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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 朝鮮戦争の勃発と日本経済

 アジア情勢の展開と沖縄の基地建設

 太平洋戦争が終了してから六年目に当たる昭和二五年(一九五〇)が始まった。戦後の混乱の収拾はおおかた終わるに至り、時代はこれから復興へ向けての新しい動きがぼつぼつと現れ始めていた。既に中国大陸においては前年に中華人民共和国が成立しており、これに対してはソ連はいち早く同国を承認するとの態度をとった。また同じころに欧州では、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が樹立言言を発表した。アジアでは中国本土を追われた中華民国は、その首都を台湾の台北に移しており、その結果として二つの中国がそれぞれに自国の正統性を主張して長い対立を続けることとなった。
 一方米国では、対日講和条約の案文の起草を始めるに際して、世界における情勢が変化するなかで、極東防衛の拠点としての日本の存在の重要性を改めて認識し始めていた。昭和二五年一月、マッカーサーは年頭の日本国民に対する声明のなかで日本の自衛権を強調したが、同月末にはブラッドレー米国統合参謀本部長が来日して、沖縄の強化・日本の軍事基地化を声明した。これに引き続いて総司令部は、二月上旬に沖縄に恒久的基地の建設を開始する旨を発表した。こうした動きに刺激を受けて四月下旬には、ダレス米国務省顧問が対日講和条約を積極的に推進する旨声明した。日本の国内においては、五月の下旬に国土総合開発法が公布されて六月には施行となっていた。こうした気運を敏感に察知しながら、瀬戸内海地帯においては臨海工業地帯の動きが活発となっていた。日本の国内及び国際的に新しい情勢変化に対応した動きとともに復興の足音が高まるなかで、こうした動きを一挙に促進したのは六月下旬に勃発した朝鮮戦争であった。

 朝鮮戦争の勃発と日本の兵站基地化

 昭和二五年(一九五〇)六月二五日、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との間において朝鮮戦争が勃発した。米国大統領は直ちに韓国に対する援助と第七艦隊による台湾の防衛を命令して、七月上旬には国連軍の編成が決議されて、最高司令官にはマッカーサー元帥が任命された。戦争は当初は北朝鮮軍が破竹の勢いで南下進撃を続けており、遂には朝鮮半島の南部まで進出するに至った。この時点において韓国の運命は危殆に瀕していたのであった。しかしながらその後九月中旬になって、国連軍は仁川を奇襲して敵前上陸作戦を決行して北朝鮮軍の戦線を分断し、その南下を食い止めるとともに、さらにこれを追って北上し、韓国と北朝鮮の境界線である北緯三八度線を突破して、やがては鴨緑江岸の新義州にまで進撃した。新義州の対岸は中華人民共和国の領土である。このような事態に立至って、中国側は国連軍の満州(東北地区)進入を阻止するために、一一月下旬には中国人民義勇軍が北朝鮮軍を救援する目的をもって、国境を越えて朝鮮戦線に出動してくることになった。こうなると朝鮮戦争は単なる朝鮮半島の局地戦にとどまらず、一歩を誤ると米国と中国の全面衝突という重大な事態に発展する危険を招くことになりかねない。中国の背後にソ連の存在を考慮に入れるならば、世界戦争の危険さえ含んでいる事態である。米国政府はソ連との対決を危惧して、国連軍最高司令官の更迭を決意し、昭和二六年(一九五一)四月、マッカーサー元帥はその職を解かれて、後任にリッジウェイ大将が任命された。司令官の更迭と方針の変更があったにもかかわらず朝鮮戦争は、その後、半島において約三年間引き続くこととなった。
 朝鮮戦争が継続されるなかで、地理的に一衣帯水の地である日本の存在がますます重要視されてきた。国連軍の中心は米国軍であり、その兵站基地としての役割が大きく日本の役割として加わってきた。わが国は軍需物資の補給と輸送業務のサービスを提供する役割を受け持つことによって、日本経済は再び戦前に経験したような軍需景気に見舞われるに至り、戦後の復興は、これを機縁として一挙に盛り上がることとなった。「いよてつマーケット」は朝鮮戦争勃発後間もなく松山市駅にオープンしたものであったが、たまたま朝鮮戦争による好景気と期を一にすることとなった。既に昭和二五年の三月中旬から下旬にかけて、天皇は東予から中予へ行幸され、さらに南予へと足を伸ばされて戦後の旅を終えておられ、その間に道後には二泊の足跡を印しておられる。四月には国民金融公庫の松山支所が開所し、同じ月に愛媛・高知両県間の宿毛湾入漁問題については解決が成立していた。またこの年の一一月には、引揚者を中心として大野ヶ原へ入植が始まっていた。東京では一二月中旬に日本輸出銀行法が公布され、翌二六年二月から開業となった。国内の復興と経済発展がやがて輸出の振興を至上命令とする時代へと動いていくのであった。