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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

六 異学禁令後の川田家の人々

 雄琴のあとは長男資始が家学を嗣ぎ、安永八年(一七七九)二月、三〇人扶持を給され、明倫堂教授に就任したが病身のため満四か年で弟資敬にかわって退隠した。資敬は、宝暦一〇年(一七六〇)七月一四日生まれ、実名は資敬、通称は安之進、字を文欽、号を紫渕と称した。天明三年(一七八三)二月二一日、明倫堂教授、寛政異学禁令のため寛政九年(一七九七)一二月一四日、家業御免、御馬廻に配置替えになった。陽明学を教授すること一五年、遂に大洲藩から公的に陽明学が終わりを告げた。資敬は文化一〇年(一八一三)七月二七日没するのであるが、家督は長男の復次郎(資復一七九一ー一八四六)がつぎ、二〇人扶持を給された。しかし、故あって出奔、弘化三年(一八四六)二月五日処刑された。二男玄水は新谷に医を開業、三男観平(一八一一~一八五六)は幼名は八之助、完平・歓平とも書き、初め資輝、後に履道と改称した。江戸に出て佐藤一斎の門に学び、後に選ばれて師一斎の養子婿となった。同門の吉村秋陽(一七九七~一八六六)大橋訥庵(一八一六~一八六二)春日潜庵(一八一一~一八七六)とは特に親交があった。いずれも「陽朱陰王」の碩学である。

一、林家院長、川田八之助、旧冬儒員に被召出候 是は近来夷船江戸へ参候節 其応接に林家に従 致周旋労も有之との事と被存候 佐藤之養子婿に御座候 偏に林家の推薦により候事也 文章相応に出来、外は不出来尤俗才に長じ 人和ある男也 拙より七八歳少し 初年の頃は拙会読など承り遣し致世話候者 三十年来之懇中也(吉村晋 池田草庵あて書簡)
一、先達而一斎塾中の人二人来申候 一人は豫州大洲川田観平(中略)川田先代は執斎門人に御座候由此人尤篤志、年齢も拙与同じ 甚可交人と存候(春日潜庵より池田草庵あて書簡)
一、川田観平と申人 是者一斎之門人に御座候 両三年前尋呉れ 此間又々来り呉れ候 此人一斎門に者甚罕の人物にて 極篤実之人品に御座候 老兄の事も悉敷相語り候へば 甚欣慕罷在候(中略)文字は一向出来不申姚江一流之志篤人に御座候(春日潜庵より池田草庵あて書状)

 姚江の学は陽明学である。観平の学殖を惜しんで山本尚徳(一八二六~一八七一)大洲帰任に奔走したが、果たさず、安政三年(一八五六)正月急病死する。

 川田寛平 御逢も被成候者之処 当正月 近在へ教授に参居候て 暴に病死致候故 遺骸を弊廬へ引取り葬埋致遣候 右は格別之事も無之者に候へども 只薄命之至 可憫之事に御座候(大橋訥庵より池田草庵あて)

 雄琴着任以来、代々川田家は藩学の中心となって教学振興に寄与すること六〇余年、そこから培われた自学の精神と生涯自己教育の醇風は、異学禁令布達後も崩れることなく、次代に発展する基礎をつくったのである。