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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

八 伊予来遊の俳人

 古くは天和二年(一六八二)四月一〇日、三津浜に上陸してから同八月六日讃岐の一夜庵(観音寺市)に至るまで、伊予路に大きな足跡を残した岡西惟中(『白水郎子記行』)、貞享二年(一六八五)秋、南から北へ東へと伊予を縦断した大淀三千風(『日本行脚文集』)、宝永二年(一七〇五)讃岐伊予の間を徘徊した各務支考(『乙酉紀行』)、享保一五年(一七三〇)秋、師支考の意を体して諸国行脚し伊予を訪れた廬元坊里紅(『藤の首途』)、寛保二年(一七四二)夏伊予路を訪れた半時庵二世浦川富天(『棗亀』)、延享二年(一七四五)には、『熱田日記』を出した艸々庵雪川も訪ねてくるなど、来遊の俳人は多かった。
 ここでは栗田樗堂の時代(宝暦以後)およびその後における伊予来遊の俳人たちについて述べる。それまでの時に比べて一段と俳諧の大衆化がすすみ、交通の発達にともない、多くの俳人たちの漂泊・行脚・交流が盛んになった時代である。自己目的的な旅もあったが、自派の拡大と組織化を目的とした旅も少なくなかった。伊予路を訪れる俳人たちもまた例外ではなかったはずである。夕静(讃岐)、竹阿(江戸)、一茶(江戸)、万外(江戸)、鳳朗(江戸)、蘇山(越後)、千崖(京)、五木(日向)、仏朔(京)、有節(京)、可大(播磨)、九起(京)、風阿(周防)、青阿(江戸)、潮水(日向)、又愚(日向)、岱年(京)、青和(江戸)、凡鳥(京)、素外(江戸)等々有名無名の名が浮んでくる。以下その一部をとりあげて概観するにとどめる。

 夕静の『四国紀行』

 現存する版本が不完全な状態で一冊残っているだけであるので、断片的なことしかわからない。「紀行」とは言っても、編者の夕静が四国各地の俳人たちの句を集め、またそれらの人々と歌仙を巻いたりしたものを収めたものである。収められている伊予の俳人を拾うと、吐糸、白玷、桃照、水哉、魚渕、道総、押照、琴房、江柳、楓車、有壷、由良雄、時風、呉天、覧水、阿啓、即不、弟花、其興、五百春、関ト、嵐釣、流湖、柳雫、禾瑳、稲舟、寿専、南鷺、仙風、敦達、其箕、玄々翁、五神、牧雨、素天、杜袖、柏寿、唐中、雨律、海宇、李大、来秋、李中、芦文、余力、金芳、一釣、鯉雨、万傘、白鳴、世兀、道□、志山、至仙、一志、梅文、未樵、俗児、仙舟、義六、恩竹の六二名を数える。時風の右肩に「関卜息 十三才」とある。寛政八年(一七九六)五九歳で没した時風が一三歳の年は、寛延三年(一七五〇)にあたる。時風の淡々入門は一一歳の時というから、その二年後のことであり、夕静の伊予路歴訪もこの頃のことと思われる。本書が刊行されたのは宝暦二年(一七五二)である。右の玄々翁以下の三〇名を除く三二名が土居から川之江に至る人々であるところから見れば、関卜・時風父子を中心とした人々との風交に重点があると考えるべきであろう。

 竹阿の来遊

 『其日ぐさ』は幻の書と呼べるかも知れない。京都大学穎原文庫に蔵する写本が一本知られているのみであるが、この写本は四百字詰原稿用紙にペン書きで写されたものであり、底本の所在や書誌についての記載は全くない。誤字や判読不能の部分もあるようであるが、以下これによって記す。
 本書巻末に「右四十二章 菊明坊一茶書写」とある。巻初には「竹阿述」とあるだけで、すぐに「○風早難陳論」の題がある。「○風早の名はいつはりの小春哉 時是十月十七日、風早の浦に笠打敷きて眺望するに、傍に二人有りて」でその文章は始まる。内容は「名所に対して名は偽りと作する」句作について是非論に終始する。この傍の二人に「我は只旅中の感慨にて眼前を作す外一物もしらず。そもいづくいかなる人と其号をとふに、一人は老漁一人は牧童と申す遍路也とて立ちさりぬ。ヤアしばしと呼べ共答へず。相手なければ、笠打払って杖ほくほくと亦西の方へおもむく」と結ばれている。次は「○虱落弁」と題する一文で、節分の日に虱をとっていると「夜平従十の両土」が訪ねて来たという話で、「我におゐて虱を旅の厄落し」の句で終っている。この「夜平従十」は「狂平徒十」の誤写で、臥牛洞狂平と樋口次郎左衛門守俊号如其庵とのことであろう。以下特に伊予に関係の深い文章を選べば、「○送寒夜二三子辞」「○節分詞」「○臨湖閣年篭序」「○法筵序」「○八景詞」「○悼如其庵辞」等になろうか。その中で「○八景序」は一茶にも関係が深いので、全文を挙げる。

   ○八景序
  伊予国風早郡立岩川の北上難波邑大雄山西明禅寺は、往古月庵禅師の開基にして、臨済一派の梵刹也。現住文淇禅師は予に滑稽の因みあれば、爰に旅寝するに、或日、山主、反故の中より当山八景と題する書捨をさがし当てたりとてみせしめ給ふ。いづれの世いづれの人の標題といふ事をしらずと、且つおどろき且つ悦び給ふにぞ、共に山門に出でて眺望するに、一つ一つ叶はずといふ事なし。此侭に打捨て置かんもいと本意なし。いざや再興して題者の志を継がんと、先づ辺り近き松山の連衆は我が門下なれば、探題してすすむるに、風士風各々諾して、頓みに句案なりぬ。猶後題の君子一題を賦し給ひて、此一冊に記しおかれば、永く当山の一燈たらんと、山主の勧進を代筆するものならし。
     春秋を爰に詠めは百年も
      時明和七寅仲秋

 これらの事から、葛飾派二世馬光門の俳人二六庵竹阿の伊予来遊のさまが、おぼろげながら浮びあがってくる。「法筵序」は後述するごとく、道後円満寺に行われた蓮二坊、すなわち各務支考の三三回忌に因むものであるから、そしてまた文中に「予東海を出でて西海に旅寝して、幸ひに此雅筵に臨み」とあり、文末に「宝暦十三未春」とあるから、竹阿自身は宝暦一三年(一七六三)二月には松山に居たことになる。「臨湖閣年篭序」によれば、「いささめにいざにはのゆに浴みせしに、十、廿、三十と日数つもりて冬篭する。自蝶来れり」とあって、自蝶こと二六庵門の俳人、三津浜の東条新五兵衛に誘われて、湊山の見える臨湖閣に越年する次第が述べられている。また、「悼如其庵辞」は安永一〇年(四月二日に改元して天明元年・一七八一)に書かれているが、その中に「今はむかし廿とせにもならんか、道後に浴みせんと、蝶阿にいざなはれてまかりしに、彼山下にて徒十の主にまみへぬ」「後日あらずして師弟の約をなし、夜となく昼となく、久万山の烈敷嵐、御幸寺山の雪吹もいとはず通ひて推敲の談話怠りなし」「年も明けてしらぬひにおもむくに、松山の松にいつまた春の風、と帰路を約して浜辺に名残りをおしみぬ。三年を経て二たび会して又なく交はり深く、浪花へ登りける比は、菊の露すすめ申して別れ哉、と我が老年を寿ぎ、其実なる事子弟も及ぶべからず」とある。安永一〇年から二〇年前は宝暦一一年になるが、「三年を経て二たび」とある二度目が宝暦一三年とすれば、宝暦八、九年頃にも竹阿は松山に居たことになろう。宝暦一三年後三年を経て二たびと考えられないこともないが、同じ『其日ぐさ』によれば、宝暦一三年四月から五月にかけて、観音寺に滞在して一夜庵に馬光の一三回忌を営んでいるから、「しらぬひにおもむく」と矛盾するように思われる。
 狩野探雪(探幽の子、守定、正徳四年・一七一四没)の絵に芭蕉・素堂・其角が賛をした正風三尊三幅対を百済魚文の所で見て驚歎した(『説叢大全』)竹阿は明和三年(一七六六)にも松山に居たわけであるし、前に引いた「八景序」は明和七年に北条の西明寺(最明寺)で書かれているのであるから、松山での滞在もあったであろうことは想像に難くない。『俳諧こまざらへ』(寛政七年成)によれば、百済魚文、茶江、金翠等はこの折入門しているという。
 ところで、宝暦一三年の支考三三回忌を記念して追悼集『きさらぎ』が刊行された。竹阿が来合せて「法筵序」を書いたことは前述したが、本書は臥牛洞狂平が編集し、狂平の仮名詩「碑之銘」、「石碑造立之序」、「蓮老師三十三回忌歌仙行」(発句狂平、脇文笠、第三左律、関李、未樵、東里、曇二、驢牧、蕗峰、執筆)、「法延序」「桜は碑に名高く碑はさくらに名高し」と前書した発句集(竹阿、曇二、未樵、自蝶、呉風、東里、曽工、文笠、左律、花陽、問杏、驢牧、蕗峰、関李、呉竹、芸暁、花溪、狂羽、徒十、文甲、青梔、風徐、至東、和夕、野十友之、左川、野菱の二八名二八句)、「報恩序」(嘯月洞)、白兎の「はかりなきおくやさくらの枝つづき」を発句とする世吉(脇温交、第三洞主、春怒、弁之、芦舟、乙庵、似狂、兎文、風虎、白志)、「風早河南連中」の発句集(春恕、芦舟、志白、風虎、温交、可与、桃川、亀六、春路、似狂、弁之の一一名一一句)、「風早河北連中」の発句集(白兎、其水、止中、固由、兎文、兎船、志風、義邑、如柳、白志、柳枝、花勢、和由、如件、乙庵一五名一五句)、「諸国文通之分」(一八名一八句)、「造文台序」(狂平)を収めて一七丁一冊としている。
 安永五年(一七七六)刊の俳書『礒つたひ』の著者河村朴斎(朧庵)も土佐をめぐり伊予を訪れている。

 一茶の遍歴

 寛政七年(一七九五)には一茶が伊予を訪れた。一茶は、前述したごとく、竹阿の文集『其日ぐさ』を写している。そこには師竹阿と九州・中国・四国の俳人とのこまやかな交遊が語られていた。どれほどか一茶の旅心をゆすったことであろう。『寛政七年紀行』はその旅日記である。そもそもこの旅は寛政四年春に江戸を発って、上方、四国、熊本、長崎、讃岐と巡った後、寛政七年に観音寺から松山を往復して上方へ戻り、寛政八、九年にかけて再び松山を訪れ、備後福山を経て上方へ、さらに寛政一〇年九月江戸帰着という。六年間に及ぶ大旅行である。その中の観音寺松山往復の伊予の旅が『寛政七年紀行』に含まれているわけである。日記自体はこの後丸亀から下津井に渡り、藤戸、岡山、播州揖東、書写山、姫路、高砂、加古川、明石、大阪天王寺、藤井寺、誉田、葛城山、堺、高師の浜まで続く。
 ところでこの『寛政七年紀行』によれば、寛政七年の元旦を観音寺の専念精舎(観音寺市大和町)に迎えた一茶は、「八日、十六(日)ざくら見んと観浦の旅家を首途」する。三島を過ぎ土居の島屋というはたごに一泊、九日は入野の暁雨館(庄屋山中貞侯、淡々門の俳人、号時風)を訪ねて一泊、一〇日は新居浜の騎竜亭(高橋彦三郎)に一泊、一一日は中村(東予市三芳)に一泊、一二日は今治に卯七(河上桃泉亭)をたずねたが「公のさはり」で断られ、波止浜の花雀亭に一泊、一三日は風早難波村(北条市上難波)の西明(最明)寺に文淇和尚(俳号月下庵茶来)を訪れたが、既に一五年前に没していて泊めてもらえず、同村の庄星局橋伝左衛門(俳号五井)の所に一泊。その一節を次に引く。

  十三日、樋口村などいへる所を過ぎて七里となん。風早難波村、茶来を尋ね侍りけるに、已に十五年迹に死にきとや。後住西明寺に宿り乞ぶに不許。前路三百里、只かれをちからに来つるなれば、たよるべきよすかもなく、野もせ庭もせにたどりて、
     朧々ふめば水也まよひ道
  百歩ほどにして五井を尋ね当て、やすやすと宿りて
     月朧よき門探り当てたるぞ

 一四日はすぐ近くの八反地村の兎文(同村の庄屋門田伝左衛門、別号暁堂、暁雨堂)の家に一泊、一茶の「門前や何万石の遠がすみ」を発句に歌仙を巻いた。一五日は松山二畳庵に樗堂を訪ねた。翌一六日は待望の「名だたる桜」を見た。松山滞在は二月四日までである。その間、百済魚文邸に「素堂、芭蕉翁、其角の三幅対」を見ては「正風の三尊見たり梅の宿」をものし、道後温泉では「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」と吟じ、風交に明け暮れたようである。五日には三津浜の方十亭に、九日には同所小深里の洗心庵にと過し、一一日は八反地へ向う。
 帰路に入り、一四日は波止浜、一五日は同所巣月庵、一九日は中村に泊り、実報寺(東予市三芳)の桜を見た。二〇日は大町(西条市)、二一日は雨で逗留、二二日は伊曽野の俳人都英(斗英)の案内で伊曽乃神社に参詣し、新居浜沢津のあみだ堂で二泊、二四日は田之上(新居浜市田の上)の影香舎に泊る。ただし影香舎は松神子(新居浜市松神子)にあったという。二五日から二七日までは、往路にも泊った入野の暁雨館に滞在した。二八日に入野を出て三島の大山積神社に詣で、川之江で三角寺に参り、観音寺に至るのである。
 この旅において集めた諸国の俳人の句をまとめて一冊とし、京都三条通寺町西之入菊舎太兵衛から出版した。その序文に、

  一茶房亜堂の大人は、過ぎぬるころ東を首途してゆ、玉鉾の道もはろばろなる心筑紫の巷に吟ひ、ことし六とせぶりとや、此地に足を止むる折から、ここだく拾ひ集めたるくさぐさ、紙魚の禍あらんを歎き、梓に鏤めんと、予が端作りを乞はるるに、いな船のいなみがたきてふも古めかしく、とみに開巻して倩見るに、おかしみさびしみのことの葉さはなれり。こや昔宇治亜相の日記もおほしいづるままに、禿げたる筆を染めて『旅拾遺』となづくるものは、河内国古市里みのの辻の一葉なりけらし。
     寛政七卯のとし秋

 この序文によって、成立事情は明白であるが、さらに言えばそれは一茶の義務でもあったろう。西国方面の旅が終るか終らないうちに序文が成立していることが、その証左でもある。『旅拾遺』に採られているのは、伊予に限って挙げれば、丹巵、梅里、百弄、馬亮、周胤、橘平、千O、騎竜、時風、卯七、蔦輔、魚天、花雀、春台、兎文、圃夕、樗堂、素交、麦士、魚文、宇好、方十、雪堂、有道(雪堂息)二四名二四句である。
 『樗堂俳諧集』に「丙辰」の年すなわち寛政八年の冬から九年春にかけての樗堂一茶両吟歌仙が収められていることや、「寛政八年十月十一日 六々亭会」と裏書のある一茶の短冊「ばせをきや別れのわらじはきながら」が残っていること、寛政八年松山宜来亭での月見の会稿が残っていること等から、寛政八年初秋より九年春にかけて松山を中心とする地域に一茶の再来遊があったと考えられている。ひょっとしたら『旅拾遺』の刊行後に、それを携えての歴訪であったかも知れない。

 その他の来遊俳人

 時代が下るにつれて、俳諧の大衆化とともに、諸国の俳人達の交流も盛んになるのは自然のなりゆきであった。星加宗一氏の『長谷部映門伝』附録(六)に記載された「静佳園に来訪せる俳人の主なもの」を次に引かせていただく。
天保 六年 エド自然堂・鳳朗(鴬笠) エド・六窓 自然堂内・晨支 エチゴ・蘇山
天保 七年 洛・千崖 洛・仏朔 北野・墨泉 ハリマ・黄州 淡路・凡鳥
天保 八年 洛・千崖 北野・雲泉(墨泉改)
天保 九年 京・有節 エチゴ・桃五 丸ガメ・戊雄
天保十一年 ハリマ・可大 京・九起 周防・風阿 日向・五木 エド・青阿 日向・潮水 日向・又愚
天保十二年 京・岱年 サヌキ・烏谷
天保十三年 京・有節 淡海・凡鳥 日向・潮水 エド・青阿
天保十四年 サヌキ・烏谷 近江・月坡
 これらによっても俳人達の流動の一端がうかがえるというものである。右の中でも鳳朗は、松山の涼蝉亭築丸(葵笠)の『かわ掃掃』(天保六年)に序を送っているし、千崖は『俳諧四国集』や映門の静佳園に多くの連句を残している。
 外にも『伊予簾』(文政六年刊)の編集に当った江戸の万外、『華甲集』(安政五年刊)の編集を依頼された江戸の素外、『阿讃伊土集』(万延元年刊)の撰集をした名古屋の波浄なども、単なる旅人としてではなく、伊予の俳人達と深い関わりを持ったはずであるが、今はその名を挙げるにとどめる。