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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

五 川田資哲

 享保五年(一七二〇)一二月一六日江戸で生まれた。一三歳、父に伴われて大洲に来る。本名は要助、後、半太夫。号は子明、芝嬌、游龍、畏斎、惶斎、梥庵といい、退隠後には為谿といった。幼時より家学の陽明学を学んだが、父雄琴の師であった梁田蛻嵓にも私淑し、朱子学にも通じ、同じく父の友人谷川士清(一七〇九~一七七六)、崎門派橘家神道の流れをくむ大洲八幡神社神主兵頭守敬(一七〇九~一七五七)から神道・国学・和歌を学んだ。宝暦元年(一七五一)家学の当主となり、六代藩主泰れい、七代泰武、八代泰行、九代泰候の侍講並びに明倫堂教授として大洲藩文教の重鎮であった。安永八年(一七七九)二月退隠、長男資始に家学を譲り、寛政五年(一七九三)八月一九日没した。
 資哲は漢詩を父が梁田蛻嵓同門の江村北海(一七一三~一七八八)の添削を受げた。北海選『日本詩選』(巻九)に一首入っている。

    別渡長年       川田資哲   渡長年に別る
  泗水橋辺花落時  無端匹馬向天涯  泗水の橋辺、花落つる時  端なくも匹馬、天涯に向う
  交情唯有数行涙  江上不堪洒別離  交情 唯有り 数行の涙  江上 堪えず 別離に洒ぐに
    春入儒家       梁田蛻嵓   春、儒家に入る
  白首窮経絳帳垂  可惜春景坐来移  白首 窮経 絳帳垂る  惜むべし春景 坐来移るを
  窓前夜雪深三尺  已是春風重席時  窓前の夜雪 深きこと三尺なれども 已に是れ春風 重席の時

 資哲の学術の基本は陽明学で「出入無時 莫知其郷 心之謂歟」(『孟子』「告子篇上」)と動揺する心の定着を求め、理気合一の思想に立って修己・治人の道を求めたが偏狭な姿勢はとらず、日本人としての大義名分を明らかにした浅見絅斎に理解を示して『靖献遺言口義』を著した。また父及びその師蛻嵓・執斎の儒仏神三道兼該の思想を更に進め『自従抄瓊矛艸』・『三種十種伝』・『太神宮心御柱記』等を著して「講習虚日あるなく」(『温故集』)文教振興に献身した。寛政五年(一七九三)八月一九日没した。