データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 割      地

 割地の成立

 近世の村請村落においては、貢租を公平に負担するために、かづき(かつぎ)・地ならしが、かづき(かつぎ)→地ならしの過程で実施された。無主地や荒地の貢租を農民の所持高に応じて割付けたのがかづき(かつぎ)で、割付けの基準となる畝高の正確・公平を期すために丈量をおこなっだのが地ならしであった。しかし同じ畝高でも、田畑によって生産基盤の条件が異なるから、地ならしを実施しても貢租の負担が厳密に公平・公正になったとはいえない。そこで貢租の負担をさらに公平・公正にするために、すなわち生産条件を同じにするために田畑の割替えがおこなわれた。これが割地である。
 割地とは、一定期間ごとに土地を割替えることである。たとえば、割替期間一〇年で、一〇くじの土地を割替える場合、一〇年目ごとに検地をして、村内の田畑を上中下の田畑別に一〇区画にわけ、各区画を一〇等分する。そして田畑各区画から一等分ずつをとりだし、組み合わせて、全く同質のものを一〇組つくり、抽選によって所持地を決定する。これを一〇年ごとにくり返すのである。ただし、くじを引くことのできる者は、原則的には、高持百姓であり、持高に比例してくじを引き、所持地が決定された。
 割地は、江戸時代、北は東北地方から南は九州・沖縄地方にいたる多くの地域で実施された。それを整理すると、農民が村規模におこなう村型割地と、藩が藩規模に制度としておこなう藩型割地に大別することができる。村型割地が実施されるのは、多くの場合、水害などの自然的悪条件の土地が、年貢関係に入りこんだ場合であり、それに対して藩型割地は、藩の土地政策および地方支配政策の一環として実施された。

 伊予国の割地

 伊予国において実施された割地は、基本的には藩型割地であり、地ならし→割地の過程で実施された。しかし詳細にみると、宇和島藩の割地は、藩型割地の典型的なもので、その開始も廃止も、藩の布令によって一律になされたが、松山藩・今治藩の割地の場合は、藩型割地で創始され、廃止については村に選択させるというものであった。なお松山藩では、村畝の一応固定した村では、検地をせずに、石盛を公平にして割替える簡略割地、すなわち居坪を実施する村もあった。以下、宇和島藩・松山藩・今治藩の順にみてゆくことにしよう。