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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 四条 有資 (しじょう ありすけ)
 生没年不詳 南北朝時代の南朝方の公家。隆資の子。左少将の官途を有する。父隆資は,元弘の変以来後醍醐天皇と行動を共にし,南朝方において従一位権大納言まで昇った有力公家。有資も南朝方として活動したが,その事績は十分には明らかではない。興国3年(1342),脇屋義助が伊予国に下向した時,国司として在国し,守護の大館氏明とともに義助に協力した。土居・得能・土肥などの武士とともに国内の在地勢力の組織化につとめた。『三島家文書』,『忽那家文言』,『観念寺文書』,『興隆寺文言』の中に延元2年(1337)~同5年の年号を有する左少将発給文書が残されており,これが有資ではないかといわれている。

 志賀 天民 (しが てんみん)
 文政7年,~明治9年(1824~1876)蘭方医。宇和郡近永村(現広見町)で生まれた。本名清恭。 11歳のとき医学修業を志して吉田藩医三和玄渓の書生となり苦学した。のち大坂・京都を経て長崎に行き,幕府の通訳名村定五郎について蘭学を学び,弘化4年(1847)帰郷,宇和島恵美須町で蘭方医を開業した。嘉永4年長崎に再び赴いて2年間蘭方医の研さんを積み,安政2年長崎に輸入された医療用新式エレクトルの購入使用を藩に願い出,長崎で蘭医ハンデルブリュックについて電気の医療的応用ならびに使用法を学び,電気機械を30両で購入して持ち帰った。同年帯刀を許され,町医として初めて藩種痘医となり,安政のコレラ流行に際し防疫に従事その成果を『救気催心』に著わして藩主に提出した。万延元年御目見医師に登用され苗字布姓を許され,天民と改名した。明治3年姓を志賀と改めて東京詰め軍医となり,のち栃木県医・長野県上田病院長になった。明治9年4月5日,52歳で没した。

 清水 石次郎 (しみず いわじろう)
 安政3年~明治41年(1856~1908)事業家,県会議員・日上村長,第二十九国立銀行創設に参与した。安政3年8月2日,宇和郡日土村今出(現八幡浜市)で清水正一の次男に生まれた。衆議院議員清水静十郎は兄である。家は農業・林業を営む村内屈指の資産家であった。明治11年3月,本県で初めての銀行である第二十九国立銀行(川之石)の設立発起人に名を列ね,わずか23歳で常務取締役になった。 19年県会議員に選ばれたが,政治を好まず21年3月半期退任した後,県会に再び出ることはなかった。 30年と37年目土村長を務め村政を担当したが,これも1年限りで2回とも退き,専ら銀行業務に従事した。明治41年8月17日,52歳で没した。

 清水 改三 (しみず かいぞう)
 慶元4年~大正10年(1868~1921)菊間町長・地方改良功労者。慶応4年1月23日,野間郡浜村(現越智郡菊間町)で清水役蔵の四男に生まれた。幼名豊吉,のち清水忠祐の家を継ぎ改三と改めた。 17年浜村外2か村戸長役場に勤め,23年6月菊間村助役に,29年4月同村長に就任して,明治41年町制施行とともに町長になり大正7年10月まで在任した。村政では,小学校・村役場の新築,学校記念林の造成,道路改修,町の特産品である製瓦の改良と販路拡張に努めた。大正4年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。大正10年12月,53歳で没した。

 清水 新三 (しみず しんぞう)
 嘉永6年~大正5年(1853~1916)弁護士,県会議員・副議長。宇和島で三大事件建白運動に奔走した。嘉永6年9月28日,宇和島城下裡町で藩士の家に生まれた。維新期,捕亡吏となり,師範学校幹事を奉じ小学校教員などを務め,12年東宇和郡長告森良の下で郡書記になった。やがて代言人の免許を得,20年ごろ三大事件建白運動が起こると,坂義三らと共に建白署名集めに奔走した。 21年,坂・山崎惣六ら大同団結派と絶交して堀部彦次郎らと愛媛の改進党旗上げに参加,21年3月県会議員になったが,22年1月の選挙では大同派に敗れた。 20年代宇和郡各地で展開された無役地訴訟では被告旧庄屋の代理人を務め,農民とは一線を画した。 32年9月再度県会議員になり,36年3月~10月副議長を務めた。その後,弁護士業に専念した。大正5年2月29日,62歳で没した。

 清水 静十郎 (しみず せいじゅうろう)
 弘化4年~大正4年(1847~1915)県会議員・衆議院議員。弘化4年3月15日,宇和郡日土村(現八幡浜市)に生まれ,卯之町(現東宇和郡宇和町)の庄屋清水家の養子に入った。戸長・副区長などを務めて人望があり,明治10年6月の特設県会には戸主に限定された議員資格にもかかわらず選挙人10分の8以上の推薦と戸長11人の連名申請で特例をもって県会議員に選ばれた。その後も19年3月~22年1月,25年3月~29年3月県会に議席を持ち,改進党一進歩党に所属した。明治31年3月の第5回衆議院議員選挙第5区で自由党の現職兵頭昌隆を破って当選,同年8月の第6回選挙で再選された。 35年8月任期満了とともに政界から引退した。種生会社社長や卯之町銀行頭取となって地元金融の発展に尽くし,また宇和水力電気会社監査役などを務めた。大正4年3月27日,68歳で没した。

 清水 隆徳 (しみず たかのり)
 文久2年~昭和4年(1862~1929)県会議員・議長,衆議院議員。愛媛の改進党一国民党一憲政会を代表する政治家で,実業界では第二十九銀行・愛媛県農工銀行の頭取を務めた。文久2年8月20日,宇和島藩士告森周蔵(桑圃)の次男に生まれ,のち宇和郡日上村(現八幡浜市)の資産家清水利三郎の養子に入った。兄は鳥取県・千葉県知事を歴任した告森良,弟に熊本医学校の創設者谷口長雄,宇和島市長赤松桂がいる。明治10年北予変則中学校(のち松山中学校)に学び,14年豊前(人分県)中津の慶応義塾支塾に入った。一時大阪で新聞記者をしていたがやがて帰郷し,第二十九銀行(川之石)取締役ついで頭取となる。このころから改進党に属し政治運動に参加,明治20年時の「政党員名簿」には「性質温厚,技倆普通,読書二達シ原書ヲ修ム,名望富有ヲ以テ村民ノ信用ヲ受ク」とある。22年1月西宇和郡から県会議員に当選,25年3月再選された。鈴木重遠に誘われて立憲革新党に所属,27年3月同党から第3回衆議院議員選挙に第5区で立ち当選したが,同年9月の衆議院議員選挙では落選した。 30年10月県会議員に返り咲き,進歩党の領袖として議長に選ばれたが,31年愛媛県農工銀行頭取に就任したため職務多忙を理由に議長を井上要に譲り,9月には県議も辞職した。 37年3月第9回衆議院選挙で再び代議士になり,憲政本党一国民党に所属した。 41年5月の第10回衆議院議員選挙では落選したが,45年5月の第11回選挙で当選して雪辱を果たした。大正政変時の立憲同志会の結成に参加,大正4年3月の第12回衆議院議員選挙には同志会から立候補して当選,6年4月の第13回衆議院議員選挙には同志会の後身憲政会に所属再選を期したが,政友会に圧倒されて敗退した。9年5月の第14回衆議院議員選挙を前に立候補を辞退,高須峯造の後を受けて憲政会愛媛支部長になり,党勢拡張と後進の指導に当たった。また愛媛新報社長も一時務めた。昭和4年10月21日. 67歳で没した。

 清水 長十郎 (しみず ちょうじゅうろう) 
 文政8年~明治20年(1825~1887)蚕糸業功労者。文政8年4月18日,東宇和郡卯之町の商家池田屋の次男として生まれた。製茶・蚕糸の業を振興した功労者である。蘭学医の二宮敬作の教えを受けた。文久年間,長崎において日本の製茶が盛んに輸出されているのを見聞し,宇和地方の製茶を改良することを考え,先進地の山城・伊勢・駿河等を視察,私財を出し製茶の技術者を招き,郡内各地に伝習所を設け,良質の茶生産に努めた。また,蚕糸業の振興にも活躍した。明治4年桑園を設け養蚕を奨め,明治7年以降桑苗を育成配布し,明治14年,卯之町に「養蚕伝習所」を設け,小川信賢を迎え,飼育法を伝授し,翌年信賢の女を雇い製糸法を伝習した。宇和地方における座繰製糸の初めである。また,福島県から蚕卵紙を購入し郡内に配布し普及を図ると共に,蚕種の改善に努力をした。清水長十郎旧宅には現在も当時の蚕種貯蔵庫が残存している。明治20年12月15日,62歳で死去し,卯之町光教禅寺に葬られる。なお,大正4年養蚕功労者として愛媛県知事から追賞された。また,大正2年6月東宇和郡農会・蚕種同業組合・茶業組合・その他郡内有志相謀り,卯之町王子神社の境内に「清水長十郎翁碑」を建て,その功績を後世に伝えている。

 清水 常紀 (しみず つねとし)
 天保5年~明治41年(1834~1908)県会議員。天保5年7月13日,宇和郡喜佐方村沖(現北宇和郡吉田町)で清家佐治兵衛の次男に生まれ,弘化3年12歳のときに若山村(現八幡浜市)の庄屋清水保三の養子になった。明治初年,若山村外4か村用掛として地租改正に関与,以後連合村会議員,西宇和郡勧業委員・所得税調査委員・徴兵参事会員などを歴任した。 13年9月県会議員に選ばれたがほどなく辞し,その後,18年~19年,23年~29年に県会に列した。20年の三大建白書には西宇和郡の総代になり地租軽減を訴えたが,無役地訴訟では地主側被告の立場にあった。県地方森林会議員として双岩地区の林業振興に情熱を注いだ。明治41年11月7日,74歳で没した。

 清水 勇三郎 (しみず ゆうざぶろう)
 明治6年~昭和24年(1873~1949)実業家,松山市長。明治6年9月25日,久米郡山之内村(現温泉郡重信町)で生まれた。同志社・早稲田専門学校に学んで帰郷。北吉井村で酒造業・鉱山業を経営後松山市に移住し日本織物会社・久万索道会社の重役,海南新聞社取締役を歴任した。大正11年松山市会議員,昭和8年11月市助役を径て. 13年9月市長に選任され,17年9月満期退職した。その間,松山市と三津浜町など周辺7か町村合併を実現した。昭和24年11月26日,76歳で没した。

 清水 喜重 (しみず よししげ)
 明治13年~昭和28年(1880~1953)軍人。明治13年12月20日松山に生まれる。明治35年陸軍士官学校卒業。同43年陸軍大学校を卒業し,参謀本部部員・東宮武官・歩兵第3連隊大隊長・青島守備軍参謀を歴任した。大正12年から欧州に出張し,フランスをはじめ各国を視察して米国経由帰朝した。その後歩兵学校研究部主事・近衛歩兵第3連隊長・参謀本部戦史課長・歩兵第33旅団長・陸軍士官学校幹事兼教授部長・台湾軍参謀長を歴任し,昭和8年3月には中将に昇進して由良要塞司令官を務めた。同9年11月には関東軍第4独立守備隊(新編成)司令官に任ぜられ,帝政実施直後の満州田の匪賊の討伐や治安の維持に当たった。同11年3月には第12師団長に補せられ,翌12年4月,一度は予備役に編入された。日中戦争が始まると,同13年5月に再び第116師団長に補せられ,武漢攻略作戦に参加した。師団は揚子江北岸を漢口に向け進察し,同年10月末には武漢三鎮を占領した。翌14年5月,召集を解除された。
 退役後は財団法人石鉄会の理事に就任し,県人将校生徒の育成に当たるとともに,昭和15年11月からは財団法人山水育英会理事長を,同16年3月からは財団法人山水中学校(桐朋学園の前身)理事長兼校長を終戦まで務めた。終戦後はさきの石鉄会の清算人となって,その資産を財団法人種山会に引き継ぎ,県人青少年健全育成に運用する基を固めた。豫山会理事在任中,同28年8月15日,72歳で没した。墓所は東京都営小平霊園。

 清水 義彰 (しみず よしあき)
 明治5年~昭和6年(1872~1931)実業家,県会議員。明治5年1月2日,温泉郡吉藤村(現松山市)で清水藤三郎の長男に生まれた。父は23年初代潮見村長を務め,23年2月~27年3月県会議員に在職した。義彰は28年英吉利法律学校(現中央大学)を卒業後,帰郷して32年9月県会議員に選ばれ,40年9月まで2期在職した。その間,実業界で愛媛県農工銀行・愛媛貯蓄銀行の取締役になり,以後,南海電気・三津浜煉瓦・伊予鉄道電気・松山ガスなど各社の重役を兼ねた。大正14年9月,貴族院多頷納税議員選挙に松山財界から推されて立ったが,今治財界代表の八木春樹に敗れた。昭和6年4月24日,59歳で没した。

 清水谷 巌 (しみずだに いわお)
 明治9年~昭和31年(1876~1956)果樹園芸功労者。西宇和郡地方の果樹栽培先覚者であるとともに,夏ミカンの加工及び荷造容器の開発に尽した。西宇和郡日上村(現八幡浜市日土町)に生まれる。明治20年ころより夏ミカン,雑柑類の栽培につとめ,明治22年ころ梨の栽培を始め,4haの面積を自営するとともにこれらの栽培に技術者を雇用して近隣の指導にもつとめた。大正5年西宇和果物同業組合の設立に当っては,初代組合長に就任した。大正6年日上村にクエン酸工場を建設し,夏ミカンの不良果の処理に当った。このクエン酸加工の業績があがるにつれて,大正10年山口県萩市にもクエン酸工場を建設して活動した。また夏ミカン出荷用の竹籠を発案し,日土村に竹材の豊富なことから,竹材加工業の発展を促進するとともに,夏ミカン荷造輸送の一大転機をもたらすものとなった。

 斯波  腆 (しば あつし)
 弘化元年~明治33年(1844~1900)初代三島村長・県会議員。弘化元年6月6日,宇和郡田穂村(現北宇和郡広見町)で土居義蔵の三男に生まれ,万延元年下大野村斯波一角の養子になった。明治5年4月第7小区戸長, 11年下大野村ほか5か村の戸長を経て,23年2月町村制施行と共に三島村長に就任して,創成期の村政に尽力したが,23年10月病気のため退任した。 30年10月~32年9月県会議員に在職した。明治33年3月15日,55歳で没した。

 獅子 文六 (しし ぶんろく)
 明治26年~昭和44年(1893~1969)小説家・劇作家。明治26年7月1日,横浜市弁天通に生まれる。本名岩田豊雄。大正11年演劇研究のため渡欧。帰国後,劇の翻訳・エッセーを発表,演出にも当たり,フランス近代劇に造詣深い劇作家として知られた。昭和11年,最初の新聞小説「悦ちゃん」で好評を博し,以後,軽妙な筆致とユーモアのある作風で人気を集め,多くの作品を発表した。『てんやわんや』は,昭和20年12月から約2年間,妻シヅ子の郷里北宇和郡岩松町に疎開,その見聞・経験などを素材にして書いた作品。終戦直後の混乱した世相を,南伊予を舞台に描いた。同23年11月より翌年4月まで「毎日新聞」に連載,24年に新潮社より刊行,25年に映画化された。ほか,本県関係の作品に,南予出身でカブト町に生涯を賭けた株屋一代記『大番』,南予の農村に取材したコント集ともいうべき『南国滑稽譚』,戦中戦後の混乱期に生きる少年を主人公にした少年小説『広い天』などがある。昭和44年12月13日,死去,76歳。

 塩崎 素月 (しおざき そげつ)
 明治16年~昭和21年(1883~1946)俳人。東宇和郡土居村(現城川町)に生まれる。本名は楳吉。愛媛県師範学校に入学するが,在学中より俳句会「錚々会」を作って村十霽月の指導を受ける。明治42年創刊の「四国文学」の主筆となったり,俳誌「葉桜」の編集人となる。初め,松山第一尋常高等小学校に勤務したが,伊予鉄へ入り,愛媛水力電気西条支社の営業課長もする。素月生涯の大事業は昭和2年4月3日,葉桜会主催で,第一回関西俳句大会を実現させたことである。虚子をはじめ,当時の県内外から俳人180名が出席するというかつてない盛大さであったという。昭和21年63歳で没した。

 塩月 桃甫 (しおざき とうほ)
 明治19年~昭和29年
(1886~1954)美術教師。本名善吉,明治19年2月27日宮崎県児湯郡三財村(現同県西都市)に生まれる。明治45年東京美術学校卒業。大阪市浪萃小学校教員を経て大正4年(1915)愛媛県師範学校の美術教師として赴任。翌5年石鎚山を描いた「山越しの風」が第10回文選に入選一躍新鋭洋画家として信望を集め,本県の美術・美術教育に新風を吹込む。その在任期間は僅か5年であるが,のちに本県美術教育の中心人物となる藤谷庸夫・松原一らを育て本県美術の発展に尽くした功績は大きい。大正10年台湾に渡り,台北高等学校教授として同地美術界の総帥となり,台湾美術展を創設,以後18年間その中心人物として大きい功績を残す。終戦後は郷里宮崎に帰り,宮崎大学講師,宮崎県展審査員として活躍。 28年宮崎県教育文化賞を受賞。その作風は初期の松山時代まではアカデミックな写実的表現,中期台湾時代は現地の強烈な色彩中心のフォーブ的表現,宮崎に帰った晩年の作はルオーを思わせる重厚なマチェルと太い描線による落ちついた作が多い。昭和29年1月22日,67歳で没した。

 茂木 史朗 (しげき しろう)
 明治38年~昭和20年(1905~1945)軍人。茂木氏男の長男として,明治38年温泉郡桑原村(現松山市)に生まれる。松山中学校4年修了後海軍兵学校に進み,大正14年7月同校卒業。昭和15年1月から海軍兵学校教官を務めた後,同16年1月には「神通」航海長,同年9月には「鳥海」航海長,同18年6月には戦艦「榛名」航海長と,航海畑一筋に進んだ。昭和20年2月には,前年末に捷一号作戦で活躍した戦艦「大和」の航海長に就任する。同艦は沖縄上陸の米軍に対する菊水一号作戦に海上特攻出撃する。4月6日夜,豊後水道を南下した艦隊は,7日朝大隅海峡を西進したが,午後に入って二次に亘る艦載機延べ300機の波状集中攻撃を受け,遂に14時23分,九州西南方沖50カイリの海中に没した。このとき,艦長有賀大佐は防空指揮所中央の羅針儀に,航海長と掌航海長は艦橋の主羅針儀に,それぞれ身体を縛り,退艦勧告にも耳をかすことなく,艦とその運命を共にした。享年40歳。墓所は松山市桑原6丁目,桑原寺境内。版画家の木和村創爾郎は実兄に当たる。

 重岡 薫五郎 (しげおか くんごろう)
 文久4年~明治39年(1864~1906)衆議院議員,法学博士。将来を嘱望されたが早逝した。文久4年2月1日,喜多郡内子村(現内子町)で重岡嘉平の長男に生まれた。松山中学校・帝国大学法科・大学を経て明治20年司法省法学校を卒業した。同年判事試補として松山裁判所勤務を命じられたが,在官わずかでフランスに留学,エクス法科大学で法学博士の学位を受けて帰国。第三高等中学校(京都)で教鞭をとったが,郷里喜多郡で改進党有友正親の有力対抗馬を探していた自由党の懇請を受け,明治27年3月の第3回衆議院議員選挙第3区から立候補して有友を破り当選した。以後,37年3月の第9回衆院選挙まで6回連続当選,議会活動のかたわら外務省通商局長・文部省官房長などを兼務した。その学識から将来が期待されたが,42歳の若さで没した。政友会の領袖西園寺公望・原敬らは早逝を痛惜し,黒田清輝による重岡の肖像画を遺族に贈った。遺骸は内子町禅昌寺に納められ,碑銘は西園寺公望が揮毫した。政界情弊に染まらず,常に清廉潔白を堅持した政治家であったという。

 重藤 宗智 (しげとう そうち)
 明治37年~昭和57年(1904~1982)茶道裏千家業躰。温泉郡三津浜町(現松山市)生まれ,松山高女卒業後,裏千家家元に入門,昭和9年宗智の号を贈られ,同32年業躰,同53年正教授師範の特別称号を受ける。業躰とは,家元に直接教えを受け,その補佐役をつとめることのできる身分であり,女性では全国で3人しかいない。本名は多智子。茶道裏千家淡交会総本部特別参事であり,四国での裏千家の頂点に立っていた。「お茶を通して,和の精神を知ってほしい」という願いをもつ重藤は,中学,高校の情操教育の一環として昭和初期から済美高女・高校で指導をつづけた。道場を半合庵と名付け,半人前だと自戒しながら茶道60年の年輪を刻み,茶道への情念をたぎらせた。昭和53年勲五等瑞宝章,県教育文化賞,同54年愛媛新聞賞を受ける。昭和57年9月12日,78歳で死去。

 重延 久太郎 (しげのぶ きゅうたろう)
 弘化2年~大正7年(1845~1918)北海道開拓の篤農,慈善家。野間郡松尾村(現菊間町)で生まれた。家は小作農で苦しく,その上浜村(現菊間町)重延家に入夫した弟行平が死去したので同宗に入籍して妻ライと遺児卯平を養育しなければならなかった。このため,農閑に沖合漁業に出漁したり田舎角力取りで出稼ぎした。明治15年5月妻子を伴い単独渡航で北海道に渡り,札幌の白石煉瓦場で労働者として働き,やがて札幌郡豊平村平岸の未墾地を借りて開墾小作した。刻苦勉励,蔬菜を栽培して妻がこれを背負って札幌の町で売りさばいた。このとき町でとうきびを焼いて稼いたのが札幌名物焼とうきびの元祖といわれている。2年間で2万坪を開墾整地したので地主は感銘して年賦代金でこれを譲渡した。その間,豊平から平岸に通ずる道路を農耕のかたわら夜間独力で拓き,沿道移住者に感謝された。また流浪者に施しを与えて開票を進め,役場に掛け合い貨生地を確保してやり,生活費にと私財を投げ出すなどの義侠を繰り返した。このためしばしば負債の肩代りをしなければならなかったが,救済者からは〝開拓農民の神様〟とあがめられ,札幌の資産家からも支援を受けるようになった。明治41年3月北海道庁「移住者成績調査」では篤農・慈善家として紹介顕彰され,その後毛しばしば表彰された。大正7年2月,73歳で没した。

 重松 清行 (しげまつ きよゆき)
 明治17年~昭和28年(1884~1953)地方政治家。明治17年7月1日生まれ。若いころ伊予農業銀行に入ったが,京都の同志社に学び,帰郷して,農業銀行取締役支配人だった逸見安太郎に見込まれ,娘のとも子と結婚する。元蔵相勝田主計の随員として欧米を一巡したのがきっかけで市会議員になり松山市長5代目に正岡子規のおじ加藤恒忠の引っぱり出しに一役買って成功した。加藤は外交官出身で代議士をやった大物であったが病弱で,これを補佐する助役となって敏腕を振った。在任中,松山城の払下げに成功した。加藤市長没後,助役を辞して上京し,加藤恒忠の伝記『拓川集』の編集刊行をやったり,帝室博物館の復興をやってのけた。もちろん勝田主計の助けを借りたが,松山人としてスケールの大きな人物であった。昭和28年2月7日死去,68歳。

 重松  潔 (しげまつ きよし)
 明治26年~昭和19年(1893~1944)軍人。松山藩士重松幹正の次男として,明治26年松山市に生まれる。陸軍幼年学校を経て,大正3年陸軍士官学校卒業(恩賜)。任官とともに歩兵第22連隊に着任。小・中隊長を務めた後,陸軍省軍務局,近衛歩兵連隊付,第1師団参謀・第4師団参謀・歩兵学校教官を歴任した。昭和13年7月から関東軍第2下士官候補者隊長となり,同14年8月には新設第40師団の歩兵第234連隊(松山編成)の連隊長に着任した。師団は華中に出征し,冬季反攻撃滅作戦・宜昌作戦・第一次長沙作戦などに戦功があった。太平洋戦争ぼっ発後は第7師団司令部付となり,翌18年3月には第11歩兵団長となり,少将に昇進した。同19年,満州から南方戦線へ兵力の転用が始まるが,第1・第11師団から抽出された兵力5,100名をもって第6派遣隊を編成し,グアム島に転進した。3月20日同島上陸後は島中央部西海岸明石地域の防備に専念した。5月に入って第6派遣隊は改編され,第11師団関係部隊をもって混立混成第48旅団が編成され,その指揮をとった。同島に対する米軍の上陸は7月21日から開始された。旅団長ははじめ水際撃滅を,次いで橋頭堡に対する夜襲や攻勢移転と奮戦したが,物量の前に衆寡敵せず,7月26日夜から27日にかけて,激しい艦砲射撃と戦車群の包囲攻撃を受けて,旅団司令部は全員玉砕戦死した。その後中将に昇進。享年51歳。墓所は松山市西山の宝塔寺。

 重松 恵祐 (しげまつ けいすけ)
 明治22年~昭和40年(1889~1965)医師。越智郡吉海町泊の重松新之助の長男として生まれたが,幼くして父に死別,母は再婚したため祖父母に育てられた。資産もあり,由緒もある家であったから祖父は家業の農業をさせるつもりであったが,泊小学校卒業後,大島高等小学校へ進み,今治中学に入る。抜群の成績で剣道部の主将もやる。中学卒業後,岡山大学医学部に入学したがここでも秀れた成績で卒業し,海軍に入って中尉になり第一次世界大戦で南洋群島に出勤する。大正9年,義弟と吉海町に共同医院を開設する。これより島の病人の救済におおよそ40年余り,数々の逸話を生む。彼は医療のみならず,大島郷土研究会の会長として,古文書の解読にも秀れた能力を発揮し会員の指導に当たった。そのほか,漢詩や書をよくし,日本画についても見識をもつとともに,自分も南画,写生画を書き,玄人はだしの作品を描いた。また常に人に語って「自分は,大病院の院長にも博士にもなれなかった。なろうともしなかった。が,自分ほど多くの人を診療した者は少ないだろう。医師を志した者の本懐である」と。彼の尊い人生観である。昭和39年,病を得て,長男の開業する温泉郡川内町におもむき,昭和40年1月10日,76歳の生涯を閉ずる。

 重松 俊章 (しげまつ しゅんしょう)
 明治16年~昭和36年(1883~1961)東洋史学者・真言宗の僧。明治16年11月18日松山藩久谷村(現松山市久谷町)重松好太郎の三男に生まれ,明治27年石手寺に入り好山隆俊について直樹大本の弟子となる。岡山中学,東洋大学を経て大正2年東京大学史学科(東洋史専攻)を卒業し,大正8年松山高等学校教授。昭和2年九州大学法文学部教授,文部省研究員として大正15年には中国に,昭和8年から2年間はフランス,ドイツに留学して敦煌文言,トルキスタン資料を研究した。昭和17年教育功労者として瑞宝章を受けた。昭和19年退官して石手寺住職となり,24年から松山商科大学教授をも務めた。九大名誉教授,東洋史の専門は中央アジア古代・中世史で,著述に『支那古代殉送の風習について』『楽浪文化と日本の黎明』『大月氏民族史雑考』『弘法大師と平安朝の仏教』などがある。昭和36年10月6日,77歳で死去。

 重松 鶴之助 (しげまつ つるのすけ)
 明治36年~昭和13年(1903~1938)画人。松山市に生まれる。松山中学時代に伊丹万作・伊藤大輔・中村草田男らと回覧雑誌「楽天」を通じて知り合い,この親交は生涯にわたって続けられる。松山中学中退後,上京して本格的に絵をはじめる。草土社の影響を受け,のち春陽会,国画会展に連続して出品する。昭和の初期,画筆を捨てて共産主義運動に身を投じ,逮捕され4年の刑を受けるが,釈放の前日,堺の刑務所で謎の自殺を遂げる。大正15年,第1回聖徳太子奉賛展に出品した「閑々亭削象」(個人蔵)などの作品の他は,現存するものは極めて少ない。

 重松 信弘 (しげまつ のぶひろ)
 明治30年~昭和58年(1897~1983)国文学者。明治30年2月24日,温泉郡小野村(現松山市平井町)に生まれる。旧姓豊田。大正7年,愛媛県師範学校卒業。同9年,重松小太郎の養嗣子となる。小学校令岡山師範学校等に奉職の後,同13年,東北帝国大学法文学部に入学し昭和2年卒業。宮城県女子専門学校教授,満州国建国大学教授,愛媛青年師範学校教授等歴任。同24年愛媛大学教授となり,教育学部長も務め,文学博士となる。同37年定年退職し上京,皇学館大学ほかで務め,『源氏物語』の研究を続けた。昭和7年の『源氏物語関係
書解題』以来,他界するまで源氏物語研究を続け,『源氏物語』研究の権威。『新奴源氏物語研究史』『源氏物語の仏教思想』『源氏物語の人間研究』など多くの著書がある。同58年11月13日死去,86歳。墓は川崎市公園墓地にある。

 重見 番五郎 (しげみ ばんごろう)
 明治2年。~昭和24年(1869~1949)立岩村長・県会議員。明治2年6月1日,風早郡立岩村(現北条市)でかって河野十八将の一つに数えられた重見氏の家に生まれた。明治29年3月~30年10月と32年9月~36年9月の2度県会議員になり,愛媛進歩党に所属した。その間,31年2月~32年5月立岩村長に就任,41年1月~43年1月にも同村長に再任されて村政に尽くした。昭和24年4月11日,79歳で没した。

 重見 通昭 (しげみ みちあき)
 生没年不詳 戦国時代の武将で河野氏の重臣。掃部頭の官途を有す。重見氏は,河野氏の庶家得能氏の出といわれ,越智郡明神山(石井山)城(現今治市石井)と,風早郡日高城(現北条市中村)を拠城としたと伝えられる。通昭は15世紀後半の家督。系図では通勝の子とされるが,古文書類には一世代前の人物として飛騨守通実,近江守通煕の名が見える。妻はこのころの伊予守護河野教通の女といわれる。教通の時代に河野氏の奉行人として大きな役割を果たした。文明13年(1481)には,三島宮の祭礼について先例に従うよう教通の命を伝え,同16年には,越智郡能寂寺(現今治市五十嵐浄寂寺)の寺領を安堵した。また同17年には,三島宮大祝に三島神領を,18年には風早郡二神島の二神氏に惣領職をそれぞれ安堵している。子孫には,享禄3年(1530)河野氏に叛いたという因幡守通種,その後河野家臣団に復帰して種々の勲功をとげたという美濃守通次,通俊らがいる。

 宍戸 大滝 (ししど だいりゅう)
 天明8年~安政3年(1788~1856)宇和島藩士,宍戸将監の子。諱は長緒,号は大成。小姓役から東多田番所,深浦番所に勤め,後には御金奉行ともなる。田学に明るく,殊に本居大平の門人として歌道に通じていた。安政3年8月23日死去。68歳。

 品川 柳之 (しながわ りゅうし)
 明治34年~昭和56年(1901~1981)俳人。北宇和郡吉田町の生まれ。本名は三好柳之助。明治34年10月15日に生まれたが1歳半で東宇和郡宇和町の伯父である品川家を継ぐ。宇和島中学より専修大学予科へ入るが,中途退学して,松山高等学校へ入学し,東北帝国大学法科を卒業,中学時代から俳句をつくり,大学では独りで句作する。昭和14年松山中学校に勤め,富安風生に師事して,「若草」の同人となる。同18年応召,復員して松山中学,砥部町原町中学,松山商業高校に勤める。俳句はその間,高浜虚子の指導をうけ,同21年「雲雀」を創刊して主宰する。松山俳句協会副会長もする。古武士のような容貌で,飾り気のない人柄が人々から慕われた。愛媛新聞に秀句鑑賞の小文「一目一句」を連載し好評を博す。昭和56年6月16日,79歳で死去。松山市伊予豆比古命神社境内に句碑がある。

 篠崎 活東 (しのざき かつとう)
 明治31年~昭和33年(1898~1958)俳人。明治31年1月25日,伊予郡北伊予村横田(現松前町横田)に生まれ,後,伊予市上吾川1576番地に移住。はじめ菓子製造業,後に郡中町(現伊予市)役場吏員となる。本名は梶三郎。初期俳号は暁光,後に活東と改める。大正12年(1923)飯田蛇笏に師事,その俳誌「雲母」に投句する。大正14年3月。「雲母」の課題句選者,同人に推される。昭和6年(1931),宮内甲一路・天野玄空らと「伊予雲母支社」を興す。昭和21年6月30日,郡中町役場内を発行所とする月刊俳誌「光炎」の選者となる。編集者は松尾晴雄(郡中信用金庫勤務)。昭和24年より俳誌「天狼」(主宰・山口誓子)に投句,「光炎」は昭和29年4月,67号で終刊,「天狼」の県内僚誌である「炎昼」(谷野予志主宰)と合併する。「炎昼」の同人に推され,没するまで「炎昼」人として終わる。昭和33年1月13日,満59歳で没した。「炎昼」昭和33年3月号は篠崎活東追悼号となった。句集には『真葛』『活東自句選集』がある。
  凧降りし天の空洞より風吹く 活東

 篠崎 謙九郎 (しのざき けんくろう)
 天保11年~大正7年(1840~1918)戸長・県会議員。天保11年10月28日,伊予郡横田村(現松前町)に生まれた。村用係を経て明治11年横田村戸長になり,村の貧困を救済するため水田の土地改善に乗り出し柴草を刈って堆肥とし土地の肥沃化に努めた。また悪習矯正のため申合せ規約を作り,救貧制度や貧困児童救済方法を講じた。明治22年1月県会議員に当選,改進党に所属して27年3月まで在職した。この間,佐礼谷寺野銅山の開発にあたり,南予鉄道会社設立に関与,郡中銀行の取締役に任じたりした。大正7年9月16日,77歳で没した。

 篠崎 五郎 (しのざき ごろう)
 弘化4年~明治42年(1847~1909)明治期の県知事。弘化4年12月16日,鹿児島藩士の家に生まれた。明治5年東京府第1大区々長・少讐視となり,7年徴集隊副指揮長として台湾に出兵した。除隊後の8年宮崎県に出仕,9年からは兵庫県にあって讐部・少書記官・大書記官を務め,18年4月新潟県令になり,以後知事として22年まで在職して,同県地方自治の基礎を築いた。24年4月島根県知事に復職,26年4月依願退職したが,明治31年1月22日愛媛県知事に就任した。本県在職11か月にして再び知事の座を自ら退いた。名声利殖を求めない性格は各方面から慕われ,一時大警視川路利良の死後後任に擬せられたこともあったが,晩年は不遇であったという。本県知事としては前年度風水害の復旧に追われ,新しい施策を示すことはできなかった。室孝次郎・牧朴真そして篠崎と,在職1年に満たない知事更迭が続いたので,「愛媛新報」は「不幸にも我愛媛県は所謂人材登庸の遣繰算段的の図中に画かれ居りて,小牧以来の知事は何事もなすなく恰かも素通の旅人の如し」と評した。明治42年8月15日,61歳で没した。

 篠崎  哲 (しのざき さとし)
 嘉永2年~大正4年(1849~1915)粟津村長・地方改良功労者。嘉永2年12月24日,喜多郡の若宮村(現大洲市)で士族の家に生まれた。12年県巡査,14年大瀬村戸長,18年中山村外1か村戸長を径て23年3月粟津村長に就任,以来任を重ねて大正4年まで村政を担当した。その間,役場事務に対する執務の状況が熱心周密で勧業・教育の功労少なくないとして,大正4年地方改良功労者の県知事表彰を受けた。大正4年11月9日,65歳で没した。

 篠崎 三島 (しのざき さんとう)
 元文2年~文化10年(1737~1813)大坂商人,儒者。名は応道,字は安道,号は三島,別号は郁州,通称は長兵衛。父忠中(長兵衛)は喜多郡内ノ子生まれ。享保11年大坂に出て,両替商伊予屋を経営していた。三島は忠中の次男で,20歳のとき伊予屋を継いだが,幼少から好学で中年のころから儒学に志し,徂徠門菅谷甘谷に蘐園学を承け,橋本楽郊に朱子学を学んだ。 40歳で儒を業とし,諸生に教え,のち折衷学派の片山北海の混沌社に入り,尾藤二洲・柴野栗山・頼春水らと交った。ところが義侠心に富んだ彼は,不幸な債務者を救済するため,家業の金融業の不振を省みなかった。その結果彼は家業を廃し,漢学塾梅花社を創立し,養子篠崎小竹を後継者として大坂町人の子弟の育英につとめた。

 篠永 牧太 (しのなが まきた)
 弘化2年~明治35年(1845~1902)戸長・県会議員。弘化2年8月14日,宇摩郡具定村(現伊予三島市)で庄屋篠永甚兵衛の次男に生まれた。文久2年松山藩から幕領の具定村・小川山村の里正を拝命,慶応4年3月高知藩庁から改めて里正を命ぜられた。明治7年6月1小区戸長,12年具定村寒川村戸長に任じた。14年5月弟山中好夫の補欠で県会議員になり,17年5月まで在職した。 19年以来宇摩郡連合会議員,23年以来中之庄村会議員になり村政に寄与するかたわら私財を投じて公共福祉にも貢献した。明治35年3月2日, 56歳で没した。玉篠永保定は県会議員を務め,のち伊予三島銀行頭取に就任した。

 篠永 保定 (しのなが やすさだ)
 慶応3年~昭和11年(1867~1936)実業家,県会議員。慶応3年8月18日,宇摩郡具定村(現伊予三島市)で篠崎牧太の長男に生まれた。父は明治14年~17年県会議員であった。近藤箕山について学を修め,のち関西法律学校(現関西大学)に進学した。卒業後家業を継ぎ酒造業を発展させた。村会議員・郡会議員を経て明治44年9月~大正4年9月県会議員に在職した。
 明治34年伊予三島銀行取締役となり,のち山中好夫に次いで三代目頭取に就任した。平素は勤倹貯蓄を奨励,済生会など慈善事業に多額の浄財を寄付して援助に努めた。昭和11年12月5日69歳で没した。

 篠原 栄吉 (しのはら えいきち)
 明治22年~昭和50年(1889~1975)カブトガニ研究家。明治22年3月23日,周布郡吉井村今在家(現東予市)に生まれる。農業とノリ養殖を家業としたが,吉井村漁業組合理事としてノリの養殖と製造の改良に尽力する。当時,この地方の地先に多産していた生きた化石といわれるカブトガニの生態と発生について大正の末から研究を始める。昭和2年ごろからフ化研究に取り組み,半世紀以上にわたって昭和50年12月17日,86歳で亡くなるまで続けた。昭和8年新種ムギワラムシを発見し,同27年採集した海産動物標本を自宅に小博物館を設けるなどして地道な研究を続けた。同38年には愛媛教育文化賞を受ける。子の伴次も親子二代にわたるカブトガニ研究家として父の研究を受けついでいる。親子二代にわたるカブトガニ研究がひとつのきっかけになって,愛媛県は昭和27年カブトガニを天然記念物に指定した。
 東予市を中心にした燧灘の干潟をすみかに,カブトガニは約2億年という歳月を,ほとんど退化もせず進化もせず「生きた化石」として生きつづけてきた。カブトガニは全滅にひんしている貴重な動物である。

 篠原  要 (しのはら かなめ)
 明治28年~昭和12年(1895~1937)新聞人,農民労働運動指導者。温泉郡難波村下難波(現北条市)で生まれた。大正期愛媛新報社に入社,社会部記者として小作争議・労働運動や水平社支部活動などを報道したが,大正14年編集主幹高市盛之助らとともに社を追われた。林田哲雄らと日本農民組合県連合会を結成,日農支部づくりに活動した。また倉敷紡績女エストなどを支援した。昭和4年松山合同労働組合の推薦で松山市会議員選挙に出たが落選した。曇華と号し,「曇さん」の愛称で親しまれた。3年~8年再三検挙され,投獄生活を繰り返して健康を害し,昭和12年6月25日,42歳で没した。

 篠原 幸太郎 (しのはら こうたろう)
 元治2年~大正8年(1865~1919)漁業功労者,本県から韓国水域への配縄漁業による遠海出漁の開拓者。
 元治2年1月20日,今治藩長須村(現川之江市長須)で父貞平,母ムメの長男として生まれる。明治23年篠原幸太郎ほか8名が,配縄漁業を大分県佐賀関方面で県外操業しようとして出航したが,途中で韓国水域の漁況がよいことを知らされ,そのまま釜山方面へ転じ,同海域で漁業を行ったところ予期以上の好漁獲を挙げることができた。このことに刺激されるとともに,明治27年~28年の日清戦争終結後県からの出漁奨励もあって同海域への遠洋出漁熱は非常な勢いで高まり,出漁者数も7~10隻(1隻当たり7~8人乗り)に増加するとともに出漁海域もさらに遠くの関東州大連(現リヤオトン半島リュイター)方面にまで進出するようになった。当時の主な漁業種類は鯛配縄漁業であったが,冷凍保存の技術が確立されていなかったので,漁獲物を塩干魚に加工し,これを九州博多を経て関西方面へ出荷していた。やがて漁業種類も配縄に加え,釣,建網,曳網等も進出するようになり,漁獲物もたい,かれい,にべ,ふか,たら,えい,さばなど多岐に及んだ。大正3年(1914)における二名村(旧長須村,現川之江市長須)の釣,はえなわ漁業の状況は出漁船30隻,出漁者150名,漁獲高52,000円,出漁地域は大連,木浦,仁川,鎮海浦となっている。しかし現地では漁獲が多い割には販価が安く,出費は逆に予想以上にかさむことから,採算がとれず,さらに海難事故も多発したことから遠洋出漁熱は漸次下火となった。長須地区からは多数の漁業者が同海域への遠洋出漁を志したが,業績不振で廃業し,出漁先に永住したものも多く,篠原幸太郎も中国青島で大正8年9月2日,54歳で没したが,海外におげる新規漁場開発を試みた遠洋漁業の先覚者としての功績は非常に大きい。

 篠原 朔太郎 (しのざき さくたろう)
 慶応元年~昭和27年(1865~1952)紙聖と称されるほど和紙製造の功労者。朔太郎は慶応元年9月22日,川之江村井地(現川之江市)の父貞吉の長男として生まれた。朔太郎の生涯は,森実善四郎著『紙聖篠原朔太郎』(昭和36年発行)や同著『紙と伊予』(昭和39年ロータリークラブ発行)や,昭和39年川之江の仏殿城の山腹に建てられた朔太郎の銅像の背面文に詳しい。篠原家は祖父の直平以前から代々製紙を業とした。彼も子供の時から年齢相応に紙漉きの手伝いをしたという。 15歳の夏,父から夏祭りの小遣いに一円札を貰い,紙幣
に透かしの模様のあるのを知って自分も早く漉きたいと考えたという。彼は研究心が盛んで,後日,牡丹や鳳凰の美しい透かし入りの紙を漉いて世人を驚かしたのである。彼は次々と発明し改良している。 20歳(明治17年)の時,彼は紙つけに藁箒を使用することを工夫し,更に翌年棕櫚刷毛を用いるようにした。それまで紙つけは葉蘭の葉などを使用していた。また製紙に薦田篤平の導入したカルキ(晒粉)を入れ,パルプの混用を試み,次いで麻をもパルプ化して使った。同21年には改良紙(三極原料)の八枚漉きや,苛性ソーダ薬品処理を始めた。
 明治28年に京都の第四回勧業博覧会に,弟の荒吉と丹精こめた紙を出品したが三等賞で,上位は土佐紙であった。残念に思い先進地を視察している。同35年米国セントルイスの万国博に朔太郎苦心のコピー紙と典具帖紙を出品し,見事一等金牌を得た。彼の漉いた紙は芸術品とされ,東京王子の紙の博物館に保存されている。川之江の紙は有名になり内閣印刷局の得能局長の招きで,明治37年40歳の時に朔太郎は印刷局抄紙部の見習生として入所した。そして佐伯勝太郎工博の指導を受け,新しい技術を身につけた。この年ワシントンの世界博に透画入の典具帖を出品し賞牌を受けている。同38年には弟の荒吉と共に再び印刷局に留学している。留学中に叩解機に目をつけ,和紙用の叩解機を発明した。明治40年には三角ドライヤーを発明し雨天でも和紙の乾燥ができるようになった。同年朔太郎の漉いた書院紙が有栖川宮殿下よりお買上げの光栄に浴している。同44年には原料を煮る平釜を改良し,回転式蒸煮釜を考案した。同年播州高砂の三菱工場から依頼され,原料の竹パルプの研究に台湾へ,芦パルプの研究で朝鮮に赴いている。昭和27年三菱製紙の関義城のコレクションの中に朔太郎の紙が11種も収録され,世界的に知られ,今上陛下にも献じられている。朔太郎は昭和27年3月27日,86歳の天寿を完うした。弟の荒吉は大洲和紙の技術指導者で五十崎町平岡で没した。

 篠原 助市 (しのはら すけいち)
 明治9年~昭和32年(1876~1957)教育者,著述家。明治9年,周桑郡に生まれ,当時4年制の尋常小学校を卒業し,2年間私塾養生館に学び,明治26年愛媛県尋常師範学校に入学,明治31年卒業した。師範学校の在学が長いのは,寮生活のことで停学処分を受けた為といわれているが,彼は,当時の師範教育について批判的であったと考えられる。卒業後訓導となったが,2年後には壬生川尋常小学校の校長になっている。明治34年,東京高等師範学校に入学し,専攻は英語科であったが,高師卒業と同時に,研究科に入り,主として哲学・倫理・教育学を研究する。更に明治45年,京都帝国大学哲学科に入学,哲学,倫理学,教育学を学びながら教育理論の研究に専念した。大正8年母校東京高師の教育学教授として招かれ学者としてまた教育哲学者としての学界的評価が確立するに至った。大正11年文部省から留学生として欧米に派遣され,翌年帰朝して東北帝国大学法文学部教授に異例の抜擢を受けた。昭和5年に東京文理科大学の教授となり「教育の本質と教育学」の論文で学位をとる。昭和9年から同11年まで文部省調査部長となり,教育の機会均等の原則に基づく義務教育延長の改革に努力を傾けた。昭和16年東京文理科大学を停年退職,同大学名誉教授となった。退職後も著述活動に専念し,戦後の教育についても実際的教育論をひっさげ民主的教育の精神啓蒙に活躍した。戦争で自宅は書庫のみ残して焼失したが,戦後は,湯河原の別荘で執筆活動を続け,昭和32年81歳の生涯を閉じる。ヘルバルト派を中心としたドイツ教育学から,デューイの教育学,更にライやモイマンの実験教育学,新カント派,とりわけ,コーヘン,ナトルプ,ヴィンデルバントの哲学と編歴し,ケルシェンシュタイナー,ディルタイなどの教育学の思想を次々に紹介し,著書も多い。主著として『批判的教育学の問題』『理論的教育学』『教育の本質と教育学』『教育学』『教育辞典』『教育学綱要』『理科教授原論』『教育と教育的精神』『シュライエルマッヘル』『教育断想』『教授原論』『独逸教育思想史』『民主主義と教育の精神』『訓練原論』『新教育概論』『教育生活五十年』などがある。

 篠原  梵 (しのはら ぼん)
 明治43年~昭和50年(1910~1975)俳人。明治43年4月15日,伊予郡南伊予村(現伊予市)に生まれる。本名敏之。旧制松山中学から松山高等学校を経て,東京帝国大学文学部国文科を卒業。昭和13年,中央公論社入社。同19年退社し帰郷,愛媛青年師範で教壇に立つ。戦後いち早く,愛媛新聞社より「俳句」が創刊されると,その同人として活躍,愛媛新聞俳壇の選句をするなど後進を指導した。同23年,中央公論社へ復職。俳句は松高在学中,川本臥風(教授。臼田亜浪門の俳人。俳誌「いたどり」主宰)の指導を受け,「松高俳句会」に入会,「石楠」にも投句した。上京してから臼田亜浪に師事。同49年,既刊の句集『皿』(同16年),『雨』(同28年)およびその他の句を含む全句集『年々去来の花』を別冊『経路』(自叙伝)と共に刊行した。同50年10月17日,松山に帰省中,肝硬変で急逝。65歳。石手寺に「葉桜の中の無数の空さわぐ」の句碑がある。知性的で,リズムの斬新さに特色がある。

 芝  直由 (しば なおゆき)
 明治20年~昭和16年(1887~1941)泉村長・県会議員。明治20年5月3日,北宇和郡小倉村(現北宇和郡広見町)で芝萬太郎の次男に生まれた。八幡浜商業学校卒業後関西大学商科に学んだ。大正6年泉製糸会社を創立して社長になり,15年泉村商工会長に推された。昭和2年9月~6年9月県会議員になり,政友会に所属した。5年3月~6年9月泉村長に就任した。昭和16年5月31日,54歳で没した。

 芝 不器男 (しば ふきお)
 明治36年~昭和5年(1903~1930)俳人。明治36年4月18日,北宇和郡明治村松丸(現松野町)の芝家に生まれる。昭和3年,同郡二名村(現三間町)の太宰家に入る。本名,太宰不器男。松山尋常小学校,宇和島中学校,松山高等学校を経て,大正12年,東京帝国大学農学部に入学。のち東北帝国大学工学部に転じたが中退。俳句は,大正12年,関東大震災後上京せず,家郷の句会に出席,姉蘭香女のすすめで句作を始める。はじめ扶樹雄と号して長谷川零余子の「枯野」によったが,俳人である兄のすすめで吉岡禅寺洞の「天の川」に投句,禅寺洞のすすめで号に不器男を用いるようになった。同15年「天の川」巻頭となり,「天の川」に不器男時代が出現した。原石鼎の「鹿火屋」では振わず。同年の「ホトトギス」12月号に二句入選。そのうちの「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」が,翌年1月号で高浜虚子の名鑑賞を受け一躍注目を浴びる。松山の「葉桜」(塩崎素月主宰)にも投句,翌昭和2年より同誌の課題選者となる。同3年太宰文江と結婚。この年,水原秋桜子は「新進作家論」で不器男を推賞。しばらく投句を休み,万葉集の研究書など読む。翌4年4月発病。九州帝大附属病院後藤外科に入院。病名は肉腫。翌5年2月24日,福岡市の仮寓で死去。 26歳。墓は太宰家墓地(三間町)にある。「白藤や揺りやみしかばうすみどり」「泳ぎ女の葛隠るまで羞ひぬ」「寒鴉己が影の上におりたちぬ」など青春の抒情性豊かな秀句を残しか。句碑が三基ある。

 柴田 善三郎 (しばた ぜんざぶろう)
 明治10年~昭和18年(1877~1943)知事,貴族院議員。伊沢知事の腹心愛媛県警察部長として三津浜築港疑獄事件を摘発した。明治10年11月,静岡県で佐藤善六の三男に生まれ,37年柴田佐平の養子になった。 37年東京帝国大学法科を卒業,文官高等試験に合格して和歌山県事務官になった。同県で伊沢多喜男知事の知遇を受け,伊沢知事の愛媛県転出に際し警察部長に抜擢されて本県に同道,三津浜築港にからむ贈収賄事件を摘発して藤野政高らを逮捕,県政界を粛正した。伊沢の転任と共に本県を去り,宮崎県内務部長,北海道拓殖部長,大阪府内務部長と進み,朝鮮総督府学務局長を経て大正11年三重県知事となった。ついで福岡・愛知県知事を務め,昭和4年7月大阪府知事に就任した。7年斎藤内閣が成立すると内閣書記官長になり,貴族院議員に勅選された。昭和18年8月25日,65歳で没した。

 島田 茂一郎 (しまだ もいちろう)
 明治16年~昭和19年(1883~1944)果樹栽培家ならびに技術指導者。剪定整枝の理論とその実践に事績をあげた。温泉郡東中島村(現中島町)大浦に生まれる。若くして家事を継ぎ農業に従事,明治40年ころからミカンの整枝剪定の理論と実践について考究し,剪定技術の創始者といわれている。大正8年東中島村と西中島村の両村農会技術員として活動後,昭和12年東中島村農会長となり,昭和13~14年ころ,ミカンの隔年結果防止の目的で,適度な枝の葉を全部落として「坊主枝」と名付けて成果をあげた。これが南予柑橘分場の村松春太郎によって「予備枝」と名付けられて現在もその技術が生きている。61歳で死去。

 下井 小太郎 (しもい こたろう)
 弘化4年~昭和22年(1847~1947)大洲地方の養蚕業の功労者。弘化4年11月28日,喜多郡中村殿町(現大洲市)で生まれた。家は代々大洲藩士で加藤家に仕え,禄100石と5人扶持を受け,父は平造といった。慶応元年19歳の時江戸に出て槍術を習い,英式兵法を学び,明治維新前京都に向かい,伏見の戦いが始まり,その情報を大洲藩主に伝え,時勢の動向を明らかにした。明治元年大洲藩教導士官・軍監を命ぜられた。明治2年藩命を帯びて開成所で英学を修め,さらに慶応義塾で経済学を修め明治6年大洲に帰る。私立英学塾を開き,後これを秋成校に移して自ら校長を兼ね教鞭をとった。明治7年乳用牛を飼育搾乳し粉乳製法の研究もした。また養豚も試みた。明治10年愛媛県警部に任ぜられ,大洲・今治・松山の各警察署長を歴任した。明治13年喜多郡長となって,蚕糸業を興さんと考え,有志と共に私財を投じて,桑の苗圃を設け,鳥取県から市平・十文字・赤木・高助などの桑の苗木を購入して育成した。肱川流域は度々水害に見舞われ,穀物作りより桑園による養蚕業が適当であると考えた。菅田村の老農高田繁,柚木村の老農白石林七と謀って,桑苗を育成し実費を以って頒布したが,希望者が少ないので,喜多郡の勧業費で買上げ無償配布した。さらに明治16年大洲若宮の新谷長浜街道の分岐点に2反余りの模範桑園を造圃した。明治21年春「松山養蚕伝習所」が開設されると,妻に伝習させ,養子を29年に入所させ,さらに「農商務省蚕業講習所」で学ばせた。郡内の青年には養蚕業の見学を奨めるなど蚕糸業の隆盛を図った。旧庄屋近田綾次郎を郡吏に抜擢して養蚕業の講話指導にあたらせた。明治21年有志を集め「喜多蚕業協会」を設立し,討議の結果,養蚕のみでなく,製糸業を興す必要を痛感,勧誘した結果,河野喜太郎・程野宗兵衛らが製糸工場を新設することになった。明治23年には,河野喜太郎・程野宗兵衛は共同して本町3丁目に製糸工場を設けた。工場は32釜,木鉄混合ケンネル式製糸工場で県下第一の近代的施設として,建設された。
 養蚕技術改善のため,明治16年から同22年までの間に,養蚕伝習所を3回開設し,蚕業協会は繭,生糸,蚕種,養蚕用具の品評会又は展覧会を開催すること6回,明治21年以来,県立松山養蚕伝習所に勧誘して入所させた者28人に及んでいる。下井小太郎は,明治27年まで15年間,喜多郡の郡長として特に蚕糸業の発展奨励に大きく力を尽くした。
 明治32年,河野喜太郎の提唱により,生繭の取引を公正価格の維持と円滑をはかるため,今岡梅太郎・程野宗兵衛・津国八太郎等が発起人となり,本町3丁目元恵比須神社境内に,生繭取引市場「大洲繭売買所」を開設した。大正10年2月,蚕糸業功労者表彰碑に河野喜太郎・程野茂三郎・下井小太郎の3人が記されていたが,昭和37年11月に,市街地区画整理のため,城山の児童館の西側に塀風型に改められて建てられている。昭和22年2月1日,99歳で死去した。

 下村 為山 (しもむら いざん)
 慶応元年~昭和24年(1865~1949)洋画家,俳人,俳画家。慶応元年5月21日松山藩士下村純(古へんに段)の次男として松山城下出渕町(現三番町)に生まれる。本名を純孝,別号留萃洞,不觚庵,雀盧といい,俳号を冬邨,百歩,牛伴ともいう。明治15年18歳で上京,本田錦吉郎の画塾彰技堂に入塾,のち小山正太郎の不同舎に学び,中村不折らとともに同門の双璧または四天王とうたわれ,明治23年の内国勧業博覧会出品の「慈悲者之殺生」は褒状を受賞,新鋭洋画家として活躍する。その頃,従兄の内藤鳴雪を介し同郷の正岡子規と知り合い,俳句の研究に熱中,彼のとく写生論は子規の俳句革新に大きい影響を及ぼす。子規の没後は郷里に帰り,俳画の研究に没頭。大正4年その作をもって東京に復帰,俳画家として名声を博す。後年彼は「俳句は日本特有の文芸,俳画もまた日本芸術の光」といい,古今独歩,俳味横溢の画境を開拓し現代日本水墨画に新境地を開く。昭和24年7月10日,終戦直後の混迷期,疎開先の富山県西礪波郡石黒村で没す。 84歳。

 周   円 (しゅうえん)
 元文元年~安永4年(1736~1775)歌人僧。梅柳軒と号す。武蔵国の生まれ。 16歳ころ紀州の伯父を頼って出家,伯父の没後阿波を経て,密元律師を慕い伊予に来たり,秋都庵(西条市)に閑居,後,萩生(新居浜市),円海寺(東予市),一本松(小松町)に庵住して東予一円の人々の歌の指導をした。冷泉為村の門人となり,同門の玉井忠成(石岡八幡宮),宥宝上人(実報寺)らとともに石岡八幡宮社中を結成し,同社に高角神社(人麿を祭る)を建てた。また為村に請うて,高角神社,実報寺の一樹桜,石鎚,木の葉の硯等の詠を得た。若くして没したが,親交のあった宥宝上人の実報寺に葬られた。その歌の徳を慕って33回忌の文化4年(1804)に周円の遺詠を集めた『松葉集』が刊行された。序文は同門で土居の庄屋加地信之。これに周円の経歴等が書かれている。

 宗昌禅定門 (しゅうそうぜんじょうもん)
 生年不詳~元禄15年(~1702)大洲領紙漉師越前の人,喜多郡五十崎町大字平岡の香林寺(曹洞宗永平寺派)に次のような文字の墓がある。正面は「宗昌禅定門」,東側は「大洲領紙漉師越前国人」,西側は「元禄十五年壬午年五月十八日」とある。
 俗名と享年何歳が刻んでない。香林寺には元禄時代の墓はこれ以外にない。この墓は4回も移転させたが,大正期までは墓地の門の入口に近い沼井福治郎の墓地の隣にあった。昭和16年までは村の紙漉さんたちが感謝祭をしていた。
 寺の過去帳に前代の住職有田大宗が次の如き貼紙をしている。「宗昌禅定門,元禄十五年壬申五月十八日 平岡村ニテ死ス 大洲領紙漉ノ元祖ナリ 毎日茶湯香華真心ヲ以テ追善供養スル自然トヨキ紙ノデキルソノ妙ナリ 生国ハ越前ノ福井城下近在村名知シレス 俗名善之進 明治廿七年迄百九十三年」とある。
 元禄十五年は壬午である。壬申は誤。福井城下に近い紙漉村はもちろん今立町の岡本村である。
 浅井伯源著の『伊予の山水と人物と事業』に伝兵衛の墓とあり,大洲藩が越前の伝兵衛を迎えて師匠とした。光林寺の住職云々とある。これは著者の推察で,地元では宗昌禅定門は山伏か六部さんであったと言い伝えている。藩は60年前に岡崎治郎左衛門を採用している。宗昌禅定門の紙を漉いた場所は曽根鹿五郎(今は矢野勝行宅)の宅であった。詳細は村上節太郎著『伊予の手漉和紙』に詳しい。宗昌禅定門の墓は昭和57年に町の文化財に指定されている。

 春   巌 (しゅんがん)
 正平6年~応永21年(1351~1414)大洲渓寿寺(曹洞宗)の開祖。諱は祖東。喜多郡大野(現大洲市菅田)の生まれで俗姓伴氏というが,生年とともに必ずしも明らかでない。 12歳で本空に入門,美濃妙応寺の大徹に参じて印可を受けた後各地に修行,応永元年(1394)渓寿寺を開創した。同7年,能登総持寺竺山に招かれて首座をつとめ,同9年大隅瑞光寺(現廃寺)を開創するなど,渓寿寺にとどまることなく,同21年,63歳で没した。

 正   堂 (しょうどう)
 正応元年~文中2年(1288~1373)現北条市善応寺の開祖。諱は士顕。出生,族姓など不明。北条幕府の末期落魄の河野通盛は,遊行上人安国にすすめられ,建長寺南山士雲の下に剃髪して善恵と号し,士雲のとりなしで足利尊氏の知遇を得,その後の戦功により,通信以来の旧領を安堵されたという。(予章記など)のち,通盛は,自己の居館を寺院とし,南山士雲の弟子正堂士顕を迎えて善応寺を開創した。
 正堂上顕は,元に渡って無見に参じ,その印可を受けて帰国,初め長州長福寺,ついで伊予北条長福寺に住したあと,迎えられて善応寺に入った。ちなみに,師南山士雲の師は円爾弁円であるから,臨済宗東福寺派の法統に属する。

 昇田  栄 (しょうだ さかえ)
 明治22年~昭和36年(1889~1961)医師・県医師会長。明治22年10月5日,松山中ノ川で昇田市太郎の長男に生まれた。福岡県豊津中学校を経て大正5年長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)を卒業した。同年南満州鉄道病院内科に勤務,9年12月松山市本町一丁目で開業した。昭和8年から市会議員になり,26年まで在,25年には市議会議長に就いた。戦後松山市医師会長を経て,22年8月県医師会長に就任,同年12月その任を辞したが,24年3月復帰して33年9月まで在任して,新生県医師会の基礎づくりに尽力した。医業のかたわら,城北振興株式会社を興し,映画館「本町劇場」を創設して娯楽を提供するなど城北地域の発展に寄与した。 27年厚生大臣表彰を受けた。昭和36年7月5日,71歳で没し,松山市宮古町の大林寺に葬られた。

 勝田 主計 (しょうだ かずえ)
 明治2年~昭和23年(1869~1948)県人初の大蔵大臣・文部大臣。明治2年9月15日,松山城下御宝町で士族勝田久廉の五男に生まれた。明治16年松山中学校を卒業,同校では正岡子規・秋山真之・山路一善などと親交を持った。上京後は子規から俳句をすすめられ,明庵と号して「初日の出心にかかる雲もなし」などと吟じた。明治28年7月帝国大学法科を卒業して大蔵省に入った。函館税関長などを経て34年から2年間欧州に派遣され,日露戦争後臨時国債整理局長として国債の整理に当たった。41年5月理財局長になり大陸政策のための東洋拓殖会社・韓国銀行を設立した。大正元年12月大蔵次官に昇進,退官後の3年貴族院議員に勅選され,一時朝鮮銀行総裁にもなった。5年12月寺内正毅内閣の大蔵大臣に抜擢され,第1次世界大戦の好景気に湧く国内経済の調整と中国大陸への投資を図ったが,物価騰貴を抑えることができず米騒動を招来した。6年3月,13年ぶりに帰省して故郷に錦を飾った。 13年1月清浦奎吾内閣の大蔵大臣に再度就任して,関東大震災後の帝都復興に当たった。昭和3年には田中義一内閣の文部大臣になった。政界では政友会に近くしばしば候補者に推されたが自らは立たず,河上哲太・尾崎敬義・杉宜陳らを推薦後援して応援のため帰省するようになった。子規の指導以来句作にふけりこの時代には宰州と号して「蒲鉾に郷土のにほふ雑煮かな」などと吟じ,『句日記』を出したりしている。また東京で愛媛県人会を結成して郷党の世話をし,導いた。昭和23年10月10日79歳で没した。昭和44年奥道後杉立山頂に銅像が建てられた。

 勝田 銀次郎 (しょうだ ぎんじろう)
 明治6年~昭和27年(1873~1952)実業家,衆議院議員・貴族院議員,神戸市長。海運業で成功,山下亀三郎と共に船成金の代表として世間の注目をあびた。明治6年10月13日,松山御宝町で米穀商の家に生まれた。松山中学校を卒業すると北海道に人生の活路を開こうとして旅立ったが,途中東京英和学校(現青山学院大学)に進学して,27年卒業した。大阪の吉田貿易店に就職したが,29年に倒産したので,神戸の足立輸出入会社を経て,ほどなく200円の資金で船舶仲介業を始めた。これが第一次世界大戦の好況に乗って,船舶の新造,中古船の買収・傭船に全力を投じた結果,大正6年には資本金1千万円の勝田汽船株式会社に成長した。この時期の保有船舶8隻・約6万トンで,船籍を本県に置いて巨船主義の海運経営で臨み,船成金と呼ばれる巨利を得た。大戦景気が終わって恐慌が到来すると,海運業から政界へ方向を変え,大正7年貴族院議員と神戸市会議長になり,昭和5年2月第17回衆議院議員選挙に神戸市から立って当選した。昭和8年には神戸市長に就任した。その間,日本船主同盟会理事・海運業組合長などを務めて,海運事業の発展にも引き続き貢献した。昭和27年4月24日,78歳で没した。

 聖   戒 (じょうかい)
 弘長元年~元亨3年(1261~1323)鎌倉時代後期の時宗の僧侶。時宗の開祖一遍の弟とされているが,甥または実子との説もある。文永7年(1270)ころ出家して一遍とともに大宰府の聖達のもとに赴き,これ以後行動をともにする。翌8年には一遍とともに信濃国善光寺に参籠し,同10年には浮穴郡菅生の岩屋寺に参籠した一遍を助けた。同11年,一遍が遊行の旅に出るにあたり,本尊や聖教のすべてを聖戒に譲ったという。この時,聖戒は越智郡桜井まで一遍を見送り,そこで両者は別れた。それ以後の聖戒の行動は明らかではないが,正応2年(1289)死期をさとった一遍が,遊行の旅を終えて兵庫の観音堂にはいった時には,そのそばにあってつかえ,臨終をみとった。一遍の死後,その後継者である真教とは別行動をとり,京都六条に歓喜光寺を創建した。正安元年(1299),京都の貴族層の援助を得て,一遍の生涯を描いた絵巻物『一遍聖絵』を完成させた。同絵の製作にあたっては絵師円伊とともに一遍の遊行のあとを訪ね歩いたといわれる。

 聖徳太子 (しょうとくたいし)
 敏達天皇3年~推古天皇30年(574~622)用明天皇の第2皇子として生まれる。厩戸豊聴耳皇子といい,後世その業績を称讃して,聖徳太子とよんだ。太子は早くより仏教に心を傾け,仏寺の興隆に尽力する。崇峻天皇(泊瀬部皇子)の後,推古天皇が即位すると,その皇太子となり摂政の地位にあった。推古帝の4年(法興6年-596)10月,太子は僧恵慈らを従えて道後に来浴した。その理由については史料に明記してないが,翌5年に百済の皇子阿佐が来朝したこと,その後も百済・新羅との交渉が続いたことから類推すると,対朝鮮政策の問題が幾分介在していたと考えられる。太子は道後の伊社爾波岡に温泉の碑を建てたと伝えられ,その碑文は「伊予国風土記」逸文のなかに載せられ,わが国最古の金石文の1つとして重要視されている。太子一行の温泉滞在の期間はきわめて短かく,1か月足らずであった。それは11月に大和に法興寺が建立され,恵慈らがここに居住した史実(日本書紀)からすれば,一行はこの時すでに大和国に帰着していたと考えられるからである。なお太子は儒教にも精通し,内外の典籍を研究し,冠位12階・憲法17条を制定して,法治国家としての態形を整備した。さらに遠く遣隋使を派遣し,隋の進歩した律令の摂取につとめた。しかし太子は推古天皇30年(622)49歳で班鳩宮に逝去。

 樵   禅 (しょうぜん)
 寛政10年~明治8年(1798~1875)大洲曹渓院(臨済宗)第16世。諱は禅鎧,九江・九江叟・吸江軒,隠栖して采樵・衲樵・禿樵などと号した。豊前国彦山(英彦山)教乗坊慶抽の三男として寛政10年に生まれる。 12歳のとき豊後高松福寿寺寛道に従って剃髪,18歳で日田菅相寺の盤竜に教えを乞い,かねて広瀬淡窓の威宜園に漢学を学んだ。それより京都に出,妙心寺棲神に薫陶を受けること15年,その間諸国を遊歴して高徳に学び,雨弁(現川之石)竜潭寺にいるとき,行応などの推薦により,大洲藩主11代加藤泰幹に招かれ,天保2年(1831), 34歳のとき,その菩提寺曹渓院に入山した。そして,早くも翌年には妙心寺第一座,嘉永2年(1849)には紫衣を賜っている。64歳で曹渓院塔頭洞林寺に隠棲したが,これからが布教による社会教化時代で,伊予・豊前・豊後を中心に諸国に及んだ。また,勤王の志が厚く,大洲藩の枢機に参与,幕末・維新の動乱期にその進むべき道を誤らせなかった。明治元年に出版した『九江夜話』は,豊後での講演内容をまとめたもので,維新政府の方針にそって国民の教化につとめたことを示している。九江夜話のほか多くの稿本が残っている。隠退後15年間を過ごした洞林寺(北只村)で明治8年7月10日77歳死去,境内に葬られたが,明治中期廃寺となり,墓は曹渓院に移された。

 白井 雨山 (しらい うざん)
 元治元年~昭和3年(1864~1928)彫刻家。元治元年3月1日,宇和郡鬼ヶ窪村(現東宇和郡宇和町鬼窪)の米穀商佐平の四男に生まれ,本名保次郎,真城,晩翠軒・環中子とも号す。宇和島南予中学入学後松尾馬城に南画を学び,明治18年上京。本田錦吉郎画塾に洋画を学び,渡部省亭・望月玉泉に日本画を学ぶ。 22年東京美術学校彫刻科に入学,特待生となる。卒業後石川県立工業高等学校教諭を経て,31年母校東京美術学校助教授に帰任。従来の木彫科に加え彫塑科を新設,彫塑界の先達として北村西望・建畠大夢などの英才を育成。34年より2年間渡欧,37年同校教授となり文展・帝展審査員として活躍。退官後は水墨画に没頭し超脱の画境を歩む。郷里宇和町に「神武天皇東征の像」を残す。昭和3年3月23日,64歳で没した。

 白石  清 (しらい きよし)
 明治39年~昭和42年(1906~1967)初生雛鑑別師。明治39年10月11日松山市西石井の養鶏家に生まれる。明治30年ころ始まった民営ふ卵業は一般に雛が弱いと言うので余り歓迎されなかったが,大正の末期よりめざましい進展を示した。しかし同時にある程度成長しなければ雌雄が判別できないのが養鶏家の大きな悩みであった。大正14年東京大学増井清(当時助教授)らによって初生雛の雌雄鑑別法が発見された。このころ松山市西石井の白石養鶏場(実兄で県畜産功労者の基の経営)が,ふ化業を始め,当時北予中学校を卒業して業務手伝中の白石は昭和2年から鑑別技術の実地研究にかかり,次いで社団法人日本初生雛雌雄鑑別協会に入会し実地指導を受けた。昭和8年鑑別師試験が始まり,受験合格し県下第1号の鑑別師となった。以降県内はもとより隣県にわたり鑑別業務に従事するとともに多くの後輩を指導育成して養鶏振興に大きく貢献した。その後も研鑽を積み高等鑑別師の資格を取り,世界的な鑑別の権威として遠くベルギー・ドイツ・イギリス・イタリア・オーストラリア等に2回の2年半にわたる海外での鑑別技術の教授に併せ養鶏技術の指導に尽酔した。昭和23年には愛媛県養鶏協会の結成に参画し副会長として20年間にわたり養鶏界の重鎮指導者として活躍し,昭和35年に県立養鶏試験場の設立を見だのは氏の努力に負うところ多大であった。なお優良種鶏の飼育による県下養鶏家への稗益も大で,業界よりこれからを期待されながら,惜しくも昭和42年12月2日忽然として長逝。 61歳。その生前の功により勲六等瑞宝章が追贈された。

 白石 小平 (しらいし しょうへい)
 明治7年~昭和22年(1874~1947)西条町長・県会議員。明治7年3月2日,周布郡田野村長野(現丹原町)の佐伯家に生まれた。
 明治29年愛媛県尋常師範学校を卒業して田野小学校訓導になり,のも東京法学院(現中央大学)に入学して苦学しながら卒業した。 38年司法官試験に合格,松山大洲裁判所に勤務した後,今治士族白石常吉の養子となり,40年西条町で弁護士を開業した。 45年町議会の推薦を受けて町長に就任,任を重ねて町政を担当,大正14年西条町と玉津・大町・神拝の各村合併に成功してまもなく退任した。大正8年9月県会議員に当選,憲政会に所属して昭和2年9月まで2期在職した。
 昭和22年3月28日,73歳で没した。

 白石 捷一 (しらいし しょういち)
 明治27年~昭和57年(1894~1982)高知・埼玉・香川師範学校長,新居浜市長。明治27年11月7日,新居郡新居浜村(現新居浜市)で白石誉二郎の長男に生まれた。西条中学校・第六高等学校を経て京都帝国大学文学部・法学部を卒業,新居浜高等女学校長,高知・埼玉・香川の各師範学校長を歴任した。昭和26年4月新居浜市長に当選,1期4年間在職した。その後,東予信用金庫理事長や桃山学院顧問を務めた。昭和57年1月7日,87歳で没した。

 白石 積太郎 (しらいし せきたろう)
 明治24年~昭和41年(1891~1966)村長・市議会議員。温泉郡伊台村(現松山市)に生まれる。伊台村書記や助役を務めたが昭和6年,40歳で伊台村長に選任され,農村救済の使命を帯びて就任したといえる。同7年には救農土木事業や生活改善に取り組み不況農村を更生させた。とくに村民懇談会を開いて,主婦と語り,青年と論じ,負債整理に大きな働きをする。
 同12年,経済更生功労者として表彰を受けたり,全国から視察者が引きも切らないほど有名になった。彼は昭和21年まで15年間村長をやり,昭和30年松山市に合併後は,同31年市議会議員にもなって新農山漁村振興計画に参画し,県の顧問として農村の発展に一生を捧げた。昭和41年4月,75歳で死去。勲六等を贈られる。昭和39年「経済更生と負債整理の碑」が建てられている。

 白石 蒼羽 (しらいし そうう)
 大正7年~昭和38年(1918~1963)俳人。大正7年3月1日,越智郡日高村高橋(現今治市高橋)に生まれる。本名は光信。大阪市立恵美須第三商業学校卒業後,松山歩兵連隊に入隊するが,昭和16年1月発病して除隊し,温泉郡重信町の国立療養所に入る。その翌年初めて「馬酔木」に投句しつぎつぎ「天狼」「炎昼」に作品を投じ句作に専念する。退院後,帰農して内職にガリ版筆耕をしながら貧と病と闘う。その後も病状が悪化し,入院するが,昭和31年成形手術,33年に退院し,伊予信用金庫の集金係となって生活を助ける。同38年1月上月繁子と結婚したが,まもなく急逝した。死後未亡人によって句集『円祖』が出された。

 白石 孝之 (しらいし たかゆき)
 天保7年~明治31年(1836~1898)蚕糸業功労者。天保7年松山藩士の家に生まれ,明治5年松山市の豪商藤岡勘左衛門と仲田伝之じょうは温泉郡立花村字上佐古(現松山市)に桑園1町3反を設け養蚕の業を広めんとした。白石孝之外8名の旧松山藩士が京阪地方で養蚕の方法を伝習して帰松し,「松山養蚕会舎」を設立して,養蚕と蚕種製造を始めた。白石は明治10年県雇として旧大洲藩士平井茂平・大橋有と共に大洲の婦人7名と松山から婦人4名をともない岡山県笠岡製糸工場で,機械製糸を習い,翌年松山市外立花橋近くに製糸工場を建設した。明治11年松山城山での博覧会・13年の香川の琴平での博覧会で,機械製糸の実演を見せ,蚕糸業の普及を図った。同13年白石は持田村の三好豊保(伊予柑を導入した三好保徳の父)らと図って蚕業団体を組織し,県から派遣された養蚕教師小倉について修業した。県内各地に養蚕について講演を行い,指導的役割を発揮した。明治31年10月15日,62歳で死去した。

 白石 誉二郎 (しらいし たかじろう)
 明治7年~昭和26年(1874~1951)新居浜町長・市長,地方改良功労者。明治7年1月5日,新居郡永易村(現西条市)で旧庄屋矢野和三郎の次男に生まれた。西条藩校択善堂に学び,松山・泉川などの小学校に勤めた。26年新居浜村(現新居浜市)の旧庄屋白石又三郎に入婿し家を継いだ。 32年以来村会議員になり,44年8月新居浜町長に就任した。以来任を重ねて明治・大正・昭和の三代にわたり町政を担当した。その間,町立実科女学校を創設して女子教育の普及を図り,下水道布設・トラホーム診療所の設置・避病舎の改築・墓地の新設など衛生改善に意を用い,数年にわたり新居浜港の浚渫事業を実施して船舶の寄港に便ならしめ,耕地整理を企画,日章会を組織して町民の和睦に努めるなどの事績をあげた。大正13年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和12年新居浜市制実施に際し初代市長に選ばれ,19年5月老齢をもって退職するまで市政を担い,新居浜港修築,官立新居浜高等工業学校の誘致,新居浜図書館の建設などに尽力した。地方と住友企業との共存共栄を基本理念として東新11か村の町村会長として地域発展に尽くし,工都新居浜市発展に不滅の足跡を残した。市長辞任の際には退職金・記念料を新居浜教育会館建設金として寄付した。昭和26年4月18日, 77歳で没した。長男白石捷一は昭和26~30年新居浜市長を務めた。

 白石 大蔵 (しらいし だいぞう)
 明治3年~昭和16年(1870~1941)素鵞村長・県会議員・松山市長。明治3年3月19日,温泉郡枝松村(現松山市)で生まれた。明治24年素鵞村収入役,40年同村長に就任した。大正4年9月県会議員に当選して1期在職した。昭和6年1月松山市収入役,8年5月同市長に就任したがわずか半年にして同年11月病気を理由に退任した。昭和16年9月9日,71歳で没した。

 白石 和太郎 (しらいし わたろう)
 慶応4年~大正4年(1868~1915)実業家,県会議員・川之石村長。慶応4年3月11日,宇和郡川之石浦(現西宇和郡保内町)で白石和太郎の長男に生まれた。初め文太郎と称していたが,父の死後和太郎を継いで改名した。小学校卒業後,都築温(鶴州)の西予義塾で漢学を学んだ。家業の酒造業を経営したが,明治23年から喜須来村の兵頭矩と共同経営で柳谷鉱山の採掘を始め,24年からは白石隆一と共同出資の白石鉱業会社を組織し,川之石村大峯鉱山の採掘を始めた。 42年宇和鉱業会社を設立してその代表者となり,大峯鉱山の経営を続けて別子鉱山に次ぐ四国第2の産額をあげるまでに発展させ,従業員100人近くが働いた。 38年には宇和紡績を買い受けて紡績業の経営にも当たった。この間,32年9月県会議員に選ばれたが,企業経営多忙のため36年9月1期だけで退いた。 34年7月には川之石村長となり39年6月まで2期町政を担当した。地元川之石の公共事業にも巨額の寄付をし,31年八部小十郎らと川之石就学奨励会を設けて貧窮児童を保護して就学向上に努めた。大正4年8月30日,47歳で没した。

 白方 大三郎 (しらかた だいざぶろう)
 明治26年~昭和49年(1893~1974)実業家。大五郎の長男として温泉郡久枝村久万(現松山市久万の台)に生まれる。久枝小学校,鴨川高等小学校卒業後,父の営む日用雑貨商を継がず,明治41年15歳にして独立,精米業を始めた。当時としては珍しかった10馬力発動機を備えるなど,懸命に事業に取り組んだ。次いで大正12年に伊予絣製造に転換し順次軌道に乗ったので,昭和12年には合名会社白方機織所を設立し,伊予絣製造を本業としてその経営に専念した。「誠意をもって努力する」,「希望は大きく注意は細かく」をモットーに刻苦勉励し,最盛期には生産高15万反に達し,絣生産全国一位を占めるまでに発展した。その間昭和11年から30年間にわたり,伊予織物協同組合理事長として,県内伊予絣の発展に努めた。さらに第二次世界大戦後は,メリヤス,綿紡績,タオル製造,染色晒など事業の多角化を進め,昭和42年白方興業株式会社に発展改組した。また昭和27年から10年余の長考にわたり,松山商工会議所会頭に就任し,会議所業務の拡充,城山ロープウェイ建設,松山空港の開設,愛媛県工業倶楽部の結成を推進するなど,地域経済の発展に貢献した。さらに郷土愛も強く,23年間に及び久枝小学校PTA会長として学校教育の推進をはじめ,戦前の小作問題解決。戦後地元道路の開発,河川の改修に尽力するなど地域の住民に慕われた。現在久枝小学校には,その功績をたたえて,等身大の寿像が建てられている。黄綬褒章ならびに勲四等受章。昭和49年5月21日81歳で没し,成願寺(松山市久万の合)に葬られた。

 白川  渥 (しらかわ あつし)
 明治40年~昭和61年(1907~1986)教育者,著述家。新居浜市角野町に生まれる。西条中学校から豊島師範学校に入学,同じ年に東京高等師範学校へ入学し,昭和6年卒業,直ちに鳥取師範学校の教諭となる。高師時代にプロレタリア文学の同人雑誌を東京大学などの仲間と出す。同人には高見順,円地文子らがいた。鳥取の教師生活5年をへて文筆生活に入る。昭和15年,デビュー作『崖』が芥川賞の候補に選ばれたがストーリーが,戦時下にふさわしくないという理由で落選する。その後,『野猿のことば』が直木賞候補になって以来,大
衆文学の道を歩く。叔父の十河信二に可愛がられ,書いてもらった掛軸の文字には「有法子」あきらめの思想の「没法子」の逆の表現で行動派の白川にふさわしい言葉である。戦後に書かれた『風来先生』は,人間くさい教師と生徒が描かれ秀作である。昭和45年から神戸市教育委員長を10年,務めたが,56年からも引続き委員長を続ける。代表作に『村梅記』『落雷』がある。昭和17年農民文学賞,同35年兵庫県文化賞を受ける。昭和61年2月9日,79歳で死去。

 白川 福儀 (しらかわ とみよし)
 安政5年~大正5年(1858~1916)県会議員・議長,松山市長,北予中学校長。安政5年9月10日,松山藩士門田正業の長男に生まれ,後,白川福明の養子になった。幼年のころ,藩校明教館,石鉄県校や大原観山の漢学熟に学び,明治8年上京して三島中洲の塾で修学,一時甲斐及び近江地方の学校教師を勤めた。 12年帰郷して県官となったが,ほどなく辞職して民権結社公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟門田正経と共に担当,17年編集長ついで社長となった。 20年の三大事件建白運動ではその建白書の起草に当たり,総代として藤野政高らと上京,その後も自由党の論客として藤野と行動を共にした。 25年県会議員に当選,議長に選ばれて28年までその任にあった。 29年1月21日市会の推挙を受けて松山市長に就任,35年1月14日満期退職した。ついで私立北予中学校の経営母体北予中学会の専務理事となり,37年に校長に就任した。以来在職14年,財政難の学校経営に苦労しながら同校の基礎を固めた。大正5年1月4日,校長在職のまま没した。 57歳。遺骸は学校の見える千秋寺に葬られ,のち,北予中学校(現松山北高校)正門傍に「白川先生頌徳碑」が建てられた。政治家としては沈着篤実であり,生徒指導は温情主義で臨み,誠実・醇朴で剛毅な人物を養成しようとした。その教育方針は北予中学スピリットとして生き続けた。

 白川 義則 (しらかわ よしのり)
 明治元年~昭和7年(1868~1932)軍人。明治元年12月16日松山藩士白川親応の三男として,松山城下の二番町(現松山市)に生まれる。苦学して陸軍教導団に入り,続いて陸軍士官学校に進み,明治23年卒業。日清戦争には歩兵第21連隊の小隊長として従軍し,同31年には陸軍大学校を卒業して,ドイツに留学した。帰朝後は人事局課員・歩兵第34連隊長・第11師団参謀長・中支那派遣隊司令官・歩兵第9旅団長・人事局長・陸軍士官学校長・第11師団長・陸軍次官・兼航空局長官・兼航空本部長を歴任し,大正12年には関東軍司令官に就任した。同14年に大将に昇進し,軍事参議官となり,昭和2年には田中内閣の陸軍大臣を務めた。この間済南事件今関東軍の謀略による張作霖爆死事件が発生し,このため同内閣は退陣を余儀なくされた。満州事変が上海に飛火すると,上海派遣軍司令官を命ぜられたが,同7年3月1日から攻撃を開始し,中国軍を上海地区外に駆逐し,同月3日には早々に停戦を声明した。当時の陸軍の風潮の中で,国際世論を配慮したこの決断は一際光彩を放つものであった。上海での戦闘が終わり,停戦協定成立までの4月29日,虹口公園での日本官民合同の天長節祝賀会の席上,暴漢の投じた爆弾によって負傷し,翌5月26日,同地において死去した。享年63歳。墓所は道後の松山市竹谷共同墓地。

 白木  豊 (しらき ゆたか)
 明治27年~昭和55年(1894~1980)教育者。明治27年6月21日,宇摩郡小富士村(現土居町)に生まれる。号は素風,裕とも名を書いた。大正8年愛媛県師範学校卒業,小学校の訓導をしていたが,のち松山城北高等女学校の教諭となる。一念発起して昭和6年大東文化学院を卒業し,岡山県の閑谷中学校に勤め,同10年には広島高等師範学校教授となる。同20年広島で原爆にあい帰郷する。清寧中学校長をやめて上京し,大東文化大学,実践女子大,今治明徳短大の教授を歴任する。著書には『尾藤二洲伝』『日本の朱子学』など漢学に関するものが多い。またアララギ派の歌人でもあり,斉藤茂吉に師事して,歌集『炎』『物家』『象外』を出す。川之江市の城山には歌碑が建っている。昭和55年6月29日,86歳で死去。

 白城 定一 (しらき さだいち)
 明治20年~昭和53年(1887~1978)実業家,衆議院議員。明治20年4月25日,北宇和郡喜佐方村(現吉田町)で,白城清太郎の次男に生まれた。義務教育を終え,35年10月16歳のとき同郷の山下亀三郎を訪ね,山下の経営する横浜石炭商会(のち山下汽船)に入った。横浜で英語を学び山下の片腕として草創期の山下汽船の発展に努め,大正10年取締役営業部長・経理部長,13年常務取締役兼ロンドン山下会社取締役,昭和4年から専務取締役に就任,名実ともに山下汽船の大黒柱になった。昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙に政友会から推されて第3区で立候補したが,同郷の清家吉次郎と党派・地盤が競合し落選した。次の7年-2月の第18回衆議院議員選挙では最高位当選を果たしたが,国会の雰囲気が理想とかけ離れていることを痛感して,代議士は一期だけで辞めた。7年日満鉱業会社を創立して満州の金属鉱を採掘,満鉄と共同会社の日満鉛鉱会社の副社長にも推され,更に国策会社の満州重工業と提携して大規模採鉱を続けるなど,新天地満州を舞台に活躍した。戦後追放解除の後,27年アメリカのシカゴで開催の世界動力会議に出席したのを機会に世界を一周して鉱工業を視察,帰国後内地鉱山の経営に当たった。昭和53年11月3日,91歳で没した。

 白根 専一 (しらね せんいち)
 嘉永2年~明治31年(1849~1898)明治期の県知事・国務大臣。嘉永2年12月22日長州藩士白根多助の子として生まれた。長州藩校明倫館に学び,ついで上京して慶応義塾に入った。維新後,明治6年秋田県権大属・八等出仕を振り出しに同県権参事・大書記官などを経て,12年6月内務省少書記官に転じ,庶務局長・戸籍局長・総務局次長などを歴任した後,明治21年2月29日愛媛県知事に任命された。本県に赴任当時,40歳であった。「海南新聞」は,「内務省より赴任せらるゝ白根知事なれば我が地方に益することも多からん歟」と,このエリート官僚に期待した。白根は,藤村前知事辞職時の混迷を解決し,21年12月讃岐国分離・香川県再置による事務分割の処理や市制・町村制の施行に伴う町村合併という大きな行政改革を施行して,22年12月26日愛知県知事に転出した。23年5月内務次官に抜擢されたが,25年2月の第2回衆議院議員総選挙に際し内務大臣品川弥二郎を助けて民党に対する大選挙干渉の指揮を取り,引責辞任した。宮中顧問官を経て同28年10月第2次伊藤内閣の逓信大臣になり,第2次松方内閣でも留任した。 30年男爵・貴族院議員になり,明治31年6月14日,48歳で没した。後世,「海南新聞」などの知事論では「本県歴代の知事の内誰が一番地方官として県治をよくし人物がしっかりしていたかと云ふと先づ指を白根知事に屈しなければならない」としている。

 城山 静一 (しろやま せいいち)
 嘉永4年~明治31年(1851~1898)言論人。嘉永4年4月19日宇和島本町で生まれた。旧藩費生として東京に遊学,やがて立憲政党新聞ついで朝野新聞の記者として,明治14年の官有物払下げ事件で雄弁を振い声望を高めた。大同団結運動の時期には朝野新聞大阪支社にあって,愛媛県にも時々帰り政談演説などを行った。その後,言論界を離れ,大阪木綿取引所・三品取引所の顧問などを務めた。明治31年11月28日,47歳で没した。

 真   空 (しんくう)
 生年不詳~観応2年(~1351)諱は妙応,応天座と号する。現大洲市手成西禅寺(臨済宗東福寺派)の開祖。奥州(現福島県)足立郡塩松の人。那須雲岩寺仏国禅師に学び,のち同寺に嗣席。宇都宮貞泰の部将都々喜谷行胤の帰依を受け,宇都宮に興禅寺を開創したが,やがて伊予喜多郡の地頭となった貞泰に従い,横松の地に築城した行胤は,康永2年(1343)菩提寺として西禅寺を建立,真空を開山とした。あるいは,真空は勧請開山で,二世定室祖定か実質上の開山であるともいわれる。西禅寺は地方に稀な大寺で,のち喜多郡を中心に18の末寺を数えたほどである。

 真   念 (しんねん)
 生没年不詳 江戸時代初期(1680年ごろ)の真言僧,宥弁。大坂西浜町寺島に住む高野聖。たえず高野山に登り,宝光院の学僧寂本の指導を受け,高野聖洪卓などと四国霊場を遍歴すること20余度に及んだ。その間,難渋する遍路のために道標200基を建て,足摺へ分かれる路傍に宿泊施設として「真念庵」を建立するなど,四国遍路にとって忘れることのできない篤信者であった。また,庶民のための道案内として著した『四国遍路道指南』と『四国遍礼功徳記』は,四国遍路の盛行に貢献した。

 進藤 直作 (しんどう なおさく)
 明治34年~昭和56年(1901~1981)医師。地方史研究家。明治34年1月10日,宇摩郡川之江町(現川之江市)に生まれる。岡山大学医学部を卒業し,平塚海軍病院内科医長兼病理科医長を経て神戸市で開業する。医学博士で,神戸市医師会長や神戸常盤短期大学の教授を務める。医業の傍ら地方史研究に熱心で,故郷の川之江地方のふるさと研究にすぐれた業績を残す。著書に『川之江藩札史』『川之江天領史』『伊予川之江村の研究』などがある。フランス政府からドノールヂュトラベール褒賞を受賞している。昭和56年11月22日,80歳で死去。

 進藤 信義 (しんどう のぶよし)
 明治12年~昭和26年(1879~1951)新聞記者。明治12年4月18日宇摩郡川之江村(現川之江市)に生まれる。同志社の予備科から早稲田英語専修科に転学し,高等予備科に入り,在学中から竹越三又の「世界の日本」に執筆する。のち自由党機関誌「人民新聞」の記者になる。明治35年,経済記者として「神戸新聞」に入るが,1年半で退社し,「大阪毎日新聞」神戸支局長となり,更に主幹として「神戸新聞」に再入社し,社主に代わって経営にあたり,論説や硬派記事を書きながら連日販売店を回り,紙数伸張に努力する。大正9年同社長就任,昭和6年には,神戸,大阪時事,京都日々3紙を合同して「三都合同新聞」社を設立し社長になる。
 また当時経営難の海南新聞の取締役になって社長の成田栄信を助けるなど,新聞界の〝飛将軍〟〝西徳富蘇峰〟といわれる。昭和26年3月11日神戸市で死没。 71歳。

 新名 寒川 (しんめい かんせん)
 嘉永5年~明治19年(1852~1886)教育者。嘉永5年2月9日。西条に生まれ,父は薄木氏で,新名正行の養子となる。 15歳で藩の学生となる。廃藩置県後地方教育界に入り中学校長をつとめ,学制改革で小学校教授士になり,多数の子弟を教導する。明治19年7月29日,34歳で没す。墓は西条市金剛院にある。

 ジャドソン (Cornelia Judson)
 万延元年~昭和14年(1860~1939)宣教師・教育者。 1860年10月20日米国コネチカット州ストラットフォードの名門に生まれる。13歳のとき,大病となり,医者が両親に絶望を告げるのをふと聞き,「全快のあかつきには必ず神のために一生を捧げる」という契約の祈りを捧げたが,その時から不思議に回復。 1882年,州立師範学校卒。しばらく小学校教師を勤め,ウェースレー大学で英文学を修める。在学中,外国伝道の重要性を訴えられ,これこそ神との約束を果すべき働きと信じ,ボストン婦人伝道会の宣教師となって来日,初め新潟女学校に赴任したが,北国の寒さに健康を害し,たまたま,松山女学校(現松山東雲学園)の招きに応じ暖国松山に移ろ。女学校にて英語・聖書を教えつつ,一日街頭にさまよう不就学児童を見,かれらのため,明治24年1月14日普通夜学会を設け,松山教会員西村清雄ら3青年を選んで教師とした。のち,永木町に移し発展して松山夜学校(現松山城南高等学校)とし,勤労青少年の教育に励む。一方,経営困難となった松山女学校が再建のためアメリカン・ボードに移管された時,第2代校長となり,松山藩家老屋敷であった現在地(大街道3丁目)を購入し,その基礎を固めた。大正9年その席をO・S・ホイテに譲ってのちは,専ら夜学校及び付設した石手川幼稚園にて青少年及び幼児の教育に当る。夜学校は昭和6年創立40周年を記念するとともに,女史の大恩に報いるため,暖房施設付の瀟洒な三階建(半地下)校舎を建て,ジャドソン記念館と名づけたが,その定礎式と40周年記念式典を終えた時,定年により後髪を引かれる思いで帰米。女史の優しい温顔と常に神を愛し人を愛し通した犠牲と奉仕の生活は,松山人の忘れ得ない思い出になっている。余生を故郷ストラットフォードの小さい家に送り,1939年9月17日死去。 78歳。同市営墓地に眠る。

 寂   仙 (じゃくせん)
 生没年不詳『日本霊異記』の説話伝承にみえ,孝謙天皇の時代(749~758)を中心に活躍したとされる,伊予国神野郡石鎚山の修業僧。時の世の道俗みなその浄行を貴び,菩薩と称したという。天平宝字2年(758),臨終の日に及んで寂仙は,弟子に対し「わが没後28年を経て皇太子として生まれ,名を神野と称するであろう。その皇子こそわれ寂仙であることを知れ」と文書に録し,渡し伝えた。そしてまさに28年後の桓武天皇治世の延暦5年(786),皇子が誕生し神野親王と名付けられた。彼こそ嵯峨天皇であり,その聖君たる所以であるというのである。同様の伝承は『文徳天皇実録』にもみえるが,そこでは寂仙に相当する僧が,灼然の弟子上仙となっており,名称が2人に分割されている。寂仙の人物造型は,平安後期以降盛行した石鎚修験道の,原初的段階における山林修業者であり,かつ峻厳な石鎚山での非凡な浄行により,呪験力で土地の民衆を済度教化し,聖者として崇められた高僧の伝承化されたものとみる考え方もある。
 なお『文徳天皇実録』は続けて,神野郡橘里に住み,上(寂)仙の壇越として家産を傾けてこれを供養した孤姥(橘樞)の話を伝え,彼女の転生した姿が,嵯峨天皇夫人橘嘉智子であるとする伝承を記録している。

 上甲  廉 (じょうこう きよし)
 文久2年~大正9年(1862~1920)医師,八幡浜町長・県会議員。文久2年1月3日,宇和郡高野地村(現八幡浜市)で庄屋上甲儀右衛門の次男に生まれた。名は景之,幼名を好次郎といい,のち廉と改めた。幼いころより医学に興味を持ち,大阪府立医学校に進み,卒業後八幡浜町に帰り開業,多くの患者の治療に当たった。傍ら明治33年5月~39年1月,43年9月~大正3年9月,7年10月~9年3月と3期にわたり八幡浜町長に就任して町政の発展に尽した。明治29年3月~30年10月,35年11月~36年9月には県会議員になったが,党争を嫌って政党に属さなかった。大正5年には県下最初の乗合自動車業伊予自動車会社の創立に参画した。和家貞規の教えを受けて和歌をたしなみ,芳亭と号した。大正9年3月23日,58歳で没した。高野地長谷寺に葬られる。

 上甲 振洋 (じょうこう しんよう)
 文化14年~明治11年(1817~1878)儒学者。時世を憂え明治10年国事犯事件を扇動した。文化14年12月9日,宇和島の藩儒上甲順治(拙園)の次男に生まれた。兄上甲貞一は幕末宇和島藩家老で維新後大参事を務めた。字は師文,通称礼三。藩学明倫館に入りついで小松の近藤篤山に師事し,天保11年江戸に遊学して安積艮斎に学び昌平黌に入った。帰藩後の弘化2年藩の儒官に任ぜられたが,嘉永5年官を辞し安政元年八幡浜に移って私塾を開き,門人数千人に及んだという。明治2年宇和島藩知事の懇請で官に復職,権大参事民政掛と文学教授を兼ね学制を改革した。3年辞表を提出して八幡浜に帰り謹教堂を設けて新政府を批判したので,5年官命により閉鎖された。門人鈴村譲や飯渕貞幹らと時世を慨して方策を議し,宇和郡奥野川村に潜伏中の長州不平士族富永有隣の斡旋で土佐の大石圓らと盟約を結び,京都の友人春日潜庵を頼って鹿児島の西郷党と通じようとした。7年京都での心労で中風に罹って半身不随となり,以後の企ては鈴村譲に指示して奔走させた。明治10年西南の役が起こるとこれに呼応して準備を進めていた吉田の飯渕党と大洲の武田豊城一党の謀議・武器収集が露見して首謀者と同志ことごとくが拘引・逮捕されたが,振洋は中風の故をもって獄を免れた。鈴村・飯淵らは尋問でも師振洋に類が及ぶのを恐れて事件についての真相は口を閉ざした。明治11年9月9日,門弟が獄にっながれ悶々のうちに70歳で没し,宇和島選仏寺に葬られた。大正13年,鈴村譲は『振洋先生年譜』を著して「明治10年国事犯事件」と振洋とのかかわりを明らかにした。学識深く,漢詩文をよくし,『上甲振洋先生遺稿』『上甲先生詩稿』『藩日記抜萃』など多数の著書かおる。末広鉄腸・都築温・井関盛艮・西河通徹・左氏珠山・告森良・西山禾山など宇和島出身で名をなした人々はほとんどが振洋の門弟として薫陶を受けた。

 上甲 宗平 (じょうこう そうへい)
 文化13年~明治13年(1816~1880)教育者。宇和町の出身。幼時より学問を好み,終生少年子女の教育につとめた。文久元年私塾を開き,地方の少年子女を集め,実語教,庭訓往来,女大学を教える傍ら,書道,算数も授けること12年の長きに及ぶ。明治5年に学制が布かれると,同地の小学校に奉職,ますます育英事業に力を注いだ。彼はまた俳諧にも長じ,生花,礼法にも通じており,ことに挿花は,この地方の宗匠をつとめ,芳流斉一水の名でもって,遠近に知られた。明治13年9月死去,64歳。

 上甲 米太郎 (じょうこう よねたろう)
 明治35年~没年不詳(1902~)労働運動家。明治35年,西宇和郡千丈村川之内(現八幡浜市)に生まれる。大正9年大洲中学校を卒業し,朝鮮に渡る。同10年京城の臨時教員養成所を卒業し訓導となり,昭和2年には池川郡昆明普通学校長となる。昭和5年「新興教育」の購読を教え子達にすすめ,京城師範の生徒趙判出に社会科学読書会を組織させたりしたが,警察当局ににらまれ,同年10月検挙され,治安維持法違反として起訴されて実刑を受ける。同7年出獄する。戦後は三池炭鉱人事課に勤めるが,レッドパージで馘首される。全日自労三川支部機関紙部長などをやるが昭和35年上京して,日朝協会東京都連理事,目朝学院講師などをして,朝鮮問題に取り組む。

 承   誉 (じょうよ)
 生没年不詳 鎌倉時代末期の東寺領越智郡弓削島荘(現越智郡弓削町)の荘官。弁房,弁殿などとも呼ばれる。正和2年(1313)に承誉の非法を訴えた弓削島荘百姓等の中状が初見。弓削島荘の荘官となった承誉は,さまざまな名目で百姓等に余分の負担をおしつけた。それに反発した百姓等は承誉のことを悪党と呼び,荘園領主東寺に承誉の改替を要求して逃散の挙に出た。百姓等の要求によって荘官の地位を改易されたが,その後も再任と改易を繰り返した。その間,軍勢を率いて島に押し寄せたり,瀬戸内海の塩の相場を熟知して安い所へ買取りに行くなど特異な行動をしていて,海賊的悪党と評価されている。伊予国小山(あるいは大山)を本拠としているというが,それが現在のどこにあたるかは明らかではない。元亨4年(1324)を最後に史料上から姿を消す。

 城  長 洲 (じょう ちょうしゅう)
 享和3年~慶応2年(1803~1866)開業医師。漢詩人,書家。北予中学校(現松山北高等学校)創設者城哲三の祖父。
 紀州(現和歌山県)牟婁郡長島の人。江戸に生まれた。本名は晋,字は康卿,通称隆平。長州・亦改堂,精義塾主人華臍道人と号した。佐藤一斎,大窪詩仏らに儒学を学び,併せて医学を修めた。
 三津浜に来住して開業したが,多くは詩文創作に興味を持ち,各地を遍歴し,郡中の鷺野南村(替地により現松前町南黒田),新谷の児玉暉山,宇都宮龍山,大洲曹渓院の樵禅祥鎧,西条の木村力山らと風交,詩文を送り交歓した。天保7年11月26日,三津浜の松田浩斎経営の九霞楼に登り,「母居朝瞰」と題して作詩している。
 長洲詩文集に『亦政堂詩文集』(五巻)がある。内題は「紀洲長州城晋康卿著 姪東洲城子陽通写」である。第一巻は序・詩,第二巻は詩,第三巻は詩・誌,第四巻は詩・誌・序,第五巻は詩。各巻の詩文はいずれも彫心鏤骨の良詩で第一巻「明月土人66回祥辰賦」・「長建寺弁天詞」,第二巻の「波止浜八景」・「近見山暮雪」第三巻の「亦政堂晩坐」,第五巻の各地訪問詩賦,「梅津寺晩景」「乙丑四月二十六日到三津浜過梅津寺黄蘖僧雪 所創勝景可喜題句云」,後部に「華臍道人晋」と記して載せた図賦等45首も長洲の一面を窺い得る興味深いものである。
 一時は浮穴郡川上村(現川内町)に移り住んだこともあるが,各地を遊歴して桑村郡丹原(現周桑郡丹原町)に僑居しその地で慶応2年9月1日没した。享年63歳,「客窓雑味」・「舟行喜晴」・「旅窓苦雨」・「赴長浜舟中口占」・「丹後通天橋」等を賦した長洲にふさわしい生涯であろう。詩集には別に『亦政堂詩抄』(萬延元年撰)がある。

 城  哲三 (じょう てつぞう)
 明治元年~明治38年(1868~1905)教育者。医師である父城謙三の子として生まれる。アメリカ人モズレー,ネークスに英語を学び,明治26年松山二番町に北予英学校を創設する。同28年城北に校舎を移し,北予中学校に発展させる。校長として育英事業と学校経営に尽力したが,同34年病を得て,大阪で療養する。明治38年4月2日,37歳で死去。妹に城ノブがおりキリスト教婦人矯正会,社会教育家として活躍した。

 仁   秀 (じんしゅう)
 生年不詳~大同3年(~808)俗姓物部首,伊予国人で法相宗の僧である。7世紀後半から8世紀にかけて中央大寺院の勢力が松山平野を中心に伊予の各地域に及んだころ,中央で活躍する僧侶が輩出した。和銅2年に奈良の飛鳥寺で受戒した願忠もその一人である。また,最澄のあとをうけ,内供奉十禅師伝燈大法師位を称せられた天台宗の高僧,光定もその一人である。仁秀は彼らと同様に奈良末~平安初期に中央で活躍,とくに法相宗の慈訓の系統を継いだ。仁秀も伊予の豪族層の出身であろう。

 神野 信一 (じんの しんいち)
 明治22年~昭和8年(1889~1933)労働運動家。明治22年1月3日,野間郡大井村(現大西町)で生まれた。明治36年小学校卒業後呉海軍工廠の見習工になり,神戸・川崎造船所・朝鮮仁川鉄工所・佐世保海軍工廠と転じて,大正7年東京石川島造船所に就職した。熟練工として職長に任命され,8年船用機関の製作技術を学ぶためスイスに派遣された。そこで技術習得のかたわら労働組合運動を見聞,帰国後労働運動研究会を組織して労資協調を主張した。10年造船所で大争議が起こると穏健論で身を挺してこれを鎮めた。 15年自彊組合を作り、組合員家族診療所を設立、「産業報国」をスローガンとする日本主義労働運動を主張して、労資の公正な秩序回復を目指した。昭和6年ジュネーブで開かれた国際労働総会に日本代表として派遣された。昭和8年9月19日、44歳で没した。

 神野 太郎 (じんの たろう)
 大正2年~昭和51年(1913~1976)教育者、薬草研究家。伊予郡上灘村(現双海町)で大正2年8月25日に生まれる。昭和8年愛媛県師範、同16年(1941)広島文理科大学卒業。大分県師範学校を経て、昭和22年愛媛師範学校に奉職。以来、愛媛大学助教授、同43年教授として、県内理科教員の育成及び指導に貢献した。植物学者としては、石鎚山系総合学術調査をはじめ、高縄山系、篠山、鹿島、小田町等の自然環境調査の植物部門を担当し、多大の成果を挙げた。他に、『伊予の薬食草』、『身近かな薬草246種』などの著書があり、愛媛県の薬草研究の道を開いた。昭和51年12月20日死去。63歳。

 神野 ヒサコ (じんの ひさこ)
 明治30年~昭和62年(1897~1987)婦人指導者。周桑郡楠河村河原津(現東予市河原津)にて明治30年5月25日生まれる。愛媛県女子師範学校卒業後、大正6年より15年間教職に就く。昭和23年3月愛媛県連合婦人会副会長に就任し、翌24年には小松町初の女性町議会議員に選出され、教育委員会委員を兼任する。
 その間、県立小松高校の誘致に大きく寄与する。同28年には県農協婦人部協議会会長に就任,翌29年には全国農協婦人組織協議会会長に就任する。戦前戦後を通じて婦人の社会参加を推進するため,婦人会,農協婦人部の活動に積極的に取り組む。昭和33年には農山漁村振興対策中央審議会委員にもなり,農村婦人の社会的,経済的地位の向上と農村の生活文化の向上に尽力する。同43年勲五等瑞宝章,同44年愛媛新聞賞,同50年井邦賞,愛媛県功労賞を受賞する。昭和62年12月25日,90歳で死去。