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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 地元金融機関の発展の経緯

 相互銀行・信用金庫への改組

 隣国の朝鮮半島においては、依然として激しい戦闘が継続中であったが、日本では、昭和二六年(一九五一)は新しい希望のもとで元旦は元旦なりに新年を迎えた。更迭前のマッカーサー元帥は年頭の声明において、講和と日本の再武装が必要であることを日本国民に訴えた。「老兵は消えず、たヾ去りゆくのみ」の言葉を残してマッカーサーが日本の地を去ったのは、それから三か月後のことであった。三月末には日本開発銀行法が公布されて四月には早速に同銀行が発足した。この銀行は、かつての復興金融公庫融資に代わるものであって、六月には政府は「重要産業資金の確保と不要不急融資の抑制をはかる」との方針をこの機会に確認した。同月には相互銀行法と信用金庫法が施行となって、従来の無尽会社と市街地信用組合が、それぞれの法律に準拠して金融機関の改組を実施する道が大きく開かれることになる。なお朝鮮戦争下という事情もあって、総司令部は日本政府に対して中共貿易に対する制限を強化することを指令するのであった。
 昭和二六年の最大の出来事は、何と言っても対日平和条約と日米安全保障条約が米国サンフランシスコにおいて調印されたことであったろう。これらの条約は、その後日本の衆議院と参議院を通過して、一一月中旬には批准手続きを終了しており、戦後の最大案件の処理はここにおいて終わりを告げた。このことは同時に日本と米国との関係において、それ以後の両国の基本的な方向を決定づけたものであったと言うことができる。中央において、日本の運命を決定する大きな出来事が進行している折柄、愛媛の金融界においては、一〇月二〇日に愛媛無尽株式会社が相互銀行法に則って、愛媛相互銀行として新しく発足し、さらには、これより僅か一〇日余り遅れて、一一月一日に伊豫合同銀行が名称を伊豫銀行と改めて新しいスタートを切った。伊豫銀行発展の経過と資本金の推移は図金3―1・表金3―1において見るとおりである。また信用金庫法に準拠して、松山信用金庫・三津浜信用金庫・新居浜信用金庫・八幡浜信用金庫・今治市信用金庫・三島町信用金庫・川之江信用金庫の七信用金庫が成立したのもこの時であった。
 顧みれば大正一〇年(一九二一)のワシントン軍縮会議から、一〇年後の昭和六年(一九三一)の満州事変の勃発を経て、さらに一〇年後の昭和一六年(一九四一)には日本は対米英宣戦布告、昭和二〇年の終戦をはさんで一〇年後の昭和二六年に対日平和条約の批准を終わり、ここにわが国は新しい平和国家として再び国際社会に復帰することができた記念すべき年であった。その間に失ったものは誠に大きいものがあったけれども、日本の再生にとっては、それらは避けることのできない道であったのかも知れなかった。折柄、中東ではイラン国会が石油国有化法を可決して、英国系の石油会社であるアングロ・イラニアン社を国有化しており、その後の原油価格問題の起こりと南北問題のさきがけをここにみることができる。ヨーロッパでは戦後の復興のための米国援助によるマーシャル・プランがその目的を果たして終了した時であり、ロンドンでは昭和二四年(一九四九)の英ポンド大幅切り下げの後二年を経過して、為替相場の先行きにもほぼ見透しがついて、戦中戦後を通じて長らく閉ざされていた伝統の自由為替市場が再び開かれた年でもあった。

図金3-1 伊豫銀行沿革系統図

図金3-1 伊豫銀行沿革系統図


表金3-1 伊豫銀行資本金の推移

表金3-1 伊豫銀行資本金の推移