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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 推定郡衙遺構と遺物

 掘立柱建物跡

 七棟の建物跡が確認された。規模、柱穴の掘方などが明らかなものは六棟である。建物群は方位などからみて二群に分類される。A群はSB〇一~SB〇二の東西棟掘立建物跡であり、B群はSB〇三~SB〇六の南北棟掘立柱建物跡である。
 A群のSB〇一は三×二間の桁行三・八二メートル、梁間三・〇四メートルの掘立柱建物跡である。方位は北で一三度東にかたよっている。柱穴は径約五六センチ、深さ二三センチの小形円形掘方である。柱間寸法はやや不規則である。SB〇二はSB〇一より規模は大きいが、類似の建物跡と推定される。
 B群のSB〇三は間数が三×二間で桁行三・九八メートル、梁間三・四八メートル、柱間寸法は桁行一・三三メートル、梁間一・七メートルと等間になっている。柱穴は平均値が長辺七六・四センチ、短辺六六、四センチ、深さ四五センチの方形柱穴である。SB〇四は規模が最大で、三×二間の桁行七・〇八メートル、梁間四・六メートル、柱間寸法は桁行二・三六メートル、梁間二・〇八メートル等間である。柱穴は長辺一〇三・四センチ、短辺七七・八センチ、深さ五〇・二センチの方形柱穴で建物群中最大のものである。SB〇五は三×二間で、桁行三・六五メートル、梁間三・四〇メートルの小型建物である。柱間寸法は桁行一・二二メートル、梁間一・七〇メートルの等間となっている。柱穴は長径六二・〇センチ、短径五〇・〇センチ、深さ二九・四センチのだ円形が多い。SB〇六は間数が三×二間、桁行三一・八〇メートル、梁間三・四四メートルで柱間寸法は桁行一・二六メートル、梁間一・七二メートル等間であり、柱穴は径五二・九センチ、深さ五〇・〇センチの円形柱穴である。この建物は一部に礎石を使用している点が注目される。
 建物群のうち、B群は周辺に類似の建物が存在しないことからみてこの四棟で一区画をなしていると思われる。主要建物は規模が大きく、方形の柱穴形態をもつSB〇四、SB〇三であり、他のSB〇五、SB〇六は倉庫的な付属建物かも知れない。建物相互の隣棟間隔は東西間には配慮はないが、南北間では約一・八〇メートルの距離が保たれている。掘立柱建物群の用途や性格については明確でないが、建物群南部の至近距離にある大溝や大溝中の井戸に接し、また、大溝中から大量の杯、皿、高杯などの須恵、土師製の食器類が出土しているので厨院の可能性もある。B群の掘立柱建物跡は棟の方向が磁北に沿っており、方位などの統一性からみてA群に後続するものであろう。
 大溝の幅は平均五・〇メートル、深さ一〇~二〇センチで遺跡の南東部から南西部に向けて流れており、恐らく遺跡を囲む遺構の一部と推測される。この大溝の中央部に長辺(東西)二・三メートル、短辺(南北) 一・四メートルの井戸が設けられていた。井戸は大溝中の湧水箇所を中心に檜材の板枠で方形に枘組みし、さらに内部の四すみに杭を打ち込み、外側からは粘土で固め、その上に河原石を敷きつめて井戸枠を固定していた。

 出土遺物

 大溝からは木簡をはじめ、円面硯、祭祀用の人形代、食膳具の曲物、服飾具の櫛、下駄、須恵器製作用のあて道具などの木製品、紡織具の紡錘車、須恵器・土師器の土器類、墨書土器などが出土した。
 木簡は大溝に投棄された状態で十数点出土した。形態は文書様、付札様、習書様の三型式である。
 文書様木簡は短冊型のものが多く、付札様木簡は短冊型の板の両端または一端に切り込みをいれたものである。付札は一種の荷札であり、律令制の基本税の一つ調(地方の特産物)の納入の時に使用された木簡である。長さ一七・八センチ、九・三センチ、幅二・三センチ、一・三センチ、厚さ〇・六ミリの付札が二点出土している。
 これら木簡類のうち、文字の残存しているものは二点であるが、いずれも墨痕がうすく解読できていない。ただ一点のみは「□大□□□(長カ)□」と読める。この木簡は何度も削られており、練習用、すなわち習書様木簡の可能性がある。しかし、そうではなく文書様木簡であれば、文書の書き出しが年号である干支年からはじまっていないので、大宝令(七〇一)以後の形式ということになろう。木簡の大きさは、長さ二七・四センチ(残存部)、幅二・七センチ、厚さ〇・五ミリである。出土した木簡の材質は大部分が檜材であり、杉材はわずかであった。

 人形代・削掛け

 人形は文字どおり、人の身代りをなす形代である。つまり、人形で自分の身体をなでて、穢、禍を人形に移し、それを川や海に流す「祓・みそぎ」の神事に使用された。
 人形、削掛けなどの木製模造品は古代の宮都を中心に地方の官衙遺跡などから出土しており、また、「大宝令」の神祇令や「延喜式」の神祇式にみられる国家的祭祀に使用されているところから、これらの行事は一般には律令的祭祀の名称でよばれている。ただ、この人形は官衙的遺跡だけではなく、一般の集落遺跡(三重県柚井貝塚遺跡)からも出土することがある。人形は檜のうすいへぎ板によって作られた形代で、長さ二〇~三〇センチ、幅二~三センチ程度のものが多い。時期的には七世紀後半の天武、持統朝から出現するとされている。
 人形は肩部や手足の形態によって四型式に分けられている。A型はなで肩であり、B型は斜行なで肩ともいうべきもの、C型は肩部を水平にした怒り肩で、呪い人形などがこれにあたる。D型は長首でいかり肩のタイプである。A~C型はいずれも胴部側面下方から切りこんで、手を作りだしている。
 実測図の人形はA・B・D型にあたる。A型(1、11,12)・B型(2)は八世紀、D型(5)は九世紀代の人形代と思われる。人形の寸法は、顔の幅が四・二~二・三センチ、胴部は五・〇~四・三センチ、厚さ〇・六~○・二㍉ぐらいである。
 削掛け(6~10、14~18)は細長い板材の両端をとがらせ、側面に切りこみをほどこした串状の木製品である。斎串ともいわれ、二型式ある。
 A型は板材の両端を圭頭(三角状)にしたもので、側面に切り込みのあるもの、ないものの両型式がある。B型は板材の上端を圭頭状に、下端を剣先状につくるもので、やはり側面に切りこみのあるもの、ないものの二形式がある。C型はその他の型式である。
 本遺跡の削掛けはすべて下端が剣先状のB型なので、八世紀以降のものであろう。寸法は一八・五~二二・五センチ大のものが多い。なお、前川Ⅰ遺跡(松山市)の削掛け(14~18)もB型と思われる。墨書土器は土師器や須恵器の底部、胴部、蓋の外側などに文字や絵画などを書いたものである。土器の器形は皿、杯、蓋、壷などが一般的である。字数は一字が多い。墨書の内容は所属所名、食物名、器物名、所有者名、使用目的、習書や落書きに類するものが大半である。久米窪田Ⅱ遺跡からは「上」、「ノ」、「□史」などと読める墨書土器が出土した。「上」の意味は明確でないが、人名の一字を記したものと思われる。「ノ」は何かの記号であろう。墨書土器の器形は土師器皿一点を除き、他はすべて須恵器の杯である。時期は奈良時代(八世紀)に該当しよう。
 硯は円面硯と方形をした風字硯とに大別される。この遺跡からは径一七・七センチの大型硯と径七・〇センチの小型硯が出土している。
 先の木簡、墨書土器とあわせて円面硯の出土は貴族階層、官人、僧侶の存在を意味している。また、紡錘車、須恵器製作用のあて道具(青海波文)や叩き板などの加工木製品、砥石、多量の杯・皿・甕・壷類の土師器、須恵器などの出土遺物からみれば工房的施設(細工所)の存在を考えさせる。土器類は七世紀末から八世紀代のものが主体である。
 全般的にみて、この遺跡はすくなくとも七世紀末から九世紀代まで存続していたが、その盛期は八世紀中葉と思われる。
 さて、久米窪田Ⅱ遺跡の性格を推測すると、磁北に沿った四棟の掘立柱建物遺構や付札木簡、祭祀具の人形などの遺物に示唆されているように単なる寺院ではなくて、官衙関係遺跡としてよさそうである。
 他の郡衙遺跡については、若干推定されているものもあるが、遺構、遺物の出土が確認されておらず明らかでない。

5-7 久米窪田Ⅱ遺跡出土木簡実測図

5-7 久米窪田Ⅱ遺跡出土木簡実測図


5-8 人形代・削掛け実測図(1~10久米窪田Ⅱ、11~18前川Ⅰ)

5-8 人形代・削掛け実測図(1~10久米窪田Ⅱ、11~18前川Ⅰ)