データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)
一 戦後復興期の建築(昭和二〇年~三二年)
荒廃期
太平洋戦争の終末に広島・長崎は、投ぜられた原子爆弾で一瞬にして草木も生えぬといわれた砂漠都市と化し、全国七十余の都市は殆ど壊滅的な空爆を受け、日本史上かつて経験しなかった敗戦の厳しい荒廃期にさらされた。全国で四二〇万戸という驚くべき住宅不足が生じ、日本の大きな社会問題となった。
愛媛県においても松山市を初め主要都市が戦災を受け、罹災者一二万余人、家屋の損失二万七千余戸、その他測り知れない大被害を被り、翌二一年には南海大地震が重なり、全く泣き面に蜂の惨状を呈した。全国的に復興資材は欠乏し、まともな建築は建たず、仮設的な建物で忍ぶ状況であった。愛媛は木材の生産県でありながら、電力とガソリンの枯渇で運送、製材もできず、闇の用材を漁ってバラックを建て雨露をしのぐのがやっとであった。焼け出された市民は食と衣を求めるのに急で、主な物資は統制のため出回らず、闇市は繁昌したが、街の商店や人家は焼地のまま放置された状態が続いた。政府は二三年には建設省を設け、二五年にやっと住宅金融公庫を発足し、一二坪以下の罹災住宅復興の融資に乗り出したが、申込者が殺到して抽選によって建てる戸数は僅かに過ぎず、住宅不足の解消には焼石に水であった。
復興期
戦前に増強された軍需工場の焼残りが平和産業に切替え復興資材の生産に立ち直ってから、次第に資材が出回り昭和二五年には総てが統制令解除となった。折柄突然に朝鮮動乱が勃発し、幸にもその特需により、鉱工業生産が急速に伸展し、疲弊した経済界は活気を取り戻し、本格的な復興の槌音が高らかに響くようになった。
復興建設の主要資材である鉄鋼、セメント等の生産が戦前を追い抜く勢いで回復し、戦時中に停迷した鉄骨、鉄筋コンクリート造が、新しい建設技術の導入と工業力の充実により、目覚ましい進展を見せ、不燃性建築が次第に普及に向かい、日本は木と紙の建築といわれた時代の交替が見られるようになった。東京大震災と全国的な戦災の悲惨さをなめ尽くした日本の建築の当然の傾向とみなされるが、一面には有史以来一貫して優れた木造の伝統様式と技法を持つ日本建築が次第に衰え、その醸す景観や街並が無雑作に打ち壊され、また、さびれてゆく事を防ぐために昭和二年に文化財保護法を発し、個々の建築だけでなく、建築群によって構成される町並を面として保存することになった。
昭和二〇年代の後半から特需景気の波に乗り復興建設が進捗して、戦前派の建築家の復帰活躍も目覚ましいものがあったが、新興日本を背負って若い第二世の登場となり、次第に頭角を現した丹下健三らの進出が注目された。それらの若手建築家は互いにデザインを競い合い、優れた作品も次第に多くなり従来余り表面に出なかった設計家の名が一般人の関心をひくようになった。
建築思想は戦前から台頭しかかった合理主義が主流となり、虚飾を廃し、平面、構造、材料を合理的に考究し、シンプルな形態を取り入れ、工業生産的な規模化と工期の短縮など工事の経済性を重んじる傾向が戦後の経済界の思潮にマッチして一般に風靡することになり建築家達の指導理念となった。
復興初期の工事量は割合少ないが優れた建築が次々に輩出し中でも注目される建築はレイモンド設計のリーダーズ・ダイジェスト東京本社(二六年竣工)である。従来の鈍重な鉄筋コンクリート造を全く陳腐化するほどの新鮮さで、その後日本の建築の展開に大きな影響を与えた。主体を中央の列柱で支え片持梁構造を活用して南北両側の外壁を総硝子に開放した軽快な姿は、バラック建の立ち並ぶ焼土に恰も掃きだめに降りた鶴のように気高くさえ見えたのである。ちなみにレイモンド亡き跡は松山出身の石川恒夫が社長となり、県下にも広見町役場(三四年)と松山正円寺(三六年)の作品を残している。
愛媛県では、建築界から注視と嘆賞を浴びた愛媛県民館が松山市復興の先駆となって昭和二八年に竣工した。設計は今治市出身の丹下健三である。半球状の大屋根が強く印象的で、彼のモットーとする構造とデザインの完全な一致を表現した傑出した建築である。三〇〇〇人収容の多目的の大ホールの形態は、ステージを囲む観覧席を円形でまとめ、それを覆う直径五〇mの無柱の大空間をシェル構造の屋根で解決した大胆画期的な構想である。シェル構造とは卵殻と同原理の薄く軽い曲面版をいう。。このような特定の構造方式そのものを建築の形態とする彼の優れた、たくましい作品は現代の先端を行くものとして建築界に大きな示唆を与えた。彼は「日本の戦後の厳しい現実に、現代建築を未来指向的な方法の開発で定着さすことが私達の大きな課題であった」と語っている。
昭和三三年には、今治市庁舎と公会堂を完成させている。これは折版構造という鉄筋コンクリートの外壁を屏風のように折り曲げて柱代わりに建て並べた新しい構造法で、県民館と形は変わるが彼のたくましい真剣な設計に対する姿勢は一貫して変わらない。
彼はその後次々に独創的な構想と洗練されたデザインの名作を実現させた。昭和三〇年に広島平和会館(ピロティ式構造)、三九年に東京オリンピック屋内総合競技場(鋼索の吊天井式構造)、四五年に大阪万国博覧会お祭り広場(トラス式大架構)等は国内だけでなく世界に丹下の名を轟かした。日本の文化勲章だけでなく、フランスや各国の名誉ある勲功に輝いた正に現代を拓いた建築の第一人者である。
その他愛媛の復興期は余り数は多くないが昭和二七年に早くも伊豫銀行本店が復旧した。設計は大手の日建設計工務(株)である。まだ市街は。バラック建てが立ち並んだ中に、さすが地元金融界の元締めとして堂々たる四階建の鉄筋コンクリート造で、その威容は目を見張るものがある。外壁は擬似御影石や大理石で豪壮さを誇示した近代的建築で、銀行建築特有の装飾柱の名残を中央入口のアクセントに角柱としてあしらった以外は装飾性を無くした極めてシンプルな外観が時潮に合わした特色といえるが、県民館のような迫力はない。その他各銀行、保険、証券会社などの松山支店が二〇年代末までに不燃構造で再建されている。二六年に松山市が国際観光温泉文化都市を宣言し、その表玄関となった松山駅が二階建のスマートな姿を見せ、道後温泉椿湯が耐火建築に建てられた以外はめぼしい建築は余り見られない。昭和三〇年を過ぎた高度成長期は建設ブームとなり、多種多彩な膨大な数の建築が出現し、その解説は限られた本書では到底不可能である。その時期の代表的な建築だけを次に取り上げることにする。