データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
二 ペルーへの移住
最初のペルー集団移住者
明治六年日秘和親貿易航海仮条約が締結され、同二三年高橋是清が日秘鉱業株式会社を設立して渡秘したが失敗して帰国した。同二八年日秘通商航海条約が調印された。同三〇年田中貞吉が砂糖会社農園に、日本人労働者を送り出す契約を結んだ。この計画が同三一年ペルー政府により許可され、移民取扱人森岡真の募集した第一航海移民七九〇人が渡秘した。これが南米への最初の集団移住である。この第一航海移民は新潟県が三七二人と四七%を占めて最も多く、山口県一八七人、広島県一七六人等五府県から渡航しているが本県人は含まれていない。彼等は一二耕地等に配耕されたが、生活環境や労働条件の劣悪等のためストライキ、逃亡が多発、解約・追放された者が三二一人にものぼった。これを転配したり、ボリビアに移送(九一人)したりした。死亡者も多く、同三三年一〇月までに一二四人が死亡したといわれる。また、救済歎願書も出身県等にしきりに届けられた。
第二航海と本県人の移住
第一航海移民は、当初紛争、混乱が続いたが、明治三四年ころには一応落着いた。ペルーは四ヶ年の契約終了と、日本人の勤勉さの認識から日本人労働者を必要としたため第二回移住者募集を計画し、我が国外務省もこれを許可した。第二航海移民は、同三六年に一、一七五人が渡秘した。第二回には、第一回に四七%を送った新潟県が募集を禁止したので含まれておらず。福岡県三八七人、広島県二九三人、熊本県二〇二人等を中心に七県から移住した。本県からも一八三人が渡航、南米への本県最初の集団移住者となった。本県人の大部分は、英国製糖株式会社所属のサンタ・バルバラに配耕された(表2-34)。「秘露国へ本邦人出稼一件」(外交史料館)に配耕地が次のように報告されている。
英国製糖株式会社ハ秘露国ニ於テ甘蔗栽培兼製糖業ヲ営ムノ目的ヲ以テ設立セラレタル英国会社ニシテ里馬州カニヱテ原野ニ一大耕地ト宏壮ナル製糖工場ヲ有シ尚ホアンカッシュ州サンタ郡サン・ハシントニモ甘蔗耕地及製糖工場ヲ有ス(中略)カニヱテ原野ハ首府里馬市ヲ距ル南方二九レグワノ所ニアリテ陸路之ニ達スルニハ乗馬ニテ二三日ヲ要シ(下略)
製糖会社の耕地は、一、四〇二ファネガダ八五(四、三八八町歩余)あり、年間八千t以上を製糖、その他棉花栽培もしている。工場はサンタ・バルバラの海浜にあって、耕地中央事務所も此処にある。地域内には会社鉄道があり、セルロ・アスール港に達し、支線も含めて延長一六哩ある。第二航海には女子一〇八人が含まれ、サンタ・バルバラにも七人来ているが女子が含まれている方が評判も良いと報告している。
第二回航海の入植後の死亡・逃亡・解傭等については、詳細が報告されており、本県人も入植後一〇ケ月間に一六人が死亡している。
なお、これ等死亡者については、昭和七年佐藤賢隆師が、カニエテ、ケブラダ、サンタ・バルバラ、カサ・ブランカ耕地に埋葬されていた遺体を荼毘に付し、カサ・ブランカ耕地の丘陵に慰霊塔を建立した。六八八柱の内訳は表2-35に示すとおりで、本県人は三一柱となっている。
ペルーへの移住者数等
明治三二年(一八九九)に第一航海移民が渡秘してから、大正一二年(一九二三)までの契約移民時代には、八二航海で計二万一、四二〇人が渡航した。さらに昭和一六年までの自由移民時代を含めると、約三万三、〇七〇人が移住している。
移住時期については、明治期に二〇航海、大正期に六二航海と大正期が最盛期である。大正一二年までの移住数を出身県別にみると、沖縄が三、六八五人と最も多く、熊本二、八一〇人、広島二、二六三人、福島一、四六〇人、福岡一、四一〇人、山口一、三〇七人と続いている。本県は明治末年までに二四四人、大正一二年までに一八九人で計四三三人であり、全国では第九位となっている。その後の自由移民時代の移住数は不明である。
ペルーの日系人口については、昭和一五年に外務省の調査で二万一、二〇〇人、戦後の同四一年に日系人実態調査で三万二、〇〇〇余人となっている。このうち一世は約五、八六〇人である。一方では、日系人五万以上との説もあり明確でない。
『在ペルー愛媛親交会会誌第二号』により、同三五年の在留民世帯数を出身県別にみると、沖縄が二、四三六戸で五〇・三%を占めている。続いて熊本五〇一戸、福島二六五戸、福岡二四八戸、広島二四二戸となっている。本県は六三戸で第一〇位となっている。
これを職業別にみると、雑貨店七一九、農業六八八、養鶏業四一九、コーヒー店三五二、洋食店三一一、理髪店二四二、店員一六八、商業一四九、製パン業一三一、バザール一○三、大工七三、時計店四一、オテル五一、果物店六一、庭園師五六、写真業三五等となっている。
在留者はリマ市に六五%が集中しており、カヤオ市を含めると七四%が集中している。
本県人の活躍
農園労働者として移住した人々も、契約期間終了により都市に移住する者が増加してきた。それらのうち、リマ市で最初に理髪店を始めたのは愛媛県人和田環であった『在ペルー邦人七五年の歩み』には次のように紹介している。
リマにおける日本人最初の理髪店は明治三七年(一九〇四)サン・バルトロメー街で開業した第二航海の愛媛県人和田環のそれであった。彼は後進者の指導に務め二年後にはリマ市内だけで一五軒に増加し、四〇年には一躍、二五軒にハネ上った。明治三七年には七一軒中一軒であったものが、四〇年には日本人店が二五軒に増加して秘人店が四〇軒に減ったのである。(中略)組合設立の議が起こり、邦人中の先覚者であった法学士朝日胤一を煩わして規約の起草、組合員間の意志の疏通など、非常な斡旋尽力を受けて同年二五名の組合員をもってリマ日本人理髪同業組合が生れたのである(下略)
リマ市における日本人理髪店の急増ぶりは、表2-36の示すとおりである。この組合は、唯一の日本人団体として大きな役割を果たし、西語習得学校設立、御大典奉祝祝賀会、秘露日本人会の創立に当たって活躍した。
大正六年(一九一七)ペルー中央日本人会の創立委員に愛媛県人吉岡好太郎が加わっており、第一期役員の会計監査に愛媛県人富永新太郎が選ばれた。
同九年には愛媛県人懇親会が一月六日に創立され、初代会長に富永新太郎が選ばれた。
同年吉岡好太郎がリマ市に邦人最初の時計宝石商を開業した。
昭和一四年愛媛県人谷口只雄がペルー中央日本人会会長に選ばれた。
同三二年七月一四日から一六日まで久松定武愛媛県知事が訪秘、これを機に愛媛親交会が復活した。親交会は知事を通じて天皇陛下に銀製ヤーマの置物を献上、宮内庁採納の栄に浴した。
同三四年ペルー新報社主催第一回少年野球大会において愛媛少年野球チームが優勝した。
同四一年春の生存者叙勲において、第二航海の時の本県最初の渡秘者竹内宿之亮〈八八歳・カヤオ〉と堀江政雄〈八三歳・ピスコ〉が勲六等瑞宝章に叙せられた。
同四七年春の生存者叙勲において、愛媛県人佐々木仙一〈七〇歳・元中央日本人会会計、元愛媛県人会長・リマ〉が勲六等瑞宝章に叙せられた。
同五四年ペルー移住八〇周年祝典において、愛媛県人武井虎一、武井信子、酒井壮助、木崎フサエが日本国外務大臣より表彰された。
同五六年日本人ペルー叙勲者協会が結成され、佐々木仙一が会計役員に選ばれた。
愛媛県人会
愛媛県人会は、大正九年(一九二〇)一月六日、愛媛県人懇親会として創立され、後に「愛媛親交会」と改称された。初代会長は富永新太郎であった。
戦後は昭和三二年に再発足し、会長は佐々木仙一であった。
八〇周年当時の会員は一五〇人、三〇世帯で役員は次のとおりである。顧問は佐々木仙一・酒井壮助、相談役は佐々木ホルヘ、会長は三木ウンベルト、副会長は川下ペドロ、幹事長は宮本ロドルフォ、幹事長補佐は佐々木カルロス、会計は菊地エロイ、会計補佐は井上セサル、
救済部長は松岡フリオ、同副部長は山脇フリオ、文化部長は井上マリオ、同副部長は酒井アウグスト、運動部長は織田ビクトル、同副部長は谷中ロベルト、企画部長は川下ファン、同副部長は清水セサル、広報部長は三木カルロス、監事清水ノルベルト。
愛媛親交会の歴代会長のうち氏名の明らかなものを列記すると、谷口只雄(昭和四・五年、同一四年には中央日本人会会長、カイヤオ日本人会長等、外務大臣・拓務大臣表彰)、吉岡玉清(同六年、中央日本人会会計、外務大臣表彰)、酒井壮助(同七年、貯蓄組合長)、西田元重(昭和八年、リマック日本人会長・死亡)、吉岡幸雄(同九年、外務大臣表彰)、曽根定丸(同一〇年、帰国・死亡)小川建寛(同一一年)、宇都宮秋太郎(同一二年、帰国死亡)、武智要(同一三年・死亡)、佐々木辰長(同一四年・ミラフロース日本人会長、帰国)、黒川関一(同一五年・リマック日本人会長)、高橋兼一(同一六年・帰国)、佐々木仙一(同三二・三三年・セイコー総代理店・役職・叙勲等別記)、織田正晴(同三四年、中央日本人会評議員)、三木年一(同四四年)、上田竹義(同四五年)。
親交会員名簿
昭和三五年、愛媛親交会は『在ペルー愛媛親交会会誌第二号』を刊行した。明治三六年(一九〇三)の第二航海に初めて愛媛県人一八三人が加わって渡秘してから約六〇年、その回顧と在秘本県人の現状を載せている。在秘露特命全権大使三浦和一氏・リマ駐在日本領事高良民夫氏が親しく祝辞を寄せている。
久松定武愛媛県知事の訪秘(昭和三二年)を機に愛媛親交会が復活し、この会誌の刊行も計画されたとのことである。内容の一部は本稿にも抄録してあるが、この会誌には県親交会会員六八家族の出身地と職業等の一覧が載せられており、内八幡浜市と西宇和郡で三一家族を占めている。