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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

七 陽明学の衰微

 藤樹によって開かれた陽明学は、藤樹の学問の深さとその徳行によって大洲地方に広がり、直接または間接に薫陶を受けた人々が藩政の重要な地位についたから根強く領内に浸透普及した。その上に川田雄琴をはじめとする一族の人々が代々藩校の中枢にいて陽明学を講じたため文教は著しく興起し、陽明学は大洲地方に花開き、結実された。高遠な理の哲学の遊戯でなく自己現成のための儒学を追求する真の陽明学が講究された。しかし、大洲・新谷地域に栄えた陽明学は、伊予全域にはそれほど伝播せず、僅かに今治藩で文政七年(一八三四)八月芸藩陽明学者吉村秋陽(一七九七~一八六六)が招かれ、藩士村上信好(~一八五五)が学んだが詳細不明である。
 陽明学衰微の直接の原因は、寛政二年布達された異学の禁令である。公的な場合のみといい、私塾や個人を束縛するものではないといっても封建社会では「上意下達」の名分がある。

朱学之儀者 慶長以来御代々御信用之御事にて 已に其方家代々右学風維持の事被仰付置候得者 無油断正学相励 門人共取立可申筈ニ候 然処近来世上種々新規之説をなし 異学流行 風俗を破候類有之 全く正学衰微之故ニ候哉 甚不相済事ニ而候 其方門人共之内ニモ 右体学術純正ならざる者折節者有之様ニも相聞 如何ニ候 此度聖堂御取締厳重に被仰付 柴野彦助岡田助儀も右御用被仰付候事ニ候得者 能々此旨申談 急度門人共異学相禁じ 猶又不限自門 他門申合 正学致講究 人才取立候様相心掛可申候事(禁令)

 寛政二年(一七九〇)五月二四日、寛政の改革の一環として出されたこの布達は学界に異常な衝撃を与えた。反対論も盛んにおこったが、賛成論者もあり、松平定信が非常な決意で士風刷新を図ろうとする政治的意図があったから断行された。結局朱子学が昌平坂学開所の正学となり、一般的にも朱子学が栄えてくる。藩学においてもこれに準ずるから自然に朱子学を採用するようになる。栄えた各学派が消滅してしまうことはないが衰微の一途をたどるのが普通である。大洲藩においても朱子学者安川右仲を明倫堂教授に任じ、川田資哲門の松岡清渓にも崎門学を学ばせ、漸次朱子学が陽明学にとって替わるのである。清渓のあと大儒山田東海が明倫堂教授となると、その学徳の影響は測り知れず、朱子学が領内全域に普及する。陽明学が基本であった新谷藩も同様である。
 異学禁令は、当時の学界、社会の風潮からみれば当然の措置かも知れぬ。学問の棟梁と頼む朱子学の林家に人なく、替わって諸学派は人材を得て、各々独自の経義を講じ、博覧を競い、果は新奇を誇り、他学を批判攻撃してその上に出ようと図り、載徳の文芸を排して情意の発露を尊ぶ文芸主義から生ずる軽薄な世相に対する警戒でもあろう。天明二年(一七八二)その著『修身録』において「学問の流儀は何にても宜しく候」と述べた松平定信が、僅か八年の後に、正学は朱子学のみといわしめたのは、世相を憂慮しての非常の決意から出たものであろう。
 また、藤樹、蕃山および岡山、執斎と学統が続き、各地に陽明学者が輩出し、伊予においては川田一家の真摯な学者によって陽明学が流布するのであるが、その間に胚胎した折衷主義も或いは王学の本質を見失いがちな傾向を生じたかも知れぬ。江戸後期を指導した儒者は、定信によって期待されて林家をついた美濃岩村藩主松平乗蘊の第三子、林述斎にしても、またその学友であり、後、近世後期最大の儒学者として『言志録』はじめ、その著を通して絶大な影響を学界に与えた佐藤一斎にしても極めて寛容包括的な儒学思想の持ち主であった。折衷主義は、それ自体正しいのであるが、厳しい迫力に欠ける。当時朝鮮半島は、李退渓の流れを汲む朱子学が深く思想界に浸透して純粋の程朱学が普及し、王学は寥々たるものであったが、中国においては、すでに「無善無悪是心之體 有善有悪 是意之動 知善知悪 是良知 為善去悪 是格物」(『伝習録』下巻)いわゆる陽明の「四言教」またぱ「四句教」に対する徳洪と汝中の討論の進展があった。陽明の判定が「二君之見 正好相資為用」(『伝習録』下巻一一五項)嘉靖六年(後奈良天皇 大永七年、一五二七)最後の出陣前日であった関係からか妥協的な折衷であったが、以後その展開があって陽明学右派と左派の対立が生じた。それらの情報が我が国に入るようになり、陽明学批判の書物も手にすることができるようになって時代の様相も変わってきた。
 さらに純粋への憧れもある。心則理を説いて情意的に本質を把握する鋭さも魅力であるが、壮大な理の哲学を持ち、徳行の純化をひたすらに求める朱子学者への景仰も見落とせない。江戸時代の後期には、朱子学派にも陽明学派にも優れた学者が出ている。そして修己・治人の儒道の目標を追求した人も多い。儒学の窮極の目的は、形而上の高遠な理論の構成よりも日常の徳行の純粋さを求め、そのよって来る所を直截に指示することであろう。
 昌平黌教授尾藤二洲の明快な主張と批判を掲げよう。
(参照『静寄軒集』巻五「正学説」)
 二洲の教えを純粋に継承して「徳行天下第一」と景仰され、学派の如何を問わず、県下全域はもちろん全国から道を間う者が集まったのが「伊予聖人」朱子学者近藤篤山であった。多度津藩陽明学者林良斎(一八〇七~一八四九)但馬聖人と称された池田草庵(一八一三~一八七八)広島藩士吉村秋陽(一七九七~一八六六)京都の勤王家、陽明学者春日讃岐守潜庵(一八一一~一八七八)らが相ついで訪れ「希代の宿老」と称賛している。潜庵は尾藤二洲の『静寄軒文集』を陽明学派の人々にも読むよう勧めている。
 寛政異学禁令の布達を境として漸次衰微してゆく。伊予においても藤樹学を継承すべき川田資復は方途をあやまり、期待された二男玄水は医となり、三男観平は江戸から帰藩することができなかった。江戸後期、思想家として優れた陽明学者は、前掲の多度津の林良斎、安芸の吉村秋陽、京都の春日潜庵、但馬の池田草庵、岩国の東沢潟(一八三一~一八九一)らがいる。これらの多くは佐藤一斎の門人か、その門につながる交友である。もっとも良斎は一時大塩中斎の洗心洞塾に門生として四〇日ばかり滞留している。これら五氏は相互に訪問しあい、又書面を以て近況を報じ合い切磋しているが、一様に期待したのは川田観平の陽明学修錬とその徳行にあった。観平は前述のように佐藤一斎の女婿となり「斎門には罕の人物、極篤実の人物」(潜庵書簡)「川田八之助…近来勤労…御見見へ被仰付候…追々太盛之様子に御座候」(吉村秋陽「池田草庵あて書簡」)と陽明学中興の大儒川田雄琴の直系として嘱望されたが、伊予への影響は少なかった。
 伊予と最も関係が深いと思われる吉村秋陽も長府支藩毛利侯の学政を司って文教の振興に大いに貢献したが、三三歳、江戸に上る時、藩老士庶人に懇望され、今治に滞在して学を講じたとあるが、その状況は不明である。秋陽は一五歳、郷里宇和島を出て広島の古義学派山口西園(~一八五二)の門に入り、一八歳、京都に出て堀川塾に入り、三〇歳ころ菅茶山(「ちゃざん」ともいう)(一七四八~一八二七、福山藩儒官。大目付。『黄葉夕陽村舎詩』あり。郡中儒者宮内桂山の師。現在伊豫市宮内家に書簡多数保存)に会い程朱学を究め、後、佐藤一斎に従学、師説の心性の学を更に深めた。大洲川田家学が衰微し、伊予を離れてから注目すべき陽明学者は出なかった。その上、江戸後期の陽明学者は、陽朱陰王の佐藤一斎の影響もあって朱子学に寛大で折衷主義を採ろうとし、また特に「慎独」を中心としたから朱子学を厳守して譲らず、陸王を論難して止まぬ近藤篤山であるが、その徳行を景仰して「天下の老宿」と称え、来訪して教えを請うのであった。伊予全域からも篤山塾に入門者が相つぎ、その教化は全県下に及んだ。

『静奇軒集』巻五「正学説」

『静奇軒集』巻五「正学説」