データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
1 郡衙の様相
郡衙とは
大化二年(六四六)、改新の詔によって政治の大綱が示され、行政区画として全国を国、郡、里に分かち、国司、郡司、里長を任命して地方体制の確立がはかられた。
大宝律令(七〇一)の制定により、国を大、上、中、下の四等級に分けたが、伊予国は上国となった。国の下部の行政単位として郡が設置され、伊予には宇摩、新居、周敷、桑村、越智、野間、風早、和気、温泉、久米、穴、伊予、喜多、宇和等の一四郡がおかれた(和名抄)。このうち、久米郡の成立時期については問題が指摘されている。これらの各郡には政庁として、郡家ともいわれる郡衙がおかれ、郡司が徴税などの政務をとった。
郡衙の構造
郡衙は基本的には宮城や国衙のあり方と同じ特徴をもっているものの、現実には地方の実情に即して、設営されている例が多い。たとえば八世紀後半になると正庁が郡衙の中軸線上に配置されず、また、方位が国衙の真北方向に対し、郡衙には多様性がみられるなど変化してくる。建物の配置についてもコ字型、並列、縦列、L字型などの対称的配置から非対称的配置に変わるという傾向にある。しかしながら、計画的、統一的という律令的特質をもつことから、一般の集落や豪族の居宅とは区別されるものである。
郡衙の建物は、郡庁、倉庫、厨や館などの官舎数ブロックから構成されている。平安時代の例ではあるが、建物群は大きく分けて、二四棟を完形とする館舎群と郡の規模に応じた棟数の倉庫群から成っていた。官舎群二四棟の内訳は郡庁院を構成するもの四棟(庁屋、向屋、副屋、公文屋)、一館から四館までの館院を構成するものが各館四棟で計一六棟(館屋、宿屋、納屋、厨、厩など)、厨院を構成するもの四棟である(上野国交替実録帳)。用途別に群をなし、全体あるいは群内で方位に統一性がみられる。また、各群が溝や柵で区画されることが多く、郡衙全域の四至を土塁や溝で区画する例がある。
郡衙の立地場所も低台地や丘陵基部に造営されることが多い。このように統一性がみられることは、郡衙が一定の計画に基づき、短期間に造営されたことを示している。