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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 高度成長期の建築(昭和三三年~四八年)

初期成長期

 昭和三〇年を過ぎると、戦災復興も進捗し、各都市の機能も回復して国民生活も次第にゆとりを生じ、それに加えて有史以来、未曽有の神武景気が始まり、経済成長が加速度的に伸展し、もう戦後ではないという浮かれた風潮が漲ってきた。昭和三五年には池田首相が所得倍増を発表して一層拍車をかけた岩戸景気に煽られて、建設界はまさに黄金時代に突入した。昭和四〇年には一〇年間にGNP(国民総生産)が三・五倍に、建設需要は六・五倍の驚異的な伸びとなり建設ブームを展開した。建設界は工事の機械化と経営の近代化を図り、技術革新によって成長産業の首位に躍り出たのである。
 建築作品も多彩、高度化し、欧米の模倣追随でなく、我が国独自の特色と優秀性を国際的な水準で示そうとする意欲が海外進出にまで成長するようになった。
 戦後日本の代表的建築家となった丹下健三は東京都庁舎や香川県庁舎を手がけて、昭和三三年に愛媛の今治市庁舎と公会堂を完成さした。東京都庁や香川県庁と比べると一般人は簡素に過ぎる感を持つが、構造表現主義の彼の一貫した建築理念の結晶として記念すべき建築である。特に公会堂は折版構造法を用いたことは前に述べた通りである、鉄筋コンクリートの外壁を屏風のように折り曲げて柱の代わりに建て並べた新しい構造である。彼は各々の建築に適合する正統な構造のテーマを追求し選定してその構造の形をそのまま造型的にデザインする手腕は見事である。彼の作品ごとに目覚ましい躍進が見られ、常に彼の独自な建築理念を貫いている。
 丹下と同じ今治出身の三座設計事務所長徳永正三の作品として、松山に伊豫鉄会館が昭和三五年に完成している。貸事務所と結婚式場を持つレストランの複合ビルとして最初の建築である。彼は趣味の深い芸術肌の建築家であるだけに建築意匠に情趣的な風格を表している。会館屋上にニュース速報の電光文字板を設置した点、情報時代に好評を博している。彼は旧県議会議事堂や後日に県立美術館、松山市立子規記念博物館等の作品を残し昭和五六年に没した。その他に伊豫鉄会館と同年に愛媛県PTA会館が建った。設計は松山地元の長老格の建築家後藤種一である。四階建の各層から張り出した庇代わりのバルコニーで外観を水平方向に強調した当時の新しいデザインである。後藤は地元設計事務所の最初の開設者である。県下町村役場及び学校建築の多くをエネルギッシュに手がけた愛媛の近代建築の開拓者として藍授褒賞を受けた。
 なお、同年代に南予広見町役場と松山に正円寺がレイモンドの設計であることを付記しておく。

高度成長期

 昭和三九年は日本の成長時代の記念すべき節目であった。日本はエコノミックアニマルの謗りを浴びながら成長路線をひたむきに続進して三九年にOECD(世界経済協力開発機構)に加盟してから名実ともに先進国の仲間入りができた。さらにこの年には、世紀の祭典といわれた東京オリンピックが開催され、待望の東海道新幹線が開通したのであった。都市には自動車が氾濫し、家庭にはカラーテレビが急速に普及し、自由な海外ツアーを楽しめる時代となった。然しこの頃から高度成長のかげりが見え、公害問題が次第に表面化して経済界にも影響が出始め、長く成長時代に酔いしれた国民も大気汚染、水質汚濁、騒音被害などの重大性に関心を注ぐようになり、政府も四六年に環境庁を発足させて公害や環境破壊の防止に乗り出した。
 昭和四〇年代に一時不況の兆しが現れたが成長の惰性はまだ根強く、四八年の石油ショックまでは経済成長率の二桁は保持された。建設界は依然として衰えず、都市開発と技術面の革新で、建築は大規模化、高層化、多目的化していった。四三年に霞ヶ関三井ビルが三六階高さ一四七mで完成してから堰を切ったように超高層ビルの建設が相次ぎ、四八年に新宿住友ビルが五二階高さ二〇〇mで完成する迄に一四件も東京、大阪、神戸、名古屋などに日本の摩天楼が出現した。その後も次々に建設され現代大都市のファッション的建築となった。元来日本の建築は、地震が多く関東大震災の後から最高を三一mに制限されたが、戦後の建築技術の進歩と、コンピュータを活用した新しい構造計算理論の発達でこの制限が無意味となり、昭和三八年に建物の高さ制限が撤廃され、それに代わって敷地の広さに対して建物全体の容積量で制限する建築法令によって超高層ビルの建築が可能となったのである。都心の地価が世界一に高騰したので、敷地利用の高率化をはかるため建物を高層にする経済上の要求もあったからである。しかし、ここにも日照権問題、電波障害、突風発生などの公害問題をはらんでいる。
 この超高層建築の建設はなお続き、現代の大都市の旺盛な伸展のシンボルともなり、各地方の建築にも次第に高層化する導因となった。愛媛県下の建築はせいぜい四、五階建てであったが現在一〇階以上の建築が建つようになった。
 高度成長期における建築界は世界に比類を見ない発展をし、また国際水準を抜く優れた建築作品が輩出し多種多彩にわたる展開は、正に百花繚乱の感がある。建築の様式としては近代建築家達は戦前からの機能主義を振りかざし、戦後の社会、経済にも適格であるとの認識から、虚飾を廃し、簡明な国際派様式が風靡したが、高度成長の経済力が身についてくると工業規格的な画一された単調な建築にあきたらず、「貧困の美学」から脱した豊かなヒューマンに訴える建築への憧憬があった。それに応えた村野藤吾の日本生命ビルは装飾的要素を豊かに取り入れた建築である。その劇場部の天井や壁面には手工芸的な自由な柔らかい曲面に、貝殼などをちりばめ豊かな空間を表している。このリバイバルな建築は大きな衝撃を与え近代建築を裏切るものとの悪評を受けたが、戦前から芸術的な質の高い優れた作品を送出した彼は昻然として保守主義を堅持し、独自な様式建築の中に新しい時代感覚を生かそうとした。吉田五十八や吉村順三らの作品とともに日本的な香り高い数々の名建築は現代に生きている。
 高度成長期の最大最後のイベントとして昭和四五年大阪に万国博覧会が二〇〇〇億円の巨費を投じて開催された。人数の調和と進歩をテーマに世界各国が演出した都市、社会の未来像に酔わされた観衆は、壮麗なペイジェントが展開したお祭り広場の巨大な施設に驚嘆の目をみはった。万博の全体構想とメイン広場の設計指導に当たったのは丹下健三であった。日本の建築を世界に誇示して成功裏に終わったのである。
 この万国博覧会は全国にお祭りムードを湧き立たせ、各地方に一層の景気刺激を与えた。
 愛媛県においては、昭和四〇年に入った時期には戦災復興もほぼ終わり、街中は戦前とは見違える近代的な容相を呈した。愛媛の成長時代の特色は文化施設が各地に盛んに建設されたことである。松山には県立美術館(四〇年竣工)宇和島には伊達博物館(四九年)、今治には河野信二記念文化館(四三年)、西条には西条市立郷土博物館(四二年)、大三島には大山祇神社宝物殿(四三年)、新居浜には別子銅山記念館(五〇年)など各々特徴ある貴重な館蔵品の保存と展示の建築を競う感がある。なお、松山には市民会館(四〇年)が県民館と相対して建ち、市民文化の向上に役立っている。昭和四六年には四国唯一の地下街が完成した。ターミナル松山市駅前の輻輳を避けて、駅およびデパートの地階と有機的に連がり多くの通行者からはマツチカタウンと愛称されている。