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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 戦後の俳句界(昭和後期) -昭和二〇年以後

 県内の俳誌

 戦雲一掃、文化の国・日本として再出発したこの国の焦土に、いち早く芽吹いた俳句は、伝統のあるわが愛媛では、その生長の姿がとくに目を見はるものがあり、きびしい戦後の社会状勢の中、続々俳誌が創刊・復刊され、久々に句心ある者の渇を癒やした。
 その、戦後俳誌刊行の状況を、順を追うて記し、次に、番号順に各俳誌を紹介することにする。
 ①「たわらご」 ②「えひめ・ぬなは」 ③「雲雀」 ④「光炎」 ⑤「柿」 ⑥「檳榔樹」 ⑦「嶋」 ⑧「俳句」 ⑨「春嶺」 ⑩「新樹」 ⑪「炎昼」 ⑫「峠」 ⑬「やまぶき」 ⑭「糸瓜」 ⑮「いたどり」 ⑯「松の花」 ⑰「灯」 ⑱「せきれい」 ⑲「若鮎」 ⑳「いしづち」 21「めばえ」 22「愛大俳句」 23「まさき」 24「海香」 25「乙鳥」 26「犬の尾」 27「かざはや」 28「花綵列島」 29「なかま」 30「山垣」 31「短詩」 32「杏林」 33「ながはま」 34「星」 35「現代俳句えひめ」 36「水煙」
 昭和二一年創刊の俳誌「俳句」の「愛媛俳壇の消息」などによれば、右の外、当時、次の俳誌が刊行されていたことがわかるが詳細は不明である。それを順序不同で挙げておく。
○「白萩」(新居郡中萩町神野青楓方。神津眼狸洞選) ○「からたち」(新居浜市 大橋桜坡子・宮崎軒月・爽雨) ○「陽炎」(新居浜市 選者-冬葉・玲艸子) ○「あをと」(新居浜市 主宰・宮武雫) ○「鳴谷」(東宇和郡玉津村青年学校内鳴谷会 主宰・戸田正雄) ○「うぐひ」(上浮穴郡弘形村伊藤抱雪方。選者-西本一都)○「巣立」(拝志村野中信一郎方。選者-予志・梵・柳之) ○「ちかい」(宇摩郡土居村村上十郎方。選者―尾崎陽堂) ○「三十峰」(三瓶町宇都宮均方三十峰吟社 選者-谷野予志・八木花舟女) ○「発送電四国俳壇」(新居郡泉川町 選者-室積徂春・波多野晋平・森薫花壇・昭和二五年一〇月号は第四巻八・九号) ○「河鹿」(中山町 主宰・井上三余)

 ①「たわらご」

 昭和二〇年一〇月創刊 主宰ー清家酒々代(現在・市川白樹) 月刊 発行所-東宇和郡明浜町俵津公民館 昭和五八年八月現在(以下各誌につき省略)三九巻八号 誌系ー「柿」・「峠」

 ②「えひめ」・「ぬなは」

 「えひめ」は昭和二一年一月創刊 主宰-井上春甫(本名・貞弥~昭四五・82歳・北条市国津比古命神社宮司) 編集兼発行人-井上貞弥(北条市高田) 選者―尾崎迷堂・檜垣括(奈へんに瓜)・松永鬼子坊・前田不歩ら 師系・母誌―松根東洋城・澁柿 月刊 はじめ謄写印刷 昭和二六年一月、俳誌「えから」(鎌倉市・尾崎迷堂主宰)と合併し、「えひめ」は通巻五八号をもって「ぬなは」と改名、尾崎迷堂主宰、井上春甫主管のかたちで、北条市高田の「ぬなは」発行所(春甫宅)より発行。印刷所-みづほ印刷所(国津比古命神社の地つづき) 春甫没後は三男井上貞祀(号・小太子・櫛玉比売命神社宮司)が編集・発行人となり、迷堂(~昭四五・80歳)没後の主宰は迷堂の弟子佐々木冬青(東京在住・「暖流」系)がつづけ、貞祀自身がみづほ印刷所で印刷に当った。「ぬなは」以後は「澁柿」の色もうすれ、ホトトギス系、その他の俳人の投句も多かった。昭和四八年一二月、通巻三三一号で終刊。尾崎迷堂を指導者とし、支社を鎌倉に置くなどのこともあり、その名を県外にも広く知られた、歴史と伝統のある俳誌であった。

  元朝や撥いま到る第一鼓   春甫(国津比古命神社句碑)

 ③「雲雀」

 昭和二一年四月一日創刊 主宰ー品川柳之 編集発行人-品川柳之 月刊 発行所-松山市道後湯之町一三ー一九三好文成堂 師系ー高浜虚子・富安風生 雑詠選者-富安風生・品川柳之 表紙絵畦地梅太郎
 品川柳之(~昭五六・81歳)が、復員直後、戦後の荒廃を嘆いて、はじめ謄写版で刊行。のち、本印刷。本誌は、同じ風生系俳誌「糸瓜」と統合して、一時、「松の花」として刊行されていたが、後分離して、昭和三四年一〇月二五日復刊、品川柳之死去のため中断の時期があったが再復刊。雑詠選者-松本幸之 通巻二八二号

  雛の窓開くれば波がよせて来る    柳之
  みちのくに帰るといふ日の秋の雨   柳之

 ④「光炎」

 昭和二一年六月三〇日創刊 昭和二九年四月、六七号で終刊、以後「炎昼」と合併。発行所-郡中町役場内。編集者・松尾晴雄(~昭四一・60歳)は旅館業、郡中信用金庫勤務、選者・篠崎活東(~昭三三・70歳)は郡中町役場(伊予市役所)勤務、戦前、「雲母」同人、戦後、「天狼」同人となり「光炎」発行にあたった。
 「炎昼」昭和三三年三月号は篠崎活東追悼号、昭和四一年一〇月号は松尾晴雄追悼号となった。

  凧降りし天の空洞より風吹く   活東
  陸ふかく潮入りくる地蔵盆    晴雄 (遺稿)

 ⑤「柿」

 昭和二一年一〇月一日創刊 主宰ー酒井黙禅 編集兼発行人-松山市南町四丁目杉原公 印刷所-松山市末広町二丁目二二愛媛共同印刷所 発行所―松山市北持田町(酒井黙禅宅)柿発行所 一部三円・一七ページ 師系・誌系ー高浜虚子・「ホトトギス」 雑詠選者-酒井黙禅 課題句選者―波多野晋平

  この「柿」を子規霊前に供ふべし   虚子
  柿好きの仏にさゝく俳誌柿      極堂
  糸瓜忌や「柿」とりに来し活版屋   黙禅 (以上三句は創刊号・祝句)

 この年一一月一三日午後一時から、「ホトトギス」六〇〇号兼「柿」発刊記念俳句大会が、「柿句会」の主催で、松山市正宗寺の子規堂で行われた。虚子・極堂も席をともにした。子規堂は戦災に遭い、この日、復旧して畳を入れたところであった。
 昭和二二年四月一三日午前一〇時より、松山市庁ホールで「愛媛ホトトギス会」の発会式があり、一八〇人出席、森薫花壇の司会で、次のとおり役員が決まった。会長-酒井黙禅 副会長-波多野晋平 常任幹事-森薫花壇・立石白虹堂・品川柳之・丸田南天朗・能田水青・稲荷島人 会計-沢田蘭舟 事務所―
 森薫花壇宅

 以後、この組織によって、俳誌「柿」は順調に刊行され、昭和五八年八月で四三八号(第三七巻第八号)に達した。その間、野村病院顧問として赴任する酒井黙禅が昭和二三年七・八月合併号まで主宰、九月から稲荷島人主宰の「春嶺」を併合して、装いも新たに、波多野晋平が主宰、稲荷又一(島人)が編集人となって続刊、波多野晋平は昭和三六年六月まで主宰、病床にあったため、同年七月より今日まで村上杏史が主宰している。村上杏史が主宰を引き継いだ時は、同人九六名、雑詠投何者一七〇名であったが、「柿」四〇〇号の年、昭和五五年には、同人約四〇〇名、雑詠投句者八百十数名に達した。月刊。会員作品集「柿叢書」二五集まで発行(昭58年)。
 酒井黙禅(~昭47・88歳)は大正九年日赤松山院長として松山に赴任、終生、愛媛の医療と俳句文化の向上につくした。「柿」、「茎立」主宰、「柿」・「峠」二誌の雑詠選、県俳句作家協会会長、愛媛ホトトギス会長、俳諧文庫会長を歴任、本県俳句界の最長老最重鎮として、生涯句作にはげみ、その佳句は誠実清和な人がらとともに、県下俳人のひとしく敬愛・親炙するところである。愛媛新聞賞・県教育文化賞受賞。県内句碑三九基。

       紅梅や舎人が運ぶ茶一服        黙禅
  黙禅追悼 東風吹くを待たざりしこと悔まるる   高浜虚子 「柿」301号

 波多野晋平(~昭四〇・82歳)は山口県萩市生まれ。大正一四年秋頃より黙禅に俳句を学び、以後、虚子、年尾に師事、昭和二〇年「ホトトギス」同人、療養生活足かけ七年、古稀記念句集「初凪」。夫人は松山玉藻会会長。

  春寒や細りし膝にかけ布団      波多野晋平
  夢で逢ふことだけとなり夜の短か   二美(晋平夫人・追悼句)

 村上杏史(明四〇~)は少年時代を父のいる朝鮮・木浦府で過ごし、京城日報・木浦新報・釜山日報などに勤め、その間、昭和三年、清原枴童に師事して句作、昭和一六年応召まで俳誌「カリタゴ」を編集・発行し、昭和二〇年帰還(「手記三千里」参照)。現在、「柿」主宰、本県「ホトトギス」の中心となって活躍中。

 ⑥「檳榔樹」

 昭和二一年一〇月一日創刊 主宰ー永田政章(黙泉) 月刊又は隔月刊 発行所ー県立南宇和高等学校内南宇和俳句会事務局 一部一九ページ 表紙絵-畦地梅太郎版画 無派閥 雑詠選者―尾崎政治・永田黙泉・坂本碧水 本誌は昭和二九年一二月「真珠」と改題復刊、昭和三〇年三月六日三八号が最終刊。戦後、いち早く芽生えた南予の俳誌。永田黙泉(明四〇~)は吉田町生まれ。当時、県立南宇和高校に勤務中。松山俳句協会理事。

 ⑦「嶋」

 昭和二一年一一月一日創刊 主宰ー阿部里雪 編集兼発行人-越智郡伯方町木浦甲三八〇三 阿部利行(里雪) 発行所-同所 印刷所-松山市萱町一丁目六八 関印刷所 月刊 一部三円 終刊年不明
 伯方町に住みながら松山で印刷、戦後早々の折りでもあり、阿部里雪の苦心のほどが偲ばれる。
 阿部里雪(~昭四八・81歳)は柳原極堂が社長の「伊予日日新聞」に入社、昭和三年上京して、五百木飄亭の「政教社」記者となり、又、極堂の俳誌「鶏頭」の編集を助けた。昭和一九年伯方町に帰郷した。

 ⑧「俳句」

 昭和二一年一二月五日創刊 編集兼発行人-松山市大手町一丁目村上峰保 印刷所-松山市大手町一丁目愛媛新聞社 一部三二ページ・三円 同人-池内友次郎・石田波郷・小川太朗・川本臥風・篠原梵・武内卓也・谷野予志・中村草田男・八木絵馬・山本斗士 月刊 ザラ紙の表紙に「俳句」と茶色で印刷。表紙の裏に、虚子の「故郷五句」(旅の塵払ひもあへず墓参り 参るにも小さき墓のなつかしく)など。
 創刊号「編集室」で、「-明治における俳句革新の母胎の地が松山の一角であったことを想ひ、それにも増す俳句界の大きな革新のいま、この同じ松山の地に、特に愛媛県に関係の深い方ばかりが編集同人となって生れた「俳句」の使命にささやかな自負を私は抱いているのである。-(村上)」というあたりに、愛媛新聞社の力の入れ方がうかがえるが、何といっても、このすばらしい同人の顔触れは目を見はらせるものがある。しかしながら、わ
ずか六号(昭和二三年一月一日発行)、で本誌は終刊となったことが惜しまれるのである。

 ⑨「春嶺」

 昭和二二年二月一五日創刊 主宰ー稲荷島人 発行所-伊予郡原町村公民館内春嶺発行所 誌系-「ホトトギス」・「柿」・「若葉」・「糸瓜」系。選者-品川柳之・稲荷島人・井上三余・清原枴童 隔月刊
 本誌は、途中、中山町の「河鹿」(主宰・井上三余)を統合し、昭和二三年七月、通巻九号で「柿」に統合。
 稲荷島人(明四三~)は「若葉」同人・愛媛若葉同人会会長、愛媛若葉功労賞受賞(昭五三) 砥部町教育長

 ⑩「新樹」

 昭和二二年四月創刊 主宰ー西本一都 発行所-大洲市大洲幼稚園 昭和二八年一〇月廃刊 通巻七八号 誌系-「若葉」(白魚火)系 西本一都は明治三八年大阪生まれ、松江市在住 「白魚火」主宰

 ⑪「炎昼」

 昭和二四年一月一日創刊 主宰ー谷野予志 編集兼発行人-松山市堀江中新町 長野青牙 月刊 印刷所―八幡浜市天神通 尾上印刷所 発行所―愛媛県三津浜局区内松山市中須賀町愛媛缶詰会社内炎昼発行所
 一部二〇ページ・誌代概算一年二四〇円 師系・誌系-山口誓子・「天狼」の僚誌(「炎昼」は山口誓子の命名) 本誌は昭和五八年八月号をもって通巻四〇〇号に達し、記念特集号が発行された。
 谷野予志(明治四〇~)大阪市生まれ。昭和一五年「馬酔木」同人 山口誓子に師事、昭和二三年「天狼」発刊と共に同人に推された。

  暁け方のうすきひかりの星流る   予志炎昼創刊号
  ぎんなんを噛み割る遠き日付する  予志炎昼創刊号

 長野青牙(明三八~) 明治製菓工場・愛媛缶詰株式会社経理課長・総務部長 昭和三五年退職 この間、同社文芸部長として社内誌「冬草」を母胎として創刊した「炎昼」の初代編集人 玉貫寛、藤井未萌に引き継ぐ。
 玉貫寛(昭一四~) 応召・在満中、山口誓子の「掌に枯野の低き日を愛づる」の句に遇い、作句を始める。終戦と共に帰郷、谷野予志について句作、昭和二八ー三〇年と「炎昼」編集。外科医・「芥川賞」候補作家。
 藤井未萌(~昭五三・67歳) 菊間町生まれ。伊予市藤井内科を継ぐ。(旧姓・林) 伊予市で篠崎活東・宮内甲一路を知り、「火炎」ついで「炎昼」にかかわる。昭和三〇~四六年の間、篠崎活東・松尾晴雄と「炎昼」編集。

 ⑫「峠」

 昭和二四年三月一日創刊 編集兼発行人ー東宇和郡大字卯之町一ノ一一二二 三好彰記(月桃) 月刊 発行所-卯之町局区内四つ角 峠発行所 一部二〇円こ九ページ 通巻四一三号(昭和五八年八月号) 峠句帖(雑詠)選者-酒井黙禅 同誌一周年記念号(昭二五・三)によれば、その時の同人は、井上明華・河野真竹・高橋夜潮・井上弥生・三好桃月・浦上丹明・上甲明石の七名であった。現在、本誌は上甲明石が主宰、雑詠選者となっている。
 三好月桃(明三一~) 台湾総督府勤務時代、俳誌「ユーカリ」選者 卯之町生まれ。八幡浜在住 会社重役
 上甲明石(明四〇~) 昭和二三年、日赤松山病院長退職後、その年、野村町立野村病院開設のため同地に赴任した酒井黙禅の指導を受けるため本誌を発刊、明石は本名瀞 本業は薬剤師 町立図書館長 その傍ら本誌にかかわり、昭和四七年黙禅死去のあと雑詠選を担当、編集・発行人として活躍中。「ホトトギス」「芹」系誌。

 ⑬「やまぶき」

 昭和二四年四月創刊 主宰ー弦田香陽 発行所-喜多郡内子町佐野雪子方 月刊 昭和三一年より休刊中宮武章三(NHK勤務)が内子高校教諭時代、弦田香陽・佐野雪子と計って発刊したもの。岸風三楼主宰の「春嶺」系俳誌
 弦田香陽(明四一~) 城川町生まれ。内子町。書道教師「青玄」最優秀賞受賞(昭三六)

 ⑭「糸瓜」

 昭和二五年三月復刊(昭和七年五月一日創刊・昭和一七年四月、「茎立」に統合) 編集兼発行人―森福次郎(薫花壇) 月刊 印刷所―松山刑務所 雑詠選者-富安風生 木馬集選者-森薫花壇
 昭和二七年九月、本誌は「雲雀」と合併して「松の花」となり、復刊「糸瓜」は昭和二七年八月号(第三巻第六号)で一応休刊となったが、「松の花」は二年間で休刊したので、昭和三〇年一月一日「糸瓜」は再復刊した。ここでは雑詠選者-森薫花壇 艸木抄選者-富安風生となっており、風生の「艸木抄」の選は昭和四三年四月号(三一七号)まで続いた。この時風生は八三歳であった。通巻号数四九〇号(昭和五八年八月号)
 森薫花壇(~昭五一・86歳) 余土村に生まれ、一八歳の時、地元の森旦潮のすすめで句作、後、碧梧桐・井泉水・雷死久の指導を受け、大正一五年、富安風生を知り「ホトトギス」に投句、「糸瓜」選者に風生を迎える。愛媛県教育文化賞受賞(昭四四) 昭和五一年三月六日肝硬変症のため、主治医(俳人・金子九紫)にみとられて死去した。三月八日糸瓜社葬風生弔句(森白象代読)-「結ばれしえにしはつきじこぼれ梅」
 夫人節子(むめ子、明四三~)も永年「糸瓜」発行に尽力した。「糸瓜」・「若葉」同人。

  うつし世の露のわが身をいとほしむ      薫花壇(辞世句)
  さくら落葉してぽっねんと夫の墓     森節子

 篠崎圭介(昭九~) 薫花壇没後、「糸瓜」昭和五一年五・六月合併号より篠崎圭介が雑詠選をして今日に至っている。父可志久も俳句をよくし、二代にわたっての俳人一家である。可志久の母と薫花壇の母とは姉妹であって、森盲天外家の分家である。圭介は松山商大から立教大学大学院(日本文学科)に学んだ。商大時代から「糸瓜」句会に出席し、風生に可愛がられた。なお、「糸瓜」は、最近、四二ページを個人句集(誌上句集)にあてており、昭和五八年八月現在、「糸瓜叢書」として第五二集まで刊行されている。

 ⑮「いたどり」

 昭和二五年六月創刊 主宰ー川本臥風 第二巻第一号によれば、編集兼発行人は松山市垣生町長楽寺上原白水(勲) 一部三〇円・三六ページとなっている。選者は、「いたどり作品選」-川本臥風、「子供の俳句」選ー大野岬歩 「学校に於ける俳句指導」-坂本碧水など。師系・誌系ト臼田亜浪、「石楠」
 昭和二五年二月二五日、石楠句会が川本臥風居であった時、誰からともなく、「石楠」の地方誌発刊の議がもち上がり、すんなりと、誌名の「いたどり」とともに決まった。…と、坂本碧水は記している。この誌名は、昭和二六年四月三坂峠吟行の時の臥風の句「いたどりに長短のあり揃へもつ」によるものである。
 この俳誌は、昭和二一年愛媛新聞社から出ていた「俳句」が六号で終刊となった後を事実上引き継いだということが出来る。なお、本誌の母誌「石楠」は昭和三一年一月終刊した。昭和五七年一二月、主宰・川本臥風死去により、昭和五八年一月一〇日発行の「いたどり」三八五号より第二次「いたどり」となり、大野岬歩が主宰して今日に至っている。昭和五八年八月で通巻三九二号。
 川本臥風(~昭五七・84歳) 岡山市生まれ。ドイツ文学を通じての西洋文学の教養の外、東洋的思索や仏教への深い思いに裏づけされて、臥風の句は、晩年はいよいよ平明自在に、澄みとおった句境に達した。酒井黙禅と同じく、県外の人ながら、松山にあって愛媛の人になりきり、本県俳句文化にひときわの重みを加えた。

  城山が見えている風の猫柳     臥風(愛大付属小・中校・句碑)
  わが一本の桜も小さき花ふぶき   臥風 昭四八

 大野岬歩(明三九~久万町生れ) 昭和四年、兄に勧められて句作、「ホトトギス」雑詠欄一句入選 昭和二二年、松高教授として帰って来てより臥風に指導を受け、「いたどり」創刊号より投句。「いたどり賞」受賞(昭五二)

 ⑯「松の花」

 昭和二七年九月一日創刊 編集人-松山市真砂町 森福次郎 発行人-松山市東港山町観月庵中西鬼子太郎 印刷所-松山刑務所 月刊 一部・五〇円・七六ページ 題字ー富安風生 第二巻第四号(昭和二八年二一月一日発行)以後の状況不明であるが、二年間で終刊したものと思われる。
 本誌は、風生選の二俳誌(糸瓜・雲雀)を統合して誕生したものであるが、無理があったものか、やがて、もとのように、分離、発刊されるようになった。雑詠選は風生、「松花集」選は薫花壇となっている。
 中西月龍(~昭四二・64歳) 伊予郡松前町生まれ。若くして任侠の道に入り、昭和二四年、志あって引退、三津辰巳町に庵を結ぶ。たまたま来松中の富安風生と現・高野山管長・森白象が、風生と月龍に親しい俳人・竹内武城の斡旋で少憩、これより月龍は句の道と仏の道に入り、観月庵山上に「風生庵」と「石雲寺」を建立した。

 ⑰「灯」

 昭和二九年一月一日創刊 主宰ー中川青野子 発行所-新居浜市中西町一二ー一六(中川青野子宅)
 通巻号数ー三五六号(昭和五八年八月現在) 雑詠選者-中川青野子 どの会派にも属しない。
 昭和二八年、中萩療養所(現・県立新居浜病院)に、森ふき子・富田土拳を中心に回覧句会発足、その指導者に青野子(当時二七歳)が要請され、半年間、回覧句を指導して、翌二九年一月、俳誌創刊となり今日に至る。
 中川青野子(大一五~) 新居浜市生まれ。新居浜市中・高校勤務 昭和二一年より句作。「樹海」同人。

 ⑱「せきれい」

 昭和二九年一二月一〇日創刊(昭和二四年、喜多郡五十崎町に「せきれい句会」が弦田香陽の指導で発足) 主宰ー山田文鳥 文鳥の病気で休刊期間二回。はじめ季刊、昭和五三年一月から月刊誌として、通巻五二号より再復刊。昭和五七年五月、文鳥死去のため再び休刊、昭和五七年一二月復刊して今日に至る。現在主幹―上隅まさお(五十崎町大字平岡)「せきれい集」、同人作品集「日月集」選は弦田香陽 編集長ー松森白陽子 昭和五八年八月号は通巻一一九号、復刊六八号となっている。無派。
 山田文鳥(~昭五七・65歳) 五十崎町教育長(八年間) 同町文化協会副会長 昭和二四年より句作、「松の花」・「若葉」・「糸瓜」・「青玄」・「狩」の同人 季刊「せきれい」を月刊誌に育て、苦心経営した。

  滴りのふたたび岩根よりいづむ      文鳥
  明日は焼かるる麦の劫火をとなりとす   文鳥 辞世句

 ⑲「若鮎」

 昭和三三年一一月創刊 主宰ー好崎馨水 発行所-大洲市八多喜町甲一二○四の五 不定期刊 通巻号数不詳 師系・母誌-皆吉爽雨・「雪解」 雑詠選者-好崎馨水(本名・無二・昭一〇~・大洲市)

 ⑳「いしづち」

 昭和三九年五月一日創刊 主宰ー石井愛舟 発行所-西条市大町九九三 石井愛舟宅 月刊 通巻号数ー二二四号 「ホトトギス」系俳誌 雑詠選者-石井愛舟 地元の関係句会報・句誌を統合したもの。
 石井愛舟(明四三~) 西条市 元校長 昭和初年より句作、二〇年間「燧」指導、西条文化協会副会長

 21「めばえ」

 昭和四〇年創刊 主宰-(創刊時)新盛己・(現在)林定子 発行所-喜多郡長浜町柴 柴小学校 不定期刊 師系・母誌-(創刊時)西本一都・「白魚火」 (現在)「せきれい」 通巻号数-二〇号

 22「愛大俳句」

 昭和四一年一月一日創刊 顧問-高橋信之 部長-(創刊時)亀田邦生・(現在)熊本良悟 不定期刊 通巻号数-ニ○号 師系ー川本臥風 旧制「松山高校俳句会」を引き継いだ「愛大俳句会」が中断していたのを復活、再興したもの。愛媛大学学生のサークル活動の一つ。愛媛青年俳句大会の主催をしている。

 23「まさき」

 昭和四一年一月九日 主宰ー黒田玄鳥 発行所-伊予郡松前町まさき俳句会 季刊 通巻号数三五号 母誌-「若葉」・「糸瓜」 雑詠選者ー篠崎圭介・稲荷島人 黒田玄鳥(明四一~)は松前町俳句会会長

 24「海香」

 昭和四二年四月二五日創刊(五月号) 昭和五一年八月二五日発行の一一一号によれば、編集兼発行人-松山市一番町一-五―一一 橋本月登 発行所―同上愛媛萬緑会 月刊 印刷所ー松山市木屋町二丁目 黒田一雄 師系・母誌-中村草田男・「萬緑」 一部一四ページ 「一人一句」選者-橋本月登
 月登主宰は通巻一六〇号(昭和五五年一〇月二五日発行)まで。月登死去のため、次号より、愛媛萬緑会長宮内むさしがこれにあたり、発行責任者ー森岡青湖(正雄)・宮内りつえ・高須賀経匡 発行者-宮内むさし 発行所―松山市南梅本九六七 宮内むさし宅 愛媛萬緑会。昭和五八年八月現在通巻号数-一九三号
 橋本月登(~昭五五・82歳) 中山町生まれ。昭和二七年、道後の土産物店で、「餅焼く火さまざまな恩に育ちたり 草田男」の短冊を見て、この方を師として句作しようと心に決め、その帰途、「萬緑」四月号(六四号)を手に入れ、その日から今の俳号に変えた。昭和三六年同人推薦 同三九年萬緑賞受賞。句集「遠嶺」は草田男命名。萬緑愛媛支部長 昭和五五年一一月一一日死去。「海香」の同年一二月号は橋本月登追悼号となった。

  他人のみにたよる田植の気疲れて   月登(昭二九)
  彼岸会や紙の小のぼり願ほどき    月登(昭四六)

 宮内むさし(大四~重信町生れ) 昭和三三年より、月登に奨められ「萬緑」に入会・句作、俳誌「海香」創刊以来世話人となる。夫人りつえ(栗枝)も昭和四六年より「海香」・「萬緑」で句作。夫妻ともに永く教職にあった。

 25「乙鳥」

 昭和四二年五月一日創刊 主宰ー乾燕子 編集人-織田二三乙 発行人-乾燕子 発行所-東宇和郡宇和町東多田三ノ一七六 乙鳥社 隔月刊 印刷所-村上プリント社 謄写版印刷二二ページ年四〇〇円(会費) 二一号(昭和四六年四月発行)より活字印刷、二七号(昭和四八年二月発行)をもって休刊、近く復刊予定 師系・誌系-飯田龍太・「雲母」 会員五〇名 編集人・織田二三乙は宇和町役場勤務、燕子と同僚。
 乾燕子(昭七~) 宇和町生まれ。宇和町役場勤務 昭和二七年より「峠」に投句、黙禅選に入選、昭和四〇年、清新な句風の飯田龍太にあこがれ「雲母」投句初入選、昭和五〇年「雲母」同人となり、活躍中。

 26「犬の尾」

 昭和四二年七月二五日創刊 主宰ー木屋冬四郎 編集人-木屋冬四郎 発行所-北宇和郡吉田町本町一丁目犬の尾社 月刊
 昭和四二年、三瀬耕児・那須東作・新田東千穂・足利竜平と相談して「犬の尾句会」が発足。三月一四日第一回句会。指導者-北村鬼峡(松野町生まれ。宇和島在住。~昭五二・81歳・「木賊会」「峡廬会」主宰 飯田蛇笏門) 謄写版印刷で、表紙は色刷版画、手作りの温か味のある俳誌 昭和四四年より隔月刊・タイプ印刷 県立図書館蔵の本誌は昭和五一年一二月二五日発行の五六号まで。冬四郎は昭和五二年発病、「犬の尾」は休刊中。
 木屋冬四郎(大一二~。本名・芝正一) 吉田町生まれ。「木屋」は家業の薬屋の屋号による。現在、塗料商。芝不器男は義従兄に当たる。昭和四年より句作。「雲母」の飯田龍太に心酔。昭和四五年、吉田俳人協会初代会長

 27「かざはや」

 昭和四五年二月五日創刊(推定) 編集兼発行人(主宰)-北条市別府 清和病院内 佐野白歩 謄写版印刷・二〇ページ 雑詠選者ー佐野白歩 香玉集選者-森薫花壇 師系・誌系ー皆吉爽雨・「雪解」
 昭和五一年、佐野白歩主宰俳誌「寿はま」が出ていた記録があるが、くわしいことはわからない。

 28「花綵列島」

 昭和四六年三月一日創刊 主宰ー(創刊時)高橋信之・(現在)小西昭夫(松山市立花五-一-一編集発行人) 不定期刊 通巻号数五号 師系ー川本臥風 愛大俳句会出身者が中心の、若者の俳句同人雑誌

 29「なかま」

 本誌は昭和三五年より、自筆謄写印刷で二年間刊行したというが未確認。県立図書館蔵昭和四七年の復刊号により、順序不同ながら、ここに記しておく。昭和三五年創刊後二年間で休刊。昭和四七年九月一日(第二二号)再刊、本号より活字印刷。一二ページ。主宰ー芳野井寒(~昭五二・55歳松山市和気町生れ) 表具師 昭和一三年より「渋柿」で句作、昭和四四年より「天狼」に拠り、玉貫寛に師事、同四六年、地元、和気町公民館俳句会(松山市)を作り、翌四七年より本誌を主宰すること五年間、外科医玉貫寛(真幸)にみとられて、昭和五二年八月一六日永眠 通巻七六号(昭和五二年一〇月、井寒追悼号)をもって終刊。

  夏布団蛙一匹横たわる     井寒(死去一三日前の句)
  詩の苗伸びて緑陰作れかし   芳野江智子(井寒夫人)

 30「山垣」

 昭和四九年九月創刊 主宰ー戸田雅王 発行所-兵庫県三木市緑ヶ丘町東一丁目一五ー五 月刊(隔月刊) 東宇和郡城川町遊子川公民館俳句会の延長として町内同好会俳誌として誕生。主宰者が三木市へ移った
ため、不活発になっている。雑詠選者-戸田雅王 課題句選者-水野南風

 31「短詩」

 昭和五〇年九月一五日創刊 編集兼発行人-木曽聡 発行所ー短詩研究会・八幡浜市五反田・木曽聡 不定期刊 印刷所-酒六活版所 誌名は河東碧梧桐の命名により、題字は荻原井泉水の筆。表紙絵は松本恵行の「ピエロ」 師系・母誌-河東碧梧桐・荻原井泉水・「層雲」 通巻号数一〇号で休刊中 季刊で復刊予定
 木曽聡(昭二~) 八幡浜市生まれ。県青年師範学校時代、篠原梵に俳句指導を受ける。中学教諭 自由律作家

 32「杏林」

 昭和五一年五月一日創刊 主宰ー(創刊時)真鍋雄一・(現在)日根野尚 年一回刊 通巻号数七号師系ー(当初)川本臥風 現在は吉野義子(「星」主宰)の指導を受ける。雑詠選者-吉野義子・四宮孝昭(昭六~。鳴門市生まれ。愛大教授 法医学 医博「杏林」句会顧問教官) 愛大医学部内の俳句会誌

 33「ながはま」

 昭和五一年六月創刊 主宰ー高左木芳 発行所-喜多郡長浜町中央公民館 終刊-昭和五五年一〇月二〇日発行の一七号 以後は「文芸ながはま」・「公民館報」に併合。高左木芳(大五~)元小学校長

 34「星」

 昭和五四年一月一日創刊 主宰ー吉野義子 編集兼発行人―松山市千舟町四-五-六 吉野義子 発行所ー同上「星」発行所 月刊 印刷所ー松山市湊町七丁目七 関洋紙店印刷所 表紙絵-真鍋博の作品 師系・母誌-大野林火・「浜」 昭和五八年八月現在通巻号数-五六号(第五巻・第八号) 雑詠選者-吉野義子
 吉野義子(大四~) 松山市生まれ。戦中、作詩をはじめ、戦後、大野林火の「現代の秀句」を読んで句作、昭和二四年「浜」入会、同二九年「浜」同人、「浜」同人賞受賞(昭五二) 終始、大野林火・川本臥風に師事。
 「星」主宰の外、愛媛新聞「夕刊俳壇」その他の選者、愛大医学部「杏林」俳句会など多くの会の指導に当たる。

 35「現代俳句えひめ」

 昭和五五年四月創刊 主宰ー相原左義長(大一五~)・岡本健治(大一三~) 発行所-松山市余戸東五丁目六-ニ○(岡本健治宅) 創刊号(二〇ページ)によれば、参加同人は上記二名の外、川本臥風・二宮千鶴子・村上好明・山本俊吉の六名である。昭和五八年八月現在通巻号数-五号
 本誌は、「現代俳句協会」(会長・横山白虹)に属する本県会員の俳誌である。「現代俳句協会」は昭和二二年、石田波郷の発議で発足した俳人組織で、その間、複雑な経緯があったが、本県にゆかりの深いものがある。

 36「水煙」

 昭和五八年一〇月一日創刊 編集発行人ー高橋信之 発行所-伊予郡砥部町宮内二三二「水煙」発所 師系・川本臥風 題字―川本臥風筆 高橋信之(昭六~砥部町生まれ。愛大教授 ドイツ文学)が臥風に勧められて創刊となった愛大ゆかりの若い俳人中心の俳誌。
 この外、俳句主体のものではないが、大山澄太主宰、松山市鷹子町大耕舎発行の「大耕」(月刊)が、昭和五八年八月号で四四二号に達し、この八月号は、二八ページのうち五ページを自由律の俳句などに当てている。
 以上、県内俳誌と、それにゆかりの深い俳人について略説して来たが、県内には、これらの県内俳誌に拠らず、直接、中央の俳誌につながる結社や作句者も数多くいる。中央の俳誌とは、①「馬酔木」主宰・堀口星眠 ②「雲母」主宰・飯田龍太 ③「草茎」主宰・宇田零雨 ④「渋柿」主宰・徳永山冬子 ⑤「青玄」主幹・伊丹三樹彦 ⑥「青樹」主宰・長谷川双魚 ⑦「草苑」主宰・桂信子 ⑧「玉藻」主宰・星野立子 ⑨「鶴」主宰・石塚友二⑩「南風」主宰・山口草堂 ⑪「野の会」主宰・楠本憲吉 ⑫「雪解」主宰・皆吉爽雨など。(五〇音順)
 ①「馬酔木」では、川口淀村が松山馬酔木会代表で「馬酔木」幹事。新居浜地区代表・喜多川南子、今治地区代表・矢野聖峰、八幡浜地区代表・坂本泰雄ら、②「雲母」では、同人の宮内甲一路(伊予市)、乾燕子(宇和町)ら、③「草茎」では松山支部長の松永静雨ら、④「渋柿」は全国誌ながら、その主勢力は本県にあり、主宰の徳永山冬子(宇和島市生・平塚市)、村上壷天子(吉海町生・松山市)、佐伯巨星塔(川内町)、米田双葉子(宇和島市)ほか多士済々。⑤「青玄」では同人の藤本杉男(五十崎町)、二宮千紫(千鶴子・八幡浜市生・松山市)、岡本健治(松山市)、梅岡ちとせ(新居浜市生・松山市)、今井悦子(丹原町生・松山市)、湯山珠子(松山市)ら、⑥「青樹」では愛媛支部長で同人の筒井誠(新居浜市)ら、⑦「草苑」では同人・相原利生(松山市)、前田隆代(今治市)ら、⑧「玉藻」は同人制を敷かず、創刊以来、東京の今井つる女(松山市生)の外、村上杏史(中島町生・松山市)が本県の中心。⑨「鶴」では同人・阿部潮風(八幡浜市)、岡部耕子(関前村)ら、⑩「南風」では、松山支部長・同人の高市友枝(松山市)、玉井北男(丹原町)、兵頭典江(松山市)ら、11「野の会」では白石三郎(松山市)、岡本健治(松山市)、ゆき・みつこ(西条市)ら、12「雪解」では村尾冬楊子(新居浜市)、塩崎緑(東予市生・大阪市)、宮添青柏(佐賀県生・新居浜市)、藤田暁星(新居浜市)、安藤砂田葦(新居浜市)、河野あきら(松山市生・松前町)、好崎馨泉(大洲市)らの同人がある。

 県外の俳誌

 以上の県内俳誌の外に、昭和後期のこの時期に、本県出身の俳人たちが、①「萬緑」・②「俳句饗宴」・③「冬扇」・④「さち」の四俳誌を創刊して、それぞれ独自の活動をつづけ、中には、既に記した県内俳誌の母誌となっているものもある。「さち」の前身に「さへづり」があった事は後述する。
①「萬緑」 昭和二一年一〇月一日創刊 主宰―中村草田男 編集人-中村草田男 発行人―二戸誠一 発行所-東京都北多摩郡武蔵野町吉祥寺一六〇二番地三誠堂 月刊 一部四円・三二ページ 誌名の「萬緑」は彼の第三句集『萬緑』の「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」に拠る。昭和五八年八月通巻号数四〇三号 師系―高浜虚子
 中村草田男(~昭五八・82歳) 東京帝国大学在学中の昭和四年(二九歳)、母の叔母・山本鶴(虚子の幼友達)の紹介で虚子を訪ね、虚子の奨めで東大俳句会に入り、九月より「ホトトギス」雑詠欄に投句して四句初入選。また東大俳句会で水原秋桜子・高野素十を知るなど、すばらしい師や先輩を得た。草田男は、やがて、虚子の「花鳥諷詠」の世界から、社会へ、人間の内部へも目をむけ、それを伝統の中でどのように調和させてゆこうかと、たえず刻苦しつづけたところに彼独自の生き方があり、「人間探究派」などと呼ばれた。松山市東雲町東雲公園に草田男の句碑「夕桜城の石崖裾濃なる」が除幕される前日の八月五日急逝した。昭和三四年(五九歳)から足かけ二五年間「朝日俳壇」(朝日新聞)の選をつづけたが、昭和五八年八月七日付の選評が最後となった。草田男在世中の「萬緑」は、通巻四〇三号(八月号)で終り、一一月、一二月号は草田男追悼号となった。没後、第四〇回芸術院恩賜賞を受けた。

  昔日の春愁の場木々伸びて   草田男(松山高等学校にて・二句)昭一〇年
  花圃いまも水栓漏るゝ音ばかり 草田男

 ②「俳句饗宴」

 昭和二一年一〇月創刊 主宰ー永野孫柳 発行所-仙台市立町(現在・仙台市五輪一-七ー一五) 月刊 昭和五八年八月現在通巻号数―三四三号 師系-飯田蛇笏・臼田亜浪
 永野孫柳(明四三~) 松山市生まれ。昭和一六年より東北帝大理学部講師、同一七年「仙台石楠会」を、また、流派を超えて「俳句饗宴」句会をおこし、同二一年、俳誌「俳句饗宴」創刊、同二七年五月より活字印刷となり今日に至る。東北大学名誉教授 宮城県俳句クラブ会長 宮城県芸術協会理事長 『寿林』など句集四。

  信心の冬の仏壇鳴りにけり   孫柳
  川あれば旅愁に似たる冬霞   孫柳   『寿林』より

 ③「冬扇」

 昭和二四年五月創刊 主宰ー深川正一郎 昭和二五年六月発行の三六号によれば、編集兼発行人-千葉県我孫子町一九六一 深川正一郎 発行所-千葉県我孫子局区内 冬扇会 一部四五円・四〇ページ 月刊 雑詠選者-深川正一郎 初蝶集(婦人雑詠)選者-今井つる女となっている。本誌は昭和四八年五月二八日発行の通巻一九七号で休刊中。「連句」の実作を掲載しているのが特長である。師系ー高浜虚子
 深川正一郎(明三五~) 宇摩郡新宮村生まれ、少年時代を金田村(現・川之江市)で過ごす。昭和初年、日本コロンビア宣伝部に入社し、昭和一〇年、俳句朗読を吹き込みに来た高浜虚子の知遇を得て師事、「ホトトギス」の中心的存在となる。温厚な人がらで句風も穏やかで巧み。連句実作者として知られ、写生文にも長じている。

  満月に正面したる志      正一郎 川之江市金田町句碑
  まかがやく椿の花に合掌す   正一郎 川之江市椿堂句碑

 ④「さち」

 本誌の前身に「さへづり」(昭七・四~昭一八・二)があることがわかった。昭和前期、「玉藻」の次に記すべきものであった。主宰ー尾崎足 「さへづり」は昭和二四年七月より「さち」と改題して復刊 発行所-東京都杉並区天沼ニー四八五 幸社 昭和四六年九月、通巻三一七号で廃刊、あと、「さち号外」(季刊)を死去の前月(第二四号外)まで発行した。
 尾崎足(~昭五六・87歳) 御荘町生まれ、俳人尾崎政治の弟。大正五年、地元俳人蘭圃の「小笹会」で会員と「ホトトギス」雑詠初入選を競い、大正六年五月まず初入選、大正一一年上京、虚子に師事、この間、長く脚を患って、昭和二年左脚切断の不幸にあう。昭和六年、思うところあって虚子の門を辞し、昭和八年より俳号「凡九郎」も捨て、右二俳誌を主宰した。季題と一七音の意味合を深くつきつめて、それが「幸福」につながるとの信念のもとに、「至善俳句」を提唱、俳壇からも退き、仏教と科学とを止揚して独自の道を、独身・清貧のうちに歩んだ。遺句集『足あと』(昭五七)がある。

  灯を消せばほのと障子に野火ありぬ   凡九郎(初入選句)
  舞へる鳶肩金色や冬日和        足(号外最終号)

 極堂逝く

 昭和三二年一〇月七日午後八時一〇分、柳原極堂は永眠した。九一歳であった。子規とは同年(慶応三年)生まれの旧友で、愚陀仏庵時代の子規に「碌堂」の号で俳句を学び、翌明治二九年、子規より「極堂」の号を受けた。松山版「ほとゝぎす」を虚子に譲った後、伊予日日新聞社長となり、経営に努めたが、これを廃刊して上京、俳誌「雞頭」を刊行すること一一年間、戦時下、これを廃して帰郷後、「子規会」を結成、『友人子規』を刊行、「子規庵」建立など、終生を子規顕彰の一事に捧げた。愛媛文化賞・県教育文化賞受賞、米寿祝賀会(昭二八)、句集『草雲雀』刊行(昭二九)、昭和三二年七月、「松山市名誉市民」の称号を受け、一〇月四日「愛媛県民賞」を久松知事より贈られ、同月七日には勲四等瑞宝章を授与されるなど、晩年に栄光があった。昭和三二年五月二日、「極堂会」(会長-初代・戒田敬之 現在・宮崎義幸)が発足し、今も、その遺徳を偲んでいる。県内極堂句碑二七基。

 戦後の虚子

 終戦前後の昭和二〇年六月から九月まで休刊した「ホトトギス」は、一〇月よりいち早く復刊、この年、虚子は七二歳であったが、その再興を決意しての新しい出発から没年までの一五年間も、「花鳥諷詠」の一筋をひたすら進みつづけて迷うところはなかった。
 終戦の翌年の二一年一二月に「ホトトギス」は六〇〇号に達したが、時節がら、東京での記念大会よりは地方で、とのことになり、六月の小諸俳句大会(虚子疎開先)をはじめ、全国各地で「六〇〇号記念俳句大会」が催され、一一月一三日には、松山・正宗寺での記念大会に出席し、その席で、「柿」創刊記念句会もあり、極堂も同席した。昭和二五年、左手足と舌に異常を感じた虚子は、翌二六年三月より高浜年尾に「雑詠選」を譲ったが、この年の九月、松山での子規五十年式典には元気な姿を見せ、二九年一一月には文化勲章を受けた。昭和三〇年(八二歳)四月一〇日より「朝日俳壇」(朝日新聞)に「虚子俳話」を掲載、永眠の三日前、昭和三四年四月五日掲載の記事まで、九八回にわたって健筆を揮い、八日午後四時、偉大な生涯を閉じた。八六歳。虚子苦心経営の「ホトトギス」虚子生前の最終号は七四八号であった。全国の虚子句碑第一号の「この松の下にたゝずめば露のわれ」(昭和三年十月建立・北条市西之下 大師堂前)など、県内句碑一七基、正宗寺には「筆塚」もある。
 虚子の全集は改造社版一二巻(昭九)・創元社版一二巻(昭二三)の外、昭和五〇年、毎日新聞社版・『定本高浜虚子全集』全一五巻・別巻一巻が完結した。

 虚子三代一〇〇〇号

 虚子のあとを継ぎ、昭和二六年より「ホトトギス」雑詠選に当たり、「ホトトギス」経営の大事を守りつづけた高浜年尾は、昭和四一年・四九年・五一年・五二年(左半身麻庫、脳血栓)と入院を繰り返し、昭和五四年一〇月二六日午後六時六分永眠した。八〇歳。入院していた登戸病院の総婦長・坊城中子は年尾の長女であった。
 「ホトトギス」雑詠選者は、五二年八月から年尾の次女稲畑汀子となった。「何事も山口青邨・深川正一郎さんの御教導を大切にして行動しなさい」との手紙を年尾は書きのこしていた。汀子は「ホトトギス」五五年二月号巻頭に、「読者諸子へ」の一文をのせ、「伝統俳句、花鳥諷詠の客観写生の道を守り育てて行くよう努力する。」と述べている。「ホトトギス」九九九号(昭和五五年三月号)は年尾の追悼号となり、地味な梅の絵(小倉遊亀・画)で彩られ、次号はおめでたい一000号となった。年尾は一000号発刊の日をまち望んでいたが、九九四号が最後となり、記念すべき一000号は、次女汀子の手によって刊行されたのである。現在一〇四〇号(昭58・8)

  車椅子にて桜寮辺り迄散歩      年尾
  父の死に秋冷ゆる夜となりにけり   汀子句帖 (昭和54・10・26)

 「ホトトギス」雑詠の県人たち(三)

 昭和前期の項(本文527)で、昭和一〇年を例にとって、「ホトトギス」雑詠入選俳人のことを記したが、ここでは、昭和三〇年と同五〇年との各一年間の、「ホトトギス」の雑詠入選俳人(高浜年尾選)の状況を調べた結果をまとめてみよう。(氏名の下の数字は一年間の入選総句数)
 (昭和三〇年の分) 地名の「伊予」は「伊予国」の意味。(今井つる女は四~七月号の間だけ波止浜在住) 松山・村上杏史14 波止浜・今井つる女11 宇和・井上明華9 松山・波多野晋平8 伊予・尾崎政治8」以下各7 松山・井関年光 三瓶・品川渇雲洞 松山・酒井黙禅 松山・立石白虹堂 松山・橘華子」以下各6 宇和・有井一硯 松山・井上獅(酉に垂) 伊予・尾崎陽堂 愛媛・宇都宮舛南 松山・吉賀手流女 南予・小泉安寿子 伊予・高島季子 松山・波多野二美 松山・長谷川深々 波止浜・八木春 宇和・和気祐孝」以下各5 伊予・池田美国 宇和・上甲明石 伊予・高須孝子 愛媛・垂水卉園 波止浜・飛田国香 八幡浜・宮崎軒月」以下各4 松山・岡田包城 伊予・末広荘吉 松山・三浦恒礼子 新居浜・村上重蔵 伊予・村上朱楼 伊予・山本幽汀」外に三句入選者一八名、二句入選者一四名、一句入選者四七名。以上、入選者数一一二名 入選延句数三三四句となっている。今井つる女波止浜での句の一例-餅花の下にこまごま主婦の用(四月号)
 (昭和五〇年の分)松山・村上杏史23 北条・猪野翠女20 北条・徳永玄子18 南予・井上明華14 松山・小原うめ女14 新居浜・石村王禅14 南予・大塚鶯谷楼13」以下各12 波止浜・高須孝子 南予・小泉安寿子 愛媛・河野如風 新居浜・澄月黎明 松山・波多野二美 中予・松山奈つ予 新居浜・矢野樟雨 宇和・和気祐孝 今治・岡田杏畝」以下各11 南予・小泉清保 波止浜・八木春 三島・石川豫風 新居浜・小山青風 伊予・尾崎陽堂 宇和・清家揖子」以下各10 南予・宇都宮かすみ 三島・合田鵑城 川之江・近藤竹窓 新居浜・門田モトエ 愛媛・品川光子 北条・篠原正人 新居浜・神野八千代 北条・高橋みゆき 北条・高橋螢籠 南予・土居清子 北条・中川きよし 南予・二宮とらえ 川之江・藤田左太尾 松山・村上暁峰 三島・前谷喜久子 南予・毛利シズエ 松山・吉賀手流女 新居浜・矢野樟坡 宇和・和気カホル」以上の外、九句一三名、八句二二名、七句二七名、六句一九名、五句四三名、四句三三名、三句四七名、二句六〇名、一句七〇名となっており、入選総人数三七五名、入選延句数一七五四句となっている。これまでのこの項(「ホトトギス」雑詠の県人たち(一)・(二)・(三))をまとめたのが次の表である。
 上記の如く、昭和以後、特に昭和五〇年の激増ぶりが目立つ。これは俳句人口の増加によるものか、作句レベルが平均的に向上したものか、選句方針が多少甘くなったものか、即断は避けたい。以上の俳人たちの中で、目立った俳人の句を紹介してみよう。

 (大正一〇年) 星合の宵ともあらず大街道  黙   禅  屋根一ぱいにしみ出る煙や梅雨茂 田 舎 仏
 (昭和一〇年) 綿入るゝ母に木犀薫りけり  黙   禅  帰省子にかなしき話今日もせず  満瀬小春女
 (昭和三〇年) 島捨てし娘が舞戻り踊りをり 村上杏史  病む母の気むづかしさよ置炬燵  井上明華
 (昭和五〇年) 故地旧地めぐり暮春の旅七日  村上杏史  申訳ほどの餅花杜氏部屋に    猪野翠女

 なお、昭和五八年七月現在、「ホトトギス」の同人は、県内では、松山市・村上杏史 新居浜市・矢野樟坡 宇和町・井上明華 土居町・尾崎陽堂 宇和町・大塚鶯谷楼 今治市・田村道子 新居浜市・石村王禅 今治市・八木春 松山市・小原うめ女 宇和町・和気祐孝 新居浜市・澄月黎明 松山市・中山梟月 松山市・森緑葉 北条市・猪野翠女 川之江市・近藤竹窓 松山市・波多野二美 松山市・玉井旬草以上一七名(推薦年次順)
(県外在住・「ホトトギス」同人) 東京都・今井つる女 東京都・深川正一郎 東京都・松本浮木 以上三名

 東洋城以後

 東洋城は空襲ようやく激しい昭和一九年軽井沢に疎開、二四年までここにあり、諸物資統制きびしく、用紙配給もとぼしい中、主宰誌「渋柿」は一部一六ページに縮小、それでも、焦土の東京へ往き来しつつ発行をつづけて、この最も困難な時機を切りぬけた。この間、東洋城は、温泉郡三内村(現・川内町)音田 惣河内神社社家・佐伯巨星塔の家に、昭和二五・二六・二七年にかけて二度訪れ、滞在すること足掛け一五か月に達した。来山中は座敷の内縁の一畳分を専用し、これを一畳庵と名づけて「渋柿」の編集もここで行い、山峡の風光を賞し、山家の情趣を悦び、地域の人々と親しんだ。境内に東洋城と巨星塔の句碑がある。

  山屏風春の炬燵にこもるかな    東洋城(惣河内神社碑)
  一畳庵ひたきくるかと便りかな   巨星塔(惣河内神社碑)

 昭和二七年一月、満七四歳を目前にして隠居、「巻頭句」選を小倉市在住の野村喜舟に、編集・発行を徳永山冬子・同夫人夏川女に託し、同年一月「渋柿」に発表した「隠居の辞」で、「…今や卿等は隠居の柴門の前に確と箇々に直結し、万人一丸渋柿は磐石。寒叟微笑、合掌して瞑目す…」と述べている。昭和三九年一〇月二八日没、八七歳であった。「渋柿」の経営は、野村喜舟老齢のため、昭和五一年一二月、徳永山冬子(宇和島市出身)が第三代主宰となり今日に至っている。「ホトトギス」に次いで伝統を誇る俳誌で、一回の休刊もなく編集が続けられ、昭和五五年一二月号は八〇〇号に達し、翌五六年五月三〇日松山市で、翌三一日宇和島市で、八〇〇号記念「渋柿」全国大会が盛大に催された。本誌の眼目とするところは、芭蕉に直結、単なる客観写生ではなく、定型・切字・季節感を重視しつつ、主観を露出せずに情深く詠い上げる態度にある。八〇〇号記念号では、「座談会―伊予における渋柿の歴史その他」の一項があり、巻末の「各地支部情報」によれば、五三支部のうち三三支部が本県にあり、代表同人二二名中、一〇名(後記)が本県人であるなど、「渋柿」の主力は愛媛にありということが出来よう。その中で、戦後活躍した俳人に、檜垣括(奈に瓜)・松永鬼子坊・西岡十四王・渡部杜羊子・芳野仏旅・徳永山冬子・同夏川女・松岡凡草・同六花女・佐伯巨星塔・村上壷天子・関谷嘶風・武智仲志・有馬白陽・井上猴々・堀端蔦花・佐伯子翠・米田双葉子・中川草楽らがある。(順不同)
 「渋柿」代表同人のうち、県内在住者は以下のとおりである。ー米田双葉子・佐伯子翠・中川草楽・石丸信義・佐伯巨星塔・佐伯松花・武智仲志・松田季風・近藤良郷・三由孝太郎 以上一〇名。(昭和五八年七月現在)

 徳永山冬子と夏川女

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句)

 松岡凡草と六花女

 松岡凡草(~昭五八・84歳) 北条市生まれ。大正一三年、日本勧業銀行に入行、初代松山支店次長 本社「宝くじ」部長など勤務。大正一四年病気帰省中、仙波花叟に師事して渋柿風早句会に入会、昭和三年上京してより東洋城に師事、妻・六花女(明三七~。松山市生まれ。凡草の母と六花女の母とは姉妹)と二人で、東京・戸塚の邸内に、晩年の東洋城のために一庵を提供し、『東洋城全句集』の刊行に努力し、昭和四四年からは渋柿社の運営を総括し、編集・発行人(社主)となったが、凡草没(昭五八・万一四)後の三月からは六花女が、松岡キミエの本名で編集・発行人となった。同年五月号は凡草追悼号となった。

  瓢重う老仙冬を構へたり     凡草(昭和五八年元旦試筆句)
  夫急逝 亡き夫の咳響き来る座敷かな   六花女

 病・波郷

 波郷主宰の俳誌「鶴」は昭和二一年三月、いち早く復刊、その表紙裏に「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」という格調の高い一文を掲げて信条を明らかにし、九月には独力で総合俳誌「現代俳句」を創刊、混迷していた俳壇に一大指針を与えた。しかし、昭和二三年再び発病(右肺上葉浸潤)のため東京・清瀬村国立東京療養所に入所、三次にわたって成形手術を受けた。病床で編んだ『胸形変』・『惜命』は療養俳句の絶唱である。その後も入退院を繰り返し、入院生活通算五年一か月に達した。その間、昭和三〇年、『定本石田波郷全句集』の業績で第六回読売文学賞を、昭和三二年、第一回葛飾賞を、昭和四四年、句集『酒中花』により芸術選賞文部大臣賞を受け、病床に栄光があった。昭和四四年一一月二一日午前八時三〇分頃死去。五七歳であった。妻あき子(埼玉県生まれ、旧姓吉田安嬉子)も、看護一筋の生活の中に俳句が育ち、波郷没後七年の間の彼女を支えた。あき子の句集『見舞籠』は波郷の命名である。墓は東京都調布市深大寺にある。
 大正のはじめに生まれた彼は、昭和のはじめに俳人として人生をスタートして、俳句人生四〇年、その大半を病と共にくらした。若き日は青春を詠い、年と共に深みを加えて、彼の俳句人生はそのまま現代俳句の歴史であった。松山の西郊・垣生村に生まれた彼の俳句のあり方は、全国俳人の句心を動かし、当代を代表する俳人として、彼の生命は、これからも現代俳句の中に生きつづける。石田波郷全集九巻別巻一巻・昭和四七年刊行・角川書店

  たばしるや鵙叫喚す胸形変   波郷 (昭和二三年)
  病床に鮎食ふ夫を見了んぬ   あき子『見舞籠』より

 太朗・梵・繪馬

 小川太朗(~昭四九・68歳・台北生まれ。父・小川尚義は子規と交友あり、妹・吉野義子は「星」主宰)・篠原梵(~昭五〇・66歳・伊予郡南伊予村生まれ)・八木繪馬(明四三~・温泉郡三内村生まれ)の三人はともに旧制松山高等学校に学び、松高俳句会「星丘」に入って、教授・川本臥風の指導を受け、ともに東京帝国大学に学び、終戦後いち早く松山で愛媛新聞社より「俳句」(月刊俳誌)が創刊された時は、ともにその同人として、戦後の松山に文化の灯をともした。臥風を師としたことから、三人ともに「石楠」の重要メンバーとして句作した。小川太朗は、吉野義子とともに、文学の血を父より享け、又、高校でよき師にも恵まれ、持ち前の豊かな天分を、繊細に美しく開花させた。一周忌に夫人の手により句集『驟雨』刊行。

  木枯をへだつる玻璃にわが映れる   太朗『驟雨』
  パッチンを打ちて鞄のひるがへり   太朗「俳句」第三号

 篠原梵は「中央公論」の名編集長。数々の句集を出したあと、昭和四九年一〇月一〇日、彼の全句作の集大成ともいうべき、『篠原梵句集-年々去来の花』を刊行、その後記のつもりで書いたこれまでの人生回顧の原稿が二〇〇字詰めの原稿用紙一三〇〇枚になったので、別冊にして『径路』と題して併せて刊行、この二冊を一つの箱に収めたスマートな著作が出来、そのまる一年後、家族と帰郷中の松山で死去した。「石楠」全盛期の花形として活躍した梵の作品は、鋭い感覚、斬新な知性、しなやかなリズムで当時の俳壇をおどろかせた。雪枝夫人(劇作家・村田修子)も、追悼遺稿集『葉桜』(『葉桜』は梵の句碑の句に因んだもの)の編集を終えたあと、昭和五一年九月五日、石手寺の梵の句碑建立(昭和五一年一〇月一七日・一周忌除幕)も見ることなく死去した。

  葉桜の中の無数の空さわぐ        梵(昭12・石手寺句碑)
  吾子立てり夕顔ひらくときのごと揺れ   梵(昭15)

 八木繪馬(明治大学大学院文学科長・英文学専攻主任)は昭和一三~一八年、二一~二三年の間、作品や俳論を数多く発表、昭和三五年より再び作句・俳論に携わる。句集『月暈』(昭二四)・『水陽炎』(昭49)がある。

  年ゆくや星座曼陀羅のごとくあり   繒馬 (昭一六)
  杯重ぬひとりの膳の夏わらび     繒馬 (昭三五)

 子規堂三建

 松山市末広町正宗寺(臨済宗)境内に子規堂(県指定史跡)がある。この子規堂は大正一五年三月一〇日建立。子規生い立ちの家の客間と勉強部屋など、その一部の材料を使って建てたものであるが、昭和八年二月六日午前二時、本堂・庫裡とともに焼失、先人の努力で昭和一〇年九月一四日再建されたが、昭和二〇年七月二六日夜、空襲のため焼失、昭和二一年一二月一九日、関係者の尽力で三たび建立された。この、現在の子規堂は、子規生い立ちの家そのままの間取りで復元され、子規及び子規ゆかりの人人の遺墨・遺品などが展示してある。とくに玄関左わき、子規中学生の頃の勉強部屋(三畳)と、その入口上の「香雲」(子規の母方の祖父大原観山の学友・武智五友の書)の扁額は、往時をしのばせるものがある。
 同寺には、正岡氏累代墓(昭和二年法龍寺より移す)・子規居士髪塔(県指定史跡・明治三七年九月一九日子規三周忌建立・下村為山筆)の外、子規の句碑・子規と野球の碑・虚子句碑及び筆塚・鳴雪先生髯塔などがある。

 伊予俳諧文庫

 「愛媛県俳諧文庫」の設立計画は、昭和一五年、皇紀二六〇〇年記念及び県立図書館四〇年記念事業として発足、翌年四月、虚子も「ホトトギス」に、「…俳諧の文庫は愛媛県立図書館にあるのが日本国中で一番優れたものであって…」と、その決意のほどを示している。昭和一八年三月、参会者三〇〇人で「俳諧文庫」発会式が県立図書館(当時は、市庁と日銀との間にあった。)で行われ、会長に高浜虚子が就任したが、終戦後まで、事業は一時足踏みをしていた。昭和二四年改組、名誉会長久松定武・高浜虚子、二代目会長酒井黙禅以下役員が決定し、一時は「俳諧文庫館」建設の計画もあり、虚子は看板用に、「俳諧文庫」の書を贈ったが、結局、昭和四四年、県立図書館内に「伊予俳諧文庫」が設置され、文庫会資料・本館資料・虚子文庫・酒井黙禅蔵書その他の寄贈も受け、現在約七〇〇〇点で、地域の要望にこたえているが、さらに一層の充実がのぞまれる。

 子規全集の刊行

 子規の著作はきわめて多数にのぼるが、その全集だけについて見ると、①アルス版『子規全集』全一五巻・大正一五年刊 ②改造社版『子規全集』全二二巻・昭和四年刊 ③改造社版『正岡子規集』全五巻(日本文学大全集のうち)・昭和九年刊 以上三種が戦前に刊行された。(刊行年次は全集完結年次)。
 その後、『子規全集』全二二巻・別巻三巻(監修-正岡忠三郎 大岡昇平 司馬遼太郎 ぬやま・ひろし 編集代表-正岡忠三郎 編集-服部嘉香 久保田正文 和田茂樹 蒲池文雄)が、昭和五〇年四月一八日より講談社から刊行、同五三年一〇月三〇日完結した。
 この全集刊行については、正岡子規出身地松山の愛媛大学内に「子規研究会」があり、会員―和田茂樹・蒲池文雄・長谷川孝士・渡辺勝己・白方勝・和田克司らが、子規の基礎資料を広く求めて、その研究をしたのが本全集の母胎であり、これが大きな推進力となった。

 子規記念博物館

 昭和五六年四月二日、松山市立子規記念博物館が松山市道後公園一ー三〇に開館した。地上四階、地下一階、延面積七六〇〇㎡、建設総事業費約二五億円、四月三日には開館記念全国俳句大会も開かれ、盛大な発足となった。
 昭和五七年三月三一日現在、館蔵資料は二二九二三点に及び、これら資料によって常設展(①道後・松山の歴史 ②子規とその時代 ③子規のめざした世界)の外に、特別企画展(「子規の絵」・「虚子・遍歴の青春」・「碧梧桐・自在の句と書」など)が開かれたほかに、研究会・講座が定例的に催されて、きめの細かい企画が次々と具体化されており、入館者は、昭和五六年度で一七万人余りに達した。

 愚陀仏庵よみがえる

 夏目漱石は明治二八年四月、愛媛県尋常中学校(後の「松山中学校」)の英語科教師として赴任し、六・七月の頃から翌年四月一一日まで、松山市二番町八番戸 上野義方の離れに止宿した。漱石はこの寓居を「愚陀仏庵」と名づけた。二階建で一階は六畳と四畳半、二階は六畳と三畳半、現在の二番町三丁目桑原産婦人科病院の斜め前の辺りにあった。
 日清戦争に記者として従軍した子規が帰国船中発病、神戸で大患を療養後、八月二七日から一〇月一七日までの五二日間、親友・漱石のこの家に滞在することになり、二階に漱石が、階下に子規が住んだ。子規直系の最初の地方俳句会「松風会」の俳人たちは、ここで子規の指導のもとに成長し、二階の漱石も句心が動いてこの俳句会に列して、俳人・漱石がここで誕生した。この愚陀仏庵は、昭和二〇年七月二六日夜の松山大空襲のため惜しくも焼失し、その再興が久しく待望されていたところ、子規記念博物館の開館に伴い、その三階展示第二室に、愚陀仏庵の階下部分が復元され、さらに昭和五七年八月、松山城南麓、萬翠荘(県立美術館分館)裏側に、県文化振興財団の手によって復元された。あらゆる資料をもとに復元設計のうえ、完成させたもので、瓦葺木造二階建て、六一・五㎡、総工費三三〇〇万円。これによって、「愚陀仏庵」の全貌が三七年振りに完全に復元されて、閑静な環境に、明治時代の面影がよみがえった。当時この家で漱石らに可愛がられた上野義方の孫娘(12歳)が後年の俳人・久保より江(~昭一六・58歳「ホトトギス」同人・文集『嫁ぬすみ』など)である。

 子規記念行事など

①子規五〇年祭 愛媛県・松山市を主体に、松山子規会・伊予史談会その他で協賛会が結成され、昭和二六年九月一九日、松山市市庁ホールで、遺族の正岡忠三郎・高浜虚子・柳原極堂の出席を得て祭典を挙行、この外に、遺跡顕彰、記念切手発行、墓前祭、「ホトトギス」・「糸瓜」・「炎昼」・「馬酔木」・「層雲」俳句大会、短歌大会、子規を偲ぶ放送の夕、講演会(中村草田男・鈴木虎雄・土屋文明・安倍能成)、座談会、記念展覧会、近県高校選抜野球大会などが九月二四日に至る間多彩に催され、記念出版物『正岡子規・五十年祭記念』が刊行されるなど、これを期として、子規研究の機運が県内外に大きく盛り上がった。
②正岡子規・夏目漱石・柳原極堂生誕百年祭 県・市その他によって、子規・漱石・極堂生誕百年祭実行委員会が結成され、三文豪の功績を偲ぶ記念式典が昭和四一年九月一七日、松山市民会館で挙行され、講演会(楠本憲吉・山口誓子・松岡譲)、座談会(阿部里雪・服部嘉香)も同所で行われた。その他、全国俳句松山大会(高浜年尾・講演)など、子規五〇年祭の時と同様、数多くの行事が催され、これら先人の偉業敬慕の念が定着した。
③虚子・碧梧桐生誕百年祭 上記記念式典が、前記二つの記念祭同様、実行委員会の主催により、昭和四八年一一月二三日、県立美術館三階ホールで行われ、遺族として高浜年尾・河東碧梧桐養子河東駿とその子河東星磨夫妻が出席した。講演会(山本健吉・山口誓子)・俳句大会(中央選者―中村草田男・高浜年尾・山口誓子)など、行事が前記祭典の時同様盛大に行われた。
 この記年祭の時、期せずして、次の三大目標が出席者の間で打ち立てられた。(一)子規顕彰全国俳句大会の開催 (二)子規全集の刊行 (三)子規記念博物館の建設の三項目であったが、この三つは、すべて立派に実現をみるに至ったことはまことによろこばしいことである。
④近代日本の巨星-子規と漱石展 昭和五一年三月一六日ー二八日の間、愛媛新聞創刊一〇〇周年記念、松山三越開店三〇周年記念として、愛媛新聞社主催(実行委員長・松山子規会長越智二良)で、松山三越において記念展があり、子規・漱石の資料が幅広く展示された。二人の交友とその足跡を知るための、充実した催しであった。
⑤子規顕彰全国俳句大会 子規の偉業を顕彰するための全国俳句大会は、前記・生誕百年祭の折りの昭和四一年九月一八日、百年祭行事の一環として挙行され、以来毎年一回松山市で催されて昭和五八年で一八回を数える。子規記念博物館開館の昭和五六年からは、毎年九月二三日の勤労感謝の日に子規記念博物館で行われている。
 本大会は年を追うて盛大となり、昭和五八年度は、兼題投句数が一万句を突破した。
 この外に、例年日を変えて「子規顕彰小・中・高校生俳句大会」があり、子規記念博物館では、児童・生徒のための、「子規を考える一日」という行事も、九月一九日の近くの日曜日にあり、作品発表が行われている。

 愛媛の新聞俳壇

 愛媛の俳壇は、子規・極堂の時代から、地方の新聞によって育てられて来たということが出来る。とくに地方紙である「愛媛新聞」は、今も多くの紙面をさいて、俳句文化の育成につとめており、昭和五八年八月現在の俳句欄選者は次のとおりである。①愛媛俳壇-草間時彦 ②婦人俳壇―今井つる女 ③夕刊俳壇-三好曲・吉野義子・藤田ひろむ・小原うめ女 この外に「俳句だより」のコーナーがある。愛媛新聞の外に、「日刊・新愛媛」は月二回、各地俳句会作品をそのまま載せており、「朝日新聞」は毎日曜日の愛媛版に「伊予俳壇・谷野予志選」があり、「毎日新聞」毎週土曜日愛媛版には「俳壇・松本幸之選」、月一回「毎日俳句教室入選句、松本幸之選」がある。「読売新聞」は、毎週月曜日愛媛版に、「伊予文芸・俳句・村上杏史選」があり、「サンケイ新聞」は、毎週火曜日、「愛媛ニュース・なもし欄」に、各地方俳誌より各一〇句ずつの作品が紹介されている。また、各紙には県下各俳誌刊行についての短信が、句集刊行にあたっては紹介、書評がその都度掲載されている。

 地方俳句協会

①松山俳句協会 松山市にある俳句会の一二会派が、前記昭和四一年の第一回子規顕彰全国俳句大会に参加協力して以来、毎年の同大会を通じて親睦を深めた結果、昭和五二年一一月三日、「松山俳句協会」設立総会を開き、役員を選任、会長-村上杏史 副会長―品川柳之・関谷噺風 顧問-今川七郎・谷野予志・村上壷天子 理事ー大野岬歩・川口淀村・篠崎圭介・玉貫寛・永田黙泉・二宮千鶴子・松永静雨・宮内むさし・村上杏史・吉野義子と決定した。行事は、昭和五三年一月より「俳句教室」を月二回開講、昭和五八年は第六回を開講中。又、年一回「松山市民俳句大会」を開き、昭和五八年二月一一日、第二〇回大会が子規記念博物館で行われた。昭和五八年三月末現在、会員総数一〇三七名の中、八四二名の会員自選句集「松山俳句協会句集第一輯」(昭五八)が刊行された。
②南予俳句協会 八幡浜市・宇和島市・東宇和郡・北宇和郡・南宇和郡・喜多郡の南予同郷俳人たち一四〇名が、会派を超えて研修・親睦の実をあげるため、昭和五五年七月二七日結成した。
 前会長-森田愁石(宇和島市) 現会長-乾燕子(宇和町) 副会長-井上土筆(吉田町)・松浦泉湧(広見町)幹事―山下三年(松野町)・前田多賀男(不歩の子息・吉田町) 水尾欹石(御荘町) 谷脇白晁(御荘町)・玉利孝子(八幡浜市)・谷口波詞雄(八幡浜市)・東扶桑(五十崎町) 事務局長-松岡也寸志(宇和町) 行事は「南予俳句協会賞」、夏季錬成会など。
③愛媛県俳句協会 昭和五六年五月三〇日、愛媛県俳句協会が発足した。短歌に「愛媛歌人クラブ」、川柳に「愛媛川柳文化連盟」が既に組織されており、俳句界の全県的な組織が望まれていたが、従来、県教委などの主催で開催されている「えひめ芸術祭」に「俳句部門」が参加、各結社代表が一同に会して運営され、懇親の実をあげて来た地盤の上に、前記「松山俳句協会」・「南予俳句協会」の動きなどが刺激となって、この組織が芽生えたものである。当初の役員は次のとおりである。顧問-大塚鶯谷楼(宇和ホトトギス会)・川本臥風(いたどり主宰)・品川柳之(雲雀主宰)・関谷噺風(渋柿同人)・矢野樟坡(新居浜ホトトギス会)・村上杏史(柿主宰) 会長-谷野予志(炎昼主宰) 副会長―中川青野子(灯主宰)・竹内武城(糸瓜同人)・上甲明石(峠主宰) 理事-相原左義長(いたどり同人)・井上明華(さわらび同人)・上原白水(星同人)・岡本健治(青玄同人)・掛木爽風(大洲俳句会)・阪上史琅(七曜句会)・清水参秋(峠同人)・寺内康男(灯同人)・中山梟月(柿同人)・三好曲(炎昼同人)・三由孝太郎(渋柿同人)・森岡青湖(海香同人)・山内四郎(かぶら矢句会)・米田双葉子(滑床会) 監事-阪本謙二(糸瓜同人)・中矢荻風(いたどり同人) 事務局長-相原左義長(いたどり同人) 会計ー岡本健治(青玄同人)
 戦時下の昭和一七年発足の愛媛県俳句作家協会とはこと変わり、この平和な文化国家の時世に、このような、県下俳句作家のおのずからの大同団結が出来たことはまことに結構なことで、このような動きのなかから、俳句王国愛媛の実がいよいよあがり、第二の子規・虚子・碧梧桐・東洋城・波郷・草田男らの出現を心から願うものである。

ホトトギスの読人

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