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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 鉄 道 輸 送

 終戦直後の混乱期を経て昭和二四年六月公共企業体として新しく出発することになった国鉄は、同年輸送力増強のための第一次五か年計画を策定して、体質強化に乗り出した。

 近代化の進展

 まず最初は準急「せと」の運転開始であった(昭和二五年一〇月)。この列車は高松~松山間を四時間で走った(翌二六年宇和島まで延長)。建設面では宇和島線の吉野生~江川崎間(一〇・二キロメートル)が完成した。
 昭和三〇年代に入るとディーゼル機関車の導入が急速に進められ、スピードアップと列車の増発がはかられた。それに伴い気動車用旅客駅が次々に設置された。昭和三〇年代に予讃線に設置されたものをあげると、次のとおりである。
  昭和三五年 赤星駅 波方駅
  昭和三六年 伊予氷見駅 柳原駅 春賀駅 西大洲駅 伊予横田駅 関川駅
  昭和三六年 玉之江駅 高野川駅
  昭和三九年 市坪駅 串駅
 ディーゼル化は同時にまた無煙化であった。四国の国鉄における無煙化はかくして全国的にも速いテンポで進められ、昭和四五年には全国にさきがけて四国管内の完全無煙化が完了した。
 昭和三六年四月には急行「四国号」の運転が開始された。
 昭和四二年には鉄道建設公団によって内山線の建設が着工された。同線は当初五四年度竣工予定とされていたが、財政事情の影響で遅れた。(昭和六一年三月三日開通)
 このほか昭和四〇年代の重要な出来事としては次の二つがあげられる。
  昭和四七年三月 特急しおかぜ号運転開始(同年一一月ホバークラフト就航)
  昭和四九年三月 江川崎~川奥間開通
 前者は、四国で初めての特急であるが、山陽新幹線の岡山までの開通に合わせたものである。この時点では予讃線特急列車はかなりの利用客を吸引できた。しかし、四九年山陽新幹線の博多までの開業に伴い、広島・三原まで水中翼船で、あとは山陽新幹線で大阪・東京へというコースに旅行客が転移するのである。後者は、予土線の開通である。西四国循環鉄道として沿線及び周辺地域住民の永年の夢であったが、出来上がってみると、トンネルと鉄橋がずいぶん多い赤字線に過ぎなかった。
 四〇年代には自動信号化・CTC化(列車集中制御)RC化なども進んだ。昭和五五年現在、これらのそれぞれが完了している区間の占める割合は、いずれも全国平均値より高い。

 鉄道市場の衰退と合理化

 一方国鉄は、需要の縮小段階に入る以前の昭和三〇年代から小駅における車扱貨物の取り扱いを廃止するなど、いわゆる「合理化」を進めてきていたが(昭和三〇年代の車扱貨物取扱い廃止駅は予讃線で三一駅にのぼる)、昭和四〇年代に入ると、小駅の無人化、委託化が進められた。さらに五〇年代に入ると需要の減退もあって、それが一層大がかりに進められ、荷主・旅客の国鉄ばなれの一因となっている。
 要するに、四国の鉄道はモータリゼーションの時代に生き残るのに必要な条件(複線化・電化によるスピードアップと頻発性)をもたないままに、増大する輸送需要への安直な対応策がとられたわけであるが、それが対自動車、対航空機競争力を一層弱める要因になったのである。なお、愛媛県にかかわる鉄道問題として「四国新幹線」をあげておかねばならない。「四国新幹線」は昭和四五年公布の「全国新幹線鉄道建設法」に基づくもので、大阪から分岐して南下、紀淡海底トンネルを通って鳴門大橋を渡り、高松・松山を通って佐田岬から海底トンネルで大分県にあがり、九州横断新幹線に接続するものである、九四トンネルについては昭和四九年度から五七年度にかけて調査が行われ、建設は技術的には可能であるとの結論が出されている。しかし、鉄道本体については何らの具体的な動きなしに現在に至っている。