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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 洲之内 徹 (すのうち とおる)
 大正2年~昭和62年(1913~1987)作家。大正2年に松山に生まれ、東京美術学校建築科を中退する。昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟に加入し左翼運動を続け検挙される。釈放後は松山で同人雑誌「記録」を創刊する。ドストエフスキーの著書を読み思想的に変貌する。後、特務機関員として中国に渡ったりもする。戦後小説を書きはじめ、『鳶』『棗の木の下』『砂』『終りの夏』などを発表し、いずれも芥川賞の候補となった。松山で古本屋を営みながら精力的な作家活動をする。昭和27年上京し、戦友であった作家田村泰次郎経営の現代画廊に入社し、引継いで経営者ともなる。昭和41年4月に『棗の木の下』を現代書房より刊行し、上記の作品をまとめる。また美術随想集として『絵の中の散歩』『気まぐれ美術館』などがある。昭和62年10月28日、東京で73歳で没する。

 須田 武男 (すだ たけお)
 明治41年~昭和51年(1908~1976)教育者、県議会議員、郷土史研究家。明治41年9月26日、北宇和郡明治村富岡(現松野町)で須田啓市の長男に生まれた。日本大学で歴史・地理を専攻した。北宇和郡内愛治・清満・三間小学校の教員を務め、戦時中は東京・千葉・愛媛の各県で高等女学校・実業学校で教鞭をとった。戦後,県視学になり,松丸中学校創立に際し学校長に就任,県立松丸高等学校長を兼任した。昭和26年4月県議会議員になり,中正クラブに所属した。 30年4月の県会議員選挙には落選したが,34年4月の選挙で返り咲き,民社党に所属した。郷土史研究でも造詣が深く,『南予中心伊予郷土史』『伊予先哲言行録』『豊臣時代の伊予領主』(愛媛文化双書)などの著書があり,『松野町誌』を編さんした。昭和51年9月3日,67歳で没した。

 須藤 南翠 (すどう なんすい)
 安政4年~大正9年(1857~1920)言論人,読物小説家。安政4年11月3日,宇和島城下鎌原通(現宇和島市)で藩士須藤旦の次男に生まれた。父は幕末維新藩の重臣として活動した。本名光輝。幼時は父について江戸に行き麻布竜士町の藩邸に育ち,維新後父の退官により宗族と帰国,明倫館・愛媛県師範学校に学び,三津浜小学校の教員を務めた。明治11年3月東京に出奔,土屋郁之助と名乗り放浪,「有喜代新聞」の活版工から取材記者となり,時評を書くかたわら絵入り連載小説の執筆を始めた。「有喜代新聞」改称の「開花新聞」「開進新聞」の毒婦物諸作で読物の代表作家の名声を博し,「読売新聞」の饗場篁村と共に二巨星と称された。 30年から著作生活に入り,作品を「新小説」や「国民之友」に発表,『こぼれ松葉』などを次々と出版した。代表作『新粧之佳人』『照目葵』など。大正9年2月4日, 62歳で没した。

 須藤  旦 (すどう はじめ)
 文化14年~没年不詳(1817~)幕末維新期宇和島藩の重臣・大参事。文化14年6月宇和島で150石取りの藩士須藤家に生まれた。通称段右衛門・但馬。文化14年家督を相続し,文政6年児小姓,14年近習を経て弘化2年目付兼軍役兼帯を命じられ,嘉永6年のペリー来航以後江戸に出て活動,薩摩・長崎・筑前・福岡などに往来して諸藩への使者の役割を果たした。幕末維新の功労はきわめて大きい。同藩の志士,西園寺公成や得能亜斯登らと親交があった。明治2年10月宇和島藩大参事になり維新期の藩政事務を担ったが,明治3年に退職,ほどなく没した。読物作家須藤南翠は次男である。

 須藤 頼郷 (すどう よりさと)
 文化8年~明治6年(1811~1873)宇和島藩士。通称は忠太夫,号は三陰と称す。矢野組の代官として八幡浜に住み,西豫地方を治めることに尽くした。国学,歌道に通じており,人格も立派で地方民から敬慕された。晩年は宇和島に帰り専ら風月を友として吟詠を楽しむ。明治6年1月死去,62歳。

 須之内 品吉 (すのうち しなきち)
 明治16年~昭和40年(1883~1965)衆議院議員,法学者。明治16年11月24日,和気郡太山寺村(現松山市)に生まれた。大正3年東京帝国大学英法科を卒業,同大学院で商法を専攻して東京で弁護士を開業した。やがて欧米に留学し,10年,立教大学講師になった。 13年5月郷党に推され,勝田主計のすすめで第15回衆議院議員選挙に政友会公認第2区候補として立ったが落選した。昭和3年2月初の普通選挙による第16回衆議院議員選挙には第1区から再出馬して最高点当選したが,5年2月の選挙で落選, 7年2月の第18回選挙で当選,11年2月の選挙で落選を繰り返した。 12年4月の選挙を前に政界を退ぎ,18年から立教大学教授になり,また東京地方裁判所調停委員・司法委員などを務めた。昭和40年11月20日,東京で没した。 81歳。

 須山 正夫 (すやま まさお)
 万延元年~大正10年(1860~1921)郷土史家,県議。万延元年4月18日温泉郡土居田村(現松山市土居田)に出生,父は正業。地方公共事業に奔走,村長を勤め,県会議員にも任じ,趣味広く,詩賦に長じ,歌と俳句をよくし,書画篆刻に巧みで,逸士の風があり蔵沢の画を通して蔵沢研究の第一人者。大正9年春,郷党耳順を祝して頌徳碑を建つ。翌大正10年没,享年61歳。土居田町経石庵に葬らる。著書に『偉人蔵沢翁』もあるが,考古学的な関心も深く大正8年「素鵞村出土物に就て」を「伊予史談」に発表し中村町素鵞神社周辺での石器・土器ことに古瓦などの究明に貴重な資料を残している。

 末広 静古園 (すえひろ せいこえん)
 天保3年~明治22年(1832~1889)教育者。もと宇和島藩士で,名は静修,字は成侯。橋本武昌の次男で末広雙竹の養子となる。学識豊かで,経史,詩文,算数,書道に通じた。宇和島藩では勘定見届役となり,藩政の枢機に参与するかたわら,藩士の青少年を教育した。子供がなく,義弟末広鉄腸を入れて養子とした。世事には超然として,くったくなく,子弟の来て教えを求めるものには熱心に懇切に教え導いたが,謝礼に金を受けるのを喜ばず,酒肴を持参すれば欣然としてこれを受け取ったという。陶渕明の風格を慕い,詩作にも渕明の調があった。明治22年4月16ロ死去,57歳。

 末広 鉄腸 (すえひろ てっちょう)
 嘉永2年~明治29年(1849~1896)言論人・政治小説家で,政治運動も主導して民権論を鼓舞した。嘉永2年2月21日,宇和島笹町で藩士末広禎助の三男に生まれた。幕末の志士で,北宇和郡長の都築温は兄である。本名重恭,幼名雄次郎。藩校明倫館に学び,「日夜苦学,殆ソト文庫中ノ蔵書ハ読ミ尽ス」状態で,明治2年21歳で教授に抜擢された。3年,江戸・京都に遊学して5年帰郷,神山県・愛媛県の官吏を務めた後,7年大蔵省に入ったが,ほどなく辞した。8年「東京曙新聞」の主筆となり筆名を鉄腸と号し,新聞紙条例を攻撃して最初の条例違反者として禁固刑を受けた。ついで「朝野新聞」で論陣を張り,しばしば処罰されるが,この筆禍が論客としての名声を高めた。自由党が結成されるとこれに加盟したが,党首板垣退助の外遊に反対して同党を去った。その後も朝野新聞の主筆として論壇の評価を高めたが,17年糖尿病で静養を余儀なくされ,この機会に『雪中梅』(19年),『二十三年未来記』(19年),『花間鴬』(20~21年)の政治小説三部作を執筆してベストセラーになった。この印税で21年4月から外遊,欧米の政治事情を視察して翌年帰国した。外遊中,フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールと知り合い,政治小説『南洋の大波瀾』(24年)を発表する機縁となった。また故郷宇和島の和霊騒動を題材にした『南海の激浪』(25年)を出版して好評であった。政治面では,大同団結運動に加わり,憲法発布後の国会進出を意図して,22年宇和島に帰省,県内各地で政談演説会・懇親会を開いて民権論を鼓舞,県政界を理論面で指導した。明治23年第1回衆議院議員選挙で第6区から当選した。しかし民党にありながら政府予算案に賛成したとして25年2月の第2回衆院選挙では郷党の支持を失い落選した。この年シベリア・中国方面に旅行し,『東亜の大勢』『北征録』を著して国権論に傾いた。 27年9月第4回衆院選挙に無所属で立って当選,国会に返り咲き,全院委員長に選ばれた。 28年舌がんに犯され,病床にあって遼東半島の還付を憤慨して激文を書き,『戦後の日本』を執筆した。明治29年2月5日46歳で没した。東京朝日新聞は「今や邦家の前途について画策すべき事頗る多く,益々志士を要するの時に当り,硬骨男児を失う。惜しみても余りあると謂ふべし」と,その死を惜んだ。遺骸は郷里宇和島の霊亀山大超寺に納められた。法学博士末広重雄,工学博士末広恭二は重恭の子であり,魚の博士として有名な末広恭雄は孫にあたる。

 末広 恭雄 (すえひろ やすお)
 明治37年~昭和63年(1904~1988)学者・農学博士。東京で明治37年6月14日,父末広恭二(物理学者・東大地震研究所長)の子として生まれる。本籍は宇和島市本町119で,祖父は政治小説・評論家の末広鉄腸である。昭和4年東京帝国大学農学部水産学科を卒業し,農林省水産試験場勤務の後,同19年から東京大学教授となり同40年に退官し,東大名誉教授となる。同42年から京急油壷マリンパークの取締役・同水族館長を務める。魚学の第一人者で〝さがな博士〟として有名であり,昭和30年から同34年まで皇太子殿下に魚学を進講する。とくに地震発生前の魚類の異常行動に関する研究は注目を集めた。〝生きた化石〟シーラカンスの学術調査隊の総指揮をとり,同61年7月にはアフリカ大陸東岸でシーラカンスの海中遊泳撮影に世界で初めて成功する。水族館では,さまざまな魚の生態を応用し「魚の音楽会」などを催し,ユニークな経営ぶりで子供たちにも喜ばれた。作曲もプロ級で,東京大学の応援歌「足音を高めよ」やサトウ・ハチロ―作詞「秋の子」宇和島城東中学校の校歌などの作品があり,日本作曲家協議会特別会員でもあった。著書には『魚類学』『ものいう魚たち』『魚の生活』など多数がある。昭和50年には勲三等旭日中綬章を受ける。昭和63年7月14日死去,84歳。

 末光 千代太郎 (すえみつ ちよたろう)
 明治26年~昭和49年(1893~1974)実業家,県会議員。伊豫銀行頭取・会長として金融界・財界の指導者であった。明治26年2月26日,東京で末光類太郎の長男に生まれた。宇和島中学校卒業後京都第三高等学校に入学したが,家事の都合で中途退学して帰郷,やがて卯之町銀行常務取締役になった。大正10年4月宇和町長に選ばれたがほどなく辞職,12年9月県会議員になり,昭和6年9月まで2期在職した。 12年6月にも県会議員に選ばれたが,業務多忙の理由で13年1月辞職した。しばしば衆議院議員の出馬を促されたが政治と実業は両立しないとの信念で固辞し続けた。この間,昭和6年宇和卯之町銀行頭取,13年豫州銀行専務取締役,16年伊豫合同銀行常務取締役を歴任,戦後23年9月に伊豫銀行頭取に就任,44年10月会長に退いた。銀行一筋の中で戦前は金融秩序の安定に力を注いで県下の銀行大同合併に貢献,戦後は金融界・財界の指導者として経済の復興と地場産業の育成に尽力した。かたわら県商工会議所連合会会頭・愛媛経営者協会会長・瀬戸内海大橋架橋協力会会長などの要職につき,地域経済の発展に大きな役割を果たし,昭和45年県功労賞を受げた。明治人の気骨と公正な信条を持った清廉な人柄で知られた。昭和49年11月5日,81歳で没した。

 末光 信三 (すえみつ のぶぞう)
 明治18年~昭和46年(1885~1971)教育家,牧師。東宇和郡卯之町中町(現宇和町)で明治18年11月12日に生まれる。明治37年(1904)札幌農学校で農業経済を専攻。札幌独立基督教会で受洗,キリスト教信者となる。農学校YMCAの創設や新渡戸稲造の遠友夜学校を助ける。のち,渡米レミドルヴァレー大学に学び(1910~1915),帰って東北帝国大学農学部教授となる。英文学を講じYMCAで学生と合宿,人格的影響を与えた。以前より新島襄の教育精神に共鳴していたので,大正9年招かれて同志社大学教授となり,教室内にとどまらず新島の名にちなむヨセフ会をリードして人材を育てた。大正12年から9年間同志社中学校長を兼ねたが,国粋主義に追われて同志社女学校長に転じ,さらに昭和8年教頭に格下げされるなど苦難の道をたどった。しかし,同志社の宗教々育を堅持,しばしば当局と対立した。終戦後,校長に復職。一方,昭和2年より同志社教会下鴨集会を育て,同13年賀茂教会をつくり,自らも59歳で牧師の資格を得,戦時下も福音の使徒としてその節をまげなかった。昭和46年9月16日死去。85歳。著書『寸言集』。墓は京都相国寺長得院にある。

 陶  半窓 (すえ はんそう)
 寛政11年~明治6年(1799~1873)教育者。名は惟禎,通称は儀三郎,砂山とも号した。伊予郡郡中町の生まれで幼時より学を好み,詩文に長じて書画もよくした。なかでも詩と書に秀でて,書は巧みであった。はじめは医術を学び,それが家業であったが,維新前より,郡中に私塾を開いて永年青少年の育英に努める。門人二千余人の多きに達して,地方の青年で半窓の教えを受けないものはなかったといわれる。明治6年9月18ロ死去,74歳。伊予市の栄養寺に葬られる。五色浜の彩浜館近くに頌徳碑が建てられている。

 陶 不窳次郎 (すえ ふゆじろう)
 嘉永5年~大正12年(1852~1923)県官。大洲集義社を設立して政治運動に従事,のち初代喜多郡長になった。嘉永5年1月21日,喜多郡八多喜村(現大洲市)で御典医菊山玄渓(逸斉)の三男に生まれた。幼名雄三郎。安政6年藩校明倫堂に入り,慶応元年陶隆平の養子となり陶家を再興した。同3年松山藩鎮撫のため出張,藩主加藤泰秋上京に随従,天皇東京行幸の先駆となるなど国事に奔走した。明治2年啓行隊に参加,明倫堂司読を拝命した。神山県・愛媛県吏員となったが,6年8月参事江木康直に県政につき意見書を提出して辞任した。7年高知に赴き板垣退助らと面談,帰郷後力石八十綱・山下氏潜らと大洲士族60名を結集した政治結社集義社を設立,「起民会之義」を左院に提出したり愛国社に加盟して本県最初の民権団体としての性格を強めた。8年参議に復帰した板垣の招きで元老院書記生となり上京,留守中,武田豊城・永田元一郎らが集義社を不平士族の団体に変えようとしたので元老院を辞してこれの説諭に務めたが聞き入れられず,集義社を解散した。9年権令岩村高俊に懇願されて山下・力石らと県官になり,警部に任用された。11年12月岩村の人材抜擢の1人として喜多郡長を拝命したが,岩村の転任に伴いこれを辞した。その後,高知県警部を経て15年京都府警部長,18年山形県警部長,24年山梨県警部長,25年北海道庁警部長などを歴任して,32年依願退官した。41年喜多郡久米村に帰郷,大正12年3月25日,71歳で没し,大禅寺に葬られた。

 菅井 昇平 (すがい しょうへい)
 明治14年~昭和20年(1881~1945)医師,県会議員。明治14年4月18日松山に生まれた。 34年熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)を卒業して37年松山で眼科医を開業した。県医師会理事などにあげられた。政治を好み,大正15年~昭和5年市会議員,昭和5年~6年県会議員であった。昭和20年2月4日,63歳で没した。

 菅井 誠美 (すがい まさみ)
 嘉永2年~昭和6年(1849~1931)明治期の知事。嘉永2年2月22日鹿児島藩郷士佐藤夢介の三男に生まれた。明治3年菅井誠貫の養子となり,6年家督を相続した。旧名友輔。7年警視庁権少警部に任ぜられ,9年11月末,内務卿大久保利通の密命を受け同僚の中原尚雄ら23名と共に鹿児島に帰省,西郷隆盛の動向探索と私学校党の説諭に当たろうとして逆に私学校生に捕えられた。これが遠因となり西南戦争を誘発したといわれる。戦後,権大警部,17年3等警視に進み,19年以来宮城・神奈川県警部長,三池集治監典獄,愛知・熊本県書記官,警視総監官房主事を歴任,35年12月栃木県知事に就任した。同県では,35年台風による大災害の復旧に腐心した。明治37年1月25日愛媛県知事に転じ,本県に在ることわずか10か月で11月17日に休職した。日露戦争勃発直前に本県に赴任してきたので,戦時下にあって独自の施策を展開する余裕はなく,郡市町村土木補助費の全額削除,教育費と教育・勧業補助費の削減,継続土木事業の繰り延べなど県財政を緊縮した。この更正案を臨時県会を召集せずして県参事会で処理したため,菅井離任後の県会で批判された。知事退職後,私立獣医学校長などを務めた。昭和6年3月18日,82歳で没した。

 菅原 小楯 (すがわら おだて)
 天保8年~大正2年(1837~1913)歌人。宇和郡蔵貫浦(現三瓶町)の神職の家に生まれ,名は主膳,本姓は上甲氏。八幡浜の清家堅庭,松山の三輪田元綱らに学んで和漢の学に通じた。明治初年の諸制度改革のとき上京して神祇官に出仕し,帰って宇和島藩の皇学掛となり,のち郷里の神社に奉仕すること40年,徳行高く人望があって,社務のかたわら文雅を好み,和歌を詠じて楽しみとした。大正2年11月15日死去,76歳。

 菅原 利はる (すがわら としはる)
 明治24年~昭和33年(1891~1958)ジャカード機による紋織タオルを開発した技術者。山形県鶴岡市の生まれ。東京高等工業学校卒業後福島県工業試験場技手,埼玉県工業学校教諭,東洋紡織(株)島田工場長を経て,大正11年今治市の愛媛県工業講習所(現県染織試験場)に勤務。タオル製造技術の研究指導に専念した。当時のタオルは無地または縞柄がほとんどで,織り方・デザインともに単純平凡であった。そのため高級化をめざして,紋織タオルの研究に没頭。大正14年600ロジャカード機を力織機に取り付け,一幅掛浴布(くじゃく模様,三ピック,片面タオル,カード数1320枚)の製織に成功した。これが今治地方におげる絞織タオルのはじめであり,現在のタオル大産地発展への端緒となった。昭和21年県染織試験場長を退任した後も,今治市にとどまって,タオル業界の指導・技術者の養成につとめた。また俳句をよくし村羊と号した。その句〝機ゆれの炬燵に病める織子かな″は氏の温厚典雅な人柄をよく表わしている。第1回愛媛賞(愛媛新聞賞の前身),第1回愛媛文化賞(県教育委員会)受賞。主著は『今治綿業発達史』『タオルドビー意匠図集』3巻『今治タオル工業発達史』など。昭和33年4月3日没(67歳)。今治市吹揚公園に胸像が建っている。

 菅原 長好 (すがわら ながよし)
 文化9年~明治38年(1812~1905)大三島神官・皇典研究者,国学者・歌人。冠石または右京ともいい,菅長好とも自称した。文化9年9月23日生まれ,性非凡,11歳で備中吉備津神社神官藤井高尚に就き,ついで本居大平,平田鐡胤,塙忠瑤(保己一息)らに学び,古学研究者常陸土浦の色川三中(1802~1880)に師事すること3年,師の遺志をつぎ律令田令を明らかにして『田令解』を著し,天覧に供した。木村信競,堀内匡平,三輪田元綱らと神祇官再興をはかり,皇典研究,民衆教化に従い東奔西走した。また法隆寺にこもり,仏典研究にも力を入れ,一時は黒住教によって庶民教化を期待した。進取の気性に富み蘭語を学ぶ等すべてに研究実践を重んじた。明治38年8月9日,92歳で死没した。長好の遺墨類は大三島明神社に保存され,遺品は資料館に若干のこされている。伝記等は同翁頌徳会刊『長好伝』に詳しい。

 杉 甚三郎 (すぎ じんざぶろう)
 文久3年~明治37年(1863~1904)三芳村長・県会議員。文久3年12月7日,桑村郡三芳村(現東予市)で生まれた。英吉利法律学校(現中央大学)を卒業して,三芳村会議員になり,23年2月県会議員に選ばれ27年3月まで在職した。 29年1月三芳村長に就任したが,同年4月辞職した。30年10月~32年9月再び県会議員に在職,郡会議員も兼ね,自由党に属した。明治37年11月10日,40歳の若さで没した。

 杉  芳輔 (すぎ よしすけ)
 嘉永6年~大正14年(1853~1925)戸長・県会議員。嘉永6年4月12日,桑村郡三芳村(現東予市)で生まれた。酒造業を営み,小区長代理・戸長を務めた。明治15年8月~19年3月,21年11月~22年8月県会議員に在職,政治運動が活発化すると郡内大同派の勢力拡大に動き,23年町村合併では県の隣村との合併案に反対して三芳村の存続に指導的役割を果たした。大正14年1月21日71歳で没した。

 杉  宜陳 (すぎ よしのぶ)
 明治21年~昭和24年(1888~1949)衆議院議員。明治21年11月桑村郡三芳村(現東予市)に生まれた。松山中学校を経て45年東京帝国大学独法科を卒業した。通信事務官補を経て朝鮮銀行員になり,勝田主計の知遇を得て大蔵大臣秘書官を務めた。寺内内閣に続いて清浦内閣で再度大蔵大臣となった勝田は大正13年5月の第15回衆議院議員選挙に出馬が取り沙汰され,勝田後援会まで生まれたが,自らは立たず,代わりに秘書官の杉を送り込んだ。このため反対派の憲政会から〝勝田の傀儡〟〝権力候補〟と叩かれ,演説中暴漢に襲われたりしたが当選した。次の昭和3年2月の選挙には立たず,東京で弁護士業務に従事した。昭和24年4月2日,60歳で没した。

 杉浦 非水 (すぎうら ひすい)
 明治9年~昭和40年(1876~1965)画家。明治9年5月15日浮穴郡下林村(現重信町)に生まれ,本名白石朝武。母の実家杉浦家を継ぐ。明治27年愛媛県尋常中学校(現松山東高校)4年修了。日本画を松浦巌暉に学び,東京美術学校(,現東京芸大)日本画選科で川端玉章に師事。在学中に黒田清輝の知遇を得て洋画の指導を受け,アール・ヌ-ボー様式の図案にひかれ,黒田の推挙で大阪三和印刷所図案部主任となり,内国勧業博覧会誌「三十六年」の表紙にわが国初の同様式図案を描く。東京中央新聞社を経て同41年東京三越呉服店嘱託となり,その宣伝誌の表紙を13年間描き続け,ポスターはじめ多くの名作を残す。45年光風会を設立。フランスから帰国後の大正13年(1924)わが国初の商業美術団体「七人社」を設立。昭和2年にはポスター研究誌「アフィワシュ」を創刊。帝国美術学校(現武蔵野美大)工芸図案科長を務めたが,同10年辞任,多摩帝国美術学校(現多摩美大)を創立。 28年,多摩美大理事長兼図案科主任教授となる。作品集に『非水百花譜/非水創作図案集』など。たばこの「響」「パロマ」「桃山」「光」などのデザインのほか,改造社版『現代日本文学全集』はじめ多くの装丁も手がける。昭和30年日本芸術院賞,昭和40年芸術院恩賜賞を受賞する。昭和40年8月18日,89歳で死没。

 杉野 丈助 (すぎの じょうすけ)
 生没年不詳 下浮穴郡上麻生(又は宮内)村生まれ。江戸中期の人で砥部焼陶祖とされ,昭和17年10月,砥部町大南の上ノ山に頌徳碑が建立された。上麻生(宮内)村組頭,在町原町の年寄で代々児島屋を称した陶業の家と伝える。安永4年2月,磁器の焼成を大洲藩から命じられて上原窯を築き,肥前から安右衛門ら5人の陶工を雇い,同郡麻生村の門田金治と共に着手した。しかし磁土・釉薬共に火度と合わず失敗を重ねた。同6年筑前から来住の陶工信言の助言により筑前から釉薬を購入,12月10日初めて磁器の試焼に成功した。ついで伊予郡三秋村に釉薬の良石を発見し,調合にも成功して釉薬も自給化し,砥部焼発展の基礎を作った。墓所は砥部町上麻生の理正院にあるが,大正8年10月に累代墓として整備された。

 杉本 助七 (すぎもと すけしち)
 生没年不詳 別子銅山支配人。別子銅山開坑で支配人田向十右衛門は万端の指揮をするが,吉岡銅山を離れることができないので,一切の業務を手代の杉本助七に引き渡した。支配人となった助七の副として平七,その配下に山留め源四郎,切り上り長兵衛などがいた。元禄6年(1693)6月21日の大風雨で別子銅山の蔵13か所,坑夫小屋200余軒が倒壊する。翌7年4月25日に大山火事に見舞われる。全山の施設のほとんどを焼失,銅山役人河野又兵衛,支配人助七をはじめ手代以下合わせて死者142人を出す。この時の犠牲者を悼んで山中に蘭塔場をたてた。

 杉山 熊台 (すぎやま ゆうだい)
 宝暦5年~文政5年(1755~1822)江戸時代後期の松山藩士,儒官。熊台の先祖は千葉氏の出であったが,のち姓を杉山に改めたという。彼は名を惟修,字を公敏,通称を平之丞・平兵衛,号を東郭ともいった。僧明月について古文辞学を修めたが,のち江戸に遊学し古賀精里の門に学んだ。寛政2年(1790)いわゆる異学の禁が出されると,朱子学に転じた。文化2年(1805)興徳館が創設されると,督学となって藩士の子弟の教育につくした。晩年抜擢されて側用達となり,藩政に貞献するところ大きかった。彼は詩文にも優れていて『杉山熊台遺稿』(彼の死後,藩で刊行された)が世に知られている。文政5年8月に年67歳で没し,遺骸は天然寺に葬られたが,のち山越弘願寺に改葬された。

 鈴木 英一 (すずき えいいち)
 明治28年~昭和44年(1895~1969)能楽師。明治28年3月28日,松山市南夷子町に生まれ,14歳の時,松山の観世流を育てた津田茂尚に入門したが,津田が広島へ去った後,知友であった古川久平に誘われて大蔵流狂言の道へ入った。しかし観世流も捨てず演能も数回に及んでおり,同流観謳会の実力者でもあったので,戦後は同流宗家を初め大家職分を招いて盛大な能を催してもいる。又松山能楽会の理事長を務め,松山市民会館(昭和40年完成)建設の際能舞台を内造する為に奔走して実現し,舞台を失っていた松山能楽界に大きな功績をあげた。年来の能楽活動をたたえられ,昭和35年には第8回愛媛新聞賞を受け,昭和42年には愛媛県教育文化賞を受賞した。古川久平が戦後早く没したため,その後継者古川七郎と力を合わせて各地に活躍し,松山狂言方の命脈を守り続けた功労者である。若い時から多くの辛酸を嘗めて各種の職業に就き,万年青の行商をして全国行脚するなど多くのエピソードを残している。戦後は思の販売や砥部焼の製造販売なども手がけ,松山市民会館能楽堂一階正面の壁を飾る能姿タイルは彼の造ったものである。昭和44年3月30日,74歳で死去。

 鈴木 栄一郎 (すずき えいいちろう)
 明治16年~昭和28年(1883~1953)教育者。明治16年11月2日に宮城県桃生郡中津山村中津山360(現桃生町)栄助長男として生まれる。明治31年宮城県立第一中学校に入学。同35年9月第2高等学校,同38年東京帝大文科大学入学。 41年7月同史学科を卒業し,広島県呉中学校に赴任する。後同校長事務取扱を経て大正9年(1920)旧制松山高等学校(現愛媛大学)教授となる。専門は歴史であるが,考古学美術史にも造詣深く同10年生石の「安楽寺十一面観音に就て」同15年衣山の「瓦窯址発見の記」を「伊予史談」に寄稿。昭和4年開校10周年記念に,当地最初の「道後平野出土品考古展」を開催,展示物の一部は今も愛媛大学図書館にある。これらを通して当地方考古界を開眼指導した鈴木は,伊予史談会の西園寺源透・鵜久森熊太郎・柳原多美雄らに多くの示唆を与えた。昭和3年9月同校教頭となり,同5年9月退官後も講師として在任,同7年3月帰仙後昭和14年から第二高等学校(旧制)講師を務める。昭和16~21年間はその国士肌的性格からか,北京興亜学院の教頭となり,引揚後同25~27年3月仙台第二高等学校に非常勤で務める。昭和28年11月24日没。享年71歳。

 鈴木 悦次郎 (すずき えつじろう)
 明治33年~昭和15年(1900~1940)労働組合運動家・住友別子労働争議の指導者。明治33年5月20日,新居郡角野村(現新居浜市)で小作農の次男に生まれた。小学校卒業後住友別子鉱業所の徒弟となり,ここで隣村金子村出身の山内鉄吉と知り合った。大正6年大阪の住友製鋼所に仕上工として入職,ここで再び山内と出会い,10年の住友製鋼所争議を指導して解雇された。 13年の春ころから日本労働総同盟大阪連合会のオルグとして別子銅山に労働組合の結成を計画,解雇反対闘争を契機に同年10月別子労働組合発会に成功した。 14年山内鉄吉らと大争議を指導して投獄された。その後も総同盟中央委員・大阪金属労働組合主事などを歴任して労働組合運動を指導,昭和9年にはILO総会に労働者代表随員として出席した。昭和15年12月8日,腸チフスにかかって40歳で没した。

 鈴木 銀蔵 (すずき ぎんぞう)
 明治5年~昭和29年(1872~1954)豊岡村長・県会議員。明治5年11月16日,宇摩郡大町村(現伊予三島市)で鈴木伊勢松の四男に生まれた。29年本県巡査拝命,39年朝鮮総督府に出向,大正8年朝鮮総督府警部に昇進,14年退職帰郷した。昭和2年豊岡村長に就任,21年まで20年間村政を担当した。昭和6年9月~10年9月県会議員に在職,民政党に所属した。昭和29年12月14日,82歳で没した。

 鈴木 重遠 (すずき しげとう)
 文政11年~明治39年(1828~1906)衆議院議員。明治期の県政界を代表する政治家であった。文政11年11月19日,松山藩士鈴木超勝の四男に生まれた。通称七郎右衛門,梁坡と号した。昌平黌に入って漢学を修め,帰藩後奉行簾側用人,幕末には藩の執政となり,維新後松山藩大参事を務めた。「藩中屈指ノ人物」で「頗ル漢学二通シ,且ツ世事二老練シ人心ヲ左右スルノカアリ」と評され,小林信近・長屋忠明らと共に藩政の刷新に努めた。明治4年の廃藩置県後官職を辞して久米郡松瀬川に隠退したが,11年海軍省属官にあげられ横須賀造船所に勤務した。 20年これを辞して旧藩主久松家の家政に参与した。同年11月国会開設に際し旧藩主の内命を受けて帰郷,藤野政高・白川福儀らと旧松山士族の大同団結を図り,21年3月には小林信近の譲歩で県会議員に当選した。明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に第1区と第4区から選ばれて念願の国会議席を得,25年2月の選挙にも再選され,自由党に属した。やがて藤野らと不仲になり,27年自由党を脱して立憲革新党に走り,28年3月同党が改進党に吸収されて進歩党が結成されると,高須峯造・井上要らの要請でその愛媛支部長に就任した。 27年3月と8月の衆議院議員選挙にも当選して引き続き代議士であったが,29年進歩党が松方内閣の与党になったことに反発して同党を脱し,井上らの同調を受けて進歩党愛媛支部を解散,愛媛同志会を結成してその会長になった。31年には自由党・進歩党合同になる憲政党創立委員を務めたが,自身は同党に参加せず同年8月の衆議院議員選挙には無所属のままで再選を果たした。憲政党が分裂すると憲政本党に入党,地租増徴反対に活躍,近衛篤麿らの国民同盟会にも加入して強硬外交を主張した。34年伊藤内閣の増徴案に賛成する憲政本党の方針に従わずして脱党,代議士34名と三四倶楽部を組織したが,県内同志の協調を得られず,35年8月の衆議院議員選挙を機会に政界を退いた。明治39年4月7日77歳で没した。性格は「沈着剛毅」で常に「有為ノ気性」を失わなかったが,晩年は中央・県政界の主流から外れて不遇であった。

 鈴木 秀次 (すずき ひでじ) 
 明治13年~昭和36年(1880~1961)軍人。西条市禎瑞で鈴木良助の三男として生まれる。明治28年小学校を卒業し,松山中学へ入学,ついで明治33年,海軍兵学校に入校。同36年海軍少尉候補生となり,日露戦争に従軍する。以来30余年間,甲板士官,分隊士,分隊長副官,副長,艦長を歴任したが,海軍大学在学中2年間英語を専攻し,後にアメリカへ派遣され,英語でアメリカ海軍軍人に日本海軍の伝統について講演をしたという。昭和2年出雲艦長時代,病弱で軍令部出仕となり,ついで予備役に編入される。その後昭和8年まで嘱託として海軍軍政史の編さんに努力する。生来天才的な絵の素質をもっており,三畝と号し,老いてますます気品のある絵画を制作した。昭和36年10月4日,81歳で死去。墓所は西条市氷見岡林にある。

 鈴木 馬左也 (すずき まさや)
 文久元年~大正11年(1861~1922)実業家。日向(宮崎県)高鍋の出身。文久元年2月,高鍋藩家老水筑種節の四男として生まれる。東京帝大法科卒。内務省に出仕して愛媛県参事官などを務めたが,明治29年(1896),伊庭貞剛に懇望されて住友家に入り,別子銅山監督を経て,明治37年,住友本社総理事に就任した。
 明治40年(1907)の別子銅山暴動では,武装讐官および軍隊の出動を要請してその威嚇のもとに説諭鎮圧し,明治43年の煙害賠償交渉では,住友代表として交渉にのぞみ,賠償契約をまとめた。住友銀行取締役としても住友発展の基礎を築き,その功績は高く評価されている。鈴木は「熟慮断行」をモットーとして強力なリーダーシップを発揮した。川田順には「ワン・マン鈴木」と題する一文がある。大正11年61歳で死去。

 鈴木 峰治 (すずき みねじ)
 明治4年~昭和11年(1871~1936)八幡浜かまぼこ製造の元祖。明治4年3月20日,父武三郎,母トモの長男として宇和郡袋町2丁目(現宇和島市)に生まれる。明治8年幼少のころ,父とともに八幡浜に移住した。家が貧しく,10歳のとき,米穀,こんにゃく屋,魚くずし製造店等に奉公するなど非常に苦労したが,11歳のとき明治14年(1881)郷村石堂小学校(後の千丈村にあった)を卒業した。明治23年20歳で大黒町に店を構え,屋号を鈴間屋としてかまぼこの製造に着手した。かまぼこの製造は伊達秀宗が慶長19年(1614)宇和島に入封した際,仙台より伝えられ宇和島でつくり始められたといわれる。峰治はかまぼこの製法を父武三郎に教わり,生来の研究熱心から良質かまぼこの生産に励むかたわら他に伝授したので同業者は次第に増加して大正4年には八幡浜かまぼこ同業組合が結成され,峰治が初代組合長に就任した。また仕事の能率化をはかるべくかまぼこ製造機を考案し,その後もその機械の改良に努め,今日の八幡浜かまぼこ製造業発展の基礎を築いた。明治31年には海外への輸出を目的とした「かまぼこ缶詰」を考案し,製造を開始した。さらに明治36年,調味用品として「削りかまぼこ」を昭和2年には「干魚味醂ぼし」の製造にも着手するなどして好評のうちに広く国内外各方面への販路を拡大していった。この間常に製品の品質向上に意を注いだため屋号「鈴間屋兄弟商会」の名とともに「八幡浜かまぼこ」の名声を全国に高めた。このことは八幡浜が天然の好漁場に恵まれ,底びき網漁業によるエソ,グチなどのかまぼこ原料が豊富に入手できたことも幸した。峰治は大正6年八幡浜最初の魚市場設立にも尽力したほか,魚仲買組合長として活躍する一方,八幡神社の県社昇格に努力するなど敬神の念も深かった。昭和11年8月22日,65歳で没したが,市内はもとより東京,大阪,神戸など県内外の関係者によってその功績に報いるため,昭和14年3月安宕山に「鈴木峯治君頌功碑」を建立している。

 鈴村  譲 (すずむら ゆずる)
 嘉永7年~昭和5年(1854~1930)社会運動家。上甲振洋の高弟で,西南の役に呼応して明治10年国事犯事件を起こした。嘉永7年1月19日,宇和島城下丸ノ内に生まれた。通称清一郎,号は静山。穂積陳重らと共に藩中の五神童の1人と称された。上甲振洋の門下で漢学に通じ詩文に秀でた。時世を慨する師振洋に従ってその手足となり各地の志士の間を往来,明治8年には振洋の命で東京に赴き「乞誅除姦臣之義」と題する建白書を政府に提出しようとしたが果たさなかった。9年鹿児島に向い桐野利秋に面談して決起を促した。 10年西南の役が起こるとこれに呼応しようとしたが事が露見して捕えられ,除族の上懲役2年の刑を宣告された。 12年減刑されて出獄,岩村県令は気骨のある憂国の士鈴村の才幹を惜しみ出仕を勧めたが応ぜず,宇和島で私塾明達書院を営んだ。 16年松山に出て海南書院を開いたが,のち修史局御用掛を経て伊達家御履歴編纂掛として,伊達宗城の事績をたどる『藍山公記』などの編さんに従事した。また『宇和島叢書』をまとめ,「和霊神社祭神事績」
などを収めた『串宇遺稿』を残した。 34年台湾に渡り,伊達家と姻戚関係にあった北白川宮を祭る台湾神社主典・台南神社宮司などを務めた。大正13年『振洋先生年譜』を編さんして振洋と国事犯事件のかかわりを明らかにし,『憂囚記』などを書いた。昭和2年宇和島に帰り,晩年を故郷で過ごした。昭和5年9月17日,76歳で没した。

 砂田 重政 (すなだ しげまさ)
 明治17年~昭和32年(1884~1957)衆議院議員として当選10回在職25年余,第二次鳩山内閣の防衛庁長官,自由民主党総務会長。明治17年9月15日,越智郡日吉村(現今治市)に生まれた。明治38年東京法学院大学(現中央大学)を卒業,検事を経て神戸で弁護士を開業した。大正9年5月の第14回衆議院議員選挙に兵庫県から出馬して初当選した。政界の少数派国民党に所属したが,同党の後身革新倶楽部が政友会に吸収された後,農林政務次官などを務め,昭和13年には政友会幹事長に就任した。この間,衆議院議員選挙に連続当選していたが,昭和11年2月の第19回選挙から選挙区を本県に移し,出身地でない南予第3区から立つたにもかかわらず,知名度で当選した。15年大政翼賛会政務調査部長になり,17年には議席を離れ南方総軍顧問として占領行政に参画した。
 戦後,公職追放解除後,27年10月の第25回衆議院議員選挙で愛媛第2区から立候補当選して政界に復帰,〝政界鯰のカムバック〟と報ぜられたが,次の28年4月の選挙で落選した。 30年2月の第27回衆議院議員選挙で日本民主党に所属して返り咲き,同党の国会対策委員長になり,ついで同年8月第二次鳩山一郎内閣の防衛庁長官に就任した。保守合同による自由民主党結成時には総務会長・全国組織委員長などの要職につき,31年自民党県連初代会長に推されて県保守政界の取りまとめに当たった。中央と本県とを結ぶ実力者としてその存在は大きかった。昭和32年12月27日,73歳で没した。愛媛県は,その卓越した功績をたたえて愛媛県県民賞を贈った。

 砂野 達一 (すなの たついち)
 明治13年~昭和35年(1880~1960)浄曲家。明治13年5月,下浮穴郡上野村(現松山市上野町)に生まれる。浄曲雅号は山海のち吟祥という。はじめ農業をやっていたが,松山に出て雑貨商となる。仕事のかたわら浄瑠璃を愛好し,熱心に技の練達に努める。昭和15年に愛媛浄曲会会長に推され,後進の指導育成と斯道の振興に尽力する。戦後も地方素人義太夫の復活に力を注ぎ,第二期の黄金時代をつくりあげた。同32年会長を退いたあとも,競演会の審査員などをつとめ,その振興に大きな功績を残す。昭和35年2月29日,79歳で死去。松山市上野の道旧寺境内に頌徳碑がある。

 砂原 鶴松 (すなはら つるまつ)
 明治42年~昭和35年(1909~1960)畜産功労者。明治42年8月19日今治市富田東村で生まれた。非常に進歩的で戦後いちはやく共産党村長ともなった。当時越智郡今治市地方では均質牛乳を販売する市乳対策として数ヶ所の乳牛牧場があったに過ぎなかった。戦後の国内農業は将来一大転換期の到来することを予測し農業構造の改善の必要性を強調し酪農の導入を提唱する。昭和22年に地域の有志を募り北海道から46頭の乳牛を導入すると共に近隣の下朝倉や立花地区へも勧誘し導入が始まり,同年に河南酪農組合(任意)を設立して自ら組合長となり牛乳の販売事業を開始した。23年には乃万地区にも導入があり25年には富田を中心に66戸100頭に達した。翌26年には組合員81名,乳牛130頭に増加したので法人化して河南酪農業協同組合に改組し本格的な酪農事業へ取り組むこととなった。次いで30年には国鉄今治駅前に工場並びに事務所を新築移転するとともに,名糖乳製品㈱と事業提携して需給の調整と販売の安定化に備えると共に,31年には砥部開拓酪農農協と合併すると同時に練乳施設を設置した。事業の順調な進展に伴い牛乳販売拠点として新居浜市並びに松山市に営業所を開設した。 33年伊予酪農組合と合併し,34年には工場の増設とアイスクリームの製造をも開始した。またかねて話し合いを進めていた新居浜市酪農組合や三島・川之江・土居の3任意組合との話し合いもついて,35年吸収合併が成立し,東中予地区の一元化がほとんど達成されたので,名称も愛媛酪農業協同組合と改称再スタートすることとなる。さらに松山,あるいは他県へと進展し,愛媛県四国の酪農団体組織の一元化へと大きく夢を抱いていたが勇途空しく51歳の若さでこの年の暮昭和35年12月12日世を去ったのは誠に惜しみても余りあるところである。顧みれば当時経営上問題の多かった水田酪農を計画し成功をみたのは,ひとえに誠実で常に理想を失わず希望と勇気をもって一歩一歩努力を積み重ねた結果と,組合員の絶対的な信頼により新時代の産業が育成されたものである。なお表彰については当人は固辞し,代わって昭和30年に愛媛県知事より団体として愛媛酪農業協同組合が畜産功労者表彰を受賞した。

 巣内 式部 (すのうち しきぶ)
 文政元年~明治5年(1818~1872)幕末大洲の勤王歌人。本姓は須内,幼名辰五郎,通称休兵衛,実名は信善。出京して後巣内式部と改めた。大洲比地町の商家に生まれ,幼くして書籍・薬種商丸屋宇兵衛の養嗣となったが,早くから阿蔵村(大洲市大字阿蔵)八幡宮司常磐井厳才の古学堂に入門,神皇唯一の大義を学び,時局認識を深めた。桜田門外の変に刺激されて, 43歳で決然上京し,若い勤王公卿達と交って,志土間の連絡をつとめた。その結果新撰組に捕えられ,3か年間投獄された。出獄後元治2年1月から過激青年公卿の勤王遊撃隊に加わった式部は軍防局より軍曹を拝命,6月会津征討越後口部隊に従った。慶応3年5月大村益次郎襲撃事件に連累の嫌疑で,帰籍禁錮の刑に処せられ,帰郷八多喜に幽居,同5年10月没。すぐれた歌人で,勤王の赤誠を格調高い万葉調で歌い上げ,2,000首に及んだ。追稿に『慷慨歌集』4巻ほかがある。大洲市八多喜興獄寺に墓がある。

 須内 実三郎 (すのうち じつざぶろう)
 安政6年~昭和11年(1859~1936)大洲商業銀行・大洲銀行頭取,県会議員。安政6年11月12日喜多郡大洲町(現大洲市)で生まれた。明治25年大洲銀行取締役・大洲支店長になり,29年大洲商業銀行設立に尽力して頭取に就任した。 37年には大洲町商工会長に推され,大洲地方財界の中心人物として活躍した。 40年郡会議員,大正4年9月~ 8年9月県会議員に在職して,愛媛鉄道敷設に奔走した。大正11年大洲銀行頭取に就任した。昭和11年11月12日,77歳で没した。

 住  治平 (すみ じへい)
 安政5年~大正4年(1858~1915)実業家。安政5年宇摩郡三島村河原町の住治助の子として生まれる。父治助は天保2年生まれ。幕末に三島村浜庄屋格として回船や漁業を営んでいたが,維新後住姓に改め紙問屋を始めた。明治14年に三島村に初めて郵便局が設置された際に,河原町の住治助宅で業務が開始された。治平は父の跡を継ぎ紙を販売し,販路を関東から北海道に拡張した。明治25年には尾崎増蔵・前谷久太郎らとはかり東予物産KKを設立す。これが後に伊予三島銀行となり,今の広島銀行三島支店となる。明治28年には前谷久太郎・山中好夫・森実先五郎らと共に宇摩汽船㈱を設立し,汽船2隻を購入して阪神航路に就航させた。同34年には上分の薦田篤平,三島の石崎九真・石川高雄らと共に和紙販売の同業組合を設立した。同41年には三島町に伊予紙同業組合を設け,郡内の製紙業者の技術と設備の改善に尽した。
 明治43年には東予水力電気㈱の設立に参加し,同45年3月には合田仁三郎・前谷勝次らとはかり,川之江町に誘致されようとした紡績工場を三島町に設置することに成功した。この紡績は大正2年4月操業開始で,以来昭和50年7月富士紡三島工場が閉鎖されるまで62年間,地域の経済を潤した。治平は大正4年11月20日,57歳で没した。

 住田 正一 (すみた しょういち)
 明治26年~昭和43年(1893~1968)実業家,東京都副知事,呉造船所社長,海法学者。明治26年1月2日,下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に転じ,大正7年東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。神戸の鈴木商店船舶部に入社したが,昭和2年同店解散で国際汽船取締役になった。戦後22年4月~24年12月東京都知事安井誠一郎に請われて副知事に就任,首都復興に尽くした。29年呉造船所社長になり,以後同社会長。日本造船会副会長などを歴任した。海事史・海事法に学識が深く,日本海事史学会会長を務め,『海事史料叢書』『海事大辞典』『日本海防史料叢書』などをまとめた。「廻船式目の研究」で法学博士を授与された。昭和43年10月2日,75歳で没した。

 住友 友芳 (すみとも ともよし)
 寛文10年~享保4年(1670~1719)住友家四代。父は三代友信,母は清水重継女で,初め友栄,通称吉左衛門を称した。なお,友信以後の住友家当主は,歴代吉左衛門を通称とした。父隠居の跡をうけて,貞享2年家業を継ぎ,父祖以来の鉱山経営に力を注いだ。元禄3年,伊予国別子銅山が発見され,翌年から住友家による請け負い経営が幕府により認められた。以後,別子銅山は,江戸時代における世界有数の銅鉱山として繁栄し,それとともに住友家もまた大をなしていった。友芳は,元禄15年,幕府の諮問に応じて鉱山経営の振興策を答申,さらに,貨幣改鋳にあたっては銀銅吹分けにも尽力した。享保4年12月26日死去,享年49歳であった。法号を名泉院仙雄斎本達良山居士と称し,大阪市南区にある久本寺に葬られた。

 住村 博士 (すみむら ひろし)
 大正14年~昭和45年(1925~1970)船長。大正14年4月15日,越智郡大井村宮脇(現大西町)に生まれる。今治中学校を経て神戸高等商船学校へ進み,昭和23年卒業,昭和28年甲種船長免許を取り,外国航路の船長を歴任する。同45年2月 第一中央汽船の「かりふぉるにあ丸」の船長としてロサンゼルスから鉱石を積んで和歌山に向う途中,9日午後10時10分ごろ千葉県野島沖東方360キロメートルで暴風雨に遭い,船体に亀裂を生じて浸水し,船体が傾斜したのと激浪にはばまれてままならず,船員6人が波にのまれてしまった。翌10日,救援の外国船が到着して,残り22人と漂流中の二人が救助された。住村船長は脱出を断り,船橋から手を振りつつ,船と運命をともにした。その強い責任感は船員魂の権化とたたえられた。昭和45年2月10日,44歳で死去。郷里宮脇に胸像が建てられている。

 澄田 らい四郎 (すみた らいしろう)
 明治23年~昭和54年(1890~1979)軍人。宇和島藩士族から陸軍歩兵中佐に累進した定興の四男として,明治23年10月21日名古屋市に生まれる。陸軍幼年学校を経て,明治45年陸軍士官学校を首席で卒業,砲兵少尉に任せられた。大正10年には陸軍大学校を首席で卒業,陸軍省軍務局勤務の後,14年パリ・フランス陸軍大学校に留学した。帰朝後は参謀本部部員のほか陸軍大学校兵学教官を兼務し,昭和7年には国際連盟極東調査団帝国委員随員を,翌8年にはフランス大使館付武官に補せられ,9年にはベルギー国大使館付武官も兼務して国際舞台で活躍した。日中戦争が始まってからは砲兵連隊長を務め,徐州会戦には独立野戦重砲兵第15連隊長として参戦,13年8月には少将に進んで独立野戦重砲兵第6旅団長を,14年には陸軍重砲兵学校長を歴任した。 15年9月からは仏印国境監視委員長(澄田機関長)となり,フランス領印度支那総督ドクー提督らとの折衝に際しては,軍人の中の外交官としての手腕を発揮した。昭和16年8月,中将に昇進した後,同年9月には第39師団長に,同19年11月には第1軍司令官に補せられ,太原において終戦を迎えた。
 戦後は,旧陸軍の県人将校生徒育成のための資産を,県青少年育成のために発展的に運用することに力を注ぎ,財団法人豫山会の寄付行為の認可を受けて,同法人運営の基盤を開いた。同会会長在任中の昭和54年10月2日,88歳で没した。墓所は東京都営小平霊園。