖を大久米命とし、同天孫降臨には天津久米命としている。大久米命と天津久米命は同一人物であろう。久米氏は大伴氏とともに武人として皇室の警備に当たっていた。大久米命の子孫と国造伊予主命の子孫らがともに伊予の久米氏として久味国を本拠に繁栄したものと思われる。
 先に述べた来目部の小楯は久米氏の一族であり、播磨塚古墳群を小楯一族と関連づけて考えるならば、地方豪族や官人層が古墳を造営したことや所有の部曲を使役して古墳を造営したであろう事例を示す貴重な資料といえよう。こうした系譜をもつ久米氏が久米郡衙の郡司に任ぜられたとみてもさほど問題はないように思われる。

 久米郡の成立

 郡の前身である評は藤原宮(六九四~七一〇)出土の木簡に、・「伊予国久米評□□」・「天山里人 宮末呂」とあるので、大宝令(七〇一)制定後、久米評から久米郡へ移行したことがうかがわれる。ところが、「伊予国風土記」逸文によれば「伊予郡、郡家より東北に天山あり」として、天山を伊予郡に入れている。天山は本来、藤原宮出土木簡や和名抄で明らかなように久米郡に属すべきものである。したがって、風土記編さん着手の和銅六年(七一三)ごろには、久米郡は存在せず、編さん後、伊予郡から分郡されたと解釈する説がある。
 久米郡の史料上の初見は天平二〇年(七四八)の「久米熊鷹年五十伊像国久米郡天山郷戸主」(正倉院文書)であるが、このことにより、すくなくとも天平二〇年までには久米郡が成立していたことになろう。天平神護二年(七六六)には久米郡の伊予神が神階従五位下に叙され、神戸二姻を与えられている(続日本紀)。この伊予神は平安時代の「新抄格勅符抄」などによると伊予豆比古命神社(松山市居相町)と考えられるが、その所在地については「延喜式」神名帳は伊予郡としている。これに従えば、久米郡には延喜式内社は存在せず、また、久米郡自体の存在も否定される。しかし、天平二〇年以後の久米郡の存在は、まず疑いないところから、延喜式の誤記と思われる。
 このあとの久米郡衙遺構(推定)出土の遺物年代は明らかに八世紀前半のものを多く含んでおり、文献からみた久米郡の成立時期とほぼ一致し、矛盾は感じられない。

5-6 久米窪田Ⅱ遺跡実測図

5-6 久米窪田Ⅱ遺跡実測図