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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

三 戦前・戦争中の幼児教育

 幼稚園の発展

 幼稚園令の制定によって、幼児教育は新たな発展段階に入った。昭和初期には、幼稚園は量的にも急速な発展をみた。全国的にも大正一五年にはその数一、〇六四園であったものが、昭和五年には一、五〇九園となった。愛媛県では一四園の既設幼稚園に加えて、六幼稚園が新設され二〇園となった。
 もちろん、これらの新設幼稚園は、幼稚園令施行細則の指示手続にしたがって申請されたものである。その申請書類の中心である園則は、施行細則で規定内容が明示されたこともあって、従来の園則に比べて詳細に整備されていた。例えば、清水仲次郎によって提出された私立日土幼稚園園則は、全文二六条にわたり、目的・名称・入園圏(日土村)修業年限(三か年)定員(三〇名)入園年齢・入園及退園・保育科目及保育課程・保育期の区分・保育日数及毎週保育時間・保育始業終業の時刻・休業日・保育料及入園料(一か月一円)・修業及賞罰について明らかにしている。(『昭和三年各種学校幼稚園』・愛媛県庁蔵)なお次頁の二葉の写真は、昭和初期の幼稚園児の保育の様子と、当時の保育証書である。

 戦時下の幼稚園

 昭和五年以降においては、惣開・川之江の私立幼稚園が、また同八年には若葉幼稚園、同一〇年には宇和島城北幼稚園同一二年には北条・湯香里、同一三年には石手川・東洋レーヨンの各幼稚園が新設された。ところがこのころになると、幼稚園もまた戦争の影響を受けはじめた。昭和一六年一〇月の文部省通諜では、「学校防空緊急対策二関スル件」について、「幼稚園ニツイテハ空襲ノ危険切迫トトモ二一定期間授業ヲ中止スルコトアルベキ」ことが指示されたが、初期の順調な戦争過程にあっては国民皆労態勢の強化に伴い幼児保護を第一義に考えた幼稚園の存在がむしろ注目された。同一七年には全国の幼稚園数二、一一三園、在園幼児数一一三万七八五とこれまでの最高となった。しかし、幼稚園は、教育の場というよりも戦争国策にそった勤労家庭の幼児受托機関としての色彩を強めた。その具体的な姿が同一八年以降の太平洋戦争下における幼稚園の保育所への移管、また幼稚園の保育所併設となって現われた。(多田鉄雄『昭和期の幼稚園』)。
 本来の幼児受託機関である託児所は、昭和期に入って社会事業として相当の補助を支給されるために、新設されるものが多かった。しかし、その内容はほとんど幼稚園に近いものであった。愛媛県では昭和八年度末にその数一八に達し、幼児数も七〇〇を下らなかった。(「昭和八年度愛媛県学事年報」等)全国的にも六三四施設と幼児数四万八、二六五を数えた。これが同一五年には常設託児所数一、五二三、季節託児所数二万二、七五八と増加し、同一九年には、それぞれ、二、一八四と五万三二〇に急増した。この趨勢が幼稚園と託児所の差異を一層希薄にした。殊に昭和一八年に高等女学校に幼稚園または託児所を付設することが勧奨され、保育施設費補助金が交付されることになって、全国で二〇六の高等女学校に幼児受託と幼児教育を兼ねた常設保育所が付設されたことが、両者の接近を更に助長した。
 愛媛県は同一九年に今治・新居浜・八幡浜の各高等女学校に常設保育所を開設した(県報告示第五四・六二一・六二二号)。いずれも定員四〇名(第三条)として同校生徒に三歳以上学齢未満の幼児に対し終日遊戯・唱歌・談話・手技・図画・観察の課程で保育されることとした(第一条、第五条、等一三条)。また、厚生保姆養成のために同一九年に養成所を今治市大手町昭安保育所内に置いて、保姆の養成を図った。しかし、両者とも十分な機能を果たし得ないまま終戦を迎えたのである。

表2-92 昭和元年~同五年新設の愛媛県公私立幼稚園一覧

表2-92 昭和元年~同五年新設の愛媛県公私立幼稚園一覧