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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

九 伊予の俳書

 「伊予の俳書」といっても、いろいろの場合が考えられよう。伊予俳人が編集にたずさわったもの、編集者の如何にかかわらず伊予俳人の句作品を中心に集めたものという二側面から考えてみても、三種の場合があるわけである。すなわち、(イ)伊予俳人の編集にかかるもので、句作者を伊予に限定しないもの、(ロ)伊予俳人の編によるもので、句作者をおよそ伊予に限定したもの、(ハ)伊予俳人の編集ではないが、句作者の相当部分を伊予俳人に当てたものである。
 (イ)の場合の例としては、『大海集』(桑折宗臣編・寛文一二年・一六七二)、『詞林金玉集』(桑折宗臣編・延宝七年・一六七九)、『簾』(坂上羨鳥編・元禄九年・一六九六)、『高根』(坂上羨鳥編・元禄一三年)、『花橘』(坂上羨鳥編・正徳三年・一七一三)、『花入塚』(蓬生庵青梔編・安永五年・一七七六)、『さみだれ集』(都雁編・享和元年一八〇一)、『小不尽集』(青乙編・天保六年・一八三五)、『俳諧四国集』(柴人編・天保九年)、『知名美久佐』(鳥岬編・弘化二年・一八四五)等を挙げることができよう。
 (ロ)の場合の例としては、『郭公千句』(桑折宗臣編・寛文一二年)、『宇和島百人一句』(桑折宗臣編・寛文年間)、『山水十百韻』(江島為信編・延宝七年)、『霜夜塚』(小倉志山編・延享元年こ七四四)、『素羅宴』(小倉志山編・延享四年)、『十夜の霜』(梅志等編・宝暦元年・一七五一)、『月声集』(木村牧雨編・宝暦九年)、『俳諧七不理』(栗田樗堂編・天明七年・一七八七)、『俳諧友千鳥』(一得斎埋蛇編・享和二年)、『樗堂発句集』(樗堂編・享和二年)、『高根月集』(埋蛇編・文化二年・一八〇五)、『かな山草』(柴人編・天保四年)、『子の日の松』(蛙庵編・弘化二年)、『一帰賀集』(竹内旦泉編・弘化四年)、『伊予すだれ』(樵柯編・嘉永元年・一八四八)、『伊予一国集』(旦泉編・嘉永五年)、『雪のあけぼの』(木長編・嘉永五年)、『魯丈俳句集』(嘉永年間)等がある。
 (ハ)の場合は、『よよし簾』(正木風状編・延享三年)、『萍窓集』(静嘯廬鹿門等編・文化九年)等のように、定義にほぼ過不足なく該当するものもあるが、多くは相当数の伊予俳人をまとめて含んでいる場合である。『伊予簾』(万外編・文政六年・一八二三)、『富貴集』(棉亭等編・嘉永四年)、『黙々集』(黙翁編・安政元年・一八五四)、『阿讃伊土集』(波浄編・万延元年・一八六〇)等がそれである。
 右のようにやや強引にふり分けてみても『虹器年賀集』(虹器編・文化一〇年)や『別れ霜』(菊圃編・嘉永四年)等のごとく、(イ)(ロ)双方に属すると見た方がよいものもある。また、公刊されたものもあり、写本で伝えられたものもある。今後「伊予俳書大系」とでも称すべきものの整備が急がれるのであるが、それはともかく、以下右に挙げたもののうちから宝暦以後の俳書若干を摘んで概説することにする。

 十夜の霜

 寛保三年(一七四三)は芭蕉五〇回忌に当り、久万の菅生山大宝寺に「霜夜塚」が建てられたが、その有志の一人であった佐伯寿風の追悼俳諧集である。刊記は「宝暦元辛未初冬 京寺町二条上ル いづゝや庄兵衛板」で、序文は半笠庵河端五雲が書いた。寿風が没したのが寛延元年(一七四八)一〇月一〇日であったから、丸三年を経過して成立したわけである。「死期に此句のありしを追悼の一巻に手向る」と前書して「慾垢をそゝぎ捨てたるしぐれ哉」という寿風の発句を立句にした二四節一巻を巻頭に据えている。連衆には、柳汀、互中、其則、杜川、五友、巴木、遊告、指峯、可全、奇白、五竹、可山、干竹、錦枝などの久万の俳人が並んでいる。次に追悼発句一八句があり、右連衆以外に一底、寿風の子風子、五梅、寿風妻杉女の名が見える。次は「名とげては子供に天の棹をささせ風雅に遊ぶ寿風子の身まかりを一七日にとむらひて」と前書した歌仙一巻がある。「一七日」からみて寛延元年の興行であろう。連衆は志山、梅志、呉風、里端、蘭中、可泉、和邑、竜志、巴虫、李友、湖川の一一名で、志山の「野に行や夕日の枯の跡遠き」が発句である。次にまた追悼発句四二句が収められ、右連衆と重複しないものを挙げると、陶丘、千条、達子、楓山、五石、東楚、夜白、其風、兎涼、袋児、松計、曽工、菊洲、一好、舒々、布救、三之、旭江、ゝ臥、分定、亀足、不二、梅之、斗南、支山、可興、止隅、吾柳、麦邑、青梔、松下、浩々、狂平の三二名である。次に「慾垢の句を吐て黄泉の旅立せし寿風は、常に神仏を尊みて其名を寺社に残し、亦兎角坊に諾して雪月花の友も多かりしが、此たび悼の名録を編集せしは、亡人にゆかり有ける梅志里端なり。されや『十夜の霜』と名付て、予も一章を手向る物ならし。寝ながらの姿や夢の冬ごもり」という江月軒更互の跋文がある。巻末には「追加」として、百川、大隼、寛治、江湖庵、涼袋、理然、雲裡など京都、江戸、名古屋の俳人の句七句を収める。久万方面の俳諧活動の隆盛ぶりを思わせる追悼集ではある。

 月声集

 「予州西条の人牧雨は門下に遊ぶ事年有り」と書き出された序文は、半時庵淡々のもので、「宝暦九卯歳臘月念後 行年八十六」とあるが、これは彩雲舎五実らが刊行計画を立てた際に書いてもらっておいたものである。その五実の「取捨問答」と題する序文によれば、その頃牧雨句集編集出版の計画があったが、牧雨は「我短才を以て諸賢に贅せむ事は、燕石をもて玉にあつるの類ならむ、至而不可なり」と固辞し、淡々の序文を用意しても「折を得て老師(淡々)に辞せむ事をはかる」ような状態であったために陽の目を見なかったものである。しかし、その淡々も没したため「師の命に随ふも又ひとつのかたみ也けり」と、その版行を許可してくれたのだという。
 本書は「春之部」(句一四三、文一)、「夏之部」(句一〇四、文一)、「秋之部」(句一二七、文二)、「冬之部」(句八二、文一)、「紀行部」(句二五)、「讃之部」(句一一)、「追悼之部」(句一三)、「奉納祝賀之部」(句二九)、「雑之部」(句二)が収められている。跋文は「求驢斉」が書いている。「富天」の印があるところを見ると清得舎浦川富天の別号であろうか。「追加」の部には、常々翁似蓬、柏我、左林、海宇、呉風、李大、金乕、東雄、花夕、喜勢、一和、湖海、一点、岑人、拾遺、雨律、五実、恰々翁紅山等の地元俳人の祝賀の句が寄せられ、大阪、堺、奈良、和歌山からの句もある。また、「栄儀叟発句集のなれるを賀す」という歌仙一巻(萩上、五実、湖梅、呉風、花夕、一点、牧雨)、「牧雨ぬし自詠発句集のなれるを賀す」という歌仙一巻(富天、牧雨、秀鏡、佳方、舎(鋍の金へんを手へんに変更)、秋馬、嗅洞)も収められている。前者は地元俳人によるもの、後者は上方俳人によるものである。牧雨の句若干を引く。

   鳥をみな島へ追ひ行く潮干かな      日盛りに燃え付く蝉のたぎりかな
   夕暮や松にちからを櫨紅葉        泥のあらがねとなる寒さがな

 さみだれ集

 今治の俳人凌雲斎車南の追善俳諧集である。「享和紀元年夏五月」付の「浪華 黄華升六」の序によれば、「い与人都雁家父車南うし身まかりぬるなげきのせちなるあまり」の企画であるという。巻頭「寛政十午歳仲夏初六日」と忌日を記し、車南の辞世「いたらばやかくもしづけき和晴天」を掲げる。句を寄せている人々には、巴水、巻玉、素明、梔波、巴龍、卯七、馬来、其梅、露光、涼風、魯鶴、楚鶴、苗雅、玉水、亀山、二巻、紀卵、松楽、鳥白、若水、里梅、当明、芦角、可笑、牛肉、風酪、静波、夏陰、羽栽、蔦輔、無著、素雪、萬水、水月、琴秋の名が見える。「他郷之部」には大阪の若翁、大江丸、升六等をはじめ、岩城島や御手洗、宮島などの人々が句を寄せているが、その中には「東予三シマ」も含まれていて、同扈、唯丸、何紅、我窓、其笛、麦村、花教、亀齢、青紅、鯉川等が名を連ねている。連句は「俳諧追善之歌仙」「一周忌」の二巻があり、前者は車南の辞世に都雁が脇、若翁が第三をつとめ、以下素明、巴水、琴秋、其罧、馬来、巻玉、素貢と続いているもので、後者は都雁と跋文を書いた元日坊との両吟歌仙である。巻末には「四季之詠」と題して、車南の発句四〇句を載せている。佳吟若干を挙げる。

   散る花にうごく仁王の眼かな       更衣きのふの我にあく日かな
   きぬぎぬや卯の花うらむ恋の闇      橋本や水鶏になれし一夜妻
   おなじ帆の一日見えて暑さ哉

 紅器年賀集

 凡例によれば、「ことし耳順の賀に恵み給ふ詩歌俳」を順不同に採録したものという。芙月斎紅器、すなわち吉田の狸兄の曽孫、滄浪亭高月の華甲記念集である。詩歌俳諧に限らず、文章や絵も含まれていて雑多である。作品を寄せた人々も、江戸、大阪、京都の外、近江、出雲、土佐、相模や九州に広がっていて多彩である。今、伊予関係の俳人のみを拾うと、五瓢、月暁、白芽、五橋、木彫、嵐角、霞耕、樗堂、萬巷、魯米、糸泉、春驢、旦来、鶴宇、梅兄、馬俊、春甫、桂四、羽力、洞雨、一瓢、端也、銀川、石鼎、羽戴、素橋、其梅、素明、鵞、祐根、惟一、政一、芳栄、保造、嵩、知克、意佺、敬忠、亢忠、実任、子頁、亀来、不羨等が挙ってくる。
   世の塵はここらぞ花の枝に欲
   蚤と蚊の世話に更たりほととぎす
   来ぬ人の名を書いて居る火桶かな
   さっぱりと短気なもよし芥子坊主

などの自選の句からもその句風がうかがえようが、文章もまた酒脱なものを書いている。

 爰に堀部安兵衛の末葉、丈蔵なる男、五十余年の星霜を経、歯おちて頤長くほそり、眼太く口深く、鼻筋とふり、言舌さわやかならねども、つねにやんごとなきかたに交り、丈頭斎の号を賜ふ。花に遊ひて花に入らず、茶にあそんで茶室を覗かず心の駒に鞭をうたず、手綱をもしめず。古井と厠の道に迷はざるは、源氏六十帖花中の花なるべし。されば、花笑ひ鳥唱ふ声々四時の行かひをたのしび、山又山、海又海を栖とし、はらからなる宇和の郡の海水平らに、すめる御国に礒枕やすきさまし、ある日は釣竿打かたげて浦人にさきだち、拝領の木綿頭巾を後ざまに着なしつつ、啌八百を罵て七百九十は人の害にならず、彼のことさやぐ唐国の渭浜に釣して君を助しほまれもなく、生れながらにして莫耶をにぶしとし鈍刀をするどしとするのそしりもなし。誉るものなければ、制する者はもとよりなし。道あるかぎり遊行し、讃州なる金毘羅へ三十五度に過れども足れりとせず。漂々飄々とすまして一盃の酒に女房を叱り、一つの餅に浩然の気を養ひ、行く所みな兄弟なり。月の夕べ花の朝ここかしこといたりいたりて、遊ぶに二念なく、柳はみどり花はくれなゐ奴は赤坂、雲にふし風に乗りて定なき中に、貯なけれど乏しからず暑からず寒からず。是国恩天の恵なることを冷水かまずに呑みて、音もなく香もなく、みづから呼びて丈頭斎芙雪居士と号するに、とがむるものなきもあやし。無味の禅に入りて無味の禅に迷はずとは、かれがことをやいはん。さあれど居士は会すや会せずやしらず。我も又あやしさのあまりつらつらそのありさまをかひつけ侍らんと、難波の浦のよしあしもおかず。折れにたる筆硯にこすり、九牛が一毛をつつりぬることは、文化九年の春、芙月斎虹器戯にかくなむ。
  七草や数ならぬ身の上手顔

 このような也有風の俳文をものするところにも彼の面目が認められる。刊記には「文化九壬申春 芙月斎虹器著述 補助門人 臨海舎指月・一草亭子顪 月光斎布金 同十癸酉季冬出板 南予吉田 滄浪亭蔵書」とある。文化一〇年は西紀一八一三年、「蔵書」は蔵板の意であろう。

 小不尽集

 三津浜の俳人無名丸(七丸とも)の追善俳諧集で、その成立については「きのとひつじの冬」すなわち天保六年(一八三五)の不二山人青乙の序文に、「いよのふた名の三津といふはまべらに、ななまろといへるすき人なんありける。恒に小富士といふ嶋山にむかひて、はせを葉の野風をたのしめり。一とせなにはの芦のひともとの影をたのみて、富雪庵に遊ぶ。次手よろしとて、宮古の不二をも見、よしのの花の不尽にうかれて、みもすそ川の清き流れに心を濯ぎて、古里に帰りぬ。猶往々はあづま路の不尽はさらなり、みちのおくの不二、津軽の不尽までもと、おもひそみけんに、ゆくりなく無常迅遽のあらしにさそはれて、かの古池に飛びこみぬ。此友垣なる道茂のうしも道ばたの木槿と終の棲を去られたり。富雪庵のあるじも又木枯の夢よりはかなくなりにたり。世に残りてたけのこ藪に老を啼友どちの太素・魯丈等が、追福作善の一ふしにもとて、まろが遺稿なんどかいつけたる冊子たうでて、これが筆せよ、名をさへかうむらせよと責むれど、あやをなすべき事がらにもあらず。故人公水が、重五三津旅寐 影かはす軒のあやめや沖の不二、此句によらば、ふたなのいよのこふじ集といはば言はんか」と述べられていることで、書名の由来も含めて、尽きていよう。
 内容は、冒頭に「追善俳諧連歌」として、故無名丸の「たかむらや余のおとなしに春の雨」を発句とした、魯丈、太素、桑国、芙村、咸、李暁、至曲、其沢、山房、浅河、休圃、錦岳、岐井、鸞尾、亀計、茂椎、雲歩による半歌仙(一八公)、続いて無名丸の発句四季各三句計一二句を掲げ、「息 花暁」の一句を付している。次に猿巣と無名丸との両吟一六句の連句および道茂居士の発句四句を挙げ、以下に「四季混雑」の諸俳人の句を収め、巻末は「換跋」と題した三吟歌仙を含めて五巻の歌仙を収めている。他国の人々も少くないが、伊予俳人を拾うと、前述の人々の外に、樵眠、飛登志、八千彦、湖遊、芝香、奇木、甫水、氷雪、花曲、逸人、温泰、兎角、白雉、国露、花鴬、沙月、二流、玉井、江村、西陵、柴人、器椎、春水、栄女、鴬居、芝堂、白年、藍州、葵笠、芭雪、草六、大甫、鷺一、露沢、きく雄、杉谷、檮屋、梅旭、只一、鷺橋、士貢、南兄、花極、稼暁、一径、円水、蟾居、緑苔、半喬、二木、芙雪、菅村、卵角、山鳥、薬村、一肖、林曹、蝶兄、昂左、眉岳、寸外、禹巷、三千雄等である。

 俳諧四国集

 松山の俳人万丼の書いた序文によれば、「いまだ四国一円の句集なきを、こたび浪速の文屋等が需に応じ、伊予のふたな、あかがね山のふもとにかりに居をしめまうけける、石走る淡海の国人椎亭のあるじ、いとわりなきまめごころから、同じ好人の句々を拾ひ、あながち句の高拙をいわず、やがて梓にちりばめ、小本五冊に綴り、四国類題集と名づけ、ながく不朽に備へまく」編んだものという。刊記に「于時天保九戊戌六月発兌 大阪書林 心斎橋博労町河内屋茂兵衛」とある。題簽角書に「阿淡予讃」とあって、「四国」は阿波、淡路、伊予、讃岐の四か国の謂である。「春」「夏」「秋」「冬」「雑」の五冊から成っていて、序に「四国類題集」と名の見えるごとく、「正月」「立春」「今朝春」等々の下に句と作者名を列挙する形をとっている。「雑」の部には文章や連句を主として収めていて、詞書のあるものをまとめたという発句は少ない。連句は歌仙一七巻、半歌仙二〇巻、表六句一である。
 凡例によれば、「今他邦にありといへども、もと四州の産人は悉く巻中に加梓す。又他邦の人といへども今四州のうちにあるは悉く上に同じ」という原則のもとに編集されているが、阿波五三名、淡路七三名、伊予二八八名、讃岐六〇名に及ぶ。「悉く」とは言うものの、情報の不足や判断の基準の設けかたによる遺漏もあると考えられる。しかし、当時の四国俳壇あるいは伊予俳壇の大勢をうかがうに足る資料であることは否定できない。以下に、「雑」の部巻末に付せられた名寄せによって伊予の分全員を挙げる。
 鴬居、万丼、庭里、随意、芝堂、天山、竹外、此彦、雪之、一草、里女、芦彦、曽有、蔦丸、白民、故文、馬雪、春彦、葵笠、素人、猿巣、琴睡、閑太、白年、藍洲、二暁、艸六、蓬山、鷺一、椿屋、赤星、梅夫、芝声、梅旭、大甫、鉄翁、不一、南淵、白童、白童(古人)、塵外、兎豪、薺経、北坡、梅居、芦船、梅井、白秀、鴬国、春濤、一志、正鼡、幸雄、柳後、梅友、哥柳、吉老、素遊、素外、梅栄、如瀾、里遊、近丸、松太、雪女、扇志、唐翠、志山、故因、樗堂、有楽、壷水、亀齢、守羊、井眠、鳳尾、東嶺、二頌、非玉、湖芳、大年、民人、玄来、木人、子全、映雪、騎睡、五葉、才久茂、奇青、露井、吾暁、巴人、蘇童、柳黛、麟児、太素、其沢、亀圭、蘿窓、魯丈、岐井、芝香、即興、胡友、奇木、一井(三津)、千草、梅雪、由良雄、五十丸、国露、豊水、西木、鼡仙、梅志、犀女、村女、甫水、嘉扇、藜村、蘆英、松濤、柴陀、近思、東里、自楽、寿水、秋森、耀月、遊之、吾好、月好、木長、梅里、克譲、一箪、文水、一声、峻嶺、二好、華岳、一行、移暁、円外、五舛、素亭、緑苔、石溪、虚舟、蘇来、呉雪、二木、米花、磊々、市喬、静山、化風、桃溪、呉天、一乙、分柳、逸枝、巣室、花柳、鳥朝、井峨、郊馬、糸遊女、富女、汝省、年丈、呉角、雪柴、嵐秀、雪人、嵐雨、花堂、芳牛、蘆角、蘆江、桃人、石溪、茂翠、茶隣、把藁、鱗亭、湖舟、卵角、猪来、映門、菊圃女、桂堂、寛山、蟻封、映人、其松、呂国、奇丈、三千丸、羅月、夏暁、敬吾、画中、完耕、嶋雅、米庵、似鶴、奇仙、機石、亀洞、一井(黒島)、寿仙、橘堂、米歳、桃莚、都克、春祐、里貢、起(梁の刀を刃)、如月、梅志、朱嶽、桂玉、可催、蘭洲、如宣、里椎、可楽、甘水、
広徳、懐橘、其尚、春城、義敬、雅游、燕二、茶籟、有隣、元甫、南凱、白遊、柴人、李暁、山陰、杜山、唇風、器椎、万翠、好古、水哉、太華、栖村、雲岱、楽之、湖月尼、辻女、栄女、浩然、九丈、車六、一雅、自得、鳥暁、由良雄、藤才、杵臼、秀女、扇山、松語、晞春、多賀雄、玄牛、青冬、起風、三千雄、旭亭、松蔭、井鮒、橘堂、馬槿、野雄、分角、雲岳、橘里、石雅、二嶋、龍淵(以上二八八名、地域名略)

 子の日の松

 「吉井の郷なる蛙庵の主、ことし古稀の賀」(鴬居序)ということで編まれた、河般図庵二頌の年賀俳諧集である。樵子の書いた後序にも「精力健にして、その雅名南北に耀き、東西の諸君子より贈り玉ふ賀詠山のごとく」とあるように、句を寄せた俳人の数は確かに多い。その勢力の一端をうかがうに足るものと言うべきであろう。冒頭「七十の春をむかへて」と題して、「よる波の皺ものびるや小松曳」という二頌の句を発句に、亀毛、楽聖、素兄、樵子、二春、野文、二丈、楽牛、扇二、良久、二刕、二集、里富、商山、竹影、宜春、一様、里友、文玉、鼡友、清友、里荘、二調、宗静、鶴山、雨柏、夏岸、二芳、可調、志随、古錦、鶏里、二貫、千鶴の歌仙一巻があり、以下に賀詠の発句を集めている。万丼、芝堂、鶴居、青年、随意、黙然、里鳥、烏岬、帰鷗、民芝、鷺谷、岱眉、三和、非玉、栗壷、素居、茶山、木人、朴人、玄来、卵支、志流、茂松、米谷、蘆村、五楊、吾暁、巴人、梅先、藤淡、杉蔭、因是、芦錐、是邦、其柳、蘭久、如州、布山、静眉、起牛、桃里、鶴相、泥柳、亀童、柳山、東雁、一枝、里白、玄和、応居、芦雲、柳窓、峻嶺、文水、二水、浜女、河西、鴬朝、花井、一松、柿遊、乙陽、花昌、其嶺、紫石、笑語、楽久、梅二、素金、文亀、梅志、花石、不明、竹子、呑湖、東荘、牛子、あやめ、桔所、桃人、鳥孝、露井、楚山、可柳、いろは、二京、草月、其鳳、雪笠、湖洲、湖山、一艸、一石、素人、白兎、山狸、五島、梅林、京女、賀石、雨石、鶴松、滝水、二柳、二白、一笑、五梅、壷氷、素月、二好、有琴、十随、子光、湖月、里鶴、其雪、紫路、其玉、白雲、鶴養、空山、延寿、安居、鶴志、弥谷、耳鈴、梧水、月貞、飛蝶、松月、二扇、漁虹、羊角、鴬盛、兎月、一由、山月、哥遊、里雲、林鶴、不染、里風、古情、左月、猿耳、亀雄、鷺暁、双水、奇青、巴綾、一風、可笑、如遊、二橋、酔月、真静、天保山、左隣、野静、耳風、亀石、壷泉、頌風、亀楽、二鳥、一井、乕石、残月、古柳、里益、掬兎、器玉、三扇、寄友、春調、林山、器山、季鏡、山積、葦村、唐翠、哥柳、笑山、梅籬、呉山、里遊、白扇、波蓼、寿勢、梅里、五井、逸民、柳枝、村新、花人、二鳳、藜村、一楽、花鴬、其熊、鍛語、春蟻、箕山、白志等々の人々である。

 一帰賀集

 弘化四年(一八四七)は竹内旦泉の還暦の年であった。序文を書いた映門によれば、「されば二帰賀集三帰賀集十かへりの賀のはじめなるは」の意での題名である。漢詩や和歌を寄せたものもあり、京の梅室をはじめとして、江戸、大阪その他諸国の俳人の句もあるが、伊予俳人では烏岬、百古、淡節、雪峰、太華、柴人、松西、月丸、九皐、夕柳、鶴年、維石、梅夫、三秀、榎坊、亀洞、島芽、鵞友、鬼章、卵角、二鳩、柳絮、素亭、桐門、孤龍、莞駢、懐橘、星河、蘆岬、九圃、虎男、壷桃、起石、蘇澄、橘甫、亀碩、月人、亀友、小耳、井政、春人、凡寿、松蔭、二蝶、繁窓、東川、月歩、時交、守一、雅柳、芝仙、仙谷、喜鴻、花柳、起旭、招丹、里昶、里藤、楳調、梅柳、露径、魯朝、萩溪、千祐、月谷、花洛、喜久叟、嵐士、其鶴、鴬居、九虹、葵笠、漁翁、一鳳、恵翁、歌等、月桂、鶴相、六外、時雨菴、桐居、雨葉、春鯉、貴泉、客老、鴬里、景山(松山)、民芝、雅月、雪烏、亀水、蘆月、穴人、久甫、柳岸、珠篤、正孝、富丸、御甫、団山、杜若、水睡舎、在隣、桃里、起牛、玄来、茂松、素居、丹角、二鳳、春人、千羅、故楽、里雪、芦円、紫路、白雲、春蟻、少鸞、霞雄、茸蔭、其椎、乕谷、千柳、鶴友、鶴吏、我好、延寿、暮兼、芦錐、霞足、梅暁、都遊、居堂、雪湖、花雄、鼡角、杜雀、青巴、拙我、兼園、白圭、梅吏、麟趾、如江、鶴翠、米袋、五友、虚舟、黄花、五票、石渓、一瓢、松烏、椎溪、文峰、釣月、呉雪、圭雅、一志、三角、素道、我卜、文律、成巴、雲和、五升、秋夢、其栗、千春、湖明、花邨、対月、米里、鶴眠、月松、一声、仙笑、李園、素帒、市僊、惶文、秀文、礒鴎、荷風、竹里、亀淵、田波、井戸、椿陵、文水、一笑、一甫、有子、遊楽、橘国、比左女、初遊、如月、吉老、気虹、梅里、鳴鶴、藜村、嘉翁、角丸、温古、八千代、睦国、梅柳、壮年、玉扇、松屋、一応、柿遊、月好、花井、松涛、聴雨、蝸牛、和光、里慶、梅村、素金、花石、玉泉、南坡、梅志、楽久、竹寿、鶴寿、其嶺、古里、古錦、嶺外、鶏里、芦葉、文剛、雲里、五柳、一竹、梅人、白雄、秀梅、為西、魯卿、樵柯、哥説、末学、華書、楓国、典石、二水、笑丸、嘯風、筆山、溪山、芳水、玄和、花村、和笛、青山、梅屋、翕楽、桂里、禾養、円室、窓梅、三来、梅谷、南溪、文雄、東里、其暁、半笠、出臍、景山(大瀬)、柏年、漁火、酔月、草良、耳洗、雨月、山毫、雨翠の多数にのぼる。旦泉の俳壇的位置を示すものと称すべきであろう。
 巻末には旦泉の句「四方山の笑ひに愛でて友わらひ」と「平安如雲画」と署した風景画を載せている。

 別れ霜

 「嘉永四辛亥春」の日付の「梅之本 為山」の序文が付いている。それによれば、小松藩の長谷部映門の三回忌を迎え、未亡人菊圃が整理した「遺稿千余章」を「今のあるじ」すなわち嗣子の要請によって、「おほよそに新古をわかち、その十が一をあげ、はた海内風土の佳什をつみ、花のゆかりのさくら木に登せ、追福の一集をつづ」ったものである。「乾」「坤」二巻から成り、「乾」冊は内題「静佳園遺稿」とし、三二四句を収め、「坤」冊は国別に、山城(一三名)、大和(二名)、和泉(二名)、摂津(三名)、美作(一名)、備前(二名)、備中(一名)、安芸(一名)、周防(三名)、丹波(一名)、丹後(一名)、因幡(一名)、伯耆(一名)、石見(三名)、肥前(七名)、肥後(二名)、日向(二名)、紀伊(一名)、淡路(二名)、阿波(一二名)、讃岐(一名)、伊予(一三名)、土佐(七名)、若狭(一名)、越前(二名)、加賀(八名)、越中(四名)、越後(一七名)、佐渡(三名)、伊賀(一名)、伊勢(八名)、尾張(一五名)、三河(二名)、遠江(五名)、駿河(二名)、甲斐(五名)、相模(六名)、武蔵(一一名)、安房(二名)、上総(三名)、下総(一八名)、常陸(四名)、近江(四名)、信濃(五名)、上野(二三名)、下野(一三名)、陸奥(一八名)、松前(三名)、出羽(二一名)と、五〇か国三百名、その他に「雲水」として四八名、地元の俳人と思われるもの一〇四名を挙げ、最後に序者為山の一句、菊圃の四句を挙げている。
 『伊予の俳諧』(星加宗一)に「伊予はわづかに、鴬居・玉鴛・女葵・笠黙翁・春蟻・少鸞・鬼亭・豊都(盲人)・常盤・市玉・竹臣・石漁・桂堂の一三人しか出ていないが、その人選をどのようにしたのか、為山が『はた海内風土の佳什をつみ』とあるのは、当時の伊予人の句としてまづ見られるものはこれぐらいであとはだめだと見たのか、少鸞までは松山の人、あとは氷見・小松付近に限られているのは、あまりにも地域的に限定しすぎている嫌いがないであろうか」とされているが、編集方針についての批判ならばともかくとして、本書全体に対する評価であるならば再検討の必要があるように思われる。
 「雲水」の部は柱刻「廿二」裏から始まっていて、同「廿三」表裏、同「廿四」表裏、同「廿五」表までは、各面八句ずつ収められているが、同裏は七句であって、一句分の空白を残して同「廿六」表に移っている。これは「雲水」の部が「廿五」裏で終っていることを示すものであろう。とすれば、同「廿六」表以下の百四名は広い意味で地元の俳人と見るべきではないだろうか。前に「地元の俳人と思われるもの百四名」としたのはこの分である。列挙すれば、亀淵子、子鶴子、一具、由誓、丁知、抱儀、好甫、松什、卓郎、普然、龍守、淵叟、百丈、大莫、芦友、太年、栗々、青柳、淵察、山方、坦々、拙誠、詠久、瓦村、東們、三和、叩月、召風、孤堂、千兮、雪哉、不染、等哉、祐之、大鵬、古山、泰山、然々、梅笠、芝角、見外、峡舎、苣丸、惟草、荷少、五石、念々、草宇、魯心、螻翁、祖道、山外、みち雄、氷壷、波鴎、貞之、五雀、きく雄、月ふる、継々、西馬、臥春、夷則、逸淵、仙鳬、左山、純応、千登女、千さ女、梅露、栗熊、泰我、泰甫、ちから、たけ女、普帰、秋香、波静、孤登、松塘、松堂、万里、可粛、処来、ゆきを、雪年、鳥吟、寿化、遅流、山子、南枝、卜字、栄晁、喜継、帆風、扶水、少太、墨芳、谷鴉、梅峨、帒中、万古、丁未、みもと等である。俄かに断定はできないが、他の俳書や曽我部松亭氏の「伊予俳人録」に見える人物と重なる部分もあるのである。初めの方にある一具などは、本書の跋文を書いている剰翁一具と見てよいのではないだろうか。また「雲水」の部にも鳥岬、百古、呉雲などの名があるのをどう考えるべきであろうか。少くとも右の百四名についての推測が正しければ、国別の部の俳人数は、当時の小松に視座を据えて見た。そして映門あるいは為山の立場からの全国鳥瞰図ということになりはしないかと考えられる。ともあれ史的な価値の再検討が必要である所以である。
 次に映門の句若干を引く。
  土佐が絵や新年古き床筋り       海山を左右に分けてはつがすみ
  段々に蛙啼出す棚田かな        鉄炮の稽古はじめや衣かへ
古寺や葎かぶさるかきっばた      松魚はや日頃になりぬはつ茄子
世のさまや蝿を逃れば蚊のたてる    人の来て戸をくりもどす月夜哉
松の月はなれてしばし月の松      嗽(啑力)して肩衣かける時雨かな

 富貴集

 本書は厳密に言えば伊予の俳書ではない。大阪の俳人菅沼奇淵の一七回忌に当り、その子棉亭が、桜井梅室の序を得て、嘉永四年(一八五一)に刊行した追善集だからである。しかし大阪での一大勢力であり、かつ諸国を遍歴し『西国七部集』(文化六年・一八〇九)も出している奇淵のことであるから、伊予からの献句を多数にのぼり、大阪俳壇と直接的なつながりのある伊予俳人の概略を知るに資することができる故に、あえてとりあげるわけである。伊予俳人としては、鴬居、菊圃、蘆岬、鬼章、雲岱、素来、柏里、夏興、黙翁、布雪、五柳、洗耳、維石、亀洞、其光、故山、桂国、喧山、静山、傘柳、共嵐、塵風、片哲、桐の本、幽蘭居、橘山、(申へんに登)暁、暉鳴、奇夾、藤五、素琴、莞耕、士甲、梅芳、架岳、寿仙、淇石、文恚、松来、二鳴、吾川、千賀女、玉児、素泉、楳屑、清水、歩月、月谷、千祐、其鶴、竹坡、波水、九皐、紫流、巻二、如酔、墨雨、橘杖、蘭亭、鬼外、麦翠、可中、玉朝、兎角、茶亭、帰梅、わさ女、一鳳、六外、半尽、井政、鳥丁などが見えている。
 なお本書巻末に次の一文がある。

  小生義、抑古昔より、摺物板木の種々是に准して、都而誹用の品々風流の様々を業ひと仕(る)。浪花の梅の香を雑へ、手奇麗に指上げ、尤先考大黒庵在世の折からに至りては、専に御用向仕来りはべり候処、厥后諸君子も岩橋の中や絶なんかたがたも有之、何とも歎ヶ敷罷過候へども、何卒已来はこたびの御縁をかけはしと仕て、前々通りの御注文を願ひて、蔦かづらの柵迄もと被仰付被下度、伏而庶幾候。猶国広の世に広々と、始終桜木にちりばめて奉申おくり、拱手。
        大阪心斎橋筋東へ入                     棉亭
国広  済言
 言うまでもなく営業広告であり、どうやら奇淵一七回忌もそれに利用された疑いなきにしもあらずであるが、一方から言えば、地方の俳書出版の状況を知る資料でもある。煩をいとわず引用した次第である。

 雪のあけぼの

 一燼庵木長が撰をした俳諧集一冊で、聴雨の序文によれば、「其居常に石鉄山に対し、軒に四時の雪をみる」という出作村の木長の住居に因んでの命名であるという。序文が「嘉永壬子冬」となっているので、嘉永五年(一八五二)か六年の刊行であろう。冒頭「宇和島和霊宮奉納発句」百句があり、次に「員外春(夏秋冬)之部」があり、次に「月次抜句」、巻末には歌仙一巻、半歌仙一巻がある。ここに見える俳人は、映門、因是、枝文、芳居、葦村、華鳥、花井、春永、文律、藜村、飛遊、角丸、木真、竹山(斎院)、松里、松寿、一竹、枝丈、無前庵、蘆柴、春蝶、草月、笻子、柿遊、竹山(南吉田)、蘆錐、素人、雲椎、梅里、富山、亀遊、只仙、女郎、千梅、麦村、是外、少蘭女、土紅、竹子、鳴海、千鶴、半可、千羅、紫路、故薬、為長、松月、蝸牛、旦泉、雲里、松籟、車立、桂里、里静、里灯、一貫、因阿、嘉水、政盛、扇丸、花永、久楽、百民、一眠、千桜、一声、路盛、井賀、好寿、鴬盛、翁舟、川南、佐千代、伴遊、時松、花遊、笑丸、漣志、井文、春月、古銭、芦葉、龍山、月古、月好、二春、雀亭、双樹、石明、花評、南坡、温古、雲里、左月、扇遊、美山、可哀、三木、一丸、花月、花昌、房女、一清、春山、麓栗、木楽、千松、文剛、松鳳、井人、松緑、専帒、山積、花永、六外、梅扇、井賀、白雑、嘉翁、扇丸、南崧、皎巌、其祥、涼志、左跡、林遊、風雪、梅志、花石、麦遊、月梅、千里、筍雨、古越、雪年、九虹、千梅、晴居、如江、鈍也、吾好、梅史、一楽、隣川、鳳卵等である。