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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第三節 開拓営農


 営 農

 「営農」という言葉は、戦後の開拓事業に関連して、初めて使われたものであり、農業経営学でいう「経営」という表現ではどうしても説明できないし、また理解もできない、経営以前の諸問題を抱えている開拓地の「建設・開墾・農業生産・生活」の拡張再生産過程を端的に表現しようとした苦心の言葉である。と「戦後開拓史」(昭和四二年三月戦後開拓史編さん委員会)において武藤三雄氏は言っている。事実、開拓創草期における営農は、一般農家が生産力の安定した土地に対して農業生産を行っているのに比較すると、建設・開墾・住宅・土壌改良(熟畑化)等経営以前の間題に余分な労力及び経費を必要としたのみならず、生産力の劣悪な土地においての農業生産は極めて不安定であり、加えて資金、資材等の欠乏のため開拓農家の生活は困難を極め、ここに言語に絶した戦後開拓の苦闘の歴史が存する所以である。
 開拓営農を概観すると、昭和二〇年八月の終戦直後からの混沌とした社会情勢の下に、厳しい自然条件と戦い未墾の荒野を「蜜と乳の流れる第二の理想郷」とすべく日夜を分かたずその建設に努力した。次いで昭和二五年の朝鮮動乱を契機にめざましい経済復興があり、農業不適格入植者を中心に、離農を始め、第二次第三次産業へと流出し、その方面で成功したものも多かった。昭和三二年度からは開拓営農振興臨時措置法の制定にともない第一次、第二次にわたり最後の営農振興のテコ入れがなされた。昭和三六年からの、農業基本法農政時代に入ってからは、農業構造改善が開拓地にも波及し、一部では地域的に先駆的営農を展開するまでに成長した。一方、農業不適格者の離農は一段と進み、その土地を残留開拓者へ配分するなど、階層分化が行なわれた。昭和四〇年代には、農業の変革期に当たり、開拓者も一般農家と区別しない方向に進み、昭和四八年からは一般農政に移行し、開拓地営農指導員を廃止し、開拓営農は、農業改良普及員が担当することとなった。
 この間、開拓地では、後述のとおり土づくり、人づくり、作物づくりが順次推進された。