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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

2 松山藩の割地

 割地の成立

 松山藩の割地は、地組・坪地組・地坪地組・田畑地組・田畑地坪地組などと呼ばれ、延宝末・天和頃藩の土地制度(藩型割地)として創始された。実施の目的は、①春免を合理的に実施する、②本百姓の増大をはかる、③無給・無縁(水呑百姓)に据地を与え村落に緊縛する、④土地と農民とを一体として再把握する、⑤庄屋の特権を制限する、などであった。換言すれば近世村落を確立させることであった。
 実施方法は次の通りであった。まず割地の対象地は村によっていろいろで、大別すると、①本田畑、②本田畑と新田畑、③本田畑・新田畑・山林に分類することができる。割地による新所持高は、実施前の所持高を基準にしつつ、農業にたいする勤惰・家族数・牛馬数などを考慮して、くじ引きで決定した。また割替の単位として、主として里方では「組」、島方では「株」が設けられた。

 春免

 次に実施にいたる過程をみることにしよう。松山藩における定免制は、幕府より早く、寛文七年(一六六七)より延宝元年(一六七三)までの七か年、三代藩主定長によって実施された。続いてその経験を踏まえて、延宝七年二月四代藩主定直(延宝二~享保五年)は、「諸郡村々へ可被申渡覚書」(二五か条、郡奉行・代官宛高内又七申渡)によって、毎年春に免を決定する春免を実施した。特に注目すべきことは、春免の実施は強制ではなく、検見の欠点、春免の長所などを詳細に説明し、農民を十分納得させ、しかも用水の整備・入会山の解放などをおこない、農業生産増大のための基盤を整備しつつ実施したことである。
 春免の実施目的は、第一に、貢租増徴策であった。多品種の稲作農業をおこなっている状況の中で、貢租の徴収方法として検見より春免が、藩にとっても農民にとっても共に有利であり、免を上げても検見のための諸支出がなくなり、さらに小物成を一部減ずるから、農民の取分は検見の時よりも増加するという。事実春免実施前の物成米は、二六万二、七六〇俵で、実施後は三〇万二、五二〇俵(共に一俵四斗四升入)で、三万九、七六〇俵の増収となった。そして、以後大体この年貢量が維持されていた〔元禄時代には三一万俵(含夫米・ロ米・御種子米元利)〕。
 第二に勧農策であった。春免では年貢が原則として豊凶にかかわらず定額であるから、農民は農業に精を出すことによって、剰余労働部分をより多く手にすることができる。すなわち固定課税によって、農民の労働意欲を高め、ひいては農業生産の増大策とした。
 後世藩は、この春免を、「諸国共に見付免にて春免は稀なる由、然るに高内又七利害得失を計り春免に定めしが、世に伊予七ツ免と唱へて、諸国より高免なれども、冗費省きける故、百姓の懐ろにては徳分多く、又定免の外は作り取故、惰農も遏み大に勝手なりし故、自然と貢租も滞らず、永久能く行はれしとぞ」(『松山叢談』)、「本朝比類なき良法なれば、他国にも押およぼして誉を千代に伝ふべし」(『愛媛県農業史』上巻)と比類なき良法として自画自讃ではあるが高く評価している。春免の実施目的であった貢租増徴策と勧農策が実現できた証拠であろう。

 地ならしの成立

 春免実施の責任者であった、奉行高内又七は、林源太兵衛(林善左衛門弟・与力・風早郡別府村柳原に居住)を呼び、自信をもって実施した春免について意見を聞いた。それに対し源太兵衛は、今度実施の春免は、寛文七年実施の定免とは、比較にならないほど農民から歓迎されていると評価したうえで、しかし農民の側からみると問題点のあることを具体例をあげて指摘した。そして春免が、農民に納得されて、永久的に行われるためには、春免実施の前提として地ならし(地坪・地均)を実施すべきであるといい、地ならしの「大旨」と「仕方」について詳細に述べた。彼がいう地ならしとは、古畝取→野取→中伺→段盛→地札組→鬮取の全過程のこと、すなわち検地によって、正確公平に田畑の畝高を把握したうえで、田畑の地位・用水掛・遠近などを考慮して、平等になるように組合せた土地を、持高に比例して再配分することである。つまり検地から割地までの全過程を地ならしといっているのである。高内又七は、その意見をただちに採用し、早速林源太兵衛を代官に登用して、地ならしを実施した。したがって地ならしは、春免をより合理的におこなうために実施されたのである。
 ところで松山藩において地ならしという言葉の古い使用例は、風早郡小山田村で、慶安元年(一六四八)「地ならし仕二付」「地坪仕候」(「乍恐言上申上ル御目安之事」「乍恐御目安返答」)である。小山田村では、慶安元年村中の「田地高下」を正すために地ならしを実施した。「田地高下」を正すとは、検地帳の畝高と現実の畝高の乖離をなくすることであるから、検地を実施することである。つまり慶安元年小山田村で実施された地ならしとは検地のことであり、林源太兵衛のいう地ならし、すなわち割地のことではないのである。このように、地ならしとは、本来検地の一種であり、広島藩・熊本藩・摂津・河内・大和・播磨などでみられる地ならしと同じものである。
 それでは松山藩では何故地ならしが割地の別称として使用されるようになったのだろうか。それは松山藩では、慶安元年の小山田村のように、地ならしが村単位に、主として農民によって行われていたが(村型地ならし)、藩が、延宝末・天和頃割地を実施するようになると、その前提として必ず地ならしを行うようになり、地ならし→割地が一体のものとして扱われ、地ならしの中に割地まで含めて地ならしと呼称するようになったからである。それでは松山藩では何故割地実施の前提として実施する検地(内検)を検地といわずに地ならしといったのであろうか。それは、農民がすでに村単位に地ならしを行っていたから、農民には抵抗がなかったこと、地ならしが、「田地の高下」を正すことであり、「田地不直に有之所を直に仕」ることであったから、地ならしという言葉からうけるイメージが、検地(内検)という言葉からうけるイメージよりよかったこと、などによろう。寛政元年(一七八九)四月風早郡尾儀原村庄屋善八が記した「御巡見使様御道筋覚書」に、地ならし(地坪)の説明に、検地(地ならし)→割符受取(鬮取)の全過程を説明するようになっており、代官吉田久太夫は、検地から割地(鬮取をして各農民の持地を決定する)までの全過程を地ならしと考えており、松山藩士三浦平誉は、その著『農政茗話』(天保一三年)で、地組(割地)実施には、その前提として検地は不可分のものであるといい、検地→地組の過程で割地が実施されることを説明している、などで明らかであろう。つまり、割地の実施には、その前提として必ず地ならしが実施されたから、農民をはじめ庄屋・代官らまで、地ならし→割地の全過程を地ならしと呼称するようになっていたのである。

 朝倉上村の割地

 かくして松山藩では、延宝末・天和・貞享・元禄期に割地が創始され、二回以降は、それぞれの村の自然的・社会的条件によって実施されたから、実施時期も実施回数もいろいろであった。
 越智郡朝倉上村においては、貞享三年(一六八六)、元禄一〇年(一六九七)に割地が実施された。その結果、農民の高所持構成は表1-13のようになる。貞享三年「朝倉上村御田畑坪地組帳」の奥書にて「地組相極鬮取を以銘々如此永代之作職請取之申所実正也、為後日判形仕所仍而如件」とあり、庄屋以下三二人が連名印している。全名請百姓は表1-13のように四一人(今治藩領農民四人除く)であるから、九人は奥書に連名印していない。この九人の高所持状態は次の通り、作蔵以外は全員三石未満である。
 作蔵  八石三斗六合   長蔵   二石五斗四升三合
 宗兵衛 二石四斗四合   三右衛門 二石一斗二升七合
 仁左衛門一石九斗     七蔵   一石四斗八升四合
 勘重郎 四斗五合     三郎右衛門一斗九升
 六左衛門八升七合
表1-13のように三石未満の高所持百姓が一〇人であるから、この層の百姓は、大部分奥書連名印の百姓でなかったことがわかる。それではこの九人の名請百姓と奥書連名印の百姓とにはどのような違いがあったのだろうか。おそらく分家したばかりの百姓、隷属から解放された百姓、などで、名請百姓としては取扱われたが、一人前の本百姓である奥書連名印百姓としては、まだ取扱われていなかったのではなかろうか。つまり割地実施の目的の一つが、本百姓の維持増大策であったから、九人が名請百姓としては認知されたが、なお一人前の百姓としては扱われなかったのだろう。元禄一〇年の割地では、表1-13のように名請百姓四九人とさらに増加し、しかもこの名請百姓四九人は、全員奥書連名印百姓となっていた。
 同様なことは、大三島のロ惣村でもみられる。貞享三年「越智嶋口惣村地坪地組帳」の奥書連名印百姓が、庄屋以下六四人おり、その中に新百姓と肩書された百姓が、勘三郎以下八人記されている。これらのことから明らかなように、地ならし→割地の実施によって、本百姓の一般的形成が促進されたといえるのである。
 しかし他方で延宝末頃、林源太兵衛は「作徳有之者はあて作にして、其身は業を勤めず、遊民となり、奢侈の病発して他の害大なり」(『松山叢談』)といい、貞享四年「此以前諸郡間に売地有之様之趣に相聞」(『愛媛県農業史』上巻)と記す。つまり延宝末頃すでに田畑の売買がおこなわれ、地主小作関係が進行しつつあったのである。このような時、割地を実施することによって、無給・無縁(水呑百姓)に据地を与え、彼らを村落に緊縛した。すなわち近世村落を確立し、貢租収取体制を安定さすという割地実施の目的が実現されていることがわかろう。

 株共同体

 割地の基本単位として、くじ(一くじ)があるが、松山藩の内陸部では組、島しょ部では株と呼称された。一くじの大きさは、村の自然的・社会的環境などによって異なった。特に島しょ部のように耕地が少なく、人口(家数)が多い村では、一くじが多くの農民によって分割所持された。また分家や農民層の分化によって、一方でくじを集積する農民が、他方でくじを失う農民が、それぞれ発生した。
 元禄一五年越智郡宮浦村の「深山新田元組人数付古かふ付」によると、
 一、五分五厘  かふ頭庄 三 郎
   三分五厘     伊 勢 松
   壱分      佐左衛門
のように、一株が分割して所持される場合には、株頭が置かれた。
 天明七年(一七八七)越智郡宮浦村では、田方二三株(一株は一〇石余・一町余、川成・市場床等を除くと七石余・七反余となる)の各一株は、庄屋が一人で所持する以外は、五人から一二人で所持されており、深山新田畑四一株七分五厘の各一株は、一人で所持する者が庄屋以下六人で、それ以外は三人から九人で所持されており、天明四年には、畑方六七株(一株は一石余・一町余)の各一株は、一人で所持する者が庄屋以下四人で、それ以外は、二人から八人で所持されていた。このように一株が多くの農民に分割所持されると、株頭が置かれ、株頭は、株の貢租納入の責任者、株維持の責任者、株内の百姓の相互扶助の中心者としての役割を担った。つまり、割地実施によって、株共同体とでもいわれるべきものが成立したのである。そして、株共同体は、「村共同体―五人組共同体―株共同体」の重層的共同体の最末端に位置づけられ、また株頭は、「大庄屋―庄屋―組頭―株頭」の重層的支配組織の最末端に位置づけられ、それぞれ重要な役割をはたしたのである。

 割地の廃止

 松山藩における割地は、宇和島藩のように、全藩領一斉に廃止されたのではなく、それぞれの村の自然的・社会的・経済的諸条件によって廃止時期が異なった。廃止の主たる理由は何であったろうか。色々あるが、第一に、土地の生産性を低下させたことである。特に割替の時期がせまるとひどかったので、風早郡磯之川村では、「村々地坪被仰付田畑直に被成候上は、耕作無精に仕者御座候はゞ、寄合の節無遠慮申出し異見可仕事」(天和三年「吟味講覚」)と村全体で耕作無精者に注意をし、土地生産性の低下を防止していた。
 第二に、流地や売買によって、農民層が分化し、土地所持者と経営者が遊離し割地の存在理由が失われたことである。割地実施中は、「一歩一ヶ所も私に動かす事堅く御制禁也」(『松山叢談』)と原則的には田畑の売買は禁止されていたが、「扨又及困窮しか、又病気故障之者等作配難相成子細有之、其段村役人へ申出候得ば、此者共より内々吟味の上、村内にて田地求度と兼て相望み候者へ譲り度と、又譲受度と双方より証文を出させ、其段村役人より願出候得ば、吟味の上被仰付組地に而御代官所より地所引渡候得ば、何迄も人々持畝不狂也」(『松山叢談』)と生活の困窮、病気などによってやむを得ない場合は、吟味の上、代官所の指示によって、鬮単位(一株・五分株・二分五厘株など)に売買することは許可されていた。事実「売買組地二而致来候事」と鬮単位に売買されていたことは、売買証文や『藤井此蔵一生記』などで知られるところである。さらに寛政~文化期になると、鬮単位の売買のみではなく、一筆ごとの売買が、郡村をこえて行われている。周布郡高松村の農民より、桑村郡田滝村の農民へ売買された畑(田の一部を含む)を売買証文でみると次のようになる。
 高松村の割地は、「畑之儀ハ田畝二付畑二而御座候」と田と畑が一体のものとして組合され実施されていた。売買は、貢租が納入できない場合に、請人を立て「地組御座候迄売渡」、「万一地組等有候節者代銭御受取右畑御戻し可被下候」と次の割地実施までという条件でなされた。
 売買面積は、寛政年間三町六畝一七歩、享和年間五反一畝二歩、文化年間三町三反四畝二八歩(うち田二畝二六歩)、年代不詳(おそらく寛政・享和・文化年間のもの)一反二畝九歩、合計七町四畝二六歩(畑方の約一〇%、宝永七年高松村一一六町五反三畝、田四六町二反・畑七〇町三反三畝)であった。そのうち多く売った農民は、半左衛門四反九畝一九歩、清左衛門三反二畝二九歩、などであり、多く買った農民は、孫三郎七反五畝一歩、八右衛門五反二畝七歩、九郎兵衛四反四畝一四歩、などであった。特に半左衛門にみられるように、文化一四年(一八一七)四反九畝一九歩を売却した背景には、同家において相当の経済的変動のあったことが推察され、したがって割地が実施されるからといっても、証文の文言通り、売却地を割地実施直前に買い返す力はないと考えてよかろうから、―実際には、高松村・田滝村では寛政以降割地は実施されていないのであるが―事実上の売買となったものと思われる。高松村・田滝村の属する周布郡・桑村郡の四五か村において、明和頃から天保六年(一八三五)頃までに、次々と割地が廃止されているのは、このように田畑の売買が郡をこえておこなわれ、農民層の分化が進み、割地の存在意義が失われつつあったことと関係しているように思われる。
 しかし内陸部の温泉郡西岡村では、慶応二年(一八六六)割地実施の延期願をしており、幕末まで実施されたようである。島しょ部の大三島井ノ(之)口村では、「当十月頃より地券之儀厳敷被仰出候二付、人別所持江丈量致し、地券状頂戴致候得者、是迄之組地名目は相廃止候而、一ケ所ツヽ抜キ売買相成候」(『藤井此蔵一生記』)と明治七年(一八七四)に廃止され、大三島浦戸村では昭和三四年(一九五九)まで実施された。このように廃止の時期は種々であったが、内陸部では明和頃に多くの村で廃止されだしたようであり、島しょ部では、内陸部より株共同体が、その自然的・社会的環境となじんでうまく機能したこともあって、多くの村では地租改正頃まで継続実施されたようである。

 居坪

 以上は、地ならし→地組→鬮取の過程で行われた本格割地のことについて述べたのであるが、このほかに、松山藩では居坪→地組→鬮取の過程で行われる簡略割地があった。何れの場合においても延宝末以降は割地の実施が目的であり、したがって地ならし、居坪が独立して実施されることはなく、地ならし、居坪が実施されると、続いて必ず割地が実施されるというように、地ならしと割地、居坪と割地とは、一体不離の関係にあったので、割地・地ならし・居坪の三者は、全く異なるものであるにもかかわらず、割地は地ならしとも居坪とも別称され、それ故に、地ならしと居坪を同じものとして考え扱われてきた。
 居坪は、村畝の一応固定した村において、土地の丈量をせず、惣百姓立合のもとで、一筆ごとの田畑の石盛を公平公正に査定し、簡略割地実施の前提として実施された。したがって、居坪は地主小作関係の展開するなかで、割地維持の方策として創始されたものであったといえよう。
 和気郡堀江村の安永三年(一七七四)からの居坪御窺書および同郡姫原村の寛保三年からの居坪野取帳などが現存しているから、おそらく寛保頃から居坪が実施されだしたと思われる。
 すでに述べたように、割地は、延宝末・天和頃から、地ならし→割地の過程で実施されてきた。つまり割地実施の初期には、まず検地帳の畝高の「不直」(乖離)を正すため、必ず地ならし(検地の一種)が実施され、続いて地組・鬮取をして割地が完了した。田畑の面積が一応固定したのちは、土地の丈量は不必要となり、生産高の変化を把握することに主眼が置かれるようになって、居坪が創始されたといえよう。
 たとえば堀江村では、地ならしにかわって居坪が、安永三年(一七七四)以後同七年、天明三年(一七八三)、寛政二年(一七九〇)、同七年・同一一年・文化四年(一八〇七)、同八年・文政四年(一八二一)、同八年・嘉永三年(一八五〇)に実施されている。しかし面積に「不直」が生ずると、地ならしを行うことになるから、割地実施の方法が、地ならしから居坪へ変化したということはできない。事実、和気郡姫原村では、享保九年(一七二四)地ならし、寛保三年(一七四三)居坪、安永六年(一七七七)地ならし、寛政七年(一七九五)居坪、享和四年(一八〇四)居坪と、寛政七年まで地ならしと居坪が交互に実施されている。つまり松山藩の割地は、地ならし→地組→鬮取の過程で実施されるのが基本型であるが、寛保頃から、居坪→地組→鬮取の過程で実施される場合も生じ、以後割地対象地における畝高の「不直」の度合によって、地ならし→地組→鬮取か、居坪→地組→鬮取かのいずれかの過程で実施されるようになったのである。換言すれば、寛保頃から、地ならしか居坪かの何れかが選択されて、割地が実施されるようになったのである。

表1-13 朝倉上村高所持構成

表1-13 朝倉上村高所持構成


図1-5 旧和気郡堀江村・姫原村付近(現 松山市)

図1-5 旧和気郡堀江村・姫原村付近(現 松山市)