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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 ドミニカへの移住

 ドミニカ共和国

 西インド諸島のイスパニョーラ島の東三分の二を占め、三分の一は西のハイチ共和国である。ドミニカ共和国の面積は四万八、〇〇〇平方キロメートル、人口は約六〇〇万、言語はハイチがフランス語に対して、ドミニカ共和国の言語はスペイン語である。コロンブスはこの島の美しさに魅せられ、ここに埋葬して欲しいと遺言したと伝えられ、今世紀になってここに移葬された。コロンブスの子ドン・デイエゴが住んだ宮殿跡は、昭和三二年(一九五七)に復元され、一六世紀当時の家具調度も豊富にある。
 スペイン植民地より独立したが、ハイチの侵略を受け政情は安定せず、昭和五年(一九三〇)から三〇年間は、トルヒヨ将軍の独裁が続いた。住民はスペイン系の混血が多い。トルヒヨ将軍は戦後日本人を特に歓迎し、住宅耕地をハイチ国境に提供した。昭和三五年六月大洲市徳森出身の藤川寛の入植地ネイバを、村上節太郎は慰問し、困窮状態を毎日新聞に報告している。

 国境に近いネイバの邦人コロニイ

 一九六〇年当時、ドミニカ共和国に日本人移民は一、五〇〇人も入植した。それはトルヒヨ大統領が、日本人の如き勤勉で勇敢な国民を養成するため、亀鑑として日本人を招いたのである。都市近郊の米作地の約五〇〇人は定住したが、奥地の地理的条件の悪い入植者は大半引揚げ、北米やブラジルなどに移った。

 移民失敗の要因

 ①地球の裏側の遠隔地で交通が不便なこと ②熱帯サバンナ気候で日本人には不向きなこと ③適当な換金作物がなく小規模なバナナ栽培では米国資本のエステート経営に及ばぬこと④未開の土人国で教育もスペイン語の小学四年までこと ⑤政変政情不安でトルヒヨ将軍も殺害された ⑥日本人は篤農家もいれば引揚者もいて各地からの集合隊であった ⑦ネイバなど扇状地のため水がなく、水利権も封建的で、水は流れていても使用できぬ ⑧日本の移住政策の拙さ、口減らし策、農林省外務省県庁の連絡不充分 ⑨先発隊を出さず現地調査不充分、衣類など持参せず不準備 ⑩奥地のため折角バナナを収穫しても、交通機関がないので換金できない。