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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 学び舎から軍需工場へ

 昭和になって女学校に入学した人たちは、戦時色が次第に色濃くなっていくなかで学ぶことになる。昭和一三年二月には前述したように、愛国婦人会傘下の愛国子女団を県内の女学校に結成させようとの意向が強まり、一三年から一四年にかけて各女学校単位に結成された。団の活動は愛国婦人会と合同で傷病兵の慰問、出征兵士の送迎など軍事援護的なものが多かった。
また、昭和一三年は国家総動員法の公布された年であり、七月には県立松山高等女学校では勤労報国隊を編成しており、軍隊奉仕、神社墓地の清掃などに全校一団となって取り組むことが多くなった。同一六年には中等学校に報国隊(団)が設立され、集団の勤労奉仕は強化され、稲刈りや水害地の復旧工事などへ女生徒が動員されるようになった。

 学徒動員

 七月からは在校生へも出動命令がかかってきたのである。中等学校三年以上の学徒は県内軍需工場へ通年動員することが決定した。学び舎から工場へ、ペンをハンマーに持ちかえる時が来た。住友化学新居浜工場、倉敷紡績今治工場、東洋紡績今治工場などへ県内各高女から生徒が派遣され、さらに県外の軍需工場へも出動するようになり、松山高女、松山城北高女をはじめ十数校から動員されている。秋になると二年生にも動員がかかり松山高女では倉敷工業今治兵器製作所(倉敷紡績内)に入所した。彼女らの意気込みは同年四月の愛媛新聞によると、「倉敷工場―女子挺身隊は戦う」の記事がみられ、七四名の隊員の生活を紹介し、大洲高女挺身隊員が「皇国の女性として与えられた栄ある使命を果たすまで頑張りぬこう。兵士に力一杯腕をふるっていただくために私たち挺身隊員は決死で増産の戦いを続けよう。」と綴った手記を載せている。「八〇年のあゆみ」(愛媛県立松山南高等学校)に学徒動員された松山高女の関保子・永富博子の二人が「思い出」と題して当時の様子を「敗色漸く見えはじめた一九年の春から本格的な学徒勤労動員がはじまり、学徒勤労報国隊として五年一・二組は松前の東レヘ、続いて三・四組は今治の東洋紡へ出動して軍需物資の生産に携わりました。(中略)戦争も末期に近づくと、今治の三・四組は武器生産、一・二組は学校工場で軍服の縫製を命ぜられ、日々の生産目標を達成するため文字通り死物狂いの毎日でした」と書いている。また塩見美知は「あの頃のこと」と題して、昭和一九年九月八日、松山高等女学校三年生に学徒動員の命令が下り今治の兵器製作所で一三ミリ機銃弾を作る作業に従事するようになった時のことを、「B29を撃墜するための戦闘機用の弾丸である。これでなければ落ちないのだと聞かされて、私達は祈りをこめて昼も夜も製作に励んだ。(中略)工場で働く私に、父母はやっと手に入れた麦や大豆をはったい粉や煎り豆にして配給の砂糖とともに送ってくれた。心が通う、とはあのような時のことをいうのであろう。私は豆を食べながら胸が一杯になって涙と共にゴクリゴクリ飲みこんだものである。父母をしみじみ有難いと思った。おそらく配給の砂糖は私一人がなめてしまったのであろう。今思っても涙があふれてくる」と書いている。この一五歳の少女たちに悲劇が訪れる。昭和二〇年になって都市への爆撃が頻繁となるなかで、松山高女卒業生挺身隊員が六月二二日呉海軍工廠への空襲によって二名殉職した。そして、わずか終戦の一〇日前に県下の学徒動員で最大の犠牲者が出たのである。八月五日、今治市は数回目の
空襲に遭ったが、倉敷紡績今治工場に動員されていた松山城北高女、松山高女の勤労学徒たちは待機していた近見国民学校から空襲の際の避難場所と指定されていた波止浜国民学校へ向けて暗闇の中逃げようとした。そこを米軍機の襲撃を受け、松山城北高等女学校勤労学徒二二名、松山高等女学校勤労学徒二名が殉職したのである。当時の松山高等女学校の校長原尚は「日記」に「八月五日今治市街米機による空襲を受け、倉敷紡績今治工場に勤労動員中の三年生一色佳・金子弘子殉職する。(中略)七日一色佳の両親、金子弘子の弟妹と町内会長波止浜に来る。火葬、夜両人の遺骨帰松」と記録している。一五歳の一色佳は文学少女であったが、八月一日に詠んだ「乙女達は水浴びの間も生産に」が最後の句となった。松山城北高等女学校の殉職者の同期生たちは昭和二六年一一月に護国神社の境内に「殉職女子学徒追憶之碑」を建てた。あと一〇日で終戦であっただけに無念さもひとしおであり、戦後級友たちは母親の立場から自分たちの体験を子供たちにさせてはならないと誓っている。