データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 「花鳥諷詠」の時代(昭和前期)-昭和二〇年頃まで

 虚子の「花鳥諷詠」

 関東大震災の危機も無事乗り越えて、奇しくも、大正期の終わり二五年一〇月)に、堂々「ホトトギス」創刊三〇周年を迎えた虚子は、昭和期に入って早々、「花鳥諷詠」を唱えた。
 これは、昭和二年四月一日、神戸での句会で「花鳥諷詠」と題して小俳話をしたもので「-花鳥諷詠と申しますのは、花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。-」と提唱し、ここに、「花鳥の諷詠」をその理念とし、「写生」を方法とする俳句観が確立され、今後「ホトトギス」はこの虚子の俳句観によって運営された。(昭和三年六月刊『虚子句集』の「序」及び、松井利彦著『昭和俳壇史』133ページ以下参照)なお、この日の句会のあと、虚子は年尾と落ち合い、乗船、四月二日早朝高浜港着、翌日道後公会堂で催された第一回
関西俳句大会に出席した。このことについては、「葉桜」との関連で、便宜上、「大正期」のところで記した。
 虚子の、この「花鳥諷詠」の論については、昭和四年、いわゆる「四S」の一人、水原秋桜子が「小事物の形を写せばよい」とする虚子の「描写偏重」(自然の真)以外に、「文芸上の真」をあらわすべきだーと主張し、次代の新興俳句運動への口火となったが、虚子の信念は微動だもすることはなかった。

 虚子『渡仏日記』以後

 昭和九年還暦を迎えた虚子は、昭和一一年二月一六日、一八歳の六女章子を連れて、次男で作曲家・池内友次郎のいるフランスへ海路旅立った。ベルリン日本学会、ロンドンP・E・Nクラブ招待会で講演、又フランス・ハイカイ詩人とは会談するなど、充実した旅をつづけ、六月一五日横浜に帰って来た。その四日前の六月一一日朝、虚子はその『渡仏日記』に、次のように記している。

  …朝霞が深く軍めて居るからはつきりは分らぬが、遠く石槌山らしい山が見え、また高縄山と覚ぼしきものも見え、それに海上には、興居島らしき島が横はつて居た。…ふねて、私の郷里の山川に接したいと云つて居つた楠窓君(注・虚子の乗船した日本郵船・「箱根丸」の機関長上ノ畑楠窓、「ホトトギス」俳人)も呼んで、共に見た。今更ながら、瀬戸内海の景色の和らかく繪のやうなのに見入った。
    戻り来て瀬戸の夏海繪の如し
   来島の瀬戸に来るまで甲板に佇んで居て、少し朝飯が遅れた。…(高浜虚子『渡仏日記』より)

 この句は、現在句碑となって、当初は今治駅前にあったが、いまは今治市小浦の糸山公園にある。
 昭和二一年六月、虚子は芸術院会員に推され、翌一三年四月「ホトトギス」は五〇〇号に達し、二九〇ページに及ぶ記念誌を発行した。しかし、「ホトトギス」のよき時代は、せいぜいこの頃までで、すでに、昭和一二、三年頃から「戦争俳句」が目立つようになり、長引く日支事変の暗いかげの下に、記念すべき五〇〇号祝賀会も延期となった。
 昭和一六年一二月、大東亜戦争に突入という非常事態のもと、昭和一七年六月には「日本文学報国会」が結成され、虚子はその俳句部会長に推されたが、虚子は、戦争賛美の句を作ることはなかった。
 昭和一九年九月、長野県小諸へ疎開した虚子は、翌年五月、「山国の蝶を荒しと思はずや」の句をのこしている。この昭和二〇年八月号「ホトトギス」は、僅か一二ページであった。時に虚子七二歳。苦悩の時であった。

 碧梧桐の晩年

  あちこち桃桜咲く中の山峡の辛夷目じるし    夕べ子供ら岸に寄る藻の水を棹うつ

 右の碧梧桐の句(大正一五年「三昧」時代)のように、大正末、昭和初期の彼の句はいよいよ自在の境に入り、昭和二年三月には「和歌、俳句の領域の撤廃」を「三昧」で発表したり、昭和四年からは、「紫苑野分今日とし反れば反る虻音まさる」のようなルビ(振り仮名)付きの句、後には読点をつけた句も作ったりしたが、これには反対の人も多く、「難解になった」との評もおこり、このため「三昧」を去る人もあった。
 碧梧桐は、このように、自己の詩的真実を求め、その表現はいかにあればよいかについてつねに悩み、ついに、虚子と袂を分かって、自ら求めて苦しく険しい道を歩みつづけたのであるが、その進路に行きづまりを感じ、昭和八年三月二五日、還暦祝賀会の席上、俳壇引退を表明した。
 彼は多趣味、多才の人で、その書は「天資の能」と子規がほめたくらい、つとに有名であった。その書風は、彼の句の如く幾変遷して晩年の自在な書風に達した。又、若くより宝生流の能に親しみ、囲碁・料理にもくわしく、これぞと思うことには一途に走る人で、この走り方は、生涯かわらなかった。
 子宝に恵まれず、養女にも先立たれ、物欲に恬淡で清貧に甘んじ、一時は煎餅屋になろうとしたこともあったほどで、晩年は寂しい路をたどることになったが、昭和一一年、門人の斡旋で東京・新宿・戸塚四丁目にはじめて自分の家を持ち、夫妻でよろこびあい、「ハタキ持ち馴れて妻は肩凝るともいはなくに」(新居雑感)-などの句がある。昭和一二年二月一日、腸チフスの疑いで入院中、敗血症を併発して永眠した。今日の自由律系の俳句の流れに、碧梧桐の俳句修行の悩みが生きているとも言えよう。
 竹馬の友・高浜虚子は、碧梧桐を終生のライバルとして、ともに俳句の道を進んだのであるが、その虚子の、碧梧桐追悼の句に、「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と前書きして、次の句がある。

  たとふれば独楽のはぢける如くなり   虚子 (昭和一二年)

県内句碑は「さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ   碧梧桐(松山市役所前)」など七基。墓は松山市旭ヶ丘一丁目宝塔寺。

 「松高俳句」の山脈

 昭和前期の愛媛県に、従来にはなかった俳句集団が出現した。旧制松山高等学校俳句会の人々である。(旧制松山高等学校を、以後「松高」と略称。)松高は大正八年四月、松山市持田の、現在、愛媛大学教育学部付属小・中学校のある敷地に創設され、学制改革のため、昭和二五年三月、その栄光の歴史を閉じた。
 臼田亜浪が主宰する「石楠」の最高幹部であった川本臥風(~昭五七・84歳)は、大正一二年四月、京大独文科から松高へ着任早々、英文学の林原耒井(~昭五〇・89歳)と「松高俳句会」を結成して、昭和八年一一月五日機関誌「星丘」(月刊)を、川本臥風が編集責任者となって発行し、昭和一九年七月の第五三号まで、戦雲の重苦しさをはね返して刊行した。誌名の「星丘」は松山市の南郊の「星が岡」にちなんだもの。創刊号一部一〇銭であった。この松高俳句会・「星丘」誌で生い育った者に次の人々がある。
 品川柳之(大正一五年卒業) 篠原梵(昭和六年卒業) 八木繪馬(同) 西垣脩(昭和一五年卒業) 茨木童子(昭和一六年卒業) 永野萌生(昭和一七年卒業)ら。
 なお、松高在学中は俳句に親しまなかったが、卒業後、俳句の世界に入った者に、
 芝不器男(大正一二年卒業) 五十崎古郷(大正一〇年入学) 中村草田男(大正一四年卒業) 谷野予志(昭和二年卒業) 小川太朗(昭和三年卒業) 大野岬歩(同) 永野孫柳(昭和五年卒業)らがある。
 これらの人々は、川本臥風・林原耒井の二人の指導者を中心に、松山の地を拠点にして俳壇に明るい新風を起こし、時には女性を含む市民参加の場ともなり、若いエネルギーが華麗に花を開かせた。なお、「松高俳句会」は愛媛大学の学生達に引き継がれ、昭和二五年一月一四日「愛大俳句会」が発足し、同月二一日松高最終句会が行われた。-本項は、すべて大野岬歩・高橋信之著『旧制松山高校と俳句』によったが、多くを割愛した。

 県内外の俳誌

 昭和前期には、前記「星丘」の外に、県内では①「南予渋柿」(昭四)、②「双葉」(昭五)、③「ふくべ」(昭六)、④「まつやま」(昭六)、⑤「糸瓜」(昭七)、⑥「鴎」(昭一四?)、⑦「燧」(昭一五)、⑧「茎立」(昭一七)などが、県外では、①「玉藻」(昭五)、②「鶏頭」(昭七)、③「欅」(昭七)、④ 「鶴」(昭一二)、⑤「俳諧芸術」・「火(稻の火へん)」(昭一三)などが、多彩に創刊された。
(県内の俳誌)
①「南予渋柿」 昭和四年五月一日創刊 主宰-岡田燕子 発行所-宇和島市薬研堀 野中思星方 月刊俳誌 昭和一六年一二月廃刊 通巻九二号
 「渋柿」創刊当時、東洋城の厳選主義のため、新人に場を提供する意味も含めて、「さわらび」の誌名で創刊したが、同年八月、帰省中の東洋城と話し合って、九月号から「南予渋柿」と改題した。雑詠選者-岡田燕子 課題句選者-稲井梨花・大塚刀魚・白石二黒・野中思星・松永鬼子坊。「渋柿」を母誌として、「渋柿」の名を誌名にもつ、全国でも特異な俳誌で、それだけに、主宰・岡田燕子への東洋城の信頼の深さが思われる。

 ②「双葉」

 昭和五年一二月創刊 主宰-白石為翠(現在・井上秋月) 発行所-越智郡岩城村八五五 双葉吟社、昭和五八年八月現在通巻五五七号 月刊俳誌 白石為翠(明二四・岩城村生まれ。故人)は高岡市で俳句を習い、昭和四年帰郷して「双葉」創刊となったもの。会員約一〇〇名。為翠は巌谷小波系俳人。

 ③「ふくべ」

 昭和六年三月二五日創刊(推定) 編集兼発行人-新居郡中萩村ヨコズイ 伏見圭介(東天紅) 孔版印刷、のち活字印刷(九号より)。月刊俳誌 三四ページ 雑詠選者―鈴鹿野風呂 課題句選者-塩崎素月、同波留女、塚原夜潮、同まさ女ら。昭和七年五月一日第一七号(四〇ページ)発行。以後の状況不明。

 ④「まつやま」

 昭和六年八月一日創刊。主宰-八木花舟女 編集兼発行人-松山市西一万九〇 八木満子(花舟女) 発行所-同上、八木医院内まつやま発行所 印刷所―松山市木屋町森田三秀社 一部二〇銭 四九ページ 題簽-高浜虚子筆 表紙絵-中島菜刀、小川千甕 「ホトトギス」系月刊俳誌。昭和四年、塩崎素月の「葉桜」が、素月転勤のため宇和島発行となったため、その後をついで、松山で創刊されたかたちとなる。主宰・八木花舟女の夫君、医師八木桔桿も俳句に長じた。雑詠選者は池内たけし・高浜年尾 当季句選者は酒井黙禅・日野草城、当月集の選は花舟女が当たった。本誌は昭和一七年三月には第一一巻第八号(三月号)を最後に、「茎立」(後記)に統合された。医師関係俳人の句会に「素心会」があり、一五年間欠けることなく句会が続き、昭和七年八月、その祝賀会が、「亀の井」で開かれた、という記事も本誌に見える。

    椅子により倒るゝ如く花疲れ   花舟女…「まつやま」創刊号・雑詠より
    このあたり四国遍路の宿ばかり  花舟女…「まつやま」創刊号・雑詠より

 ⑤「糸瓜」

 昭和七年五月一日創刊 編集兼発行人―松山市泉町四二 森福次郎(薫花壇) 発行所―同上内「糸瓜」発行所 印刷所-松山市木屋町二丁目森田三秀社 一部二〇銭 四五ページ 表紙絵(伊予人形)・裏絵(蛙)-下村為山 当初同人-西本里石・越智萬人・立石白虹堂・野間叟柳・中尾真月・中川花楽・渡部渡月・浅野一二三・家木壷堂・堀内一層楼ら。雑詠選者は富安風生で、この人選は野間叟柳の奨めできまったもので、風生と本県とのつながりはこれに始まる。風生の作家的存在が大きくなるに従い、その主宰する「若葉」の句風の本県へ影響すること、大きいものがあった。
 
  葉牡丹のまどかなる影もてりけり   薫花壇(創刊号・風生選巻頭句)

 本誌は、昭和一七年二月、第一〇巻第一〇号(通巻一一八号)をもって休刊、前記「まつやま」・「鴎」(後記)と統合し、「茎立」(後記)となったが、戦後復活し、昭和五八年八月現在、四九〇号に達している。
 なお、本誌によれば、この頃、今治市慶応町日吉壷外によって、俳誌「霰」が発刊されておることがわかり、雑詠選者は井手紅貌子であったというが、詳細は不明である。

 ⑥「鴎」

 昭和一四年五月創刊(推定) 編集兼発行人―今治市神ノ木通 栗本三千三(号・莫愁、~昭三六・63歳) 発行所-同上内「鴎」発行所 月刊俳誌 昭和一五年七月号は一部二五銭 五二ページ 誌名の「鴎」は塩崎素月の命名。題簽は虚子筆。素月蔵の子規短冊の句「いわし干す磯しづかなり遠鴎」によったものか。雑詠選者-松本たかし(虚子推薦)、はじめは中野三允、外に、当季雑詠選者として富安風生・中村草田男・川端茅舎を迎えるなど、堂々たる顔触れの「ホトトギス」系俳誌であった。終刊不明。「茎立」に統合される。

 ⑦「燧」

 昭和一五年一一月、西条市倉敷レイヨン西条工場内に俳句結社「燧会」が発足し、発起人・桐野花戎(~昭三二・56歳・元県議故桐野忠兵衛の実弟)が初代部長となり、はじめ謄写印刷で「燧」が発行されていたが昭和二六年八月に本印刷となる。昭和二九年九月号によれば、「燧集」選は今井つる女、その他の選者に、合田丁字路、石井愛舟、桐野花戎らがある。石井愛舟は「燧」の命名者でもある。発行人-西条市倉敷レイヨン内桐野貴(花戎) 発行所ー倉敷レイヨン西条工場燧会 編集長-和田三猿子(昭和二九年九月号による。)
 桐野花戎(周桑郡周布村サイダ生まれ)は昭和三二年一月一〇日急逝、同年三月号(第一八巻第三号・通巻一七三号)は花戎の追悼号となった。発行人は武田憲夫、編集長・今井梅窓となっている。以後の状況は不明。戦後の「燧」は社外誌友も多く、数少ない東予の句誌として貴重なものである。

    絶句二句 集まりて十羽程おり寒雀      花戎
         いつの間に冬日が逃げし寮の窓   花戎『桐野花戎遺稿集』より

(県外の俳誌) ①「玉藻」 昭和五年六月創刊 主宰ー星野立子(当時二九歳・高浜虚子の次女、~昭五九・82歳) 月刊俳誌 虚子の発意で、花鳥諷詠に基づく客観写生を基盤にする女流俳誌として、「ホトトギス」の女流作家群が参加して発足したもの。虚子は生前、毎号「立子へ」を寄稿して、この俳誌を盛りたてた。戦後は男性も参加している。立子病気静養中の一三年八か月間は五女高木晴子が雑詠選を担当したが、昭和五八年八月号より再び立子選となった。虚子の姪・今井つる女もよく援けており、「玉藻」は昭和五八年八月号で六二九号に達した。立子没後、娘星野椿が受け継ぎ、晴子は昭和五九年一月より「晴居」を創刊主宰している。
 昭和一一年、虚子が欧州旅行中の五月二日、ロンドン郊外の王立植物園・キュー・ガーデンに吟行した時の句「雀等も人を怖れぬ国の春」の句碑が、四三年後の昭和五八年五月一〇日、キュー・ガーデン内に、晴子と同園長ブレナン博士の手によって除幕された。この式典には、玉藻会有志約八〇名の外、英国人も多数参加した。

    生涯の佳き日給はる花卯月   晴子(句碑除幕・献句)
    鯛や朝四時半の空気澄む    立子(「玉藻」昭58・9)

 ②「欅」

 昭和七年五月創刊 主宰-池内たけし(虚子の次兄池内信嘉の長男、~昭四九・85歳) 編集兼発行人-東京市牛込区市ケ谷田町三丁目二三番地池内洸(たけし) たけしは宝生九郎に謡を学びながら、ホトトギス発行所にあって「ホトトギス」発行事務に当たる傍ら、作句し、虚子の奨めで「欅」発刊の運びとなった。虚子の「花鳥諷詠」の主張を基盤に、とくに初心者を平易に指導することに重点をおいた。昭和四二年七月、三〇〇号に達した。だけしは虚子の教えのまま、「花鳥諷詠」の本道を歩み、「平淡にしてなかなか滋味がある」との虚子の評のとおり、彼の句は純粋で、「ホトトギス」の典型となった。たけし没後は高橋春灯が後を守りつづけたが、昭和五七年一二月、通巻四八五号で一応閉刊した。たけしの句を三句。

  仰向きに椿の下を通りけり      たけし
  初午の太鼓たゝいて遊ぶなり     たけし
  水仙にかげりながらにさす日かな   たけし

 ③「鶏頭」

 昭和七年一〇月一〇日創刊 主宰-柳原極堂 発行所-東京市芝区白金台町二丁目六番地田坂方沖口遼々子(沖口三郎-越智郡弓削村出身・国学院大学学生) 一部二〇銭三六ページ 表紙-為山の俳画 柳原極堂は不偏不党・厳正中立の伊予日日新聞社長として悪戦苦闘、昭和二年三月ついにこれを廃刊、社長を辞して上京、五百木飄亭・阿部里雪らの協力を得て、本誌発刊となった。月刊俳誌。雑詠選者-柳原極堂 課題句選者-村上霽月となっている。
 極堂は創刊号で「…私にとっては俳句は生命であり、生命のまた燃焼であり…断じて我々は此の俳誌を生活費を生み出すための商業機関にしようとするものではない。…」と決意のほどを述べている。「ほとゝぎす」を虚子に引き継いでより三三年目のことであった。
 「鶏頭」で特記すべきことは、子規の書いた、幻の書といわれていた『散策集』を昭和八年九月発行第二巻第九号に、一括、掲載したことである。松風会員・近藤我観(~昭三五・92歳 元晋)が明治二八年、子規より渡されていたものを極堂に示したことにより、実に三八年振りに日の目を見たわけで、地元及び全国の子規研究者に貴重な資料を提供したものである。なお、連載された極堂の子規研究の諸文や五百木飄亭の「句日記」の意義も大きい。
 極堂は子規の精神を受け継いで「鶏頭」の経営に専念したが、戦雲ようやくきびしく、昭和一七年九月、第一一巻第九号(通巻一一八号)をもって廃刊、一〇月二三日帰松、此花町に居を定めた。この間、昭和一五年二月一一日、極堂の代表句「春風やふね伊予に寄りて道後の湯」の句碑が、道後湯之町放生池畔(現在の放生園)に建ち、昭和一八年二月には「鶏頭」誌連載の原稿をもとにして、『友人子規』が刊行された。
          朝顔の葉に午過ぎの砂ぼこり     極堂(鶏頭より)
  子規三十五回忌 世にあらば既に古稀なる月の子規   飄亭最終句日記

 ④「鶴」

 昭和一二年九月創刊 主宰-石田波郷 田中午次郎の俳誌「馬」と石塚辰之助の「樹氷林」の両誌を合わせたもの。昭和一七年四月、「馬酔木」の編集及び同人を辞して離脱した波郷は、専ら本誌に拠って「俳句の韻文精神」を提唱、強調した。戦争激化のため一時休刊、戦後復刊号(昭和二一年三月)の表紙裏に、「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」の名言をのこした。昭和四四年波郷没後は石塚友二を新主宰として、昭和五八年八月号で四五八号に達し、昭和五六年一一月号は一三回忌追悼号となった。

 ⑤「俳諧芸術」(「火(稻の火へん)」)

 昭和一三年六月創刊 主宰-上甲平谷 編集兼発行人-東京市世田谷区北沢田四ノ五二六 上甲保一郎(平谷) 表紙絵-三好計加(芋の月)  一部四〇銭五〇ページ 雑詠選者-上甲平谷
 昭和二七年九月より「火(稻の火へん)」と改題。これは、仏教哲理を通して俳生活を営もうとする作者の心魂に銘じた「法語」中の用語に拠ったもの。昭和五二年三月二〇日刊の本誌は三五〇号記念号となった。現在、隔月刊。
 上甲平谷は宇和町生まれ。明治四一年(一七歳)、虚子の処女小説集「鶏頭」に心酔、「ホトトギス」購読、自ずと俳句に親しみ、霽月・碧梧桐の指導を受けた。大正元年上京、早大(哲学科)卒、その間、霽月の奨めで東洋城の「渋柿」に拠り、のち、本誌創刊となったもの。傍ら、友人に頼まれ、東京女子商業学校の戦中戦後の経営に腐心した。この間、仏教哲理に支えられて「俳諧芸術」社の方も守りつづけ、明治二五年四月一〇日生まれの彼は、昭和五八年で満九一歳になった。

  笑ひが止まらない梅雨明けにけり 上甲平谷「火(稻の火へん)」384号(昭58・9)

 「馬酔木」花開く古郷・波郷

 五十崎古郷(~昭一〇・40歳)は温泉郡余土村生まれ、松高時代、胸を患って松山日赤に入院して内科医長今川七郎を知り、同氏の紹介で水原秋桜子に師事、昭和三年から本格的に俳句にとりくみ、「古郷」と号して病床で句作をつづけ、昭和五年「馬酔木」新樹集にまず一句入選、昭和八年には「馬酔木」第一期同人に推され、この年、「松山馬酔木会」を結成して、会報「ふるさと」を、翌九年には俳誌「渦潮」を呉市より塚原夜潮とともに発行したが、後事を夜潮に託して病床に逝いた。
 石田波郷(~昭四四・56歳)は温泉郡垣生村生まれ。隣村の余戸駅から伊予鉄・郡中線で松山中学校に通った。当時の追懐句に、「露の駅中学生のたまり来る 波郷」がある。松山中学時代、同級生の俳優大友柳太朗(中冨正三)の勧めで、「山眠」の号で俳句を始め、同校教師・堀田北田(渋柿派)に指導を受けた。昭和五年、中学卒業後は家にあり、同村収入役で俳人の中矢秋葉を知り、ついで、地元・今出吟社主宰の村上霽月の指導を受けたが、やがて、秋葉の紹介で、五十崎古郷を訪ねて入門、古郷より「波郷」の号を与えられた。これにより、波郷は「馬酔木」と結ばれ、師・古郷と共に投句を競い、波郷はついに、昭和七年二月号「馬酔木」新樹集巻頭に、「秋の暮業火となりて秬は燃ゆ」以下五句入選し、このことが、彼の人生を決定づけた。同年二月上京、秋桜子の世話を受けつつ「馬酔木」発行所の事務を手伝い、昭和九年一月には再び「馬酔木」巻頭を占め、五月からは「馬酔木」編集に参加した。この年、明治大学文芸科に入学したが、昭和一一年には中退して俳句界の人になりきる。昭和一四年、「俳句研究」誌上の座談会で、波郷は、「今までの俳句にはなかった人間臭い俳句を、新しい俳句性の手で掴んで表現したい。」と述べているが、その席に出席していた中村草田男・篠原梵・加藤楸邨とあわせて四人の作家が、ともに、作句の上で、「人生及び生活」とのかかわりを大切にしているところから、司会者・山本健吉のことばにより、「人間探究派」・「人生派」・「難解派」などと呼ばれた。この四人のうち、三人までが本県松山市出身の俳人であって、しかも、当時の新しい俳句界を代表する人々であったことは注目される。昭和一七年吉田安嬉子と結婚した波郷は翌年、妻子を残して出征中、左湿性胸膜炎を病み、昭和二〇年一月、白衣の兵士として帰還、以後、闘病と句作の人生がはじまる。

  出征の句 葛咲くや父母は見ずて征果てむ   波郷

 富沢赤黄男と新興俳句

 富沢家は代々宇和島藩医。六代目・富沢岩生も川之石で開業医をしていて、赤黄男(~昭三七・61歳)はその長男として生まれた。俳句は早稲田大学在学中の大正一二年、郷土の先輩・松根東洋城を訪問して「渋柿」を知り、関心をもつようになった。昭和五年、郷里・川之石へ帰って第二九銀行入社。この頃、川之石には俳句同好グループ「美名瀬吟社」(のち「浮巣会」)があり、赤黄男(本名・正三)も「蕉左右」の名で「ホトトギス」などに投句したが、彼の新しいものを求める句の姿は共鳴者が得られなかった。
 昭和一〇年、日野草城が「陳套ノ排除」を宣言して「旗艦」を創刊すると、赤黄男はその新興俳句運動に参加し、たちまちに同誌の人気作家となった。その間、生家没落の中、大阪で再興をはかるうち、再三応召、異色ある戦場俳句を発表した。戦後は水谷砕壷(「旗艦」発行人)の会社(関西タール製品K・K)につとめる傍ら、草城、砕壷らと「太陽系」を、ついで「詩歌殿」・「火山系」・「薔薇」と俳誌を手がけたが、伝統的な俳人からは重んぜられなかった。しかし、今なお、彼のひたむきな作句態度を重くみる人も多い。

  石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり   赤黄男
  爛々と虎の目に降る落葉      (母校・川之石小学校赤黄男句碑)

 「ホトトギス」雑詠の県人たち(二)

 さきに、大正期の「ホトトギス」雑詠入選俳人のことを記したが、ここでは、昭和前期「ホトトギス」雑詠欄で活躍した県内俳人の状況を、戦前のおだやかなよき時代であった昭和一〇年の一年間を例にとって、考えてみたい。人名の上の「伊予」は伊予国の意、下の数字は一年間の総入句数である。
 松山・酒井黙禅26 松山・満瀬小春女23 松山・八木花舟女12 松山・品川柳之10 松山・長谷川洋々9 宇和島・塩崎素月8 松山・波多野晋平8 松山・波多野貞女7 松山・久野助二郎6 今治・井手磈子5 松山・八木桔槹5 松山・矢野藍女4」 以下各3 松山・澄月黎明 伊予・尾崎陽堂 伊予・高橋花相女 愛媛・池田桂馬 伊予・毛利明流星 伊予・江戸志流 松山・越智雨村 松山・真部緑友 八幡浜・松本つな女 八幡浜・清家よし子」 以下各2 今治・宮崎秋窓 八幡浜・合田省三 八幡浜・宮崎軒月 松山・白方六茶 今治・弓山常女 伊予・平野秋歩 松山・三橋其渓 松山・岡田包城 松山・河野柳泉 伊予・門田其沙子 伊予・山本素牛 伊予・伏見東天紅 伊予・橘華子 松山・浅井貴志女 松山・渡部十九城 松山・竹村輝女」 この外に、一句入選の俳人六九名、計入選者一〇七名、入選総句数二五四句となっている。

 鬼才・芝不器男

 不器男(~昭五・28歳)は本名で、論語・為政篇の「君子器不」ー「くんしはき(うつわもの)ならず」によったもの。大正一四年、東北帝国大学工学部在学中、本格的に句作をはじめ、兄都築豺腸子(馨三)の奨めで「ホトトギス」・「天の川」などをよみ、この年の秋より「天の川」(福岡市・吉岡禅寺洞主宰)に投句、大正一五年一月、「天の川」の巻頭を占め、秋より「ホトトギス」にも投句、翌昭和二年四月、東北帝大を退学、伊予鉄電副社長太宰孫九の養嗣子となって太宰文江と結婚、山口誓子らと「天の川」の課題句選者になり、昭和ニー四年の間、県内俳誌「葉桜」の課題句選者もつとめた。不器男は結婚一年で発病、九大付属病院で、左副畢丸肉腫及び腹腔内淋巴腺転移と診断され、手術二回に及んだが、昭和五年二月二四日永眠した。彼の名句-あなたなる夜雨の葛のあなたかなーは、「ホトトギス」大正一五年一二月号「雑詠」初入選二句の内の一句で、この句には、「二十五日仙台につく。みちはるかなる伊予のわが家を思へば」という前書がある。「二十五日」は大正一五年九月。本当は二四日午前一〇時頃仙台についたらしい。
 不器男は作句期間が短く、寡作家であったが、その一句一句が珠玉の作で、今に愛誦され、地元・松野町では、毎年二月、町文化協会・町教委主催で不器男忌俳句大会を催すなど、「慧星の如く俳壇の空を通過した」その若死(満二六歳一〇か月)が惜しまれている。

  泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ   不器男
  窓の外にゐる山彦や夜学校     不器男

  白藤や揺りやみしかばうすみどり  不器男

 八幡浜俳壇 松碧楼・泊春・明流星

 全県下の地区別俳壇の詳述は困難であるので、例を八幡浜にとって、当時の状況を説明してみよう。大正初年、八幡浜商業学校内に「柳会」改め「椿会」(渋柿系)、やや遅れて、青年層の「木犀吟社」(ホトトギス系)があり、大正七年、東洋城の命名で「初潮会」の名で両者合同、「渋柿」系の会となる。羊我・螢友・北宇・可水・松碧楼・楚花・白木公(草人)・兎角公・戈堂・一輪など、大正初期の八幡浜俳壇はまことに活気があった。大正の中・末期にかけても、軒月・螺岳泉・木亭・柏葉・濤春・一嵐・泊春・春虹・明流星、更に壷月・麦尺・青茅・景堂などが俳句に志し、大正初期にも劣らぬほどの黄金時代を示しつつ昭和前期に入り、昭和五年一一月二〇日には南予俳句大会が愛宕公会堂で行われるまでになった。松碧楼はこの俳句大会応募句稿およそ二五〇句を携えて別府へ行き、講演旅行中の高浜虚子に、別府から松山へ向かう紫丸船中で面会を求め、その選を得たほどの熱心さ。なお、前記俳人の中、木亭(菊池哲春)は、昭和五四年、全国俳句大会(俳人協会主催)で、「螢火を見せたる妹の指格子」の句で一位になるなど、八幡浜俳壇の名を高からしめた。ここでは以上の俳人の中、松碧楼・泊春・明流星の三俳人について述べることとする。
 松本松碧楼(~昭六・34歳) 「ホトトギス」・「渋柿」・「曲水」・「雲母」などの俳誌で活躍、大正一一年から昭和二年にかけて、東洋城・枯山楼・霽月・黙禅を迎えての句会などの世話人として奔走、前記の、紫丸船中で虚子の選句を願ったのは、彼逝去のわずか三か月前のことであった。この年の晩秋、彼は「八幡浜俳壇史」をまとめており、没後刊行された『松本松碧楼句集』(句友たちの編集。未亡人松本つなを発行)の付録となって発刊された。松碧楼の妻つなをも「つな女」と号して俳句をよくし、「ホトトギス」雑詠にも多数入選している。
 西村泊春(~昭四・28歳) はじめ松碧楼らと句作、大正一二年、再び句作をはじめ、「渋柿」を経て、郡中町の篠崎活東を通じ、飯田蛇笏に師事、「雲母」に加わった。句集『佐田岬』など。松碧楼は、彼について、「…その生一本で真面目な人がらから、澄徹した古沼の感じのする作品を残した。…」と評している。
 毛利明流星(~昭一二・35歳)は勤務先の宮崎軒月に俳句の指導を受け、昭和七年頃から本格的に句作して、風生の「若葉」とその県内誌「糸瓜」に投句をはじめ、「迷流星」の俳号を「明流星」と改めた。本名「明隆」。昭和十年発病、病中、高熱の時も句作に精進した。遺稿集『明流星句集』の序文で、富安風生は、その「繊細で柔軟な一茎の草の穂のような」明流星の句心を、ほめたたえて、その早世を惜しんでいる。

  春寒く仏の下座につらなれり   松碧楼
  麦秋や佐田の岬の十何里     泊春
  病人も雲がうれしく窓開く    明流星

 以上、松碧楼・泊春・明流星はいずれも三〇代前後の若さで、その才を惜しまれっつ、八幡浜の地で没した。三人とも期せずして、市内の金融機関につとめ、いずれも結核に冒されて夭折した。-この項は、菊池啓泰(宇和高校教諭)の「激流に生きた人々」(愛媛新聞・昭四三・九)による。菊池は、父・麦尺と二代にわたっての俳人一家で、啓泰は「旗港俳句会」を主宰、俳誌「俳句とエッセイ」で鷹羽狩行推薦の新鋭作家である。

 伊予路の山頭火

 種田山頭火(~昭一五・59歳)は山口県生まれ、大正二年(32歳)から荻原井泉水に師事して「層雲」に投句、大正一四年、出家得度して仏門の人となり、一時、山口県小郡の「其中庵」に結庵の時期もあったが、その前後、果てしない漂泊・行乞の旅を続けるうち、昭和一四年一〇月、松山市の高橋一洵・藤岡政一、広島の大山澄太の三人の計らいで、母の位牌を抱いて、松山に来住した。
 彼は一〇月一日、遍歴僧の姿で、広島から相生丸に乗って松山に姿を現した。それから、まず野村朱燐洞の墓を探して詣で、四国を一巡して一二月一五日、一洵の世話と、市内御幸町御幸寺住職黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらって入庵、のち、大山澄太が、これを「一草庵」と名づけた。以来、行乞に、句会に、酒に日を過ごし、暖かくまもられて来たのであったが、昭和一五年一〇月一〇日、彼らの句会「柿の会」の夜も泥酔卒倒、句友たちは庵主の高いびきを聞きつつ、午後一一時閉会。翌一一日午前四時(推定)心臓麻痺で死亡した。
 己を責め、己を正視し、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠いつづけた彼の姿は、死後一つのブームを呼び、「定本山頭火全集」(全七巻・春陽堂・昭四八)など、刊行物多数。県内句碑七基。
 一草庵の建物は、昭和二七年の一三回忌に、財団法人山頭火顕彰会(会長・久松定武)が敷地を買収して庵を再建、これを管理してきたが、昭和五四年五月、これを遺品とともに松山市に寄付し、市は五〇〇万円をかけて修復し、昭和五六年五月一日より一般に公開されている。

       一草庵記                 山頭火
   わが庵は御幸山すそにうづくまり、お宮とお寺にいだかれてゐる。老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る。所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にありえない。
      おつちいて死ねさうな草萌ゆる

 「茎立」創刊

 昭和一六年一二月八日大東亜戦争に突入した国内では、戦争の一点にすべてが集中、国民の志向をまとめてゆくために大政翼賛会が結成され、昭和一六年一二月二三日、大政翼賛会県支部は、全県下俳句作家有志三〇余名と協議して、全県下俳句作家を一丸とする協会を結成することになり、昭和一七年二月一日、松山市庁大ホールで、「愛媛県俳句作家協会」結成式を行った。出席者一八〇余名。会長-酒井黙禅、理事長-森薫花壇、理事-谷野予志・篠崎可志久・川本臥風・八木桔槹・立石白虹堂・波多野晋平・越智村雨・古川比露思(以上中予)、栗田莫愁・塩崎素月・高橋田水路・入江湖舟・尾崎陽堂・白石花馭史(以上東予)、今田省三・菊池木亭・宮崎軒月・掛本爽風(以上南予)。(品川柳之氏は目下公用の為、解除を待ち役員委嘱)
 以上のとおり、役員(二〇名)・綱領(省略)などを決定し、従来本県で発行されていた「鴎」・「まつやま」・「糸瓜」の三俳誌の主幹話し合いで、これを一俳誌に統合することになり、会誌「茎立」(高浜虚子命名)として発刊のことが、二月一一日の紀元節の日に決定した。
 「茎立」 昭和一七年四月一五日創刊 編集兼発行人-松山市玉川町一丁目二二 立石直行(白虹堂) 印刷所-今治市大字今治村甲六・七 原商会印刷所 発行所-松山市玉川町一丁目二二 茎立発行所 一部四五銭六一ページ (第一巻・第一二号-昭和一八年三月一五日発行-から、発行所-愛媛県庁内、大政翼賛会愛媛支部、愛媛俳句作家協会 発行人-立石直行となっている。) 題字は虚子筆 表紙絵「葱」は斎藤雨意筆、虚子は祝句 「茎立やわが古里に松山に」を寄せている。
 選者は、「茎立集」選が酒井黙禅、「雑詠」選は、川本臥風・谷野予志・高浜虚子・池内友次郎・富安風生がこれに当たっており、一派に偏らぬよう、配慮のあとがうかがわれる。
 時局は日を追うて重大となり、用紙配給割当量激減のため、昭和一九年三月号はわずか二〇ページ、この号をみると、五月から「茎立集」を廃し、「雑詠」選が黙禅のみ。「傷痍軍人俳句」欄拡充、「産業戦士俳句」欄新設のことが予告されているが、それ以後の状況は不明であって、この状況のまま終戦を迎えたものと思われる。

 「松山子規会」の発足

 「松山子規会」は昭和五八年九月一九日の子規忌当日の会をもって四八八回となった。昭和五九年九月一九日をもって五〇〇回を迎えることになる。この伝統ある松山子規会は、昭和一八年一月一九日発足した。この日の会場は、松山市末広町正宗寺であった。
 昭和一七年一〇月、東京から松山に疎開して帰って来た柳原極堂は、松山に、子規居士に関する常設機関のないのを遺憾として、曽我正堂・田中蛙堂の両人と相談して賛同を得、旧知に呼びかけて一月一九日の発会式となったものである。当日、座長・柳原極堂の提案で、会長ー県立図書館長・菅菊太郎 幹事-原田光三郎・小山継一郎・田中宗坦・田中七三郎、以上の役員と会則を決定した。この会則の中には、「毎月一九日、正宗寺子規堂其ノ他二於テ子規居士ヲ語ル会ヲ開催ス」の一項がある。
 松山子規会は、衰微の一時期もあったが、戦後は、年とともに盛大となり、会員数も昭和五八年には四〇〇名に達した。会長は、初代・菅菊太郎、二代・景浦直孝(稚桃)、三代・越智二良(現在)。
 昭和二六年の子規五十年祭には、全国最初の子規の歌碑「くれなゐの梅散るなへに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 子規」を子規邸跡に建て、昭和四五年春には、城北・千秋寺に、子規『散策集』の句碑を建立した。
 昭和五二年から、幹事・越智通敏の世話で、「子規会報」が発行されて来たが、昭和五四年四月からは、「子規会誌」(一部三二ページ・季刊)が発刊され、昭和五八年七月で一八号まで刊行。他に、越智二良著『たれゆえ草』以下、『松山子規会叢書』を一四集まで刊行した。なお、毎月一九日(子規命日)の月例会は、昭和一八年一月の発足以来、昭和二〇年七月戦災の翌八月の会を一回休会しただけで、以後一回の休みもなく今日に至っている。