データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
三 アルゼンチンへの移住
日亜交流
アルゼンチンは面積約二八〇万k㎡で南米ではブラジルに次ぐ第二位(世界では第八位)の大国である。こと移民に関しては、ブラジルやペルーほど数も多くなく、詳細はあまり知られていない。戦前約七千人、戦後の日本大使館の調査では約一万三千人というところである。
日亜国交については、明治三一年(一八九八)に、北米ワシントン駐在の両国全権公使の星享とマルティン・ガルシア・メウルの間で日亜修好条約が調印された。同三三年には軍艦サルミエント号が来日、艦長が天皇に拝謁し旭日勲章を授与される等大歓迎された。
同三六年には、アルゼンチンがイタリアにおいて建造中であった二戦艦を完成と同時に目本に譲渡してくれた。これが日露戦争で大活躍した日進・春日の両艦である。
同四三年にはアルゼンチン建国百年祭に参列のため、我が国から軍艦生駒を派遣している。このように、アルゼンチンは我が国に和親的であり、移住者も渡航するようになったようである。
初期の渡航者
明治一九年(一八八六)に牧野金蔵(相州三崎・『和歌山県移民史』には真池金蔵とある)がブエノス・アイレスに上陸したのが渡亜者の最初とされ、南米への最初の日本人ともいわれる。彼は鉄道の機関運転手として永年勤続、アルゼンチン女性と結婚し幸福に暮らしたという。
皇国移民会社の水野龍が、ブラジルへの途次、同三九年にアルゼンチンに立ち寄った時には、在亜同胞はわずかに一四人であったという(『南米渡航案内』)。その後、同四一年にブラジルに移民を送るようになってからアルゼンチンへの転航者が増加、同四二年一〇月までにその数は百六〇人に達したという。この転航者はペルーからも入国したが、これはアルゼンチンの高賃金と親日的態度によるものとされている。
昭和九年における、五、四九二人の在留邦人の職業別人数は次の通りである。
農業一、〇三三人、工業七八四人、商業一、二二七人、交通商業一一人、公務自由業四八人、家事使用人一三四人、その他四四人、無事二、二一一人(外務省海外各地在留邦人人口数)
なお、国際協力事業団の資料によると、戦前の渡亜者は表2-37のとおりである。
また、出身県別の人数(昭和二八年)をみると、表2-38のとおり、沖縄が五、一五六人と約五三%を占め群を抜いて一位であり、次いで、鹿児島の五九三人、北海道の三四九人と続いている。本県は一五八人で一〇位となっており、他の四国各県では香川七三人、高知七一人、徳島二八人である。
本県からの渡航者
本県からの渡亜者としては、首藤太平が、明治四四年(一九一一)にチリから転航したことが知られている(経歴は後述)。
また、大正三年には中矢和一(経歴後述)がペルーから転航した。同年には、森和太郎がブエノスアイレス市エルナンダリア街一六一三番において下宿兼旅館「愛媛屋」を開業、在留邦人としては最初の開業であったという。彼は昭和元年にこれを橋本又市に譲り帰国した。さらに、大正五年には高市茂(経歴後述)が視察のため渡亜しているが、県立農学校教諭の経歴があり、インテリ青年のナンバーワンといわれていたという。
ブラジルで植民地を創設するなど活躍した星名謙一郎が、米国テキサスからブラジルへの途次アルゼンチンにも滞在したとされるが詳細は不明である。
移住ではないが外交官として活躍した本県人もいた。古谷重綱(ブラジルの項参照)は、大正一五年(一九二六)に第三代特命全権公使として着任、歓迎会の挨拶で①亜国語を覚えること②風習をよく研究し守ること③永住を心掛けること④同胞よく一致協力すること⑤国民外交が大切⑥経済的基盤を築くこと⑦借金は必ず返すこと等を述べ、「平民公使」として親しまれていたという。
本県人の経歴
『アルゼンチン同胞五十年史』(賀集九平著)と、在亜愛媛県人会会長大野盛嗣氏の報告により本県人の経歴を紹介しておく。
首藤太平
明治一九年周桑郡小松町に生まれた。同四四年にチリより転航。船舶修繕工場等に就労、大正三年ローチャ鉄工場に就労、同一一年から八年間自動車業を経営、昭和五年よりミシオネス州オベラに土地を購入、独立経営し、所有面積五五〇町歩、内ジェルバ・マテ茶園四〇町歩、他に製材工場も経営、コルドバ州にオリーブ園も所有し、日本人会の役員も勤めた。
中矢和一
明治二〇年温泉郡垣生村で生まれた。大正三年にペルーから転航、フフイ州の砂糖会社に就職、その後、養鶏管理人等を経て、大正一〇年ブルサッコにて養鶏並蔬菜園の経営を開始、日本人蔬菜同業組合の幹事や支配人を勤め功績大なるものがある。
高市茂
明治二五年温泉郡荏原村で生まれ、昭和四六年一月一〇日死去した。東京高農卒業、松山農学校教諭となる。大正五年視察の目的で渡亜、ブエノス・アイレス市立植物園の園芸係となる。大正八年にペードロ・ゴゼーナ街で花卉並観賞園を共同経営、同事業の在亜邦人の草分けとなる。その年より一年半帰国し、大正一〇年再渡航と同時に独立経営、以後、ダリア栽培、シクラメン栽培の草分けとなる等躍進を続け、温室面積五千平方米をこえ、年生産額数一〇万ペソに達した。一方では社会公共事業に尽すい、在亜農業研究会長、日本人花卉組合連合会長、亜国花卉産業組合長、在亜日本人会長等を歴任、その功績は大で各方面から表彰されている。すなわち、昭和一四年・帝国教育会長より表彰、昭和一五年・外務大臣より表彰、同年・拓務大臣より表彰、同年・日本産業協会伏見宮博恭殿下より表彰等である。さらに昭和四一年には勲五等瑞宝章を贈られている。また、昭和四二年五月には皇太子殿下同妃殿下御訪亜に際しては、両殿下を高市園にお迎えするの栄に浴している。
『高市茂・伝』(同刊行委員会)には多くの人の高市に関する思い出等が語られている。その中に武智軍蔵氏(帰国後、海外移住家族会長等として活躍)が高市茂は農学校の恩師であり、後にチリに移住したが同じ花卉栽培に従事、大きな影響を受けたことを寄稿している。
松広忠治
明治三六年宇和島市に生まれ、昭和五五年一○月一二日死去した。昭和三年に渡亜、ローマス・デ・サモーラで花卉園経営し、ロングチャンプにも土地を購入、盛業した。在亜日本人会長、在亜愛媛県人会長、ブルサコ日本語学園理事等を歴任、昭和四八年には勲五等瑞宝章を贈られた。
高市健馬
大正二年に生まれる。渡亜後、高市茂経営のフロリーダ園に就労、後に独立す。ノルテ日本語学校維持会長、ノルテクラブ会長、在亜愛媛県人会長、昭和六一年に勲六等旭日章を贈られる。
光田正
大正一〇年に生まれる。在亜日本人会理事、アンディーノクラブ会長、在亜愛媛県人会長、アルゼンチン拓植共同組合理事長、ニッパル花卉産業組合長、アルゼンチン花卉産業組合理事、在亜日本語教育連合会長、日亜ペヘレイ友好会長等を歴任。淡水漁ペヘレイの日本移入については高市茂等と大いに尽力した。
在亜愛媛県人会
愛媛県人会は、昭和三二年の久松定武愛媛県知事の訪亜時に発足したものであるが歴代会長は次のとおりである。
初代・松広忠治(昭和三二年より)、二代・野本時一(同四八年より)、三代・高市健馬(同五一年より)、四代・徳田行雄(同五四年より)、五代・光田正(同五七年より)、六代・大野盛嗣(同六〇年より)。