データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
三 地 な ら し
地ならしの成立
地ならしは検地の一種で、宇和島藩(地かい)・大洲藩(地ほう・地坪)・松山藩(地坪・地均)・今治藩(地坪・地平均・地平シ)をはじめ、広島藩・萩藩・三次藩・鳥取藩・名古屋藩・守山藩・熊本藩・越後国・近江国・大和国・和泉国・摂津国・筑前国など、多くの藩および地域で行われた。
地ならしを実施内容から大別すると、村高を固定しておこなうものと、村高を固定しないでおこなうものとがある。また実施主体によって大別すると、農民が村規模で実施したもの(村型地ならし)と、藩が藩規模に制度として実施したもの(藩型地ならし)およびその中間のもの(藩村型地ならし)の三種類に分類できる。しかも地ならしは、経済発展の相違などに関係なく、わが国の各地において、検地・村請→かづき(かつぎ)→地ならしという過程のなかで実施された。
伊予国における地ならしには、村型地ならしと藩型地ならしがあり、松山藩・今治藩では、まず村型地ならしが実施されたが、のも藩型地ならしへと拡大され、宇和島藩では藩型地ならしが実施された。そしていずれの藩も村高は固定しない方法で行われた。特に宇和島藩では、地ならしの実施が目的ではなく、割地実施の前提として行われ、松山藩・今治藩も、藩が実施するようになってからは、宇和島藩と同様に、割地実施の前提として地ならしが実施されるようになった。つまり大洲藩の地ならしが、地ならしの実施を目的として行われたのに対し、宇和島藩・松山藩・今治藩の地ならしは、割地の実施を目的とし、その前提として実施されたから、同じ地ならしといってもその目的ではかなり相違していたのである。
大洲藩の地ならし
大洲藩の地ならし(地ほう・地坪)については、不明な点が多い。大竹村の地ならしをみる限りでは、藩の内々の検地としての地ならしであったようであり、大浦村の「内輪ほう」は、農民が内々で、村内高付地の名請人を確認するためになされたもののようである。大浦村の「内輪ほう」と大竹村の地ならしについて順次みることにしよう。
大浦村の内輪ほう
大洲藩領風早郡大浦村では、天正一五年(一五八七)と延宝二年(一六七四)二月に検地が実施され、特に延宝二年の検地は藩の検地として重視され、延宝二年二月「忽那嶋之内大浦村検地帳一」、「久津名嶋之内大浦村検地帳二」(畑方の検地帳不明)は重要書類として大切に保管された。その後大浦村は、安永九年(一七八〇)二分され、村高四八五石八斗九升八合のうち三八四石余が幕領となった(幕領分は大洲藩預りであったから、現実の支配は大洲藩によってなされていた)。幕領分では、天明六年(一七八六)に、大洲藩領分では、寛政二年(一七九〇)に、それぞれ「内輪ほう」が行われ、延宝二年二月の検地帳が農民の手によって内々に訂正され、次のような「内輪ほう」帳が作られた。(図表「内輪ほう」帳参照)
記載様式を示すと次のようになる。(図表「内輪ほう」帳の記載様式参照)
延宝二年二月「久津名嶋之内大浦村検地帳二」の同じ所を記すと次のようになる。(図表「久津名嶋之内大浦村検地帳二」の記載様式参照)
両記載を比較すると、地位・畝高が全く同じで、寛政二年の名請人の肩書に記された(図表「寛政二年の名請人の肩書」参照)の十助・理右衛門は、延宝二年二月の検地帳の名請人の十助・理右衛門であるから、寛政二年の内輪ほう帳には、延宝二年二月の検地帳の地位・畝高をそのまま写し、田のタテ・ヨコの長さをつけ加え、現在(寛政二年)の名請人を記したものとなっている。ただ延宝二年二月の検地帳では、一筆の名請人が一人というのが大部分であったのに対し、寛政二年の内輪ほう帳では、一筆が複数の名請人に分割所持されているという違いがある。耕地の少ない島方においては、人口の増加、分家(分割相続)などによって、一筆が分割所持されるようになり、また土地移動(質流・売買)も含めて、貢租提出上、名請人の変化を確認する必要があったのだろう。つまり「内輪ほう」帳とは、貢租提出上、寛政二年農民が内々で、現在の名請人と、その所持畝高とを確認した帳簿なのである。農民には検地権がないから、「内輪ほう」帳と表記され、延宝二年二月の検地帳の地位・畝高が、そのまま写されているのは、当然のことであろう。この「大浦村内輪ほう田方之帳」を、延宝二年二月に作成されたものとし、内輪ほうが延宝二年に実施されたとする先学の研究があるが、それは誤りである。というのは、今述べた通りであるが、さらにつけ加えるならば、延宝二年に検地がなされ、延宝二年二月検地帳が作成されたのだから、同年同月に「内輪ほう」をし、「内輪ほう」帳を作成する理由が全くないからである。
大竹村の地坪
次に喜多郡大竹村の地坪についてみることにしよう。「古来ヨリ代々大竹村定覚帳」(有友家蔵)によると、文禄三年浅野長政の検地後、二代藩主加藤泰興が寛永一五年(一六三八)に検地し、続いて寛文一二年(一六七二)に地坪を実施したとあり、さらに続けて、地坪について、
寛文拾弐壬子年地坪大竹村
田畝拾九町六反九畝廿壱歩
高弐百弐拾六石五斗三升弐合
畑畝五拾九町五反弐畝五歩
高弐百八拾八石五斗八升六合
畝合七拾九町弐畝弐歩
高合五百拾五石壱斗壱升八合 今高
加藤出羽守様御検地役 高見茂右衛門殿
山崎 清九郎殿
庄屋矢野平兵衛
右地坪帳面田畑弐冊有り
と記す。「加藤出羽守様御検地」とあるから、地坪というのは、加藤氏による内検地であったことが明らかであろう。
元和三年(一六一七)加藤氏入封後の最初の検地(寛永一五年)では、大竹村の面積は表1-10のように減少しているが、村高は増加し、さらに寛文一二年の地坪の結果、村高は一・四倍、村畝は一・八倍に増加しているから(新田畑不詳)、この地坪は検地帳の畝高と現実の畝高の乖離をなくするための藩型地ならしであった。そして、その村高は、文禄三年(一五九四)の本高に対して今高と称し、以後貢組賦課基準とされていることは、大竹村の享保八年(一七二三)一一月一四日「田畑高寄免割帳」に、
発卯年(享保八年)免割目録
拾九町六反九畝二十一歩
一、田高弐百二十六石五斗三升二合 地坪本帳前
五拾九町五反二畝六歩
一、畑高弐百八十八石五斗八升六合 地坪本帳前
と記されていることで明らかである。「地坪本帳前」とは、寛文一二年に実施した地坪の田畑畝高のことであり、事実寛文一二年地坪帳(田畑二冊)の田畑の畝高と合致する。このように、寛文一二年大竹村の地坪は、藩型地ならしで、寛政二年大浦村の内輪ほうは名請人と所持畝高を確認したものであり、宇和島藩・松山藩・今治藩のような割地実施のための地ならしではなかったのである。