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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 世良 宇一郎 (せら ういちろう)
 明治20年~昭和51年(1887~1976)能楽師。明治20年4月12日,温泉郡湊町(現松山市湊町4丁目)に生まれる。幼少6歳で観世流謡曲,仕舞の修業に入り,明治27年京都片山家の師範津田茂尚に師事する。同45年には上京して葛野流太鼓宗家に入門して本格的な太鼓を体得し,その後長年にわたるゆるみない修練によりその奥儀を極める。戦後,昭和22年愛媛能楽会を創立し,同23年,愛媛観世会を設立する。市民会館の能舞台設置にも大きい役割を果たす。また40年余の長期にわたる東雲神社の奉納,護国神社の正月松噺子の奉納等を通してひたすらこの道一筋に至芸を広く県民に披露し,古典芸能の正しい伝承と普及に努めた功績は大きい。特に,その格調の高い大鼓の技術は,本県の無形文化財的存在であった。昭和35年愛媛新聞賞,同43年愛媛県教育文化賞を受賞,昭和51年3月7日,88歳で死去。

 瀬川 喜七 (せがわ きひち)
 文久2年~大正15年(1862~1926)松山の実業家。三国屋瀬川与七郎の長男。明治30年父与七郎が死去,遺命を守って松山市の貧民救助費に千円を寄付した。松山地方における遺言寄付の嚆矢と言われる。性格温厚。明治11年瀬川喜七は柴田卯三郎ら33名の縞問屋,縞仲買と松山縞会社を設立し,伊予縞の改良,向上に努めた。明治19年ころ伊予織物改良組合を創設,品評会の開催や粗製乱造の防止,販路の拡張をはかった。明治29年4月松山織物株式会社を創設して,取締役社長となる。明治33年8月私立伊予簡易染織講習所を創設し,所長となり,斯業の発展に寄与する。織物業界での活躍のほか愛媛県本部長,松山商工会相談役,松山商業会議所議員工業部長,愛媛県実業会幹事,松山市会議員,松山商業会議所副会頭などの要職を歴任した。また日本赤十字社,伊予教育義会,同仁会,彰善会などの育英教化,慈善事業にも熱心に取り組んだ。明治34年7月緑綬褒章をうけている。大正15年64歳にて没し,御幸町の龍穏寺に葬られた。

 瀬野  良 (せの りょう)
 明治44年~昭和52年(1911~1977)県議会議員・議長。明治44年1月15日,越智郡波方村(現波方町)で生まれた。今治中学校を卒業して農業・海運業を営み,昭和6年波方村役場に入った。戦時中,村翼賛壮年団体部長・在郷軍人会副分会長などを務め,戦後,村議会議員・議長に選ばれた。昭和24年2月県議会議員補欠選挙に立候補当選,38年4月まで連続して在職して,愛媛民主党一民主党一中正クラブ―県政クラブ―自民党に所属した。 33年10月~34年3月副議長に選ばれた。 38年4月の選挙で落選したが,42年4月の選挙で県議会に返り咲き,44年3月~12月議長を務めた。昭和52年11月6日,66歳で没した。

 斉   秀 (せいしゅう)
 元禄14年~宝暦9年(1701~1759)菅生山大宝寺中興四代住職,伊予郡市の坪池之内家に生まれ,太山寺快秀師につき出家,室岡蓮花寺の住職となり元文5年3月に大宝寺快仙師遷化の後をついだ。
 寛保元年久万山に一揆が起こり農民3,000人が大洲藩に逃散した。松山藩としてははじめての径験であり,折から26歳の藩主定喬は江戸への参勤の途上にあり,留守を預る要路役人としては他藩への面目もあり何とか穏便にすませたいと思うにつけ気が気でない,思い余って大宝寺の斎秀和尚に斡旋方を願って出た。斉秀も事態を重く見て,百姓の願い筋を三つに二つは許可されること,出訴の罪は問わず私に免じ許されることを願い出て一命にかけて懸命の努力をすることを約して大洲城下に赴き,役目を果した。大宝寺は褒美として150石を下賜されて面目をほどこし,農民も救われ高徳を慕われた。宝暦9年12月5日,58歳で死去した。

 清家 伊之松 (せいけ いのまつ)
 大正4年~昭和42年(1915~1967)畜産功労者。大正4年10月23日北宇和郡下灘村嵐(現津島町)に生まれ,和牛の優良種雄牛の育成調教に力を尽くし,その改良増殖に大きく貢献した。氏は若冠18歳ころより畜牛に関心をもち,相牛学等を修め,自ら本県和牛の源流となった三崎牛を導入するほか,県外先進地よりも優良基礎牛を導入して,地域の和牛の改良増殖に先駆的な役割を果たした。さらに種雄牛育成,調教の緊要性を痛感し,北宇和郡海岸地域を県下の種雄牛供給の一大基地として育成すべく下波地区などと相提携して,県下唯一の候補種雄牛育成組合を組織し和牛の改良振興に寄与した功績は多大なものがあった。また牛の調教馴致には独自の手法をもって調教された牛の温順怜俐な様相と人牛一体意の如く行動する候補種雄牛群は共進会場での華として多くの人々の賞賛の的であった。なお彼は昭和22年若冠32歳で地元下灘村村会議員に押されて以来合併後の津島町町会議員を通算17年間(この間に副議長にもなる)務め,昭和40年には再建を期待されて下灘農協長となり献身的努力を重ねたが不幸病魔の侵すところとなり,昭和42年8月28日,惜別の人となった。 51歳。

 清家 堅庭 (せいけ かたにわ)
 文化11年~明治10年(1814~1877)八幡浜神山の八代八幡神社の神主。国学者。歌人。文化11年1月15日生まれ,名は定雄。通称は牧太。吉田の森文蔵に漢学を,二宮正禎に国学を学び,足代弘訓,本居内遠にも師事した。歌は九州の中島広足についた。宇和郡清水八幡宮祠官等を務めたが, 35歳の時長崎に洋学,医学を学ぶ。帰郷後神職を嫡子に譲り,医業の傍ら子弟の教育に当った。また歌を宇和島藩校で教授した。安政4年より王子森文庫を設けて和漢洋の書籍を集めて閲覧に供した。『水かやロ記』『八重垣集』等の著があったというが,現存しない。内遠点評の『詠草』2冊が遣る。明治10年3月18日, 63歳で没した。

 清家 吉次郎 (せいけ きちじろう)
 慶応2年~昭和9年(1866~1934)政治家。吉田町長,県会議員に20年勤続して,その弁舌は名物的存在であり,のち衆議院議員になった。慶応2年9月14日,宇和郡喜佐方村(現北宇和郡吉田町)に生まれた。無逸と号した。吉田郷校に学んで愛媛県尋常師範学校に入学,明治22年卒業した。大洲尋常小学校を振り出しに,喜佐方尋常小学校の訓導などを勤め,28年南宇和郡立高等小学校校長となり,33年南宇和郡視学を拝命,以後44年まで各郡視学を歴任した。 44年9月県会議員に当選,昭和5年2月辞職するまで県会に議席を占めた。政友会の闘将として博識と鋭い論鉾で長広舌を展開,県会の名物的存在であった。〝吉田のあんやん〟と親しまれ,反対派の村上紋四郎・武知勇記との論戦は県会の活況を呈した。その間,大正8年12月~10年12月,12年10月~12月,昭和2年10月~12月の三度議長に選ばれた。県会議員の傍ら大正9年以来昭和9年死去するまで郷里吉田町の町長を務め,同郷乳兄弟の山下亀三郎や村井保固の援助を受けて吉田中学・山下高等女学校設立,吉田病院の開設など他町村に見られない教育・福祉施設の町営を実行,吉田町と清家町長の名声を高めた。昭和3年2月初の普通選挙である第16回衆議院議員選挙に政友会公認で第3区から出馬したが,落選した。次の5年2月の第17回衆議院議員選挙に再出馬して当選,念願の国会に進出した。7年5・15事件直後の議会で荒木貞夫陸相に論争を挑み一躍有名になった。7年2月の第18回衆議院議員選挙に再選され,9年1月がんに犯された病をおして国会の開院式に臨み,翌日入院手術したが効なく,郷里で死にたいという希望を容れて護送された。神戸港で見送りの山下に,「徹頭徹尾貴君の御世話になった。これで御別れする。」の永別の言葉を残し,昭和9年2月23日,67歳で吉田町の自宅で没した。町役場の前庭に銅像が建てられている。

 清家 久米一郎 (せいけ くめいちろう)
 安政6年~昭和21年(1859~1946)松山電気軌道会社の創立者の1人,県会議員。安政6年6月8日,宇和郡伊方浦(現西宇和郡伊方町)で生まれ, はじめ井上姓を名乗った。松山英学所・北予変則中学校に学んで慶応義塾に入った。卒業後郷里に帰り,郵便局長を経て明治19年伊方浦戸長に就任,途中,九町・二見浦戸長を兼ねた。 31~35年と37~38年には伊方村長を務めた。 28年九町越鉱山を開発したが,村長を辞した後は松山に転居して41年3月松山電気軌道会社を創立,伊予鉄道に対抗して三津一松山一道後間に電車を開通した。私立済美女学校の設立に尽力,育英事業にも力を注ぎ郷土の子弟の東京遊学を援助した。明治44年9月県会議員になったが,事業に多忙なため1期在任したのみであった。昭和21年8月9日, 87歳で没した。

 清家 俊三 (せいけ しゅんぞう)
 明治13年~昭和11年(1880~1936)弁護士,県会議員・議長。明治13年11月1日,西宇和郡喜須木村(現保内町)で生まれた。大分中学校を経て37年日本大学を卒業した。 38年判検事試験に合格,司法官試補として大分地方裁判所で勤務の後, 39年宇和島で弁護士を開業,大正2年松山に転居,6年には松山弁護士会長に推された。6年11月県会議員補欠選挙で当選,以後昭和11年5月死去するまで連続して県会に在り,昭和3年11月~6年9月と10年10月~12月の二度議長に選ばれた。政友会県支部の幹部であったが,不偏不党の議会運営に徹した。松山電気軌道・伊予鉄道・海南新聞・久万索道などの取締役も歴任した。昭和11年5月22日,55歳で没した。

 清家  齢 (せいけ とし)
 明治34年~昭和47年(1901~1972)社会運動家。明治34年11月13日に宇和島市に生まれる。旧姓は若松,のち結婚して清家となる。女学校を卒業して代用教員となり,北宇和郡下灘村の小学校に勤める。同僚の清家敏住と結婚して上京し,日本女子大学に入学する。在学中に社会科学研究会をつくり,卒業後,労農党の書記となったり,関東婦人同盟中央執行委員として活躍する。昭和3年共産党に入り,3・15,4・16とたびたび検挙されるが,巧みに地下活動を続けた。同10年の検挙で栃木刑務所に収容され,同15年出獄後帰郷した。終戦後は本県の共産党再建活動に参加し,同21年の総選挙に出馬するが落選する。その後寺尾五郎と結婚。著書に『伝説の時代』がある。昭和47年1月30日,70歳で死去。

 清家 中枝 (せいけ なかえ)
 慶応2年~昭和4年(1866~1929)教育者。慶応2年2月19日,宇和郡八代村王子(現八幡浜市八代)に生まれる。明治14年,八幡浜浦神山小学校を卒業後,西宇和郡教員養成所に学び,また,都築鶴州の西予塾で漢学を修めた。同23年,愛媛県師範学校を卒業。越智郡今治高等小学校訓導を振り出しに,西宇和地方の訓導・校長を経て,明治44年より大正8年まで朝鮮で訓導・校長を歴任。その後4年間,神山村学務委員を務めた。大正7年のシベリア出兵に従軍,第五師団神道教師を務めた。大正期より晩年まで神職を勤め,皇道主義を唱え,四国山に明治天皇遙拝の碑を建立。著書に『西伯利亜実見』『起美談語』などがある。昭和4年7月8日死去,63歳。墓地は八代王子にある。

 清家 政夫 (せいけ まさお)
 明治13年~昭和27年(1880~1952)漁業功労者。日本初の蓄電池式集魚燈の発明者でまき網漁業の画期的発展に寄与した。明治13年7月16日,南宇和郡菊川村(現御荘町菊川)において農業をしていた父橋岡金太郎,母ハツの次男として生まれる。6歳のとき父金太郎がなくなり,高等小学校を卒業すると親類の農家に奉公に出された。ここで4年間農業の手伝いをしたが,いやになり愛媛県師範学校へ進学,同校卒業後小学校の教員として勤めていた。その後製網業を営んでいた清家熊太郎の一人娘タケヨと結婚し,同家の養子となった。当初西宇和郡,南宇和郡,沖縄各地で教員生活を送っていたが,明治43年父熊太郎が死亡したため教職を退いて帰郷し家業の漁網会社を継いだ。
 政夫は進取の気性に富んでいたので網をつくるだけではあき足らず,自分で地元においていわし網漁業を始めたほか,遠く朝鮮にいわし基地をつくり,南洋諸島にさんご採取にも出かけた。いわし網漁業を操業するとき火に集魚せしめることが最も肝心なことに気づき,この器具の改良を思いたった。それまでの集魚用照明はカーバイトによる淡い光に頼っていたので光力はきわめて小さいものでしかなかった。ある日漁業を終えて家に帰り赤々とともる電灯の光にヒントを得て,電気集魚の方法を研究することとした。昭和3年大阪の松浦藤一が研究した燈具が翌4年にほぼ完成した。かねてからこの電化に深い関心をもっていた政夫は,松浦を地元に招き,同年3月20日から3日間福浦湾で,4月には御荘湾で実験を行った。これが愛媛県における最初の試験で,このとき使用したものは32ボルト250ワット集魚燈であった。これはカーバイト式千燭光,火口2個のものよりはるかに強力なものであり,漁民を驚かせたといわれる。しかしこの燈具には多くの改良すべき点を認めたので,本格的な研究を始め,蓄電池を湯浅蓄電池,電球を芝浦電機と提携して昭和8年ついに一応の完成をみた。
 それ以来漁業で光火を必要とする漁船はすべてカーバイト式から電化に切りかえられ,まき網,敷網の漁業に一大革命をもたらした。この発明は特許こそ取らなかったものの日本初の電気集魚燈として一躍全国に名をはせ,前記電気会社と特約して大分,宮崎,鹿児島,熊本,長崎,和歌山,三重の各県へ出張所を開設して販売したので,その製品は爆発的な売れ行きを示した。そして昭和11年には遠く南洋諸島のコロール島にも支店を開設して販路の拡大をはかった。電気集魚燈の発明は水産業界に対し清家政夫の最大の功績であるが,このほかに政治家としても大正7年内海村村会議員をふり出しに郡会議員となり昭和12年には県議会議員となって3期にわたり活躍した。県議在任中には予土連絡道路建設の必要性を説き,現在の国道56号線開通を軌道にのせるべく尽力したほか南宇和実業高校の県立昇格にも熱意をもってとりくんだ。彼は常々使用人に対し細心で,ち密な頭の持ち主でなければ事業に大成しないといってその信念を一生貫き通した。こうした商魂をもっていた反面,昭和19年艦上戦闘機一機(報国3092号清家号)や警備船を献上し社会奉仕の念も深かった。
 いわし網漁業の発展に大きく貢献した彼の功績に報いるべく,南宇和漁業協同組合連合会は昭和29年9月御荘町長崎に頌徳碑を建立しでいる。昭和27年10月6日,72歳で没した。

 石司 佐一郎 (せきじ さいちろう)
 明治20年~昭和29年(1887~1954)果樹園芸功労者。伊予郡地方の果樹栽培ならびに販売組織の育成に事績をあげた。明治20年5月20日,伊予郡砥部町外山に生まれる。年若くして果樹経営を志すとともに,果樹販売組織の確立に奔走,(砥)生果共同販売組合を設立して専務理事,組合長となる。大正2年伊予果樹同業組合の設立に参画して役員となり,昭和3年より数次にわたり門可駐在員として果物販売の第一線に活躍した。昭和13年には奉天,同14年には釜山駐在員として大陸輸出に当った。戦後昭和22年伊予園芸協同組合(任意組合)を設立副組合長となり,翌23年農業協同組合法による伊予園芸農笑協同組合長となる。さらに愛媛県青果農協連合会の設立とともに副会長となる。胸像が伊予園芸農協第一共選場に建立されている。昭和29年6月10日,67歳で死去。

 関   定 (せき さだむ)
 明治12年~昭和47年(1879~1972)実業家。明治12年7月21日愛媛県上浮穴郡菅生村(現久万町)の出身。生家は尾首姓で材木問屋。明治27年久万高等小学校卒。大阪の津田商店に勤める。明治37年,日露戦争で応召。松山22連隊に入隊して旅順攻撃に加わり,戦傷で内地に送還された。明治39年,義兄の関家の養子となる。明治41年(1908),松山市中の川で麻糸・和紙の卸売をはじめ,関定商店を創業した。洋紙の将来性を見抜いて,松山ではじめて洋紙の販売を手がけた。大正元年,印刷業に乗り出し,大正5年には書籍出版の第1号として大著『宇和島吉田両藩誌』を上梓した。自厳他寛を処世訓とした。大正14年,バス運送業に進出し,これが戦時中に統合されて,現在の伊予鉄バスの根幹になっている。晩年は,社会事業に尽力し,済生会病院,老人ホーム,保育園を経営したほか,松山学院城南高校理事長,松山東雲学園理事として私学振興にも貢献した。ロータリー・ボーイスカウトなど国際的事業の推進,それらを永続するための関奉仕財団を設立するなど活躍した。昭和43年愛媛県功労者を受賞する。昭和47年9月4日,93歳で没した。
 九十の春を迎えて百寿期す   関定

 関  新平 (せき しんぺい)
 天保13年~明治20年(1842~1887)明治期の愛媛県令(県知事)。天保13年11月,肥前藩士の子として生まれた。早くから尊工派の志士として活談し,江藤新平・大木民平と並んで「肥前の三平」と呼ばれた。会津藩追討には奥羽鎮府総督使役として参加,功績大なりとして金150円を下賜された。明治5年10月茨城県権参事となり,6年9月参事に昇格した。8年6月裁判官に転じ,東京裁判所詰・浦和裁判所長・熊谷裁判所長を経て,12年5月大審院詰判事に選ばれた。明治13年3月8日愛媛県令に就任,19年7月19日「地方官官制」改正に伴い県知事になった。着任早々,県官や郡長を更迭して岩村県政を推進した人々を追放,県会とも対立し,言論を弾圧して圧政家の評を受けたが,茨城県では行政実績をあげた人物として水戸の偕楽園に遺徳碑が建てられ,「人となり醇徳にして義を好む」とたたえられている。本県在任中,勧業・養蚕・殖産興業策を推進,また高知・徳島県令に呼びかけて,松山一高知一高松の「四国新道」開さくを計瓦松方デフレ下の事業費捻出に苦労しながら政府の認可と国庫補助を得て19年4月に着工したが,完成を待たずに明治20年3月7日,44歳で知事在任のまま没した。四国新道完工後,恩恵を受けることになった地域の有志は高知県境近くの上浮穴郡久主村大谷(現上浮穴郡柳谷村)に関を顕彰して「紀念之瀧」碑を建てた。

 関 助太夫 (せき すけだゆう)
 生没年不詳 松山荘の代官。元文5年~延享2年3月まで,する6年間久万山代官を勤める。寛保元年7月に有名な久万山農民3.000人が大洲領に逃散した。折から藩士が参勤交代の途上にあったため,要路の人々は何とか穏便にすませたいと願っていた。関代官は当面の責任者としで,大宝寺の住職斉秀和尚に縋りたいと再三大宝寺を訪れ,藩の要路を説き,久万山農民の嘆願と,逃散についての罪の免除を願い,斉秀和尚に対する助力を受けるように骨折った。その結果,農民には何のとがめもなく大宝寺は褒美をうけ,面目をほどこした。

 関  行男 (せき ゆきお)
 大正10年~昭和19年(1921~1944)軍人。大正10年8月29日新居郡西条町(現西条市栄町)に生まれる。西条中学校を経て昭和16年11月海軍兵学校を卒業,翌17年6月1日海軍少尉に任官した。飛行学生の道に進み,同19年1月から6月まで,霞ヶ浦海軍航空隊で操縦教官を務めた。同年5月大尉に昇進,9月末にはルソン島マバラカット基地に展開していた第201航空隊に着任した。 10月18日,連合軍艦艇がレイテ湾に進入するとともに,比島全域に対する空襲が激化し,比島上陸作戦が開始された。大本営陸海軍部は捷一号作戦を発動し,海軍第1航空艦隊は,海上艦艇部隊の乾坤一擲のレイテ湾突入に呼応する航空体当り攻撃に踏み切った。同月20日,神風特別攻撃隊第一陣が,第1航空艦隊司令長官大西滝治郎中将(終戦時自決)の命により,志願者をもって編成された。このとき,同郷先輩の201空副長玉井浅一中佐から,この攻撃隊の隊長に推挙され,しばし瞑想したが決然これを受諾した。攻撃隊は敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の4隊に編成され,大尉は敷島隊5機編隊の一番機,それぞれ愛機零戦に250キロ爆装して体当り攻撃を準備した。 21日から攻撃隊は基地を発進し,機動部隊を求めて洋上索敵を開始するが,天候にも阻まれて4日間は空しく帰投する日が続いた。 25日,敷島隊は遂にサマール島沖に護衛空母群を捕捉,次々にこれに体当たり攻撃を加え,その一隻を撃沈,三隻に大損傷を与えた。大尉の目標は空母セント・ロー(1万400トン)で,低空を肉薄し,垂直上昇後反転してその飛行甲板に命中激突した。機は甲板を貫いて魚雷や爆弾に引火し,甲板上の搭載機も空中に飛散し,同艦は30分にして沈没した。翌26日以降も同攻撃隊の残存機や新規編成の特攻隊がこれに続き,さらに戦果を拡張したが,次第に航空体当り攻撃がわが攻撃戦力の主体と化してゆくことになった。散華の齢23歳。昭和19年10月25日2階級特進して中佐に昇進した。西条市大町楢本神社境内に,昭和50年3月,関行男慰霊碑が,次いで同56年10月,全国有志の奉賛によって神風特別攻撃隊敷島隊五軍神の祀碑が建設せられた。

 関谷 晴美 (せきや はるみ)
 明治10年~昭和47年(1877~1972)茶道家元。明治10年2月10日,温泉郡土居田村(現松山市)に生まれる。同郡素鵞村中村の関谷家へ養子に入る。農業に従事していたが,明治42年に素鵞村の収入役となり,4年ばかり務める。この間に,滋賀県から来た茶道家伊藤博について煎茶道売茶流を習得して,そのあと,伊予売茶流を創始する。天山と号して,煎茶道の普及振興に尽力する。一方,大正2年には同志10数人と計って水明流盛花を創立し,松山市子舟町などで,茶・盛花を教えたが,従来ややもすると型にはまりがちな茶々華道を簡素化し合理化して多くの人々に親しまれるようにしたのは大きな功績である。第二次世界大戦後も自宅や出稽古などを通じて煎茶の普及に努め地域文化の向上にも一役を買う。温厚誠実な人柄は多くの弟子から慕われた。昭和47年1月23日,94歳で死去。

 関谷 勝利 (せきや かつとし)
 明治37年~昭和62年(1904~1987)政治家。県会議員,衆議院議員を21年間勤続した。明治37年10月20日,温泉郡三津浜住吉町(現松山市)で生まれた。大正11年県立松山中学校を卒業,12年12月松山歩兵第22連隊に入隊,14年4月見習士官の勤務を終えて除隊した。伯父の家業石材卸業・建設業を継ぎ,昭和9年町会議員になった。 12年8月軍務召集され中支戦線に歩兵中尉として赴き,14年5月復員,この年9月県会議員に当選して16年6月まで在職した。 17年国策命令で設立された愛媛機帆船運送会社の社長に就任,18年松山港運会社・松山港湾荷役作業会社の社長を兼ねた。昭和21年4月戦後初の第22回衆議院議員選挙に松山市大港湾計画実現の担い手として郷党から推されて進歩党所属で立候補当選した。次の22年4月の選挙では落選,24年1月の第24回衆議院議員選挙で当選して国会議員に返り咲き,以後自由党一自由民主党所属で47年12月の第33回衆議院議員選挙まで10回連続当選して議席を保持した。国会・党活動とも一貫して運輸畑で運輸政務次官・衆院運輸委員会理事・国鉄基本問題調査会長・内閣委員長などを歴任,〝陰の運輸大臣〟と呼ばれるほど運輸行政に精通,運輸省に大きな影響力を持ち,新幹線建設,海運の復興発展などに力を振るった。県内では郷里の期待する松山港建設に取り組んで重要港湾指定を実現,内海海運の振興,松山空港整備,国鉄内山線の建設などに尽力した。地域の細かな事業や面倒見の良さが強い支持基盤となり選挙に無類の強さを見せ,48年に永年在職議員として表彰を受けた。 51年2月の選挙を機会に地盤を長男関谷勝嗣に譲って引退,愛媛県日韓友好親善協会会長や全国産業廃棄物連合会会長などの名誉職に就いた。昭和62年6月6日,82歳で没した。

 関谷 瀧衛 (せきや たきえ)
 明治2年~昭和20年(1869~1945)松前村長・地方改良功労者。明治2年7月15日伊予郡筒井村(現松前町)で生まれた。 21年戸長役場用係,23年松前村書記,34年同村助役になり8年在職,43年3月同村長に就任して大正11年まで村政を担当した。助役・村長在任期間を通じて執務に励み,村内部落間の反目を調停,青年教育の振興,耕地整理,農事の改良,産業組合の設置,勤倹貯蓄の奨励に努めた。大正8年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和20年2月15日,75歳で没した。

 関谷 正幸 (せきや まさゆき)
 明治26年~昭和38年(1893~1963)実業家。明治26年11月15日,伊予郡余上村大字余戸(現松山市)に生まれる。大正元年に,滞米30有余年で帰国した父作次郎の指導と協力をえて,関谷農具工場をつくり,我が国で最初の動力利用の移動式籾擢機の製作を開始した。当初のものは,上下二つの上臼を発動機で回転させてすり合わせ,そのすき間に籾を通して籾殼をすりむくという単純な仕組みであった。だから玄米の表皮にすり傷かつきやすいという欠点があった。順次改良を加えて大正7年に初めて実用機を完成させた。続いて大正10年に動力用稲脱殼機,さらにその3年後の大正13年に動力用麦摺機を相次いで開発した。その後,昭和7年動力脱殻機の改良に成功し,昭和9年には自動脱殻機を製作発売した。大正から昭和の初期の愛媛における農機具工場として井関製作所とともに大きな役割を果たすに至った。昭和38年4月26日,69歳で死去。

 雪   广 (せっけん)
 慶安2年~宝永5年(1649~1708)松山千秋寺四世となった黄檗僧。諱は上潤。中国蘇州常熟県(現江蘇省常熟市)の生まれ,陶氏。延宝5年,長崎興福寺澄一の招きで来日,ついで,宇治万福寺に出世した師千呆(千凱とも)を助け,元禄11年,50歳,松山藩主松平定直の招きで千秋寺四世(開山即非,一世千呆と共に中国僧,いずれも名目上の勧請)となった。のち宝永年間,三津・高浜間の海辺の丘に寺を建てて隠栖,郷里の梅津に地形が似ているところから梅津寺と名付けた。

 摂津 静雄 (せっつ しずお)
 明治12年~昭和38年(1879~1963)摂津製糸設立者,県会議員。明治12年3月7日,西宇和郡布喜川村(現八幡浜市)で旧庄屋摂津藤一郎の長男に生まれた。松山養蚕伝習所を経て31年東京西ヶ原養蚕伝習所を卒業して,父の始めた製糸業を継いだ。次々と事業を拡張して大正5年摂津製糸会社を設立,社長になった。神山工場をはじめ県内5か所に工場を持ち,年産9万kg,「伊予糸」の代表としてニューヨーク市場で名声を博した。大正14年4月~昭和2年9月県会議員に在職した。昭和38年11月21日,84歳で没した。弟摂津盛徳は,宇和町長・県会議員を務めた。

 摂津 八郎 (せっつ はちろう)
 寛政10年~天保9年(1798~1838)五反田縞の創始者。寛政10年12月11日宇和島領の宇和郡布喜川村(現八幡浜市双岩)の代々庄屋を勤めた家に生まれた。父親徳の長男として庄屋職を継いだ。八幡浜浦に注ぐ五反田川沿いの五反田村・川舞村・布喜川村は,早くから地機による木綿織の生産が行われていた。村人の使用する地機は能率が悪く,不便であった。八郎はこれに強い関心を示し,この改善を思い立った。松山では寛政中頃から,すでに高機が普及していた。八郎はこの技術を導入するため,松山に出向き技術を習得し,なお2人の織女を招き,高機によって試験的に操業した。これが好成績を収めたので,村人たちに高機への切り換えを奨めた。さらに天保年間に導入された藍染め,絞り等の技術と結合させ,五反田縞として発展させた。天保9年6月27日,39歳の若さで没したが,八郎の五反田縞への情熱は,その子庄右衛門,孫伝太衛門へと引き継がれた。

 摂津 盛徳 (せっつ もりのり)
 明治24年~昭和42年(1891~1967)実業家,宇和町長・県会議員,明治24年11月4日,西宇和郡双岩村(現八幡浜市)で摂津藤一郎の三男に生まれた。八幡浜商業学校卒業後宇和町に移り,宇和肥料会社・宇和町繭売買会社社長を務めた。昭和6年9月~10年9月県会議員に在職した。また7年10月~11年12月宇和町長として町政を担当した。戦後,昭和23年9月~27年8月にも再度宇和町長として自治行政の発展に尽くした。昭和42年12月18日76歳で没した。兄摂津静雄は摂津製糸会社を設立するとともに県会議員を務めた。

 千  宗室 (せん そうしつ)
 元和8年~元禄10年(1622~1697)裏千家始祖,千宗旦(利休の孫)の第三子,始め朧月庵玄室,のち宗室と称した。号は仙叟,兄の宗佐(表千家始祖)について学ぶ。父の住んだ今日庵を居所とした。加賀藩主前田綱紀に仕えたが,のち松山藩主松平氏の茶道師範をした。初代定行の隠居に際して,城下郊外の東野に庭園,「竹の茶室」を築造しこの設計に当たった。元禄10年正月23日75歳で京都で没した。襄千家は代々宗室と称し,明治初期まで八代を数える。代々松山藩に抱えられ,30~35人扶持,天保10年以降は200石となっている。

 千里 心松 (せんり しんしょう)
 生没年不詳 延宝・寛文ころの人。宇和島藩士。俳人。足立左七の父で,大洲の生まれ。二代藩主宗利の七種連歌発句の作代をつとめた。桑折宗臣にその才を認められ,その文壇で活躍した。『大海集』には妻とともに発句が入集し,『郭公千句』の連中の一人でもある。狂歌集に『富士の高根』(図南編)があり,彼の頓才のもてはやされていかさまがわかる。心松は身分は低かったようであるが,俳諧狂歌をもてあそんで,自由気ままに人に媚びることのない一生を送ったようである。またそれを認められていた。きわめて早い時期に文人的な生き方をした人として注目される。

 仙波 花叟 (せんば かそう)
 明治7年~昭和15年(1874~1940)俳人。温泉郡河野村の庄屋仙波縄(南溟)の長男として生まれる。本名は衡輔。正岡子規の講演を聞き,高浜虚子に俳句の指導を受け,内藤鳴雪の評を受けるなど,俳句の道を歩む好条件に恵まれた。明治26年ごろから句作をはじめ新聞「日本」,雑誌「ほととぎす」などへしきりに投句する。後に村上霽月に教えを受け,森田雷死久らと「愛媛新報」俳句欄を共選したこともある。明治44年,伊予農業銀行北条出張所主任となり句作から遠ざかり,貝殻収集や正史考古学,風早地方の文化財を調査する。大正4年,風早吟社第一回句会を開き,再び句作に精進し後輩の指導にあたる。北条が俳句の一大聖地として花開いたのも花叟の力が大きい。昭和15年3月25日,66歳で逝去。鹿島をはじめ北条地方には花叟の句碑が多く見られる。

 仙波 光三 (せんば こうぞう)
 明治29年~昭和57年(1896~1982)教育者。明治29年6月3日,温泉郡川上村(現川内町)に生まれる。大正12年京都帝国大学理学部を卒業し,同14年県立松山中学校教諭となり,昭和14年,県立大洲中学校長,同24年県立松山東高等学校長に就任するなど40有余年の長きにわたり,子弟の教育に情熱を傾ける。その間,愛媛県視学官や,理科教育振興会会長,高等学校長協会会長にも就任する。教育は,大地自然の理法に従って我執にとらわれてはならぬとの信条を貫き,すぐれた理論と実践力をもって幾多の人材を育てた。同38年には松山市の教育長に就任し,学校運営の適正化,管理指導体制の充実など教育の正常化に貢献する。同43年勲四等旭日小綬章,同47年愛媛県教育文化賞,同55年愛媛県功労賞を受賞する。昭和57年2月19日,85歳で死去。

 仙波 盛全 (せんば せいぜん)
 明暦元年~没年不詳(1655~)歌人。幼名亀之助,長じて安兵衛,半幽斎と号す。仙波覚兵衛の次男で,明暦元年9月26日生まれ,大平村(現伊予市)に生まれる。松山に出て奉公し,後産をなし,大平村の庄屋となる。風雅を好み,殊に和歌をよくした。晩年伊予の名勝事蹟の失われるのを惜しんで「伊予名所和歌五十首」を詠み,伊予稲荷神社に奉納した。これが以後の伊予名所和歌の規範となった。また正徳5年に六十賀を祝い,みずから願主となり友人25名とともに賀歌を同社に奉納した。これにより小倉正信・大月履斎らと親交のあったことがわかる。没年は不明である。

 仙波 太郎 (せんば たろう)
 安政2年~昭和4年(1855~1929)軍人。安政2年4月21日久米郡久米村福音寺(現松山市)に生まれる。はじめ陸軍教導団に入り,続いて陸軍士官学校に進み,明治11年卒業。同19年には陸軍大学校卒業(恩賜)。参謀本部付・陸大兵学教官を務めた。同23年から4年間,ドイツに留学し,帰朝後は第5師団参謀となった。日清戦争には歩兵第11連隊第1大隊長として従軍,戦後は第2師団参謀・陸軍士官学校生徒隊長・第3師団参謀長・第10師団参謀長を歴任し,第8師団参謀長になったとき一時休職した。同34年には歩兵第24連隊長,次いで36年4月に清国駐屯軍司令官に就任した。日露戦争が始まると,当時華北で実業・軍事に勢力を築いていた袁世凱と通じ,同地の兵站物資を満州に輸送するとともに,袁の部下将校を苦力に変装させ,旅順要塞に潜入偵察させるなど,側面から戦争遂行に尽力した。戦争後は歩兵第31旅団長・歩兵第18旅団長・歩兵第2旅団長・下関要塞司令官を歴任し,中将に昇進した。同44年以降は第17師団長・第3師団長・第1師団長を歴任し,大正6年に一度は予備役に編入されたが,同7年8月からはシベリヤ出兵後の留守第12師団長を務めた。昭和4年2月19日,岐阜市において病没。享年73歳。墓所は岐阜県加納町穴釜の共同墓地。

 仙波 八三郎 (せんば はちさぶろう)
 明治3年~昭和2年(1870~1927)果樹園芸功労者。中予地方における梨栽培の先駆けをなすとともに,果実販売組織の育成に尽くした。久米郡久米村北野(現松山市)に生まれる。漢学・俳句に通じ俳号を「孤山」と称した。梨栽培の先駆者で,8町歩を経営,「南枝園」と呼んだ。果樹新品種の導入,苗本の育成普及につとめ,梨全盛期の主産地形成に奔走した。また梨の個人出荷を共同出荷に改め,末広組合(現温泉青果農協久米支所)を結成して初代組合長となるとともに,伊予果物同業組合の草創期における有力な指導者として活動した。

 仙波 良太郎 (せんば りょうたろう)
 明治4年~昭和5年(1871~1930)弁護士,県会議員。明治4年9月26日,久米郡南方村(現温泉郡川内町)で佐伯久次郎の長男に生まれた。東京専門学校(現早稲田大学)に学び,35年在学中弁護士試験に合格,帰郷して松山で弁護士を開業した。 40年9月県会議員になり,大正4年まで在職して愛媛進歩党に所属した。昭和5年11月23日,59歳で没した。