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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 大正俳句の旗手たち(大正期)

 碧梧桐の求めた世界

 大正六年刊の『碧梧桐は斯う云ふ』で、碧梧桐は、「大正五・六年になって、私は自分の句に、嘗て絶望してゐた人間味の匂ふものが比較的多くなったことに気付いた。」として、その著しい例に、「炭挽く手袋の手して母よ」の句をあげ、「人間味の充実」を強調した。さらにその方法論として「長句短句論」を発表して、二字を減すことも出来ない、一字を加へることも出来ない、絶体な表現を要求して、出来得る限りの言葉と文字を掴まうとしてゐる」と述べて、「自由律俳句」の必然性を主張した。その姿勢から、大正七年、中国に遊んだ彼の句は、「氷屋の阿爺が子をおぶってひまな夕べだ」のように、完全な口語自由律になってくる。その間、大正四年、俳誌「海紅」創刊。さらに、大正一二年創刊の個人雑誌「碧」では、自作を「詩」と称したが、「碧」は大正一四年、同人俳誌「三昧」と改め、「凡人礼讃」を提唱して、従来の彼一流のきびしい主張を昇華したかのように、やすらかでおだやかな丸みを見せるようになり、無季自由律の句を作るようになる。

  温泉に来て三日の晴れ小舟仕立てし相客夫婦   碧梧桐(大正一五)

 虚子・俳壇へ復帰

 虚子が明治四〇年の『風流懺法』以来「小説」に傾斜していった時期は、全国的に碧梧桐の「新傾向」一色の観があったが、明治四五年、ついに虚子は「ホトトギス」五月号の巻頭に、「読者諸君」と題して「ホトトギス死守」の決意を表明し、「雑詠選」を満三年振りの七月号から復活した。その七月末を以て大正元年となるわけであるから、奇しくも虚子は、明治最終末の月に、六年振りに俳壇に復活したことになり、その活躍が大正時代に大成されることになる。
 大正二年一月の「ホトトギス」巻頭に虚子は「高札」を掲げ、その一に「平明にして余韻ある句を鼓吹すること、新傾向に反対すること」とあるが、その他に、「毎号虚子若くは大家の小説一篇を掲載すること」の一条もあり、俳句と小説の二方面に意を用いている立場であることがわかるが、徐々に俳句に熱意を持ち始めたことは、大正二年一月一九日、久々に自宅で句会を開いたことでもわかる。この日の句会の虚子の作に「霜降れば霜を楯とす法の城」(題・寺-冬-)という句があり、ついで二月一一日には、三田俳句会で、「春風や闘志抱きて丘に立つ」の句を成し、『虚子贈答句集』では、この二句を、「大正二年、俳句に復活す」として載せているので、この二句は、この頃の、俳句復活の闘志と決意を表明したものと考えられ、又この頃、自らも、講演で、「旧守派である」との信念を発表した。一般の俳人たちは、「平明・旧守」の立場を表明する虚子の立場に俳句の郷愁を感じて賛意を表し、その頃の碧梧桐の「日本俳句」(新聞「日本」の俳句欄)の低落ぶりとは逆に、「ホトトギス」への投句者が増加し、虚子を元気づけた。
 大正一三年一月の「ホトトギス」の扉紙裏でページ大で「ホトトギス 同人、選者」が発表された。同人二三名、課題句選者九名となっており、その内、本県人又は本県ゆかりの人は、「同人-内藤鳴雪、寒川鼠骨、池内たけし 選者―酒井黙禅」の四名で、このような新しい組織をもつことにより、「ホトトギス」は一層ゆるぎないものとなってゆく。この時期の虚子の主張を大約していえば、「客観写生句は明治・大正に至ってはじめて出来たものだ。今日に至って始めて顕著な発達を示した。まだ発達する。自分はなお一途に客観写生ということに突き進む」(ホトトギス大正一三・五「簡単にお答え」)ということになるであろう。

 松根東洋城と「渋柿」

 大正四年二月、東洋城は月刊俳誌「渋柿」を創刊した。東洋城は明治三九年、宮内省に入り、式部官をつとめていたが、大正三年のこと、天皇に俳句を作って御覧に入れた時のことを詠んだ、「渋柿のごときものにては候へど 東洋城」の句に因み、誌名を「渋柿」とした。その表紙の「渋柿」の文字は、一、二号が活字、第三号から恩師夏目漱石筆の題簽となり、現在使われている題簽は第一三号以来のもので、やはり漱石筆である。
 明治四一年一〇月、東洋城は、小説に専念していた虚子から「国民俳壇」(「国民新聞」の俳句欄)の選を委譲され、東洋城はこれを大切に育んで来たが、大正五年四月、突然の社告によって、「国民俳壇」の選は再び虚子の手に移った。この時、東洋城は「感有り」と題して

  怒る事知ってあれども水温む  東洋城(大正五年四月一七日)

の句を作り、「ホトトギス」と虚子に終生袂を分かち、大正八年退官、「渋柿」の道に専念したのである。
 彼は伝統的品格を重んじ、幽玄・枯淡を愛する端正な人で、芭蕉の俳諧を身を以て求めつづけるきびしさが「渋柿」にはあふれていた。
 なお、漱石山房以来の知友、小宮豊隆・寺田寅彦・野上豊一郎・鈴木
三重吉らの寄稿陣営が東洋城を助けた。

 「渋柿」と愛媛

 大正一一年一月の「渋柿」(九三号)に、東洋城選「渋柿」巻頭句の大正一〇年一年間の合計句数表がある。それによると、本県俳人の状況は、三位前田不歩75句、四位岡田燕子40句、一〇位大塚刀魚39句、一六位小泉英29句、一八位稲井梨花28句、二一位忽那快風25句、二一位西岡十四王25句、二六位三好月天楼20句、二六位松永鬼子坊20句、三三位三和簫月14句、三七位大塚四十雀13句の一一名となっている。一位の尾崎迷堂の入選句数155句に比べると、三位の不歩といえども隔たりを感じるが、全国で、この年一年間の巻頭句入句数一三句以上のものは三九名であるから、その内の一一名、二八パーセントを本県で占めているのである。
 又、同じ「渋柿」(九三号)巻頭に、「年賀交換会」なるものがあり、村上霽月を筆頭に全国一〇七名の「渋柿」俳人が名刺代わりに新年の句を寄せているが、内、県内俳人は二九名、二七パーセントに達している。ちなみに、東京一九、相模一九、下野一二とつづき、他は極少数に止まっており、本県「渋柿」派の俳人たちが、量質ともに最高であることを如実に物語っている。なお、上位入選者句数表では、過半数が南予の俳人であった。

 「ホトトギス」と愛媛

 「ホトトギス」大正二年九月号の「地方俳句界」の本県の分に、次の記事がある。
 滑床会 七月三〇日午後一時より臨海山龍光院。新傾向の末路を弔して、我等が「平明にして余韻ある句」の鼓吹に痛快な俳を談ず。-とある。大正二年は、虚子が俳句に復帰して、「春風や闘志いだきてー」の句を成した年で、「平明にして云云」とあるのも、「ホトトギス」同年一月巻頭の「高札」の文句そのままであって、虚子の発言にいち早く対応しようとする、大正初年の本県ホトトギス俳壇の姿がうかがえよう。
 なお、この「地方俳句界」への報告者は「伊予 宇和島町袋町 室積内 増永徂春」となっている。徂春(大津市生まれ)は一三歳から句作、早大中退、演劇を志し喜多村緑郎一座に加わったが、巡業先の宇和島で俳優を断念、大正二年五月、この地で南予時事新聞に入社、編集長として在住中「滑床会」で活躍、「南予俳壇」を主宰し、虚子の指導を仰いだ。住所が「室積内」とあるが、大正六年、その室積家の波那女と結婚して室積姓となる。大正五年上京するまで、南予ならびに本県ホトトギス界の興隆の大きな推進力となり、虚子の『進むべき俳句の道』(大正七)で「-朗々と高唱すべき佳句が多い」。と推賞をうけた有望新人の一人であった。

 愛媛の俳句界(大正)

 「ホトトギス」の「地方俳句界」欄などによって、大正期の、県内の結社状況を、東予・中予・南予の順に列記して、明治後期につづく当時の県内俳壇の実態の一端を紹介してみよう。
 (東予) 上分村-徒然会、苦桃吟社、白桃吟社、みどり会 三島町-二十日会、自然吟社、宮川吟社、花影会、噴火会 小富士村―鼎会、小富士吟社 土居村-土居吟社、中山吟社 寒川村ー弥生会 宇摩郡-数の子吟社 新居浜町-啄木会、樟風会 大島村-双葉吟社 壬生川町―上弦会 伯方村-伯東吟社 桜井村・桜井町-志々満吟社 今治市-藪蚊会、興風会、秋声吟社、くだかけ吟社、ともえ吟社、魁吟社、節分会、かすみ会、葉桜会、金星吟社、一つ葉会、金泉吟社 清水村-あけぼの会 日高村ー月渡会、府中唫社 波止浜町―箱渡吟社、箱潟吟社
 (中予) 北条町―風早吟社、ヒラミン吟社、草々会 河野村-既望会、高縄吟社、難波吟社 余土村-南川会西垣生村―松声会、今出吟社 味生村(山西)-畔上吟社 道後湯之町-温和吟社、冬日会、温泉吟社 松山市―勝山吟社、素心会、久楽会、鉄電吟社、十六夜吟社、土龍会、伊予吟社、成言社、来音会、城東会、転々吟社、松風会、城東会、海南俳壇、花楽会、大雨会、ひかぶら会、無名会、赤十句会、松山句会、蘗吟社、さけび吟社、松山ホトトギス会、椎城会、卍字会、湊町吟社、うろこ会、古町吟社、からたち吟社、緑葉会 堀江村ー月蝕吟社 潮見村-阿沼美吟社 久枝村-久万吟社 三津浜町-水戸鳥会 石井村ー石井吟社 荏原村-中野吟社 南吉井村-うきしま吟社 拝志村-茸の里吟社、上林吟社 川上村―川上吟社、草上会 小田町村-小田俳句会 砥部村-砥部川吟社、満月会 北伊予村-瓢吟社 郡中町-あこがれ吟社 南伊予村-上野吟社、南予吟社 岡田村―大間吟社 中山村・中山町-作楽会 長浜町-シブキ会、松風会、出石会 大洲町-藤の実吟社
 (南予) 川之石村・川之石町-すみれ会、水草会、川之石吟社、なのは会、美名瀬吟社 八幡浜町-木犀会、椿会、ガラス吟社、青葉会、八幡浜句会、芽生吟社、黒潮会、初潮会 千丈村ーアタゴ会 神山村-渓蓀会 真穴村(穴井)-時雨会 遊子川村―とんど会、銀杏会 土居村-嘉喜尾吟社、宝来山吟社 宇和町-松葉吟社、草の実会、宇和吟社、葭切吟社、龍朽吟社 旭村―春草会 泉村―長瀬会、蛙月会 明治村(松丸)-木賊会、無月会 吉田町ー冷茶会、犬尾会、馬迷駝倶楽部 宇和島町(宇和島市)―南予俳壇、水の子会、滑床会 内海村-雨の夜会、左東風会 御荘村(御荘町)-牛吟社、(平山)馬風会、東風会、(平城)松声会、橋の上吟社 城辺村(城辺町)ー小笹会、ブラザ会(ゴラサ会)
 明治三八年夏結成された、南予の伝統ある俳句結社「滑床会」は、その発起者松根東洋城が「渋柿」を創刊してからは、そちらに句を寄せてゆくようになるが、「ホトトギス」の「地方俳句界」の欄では、大正五年八月号には、まだ「滑床会」の投句があり、「宇和島町戎町三和嘯月報」として、徂春・鹿鳴・嘯月の作品が見える。それ以後は、「南予俳壇」の名で、徂春が「ホトトギス」の「地方俳句界」に報じており、彼はやはり「ホトトギス」の人であったことがわかる。「滑床会」の方は、その後盛衰はあったが、昭和四三年、米田双葉子を会長に、渋柿宇和島支部・野菊会・木の芽会・如月会・津島渋柿会の五グループを総称して「滑床会」となり、六〇名の大世帯で現在に至っている。なお、会名の「滑床会」は東洋城の命名である。

 「ホトトギス」愛媛の俳人たち

 これまでに愛媛の地方俳句会について説明したのであるが、次に、この各俳句会で活躍した
俳人たちについて、紙面の都合で、人数を中心にして、大正前期(一~五年)、大正中期(六~一〇年)、大正後期(一一~一五年)の三期に分けて説明することとする。
○大正前期 大正一~五年の間の「ホトトギス・地方俳句会」に人句している本県俳人数をまとめてみると、次のとおりである。なお、「地方俳句界」の選者は長谷川零余子(大正三~)西山泊雲(大正一一~)らである。
 《東予》上分村(上分町)七名 三島町五八名 土居村一七名 《中予》松山市(今出吟社)四名 中山町四名 長浜町七名 《南予》八幡浜町二名 川之石村三名 真穴村(穴井) 一三名 遊子川村二二名 宇和島町一〇五名 吉田町三五名 明治村(松丸) 一名 御荘村(平城) 一名 となっていて、東・中・南予別の計は、東予八二名 中予一五名 南予一八二名 計二七九名。なお、これは実人数であって、延人数ではない。
 このように、南予が盛んで、中予の不振が目立つ。南予の中心・宇和島では、明治以来、「滑床会」中心の活動が盛んであって、その伝統により、この盛況となったものであろうか。逆に、松山地方は、明治末から、「ホトトギス・地方俳句界」への通信は、ほとんど、なされていない。
○大正中期 前期同様、大正六~一〇年の間の「ホトトギス・地方俳句界」の欄を見ると、本県入句俳人数は、
 《東予》上分村(上分町)五二名 三島町一二名 小富士村五名 新居浜町(惣開)二名 今治町(今治市)五二名 《中予》北条町二二名 河野村五名 堀江村二名 松山市一五九名 川上村五名 長浜町(出石)五名 《南予》川之石町二三名 八幡浜町四一名 遊子川村一二名 宇和島町(宇和島市)三一名 明治村(松丸)四三名旭村八名 御荘町(平城) 一〇〇名 となっていて、これの、東・中・南予別の計は、東予一二三名、中予一九八名、南予二五八名、計五七九名となっている。
 東予では、三島町よりも、上分村(川之江町)がより盛んとなり、土居町は低落。中予では、松山がめざましく盛り上がり、北条も盛ん。南予では遊子川は依然として堅実振りを示し、八幡浜・川之石が盛り上がり、穴井は教員主体の会であったようであるがこの期はゼロ、又、宇和島の低落が目立つ。これは、室積徂春の東上と、滑床会が「渋柿」の方に赴いたのによるものであろうか。これに代わって、御荘周辺がまことに驚異的な発展を示しているのは、尾崎凡九郎(足)のような、よき指導者に恵まれたためであろうか。尾崎凡九郎(~昭五六・87歳)はのち上京して、虚子門に入るが、やがて「至善俳句」を提唱して俳壇から退き、「さへづり」・「さち」誌を主宰した。(尾崎凡九郎については本文554)
○大正後期 大正時代最後の五年間(大正一一~一五年)の愛媛県ホトトギスの俳人たちの状況を、「ホトトギス・地方俳句界」の欄で見ると、本県入句俳人数は、《東予》新居浜町四二名 今治市五六名 大島地区二名 《中予》北条町二名 松山市三一〇名 小田町村一八名 郡中町六名 《南予》川之石町三二名 八幡浜町三〇名 宇和町七二名 遊子川村六名 南宇和郡三一名 となっていて、東・中・南予別の計は、東予一〇〇名、中予三三六名、南予一七一名 計六〇七名となっている。
 これで見ると、東予では、新居浜・今治の二か所が盛んで、上分町・土居村などはその影をひそめてしまった。中予では、松山地区にほとんどの俳人が集中して、椎城会・伊予吟社などが中心に活躍している。この外に、小田句会が上浮穴郡で独自の活動をしていた。南予では宇和島の衰頽ぶりが目立つが、これは「中期」のところで述べたのと同じ事情によるものであろう。尾崎凡九郎は大正一一年上京し、御荘周辺もかつての活躍は見られない。宇和町のみが、大塚四十雀・鶯谷楼らの健在のためか、活発であり、八幡浜も、松本松碧楼や西村泊春など熱心なものが多く、川之石もこの頃は盛んであった。これを、もう一度、東・中・南予別、時代別にまとめてみると、中予が年を追うて盛大となり、東予・南予は、中期がその山であったことがわかる。
 しかし、この数値は、あくまでも、「ホトトギス・地方俳句界」への投句者のみを示すものであり、これ以外にも、各地区で独自の句会が盛んに開かれていたわけで、例えば、北宇和郡吉田町町立病院の院長伊藤飄石・医師大塚河骨(共に東大医学部時代の俳友・伝統ある東大俳句会の草分け)らが、地元俳人らと、大正一二年、病院玄関にあったもちの木にちなんで「もちの木会」を結成し、飄石・河骨と東大で句友であった長谷川零余子の夫人、女流俳人として著名な長谷川かな女の指導により「橘香」・「もちの木」の句誌を出し、昭和六年頃まで活動している。このような例は数多くあるが、割愛する。

 「ホトトギス」雑詠の県人たち(一)

 これまでに、「ホトトギス・地方俳句界」によって、大正期の県内俳句会活動の状況を述
べて来たが、次に、「ホトトギス」の檜舞台ともいうべき「雑詠」欄で個人的に活動した俳人について述べてみよう。
 この「雑詠」は明治四五年七月に復活したが、この復活「雑詠」に最初に見事入選を果たした県内俳人は大塚四十雀で、大正二年一〇月のこと。その時の入選者わずか三一名、大変な厳選であったと思うが、その句は、「旭の柿や一つ一つの霧雫 四十雀」であった。もっとも、この時の選者は渡辺水巴で、虚子選で入選したのは大正三年一一月であった。この時は弟・鶯谷楼とともに入選している。四十雀(~昭二九・66歳)、鶯谷楼(~昭五九・92歳)の二人は「とんど会」で大正初期に遊子川村で活躍し、末弟・刀魚(~昭三四・64歳)は「渋柿」に拠ったが、大正一五年一二月の「ホトトギス」の四十雀の雑詠入選句に「刀魚帰省、兄弟三人鼎座して句作」と前書して、「縫ふ妻を忘れて論ず芋の月 四十雀」があり、大塚三兄弟その頃の姿がほほえましく偲ばれるのである。

    鵙の声渡舟に聳ゆ二峯かな   鶯谷楼(大正三年雑詠初入選句)
    夜の雨の囁きを聞く雛かな   刀魚 (大正六年)

 この大正期での「雑詠」欄の状況を、大正五年と大正一〇年の二か年について見ることにする。
 大正五年一か年の、本県の虚子雑詠入選の俳人及び入句数は、鶯谷楼四句、月王二句、久遠・晩紅・豫風、四十雀、徂春各一句の、七名延ベ一一句となっている。
 次に大正一〇年一か年の状況は、黙禅一三句、田舎佛九句、凡九郎五句、豺腸子五句、助二郎四句、十三日二句、包村二句、寿老人二句、紅洋二句、豫風二句、飄風二句、すけた生、古味川、温古、小舟、緑人、非石、丘路花、泊春、春雷各一句の、二〇名延べ五七句となっている。なお、大正元年九月以来、五年間に一六句入選して大活躍した室積徂春は、この年には「東京・徂春」として三句入選している。以上が大正期の状況である。

 村上霽月と「転和吟」

 つねにきびしく身を持して、独自の俳諧の道を歩みつづけた村上霧月(~昭二一・78歳)は、この時期に新たな俳境を開いた。大正九年九月、親交のあった亡友・夏目漱石の漢詩を読んでいるうちに、ふと故人(漱石)に再会、談笑する感があり、それがふと句になったのを口ずさんだことがきっかけで、「転和吟」と称する、彼独自の新風を開き、注目を受けた。「転和吟」とは、古今の漢詩を味読して、そのイメージを句に表現したものであるが、詩の内容とは不即不離の関係にあって、その間の妙味を味わうべきものである。彼の総句数一〇数万句といわれる中で、この「転和吟」は一万一千余句あるという。次の例は昭和二〇年作で漱石の詩に和したものである。
 転和漱石「南窓無一事 閑写水仙花」(南窓一事無く 閑かに水仙花を写す) 茶一喫さゝ鳴の声如夢  霽月

 愛媛の酒井黙禅

 長谷川零余子(~昭三・43歳、東大薬学専科卒)に俳句を学んでいた酒井黙禅(~昭四七・90歳、福岡県八女郡水田生れ)は、日本赤十字社松山病院長として赴任することになり、大正九年三月五日、向島・百華園構内の喜多の家で送別句会があった。出席者は東大俳句関係者で、黙禅の外、虚子、楽堂、河骨(後、吉田町立病院に赴任)、零余子ら計一三名で、夜半まで名残を惜しんだ。その日の課題「東風」の高点句に、虚子の「東風の船博士をのせて高浜へ」(四点句)があり、黙禅の句は「枯木抱きて鳴かざる東風の鴉哉」(四点句)であった。福岡県生まれの黙禅は「博士をのせて高浜へ」の句にこたえるかのように一生本県を離れず、本県人以上に本県人になりきって、本務と句作にはげみ、「ホトトギス」七月号には、早くも、松山・黙禅として、「窮むれば蛭も尊くなりにけり」の句が、雑詠選に入句している。
 大正一〇年七月の「ホトトギス・地方俳句界」には「赤十句会」(伊予・松山・赤十字病院内)の記事もあり、黙禅がこの地に蒔いた俳句の種の芽生えの様子がしのばれる。

 薄命の人・野村朱燐洞

 野村朱燐洞(~大七・26歳)は松山高等小学校を卒業した明治三九年四月から温泉郡役所給仕となり、上司の和田汪洋から短歌を学び「柏葉」と号した。明治四二年五月、「四国文学」創刊号に、はじめて「柏葉」の号で俳句が一句載り、「新傾向」俳句を提唱していた碧梧桐とは、翌四三年秋、全国遍歴の途中帰郷した彼と松山で相識った。四四年三月一五日から号を「朱燐洞」と改め、この年四月創刊の荻原井泉水の「層雲」には最初から参加して、五月には松山に「十六夜吟社」を興し、翌四五年二月から、満一八歳の若さで「海南新聞」俳句欄選者に推された。又、二一歳年上で、新傾向俳句を志していた森田雷死久に師事した。大正四年一〇月「層雲」松山支部を創立、翌年には「層雲」選者となり、「十六夜吟社」を率いて松山に自由律俳句運動を展開するなど、少壮の俳人として期待されていたが、大正七年の世界的な流行性感冒がもとで、その鬼才を惜しまれながら夭折した。満年齢二四歳と一一か月であった。「純真で質素な生活の中で自分を深く生かし、鋭い神経と強い意力の根を持っている」朱燐洞の薄命を惜しみ、井泉水は、自ら、その遺稿集『礼讃』を編んだ。なお、この「十六夜吟社」には、阿部里雪・森南柯星(南川)・高木和蕾・平野敗天公・金本時雨傘・高島紅映々・田村岱東・秀野秀華・白石花馭史らがいる。

    いち早く枯るる草なれば実を結ぶ   朱燐洞(大正七年)

 大正時代の俳誌

 明治前期の「真砂の志良辺」・「俳諧花の曙」や、明治後期の「ほとゝぎす」につづき、大正期には大正の時代色を反映した①「葉桜」・②「蘗」(ひこばえ)・③「冬日」・④「青梅」という俳誌があった。この外に「ふるさと」(渋柿系、三津地区中心)があったようであるが、詳細は不明である。

 ①「葉桜」と塩崎素月

 「葉桜」は大正一一年九月一九日創刊。発行所-松山市新玉町一丁目玉木二五三九(北浪)方 印刷所-松山市榎町一一番戸合名会社松山向陽社 一六ページ(創刊号)となっている。玉木北浪(新潟県出身)が勤めていた山口県大田鉱業所が閉鎖されたため松山に来て、山口県で発行していた雑誌「俳句と写真との芸術」を第二号から「葉桜」の名で俳誌として刊行したもの。はじめ、村上霽月が雑詠選をして来たが、霽月、身辺多忙のため、大正一五年五月酒井黙禅選となってから面目も一新、巻頭を虚子の近詠五句で飾っている。この間、玉木北浪は大正一三年二月、スマトラのゴム拓殖株式会社に勤務のため、「さらば梅に背きてホ句のなき国へ」の吟をのこして現地に出発したため、塩崎素月(本名・楳吉 東宇和郡土居村生まれ 当時松山在住 ~昭二・64歳)が主宰を継承した。素月は、師範学校在学中より俳句会「錚々会」を作って霽月の指導を受け、「松風会」で秀句を示し注目された。明治四二年創刊の「四国文学」の主筆となり、寄稿のことで虚子と相知る。大正一五年、俳誌「冬日」(後述)の雑詠選者となる。昭和四年、本務(伊予鉄電勤務)で宇和島へ転勤となったため、宇和島へ「葉桜」発行所を移し、波留女夫人も編集に従ったが、昭和七年五月、通巻一一一号で休刊となった。表紙は下村為山の俳画などで飾られ、堂々たる俳誌であった。

  病よし廬前の梅に一歩づゝ   素月

 俳人素月生涯の大事業は、昭和二年四月三日、葉桜会主催で、第一回関西俳句大会を実現させたことであった。幹事長が塩崎素月、会長は酒井黙禅、会場は新築の道後公会堂(現・子規記念博物館の位置にあった。)であった。出席者は、高浜虚子・香坂一歩(知事)・内海忠司(県内務部長)・岩崎青人・田中王城・吉岡禅寺洞・楠目橙黄子・酒井黙禅・村上霽月・野間叟柳・前田秋皎・高浜年尾・月原方舟・中村武夫郎・杉田久女・今井つる女・今井五郎・大塚四十雀・越智村雨・久野助二郎・正岡蝶笏・塩崎素月など一八〇名出席という、かつてない盛大さであった。虚子の三女宵子も同行した。当日はあいにくの雨天であった。この日の虚子・黙禅の句

  ふるさとの宿屋どまりや春の雨   虚子(席題・春の雨)
  拾ひはく花も末なる庭草履     黙禅(兼題・花)

 ②蘗(ひこばえ)

 県立図書館内俳諧文庫にある月刊俳誌「蘗」は第一巻第六号が大正一四年一〇月一〇日発行となっているから、その創刊は大正一四年五月一〇日と考えられる。編集・発行人-松山市外藤原 石丸彌平 印刷所-松山市木屋町二丁目森田三秀社となっている。表紙絵-永井刀専 石丸彌平(号・好学~昭四三・86歳)は上浮穴郡久万町生まれ。雑詠選者-久野助二郎、課題句選者-篠崎可志久・大塚四十雀・森薫花壇・小笠原雅公となっていて、「ホトトギス」系の俳誌であった。第五巻第八号は昭和四年一二月一日発行で、通巻五六号。終刊したのは昭和六年と思われる。

  城壁や山彦のして百舌日和   久野助二郎(大正一四年・蘗)

 ③冬 日

 大正一五年八月一〇日創刊の月刊俳誌。編集・発行人―道後湯之町 古茂田潔(号・金亀城) 印刷所―松山市木屋町二丁目森田三秀社 発行所-伊予道後(岩井屋旅館内)冬日発行所 雑詠選者-塩崎素月 課題句選者-河口恒堂・高須賀草洲・家安素水・竹中草亭ら。最終号・第四巻第一号は昭和四年一月一日発行となっている。本誌の雑詠欄は、同年、「葉桜」誌に引き継がれた。「ホトトギス」系俳誌。

 ④青 梅

 本誌は大正一五年八月一日発行の分が第三巻第八号となっているので、創刊は大正一三年であろう。発行所-松山市北夷子町菅忠義方青梅発行所 雑詠選者-小笠原雅公 課題句選者-久野助二郎・越智村雨・河口恒堂ら。一部一五銭 大正一五年一二月までは県立図書館内にあるが終刊時期は不明。「ホトトギス」系月刊俳誌である。