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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

二 入植施設


 助成入植と非助成入植

 入植者には、助成入植者と非助成入植者とがあった。非助成入植者とは、用地の配分を受ける以外には、政府から個人的な補助金や融資金を受けない約束で入植する人達である。住宅補助金及び営農資金につき、標準額を受ける資格を得て入植する人達を助成入植者という。助成入植者や、その開拓農業協同組合などに対しては、政府は、住宅(個人)、飲料水施設(組合)、開墾作業(個人)、土壌改良(個人)、分教場(市町村の設置)その他について補助金を出した。


  1 住 宅 施 設

 入植者住宅

 入植者が未墾の原野に入植し、自作農として永続的に農業を営むためには、自然的な環境条件も重要なことであるが、生活環境を整備することは、さらに重要であった。このため、住宅建築について、政府から資料編(p738)のとおり一般住宅一、七一四戸、災害住宅二七八戸、移築住宅九戸の補助を受けた。なお、入植者が住宅建築するにあたっては、資金も食糧も極度に逼迫し、補助金も所要資金の半額にも達せず、建築資材の欠乏や、インフレの進行で極めて厳しい状態であった。県では、これらを少しでも緩和する意図から、未墾地上に存在する立木、その他の施設を一括買収にかけ、これを入植者に提供する等、あらゆる努力を払ったのであるが、地区によっては、雨露をやっとしのぐ程度の住宅とならざるを得ない状態であった。また、入植地は、一般に標高が高いため風害が多く、昭和二五年以来、毎年のように甚大な被害を受けた。そこで国は、これら災害住宅についても、復旧補助金を交付した。一方、御開山地区のように災害常襲地帯で、しかも、当初の住宅建築位置が不適当な住宅には、安全な場所への移築に対しても特別に補助金を交付した。


  2 電気導入施設

 無灯火解消

 人間の生活上、電気は、今や必需品である。そこで開拓地でも、昭和二六年度から、国補事業で電気導入を始めた。翌二七年一二月二九日には法律第三五八号で「農山漁村電気導入促進法」が施行され、開拓地もこの適用を受け、強力にこの事業は推進された。本県では、年度毎に数地区ずつ事業を実施し、昭和四二年度末で資料編(p743)のとおり六七地区、受益農家八八三戸を完了した。ちなみに、事業費は、三、七九二万四、〇〇〇円であった。なお育ち盛りの子供を持つ親としては、無灯火は精神的、経済的に人知れぬ苦労をしたものである。
 例えば、東予市の楠河地区では、開拓農協長の子供が宿題の「電灯」の図画を書いて行ったが、それは我が家の「ランプ」の絵であった。先生に、「この絵は変ですね。」と感想を書かれ、子供は、一生懸命がいたのに、ショックを受けた由。
 また、同組合の小学生が、母親に連れられて山頂の組合員宅へ貰い風呂に行ったとき、眼下の点灯を見て、「お母ちゃん、山の下にもお星さまがあるんねえ」と尋ねられ、母親は幼い我が児を不憫に思い号泣したそうです。これは只事ではないと意を決し、当時の楠河村長渡部諸吉氏らと東奔西走し、楠河開拓地一八戸と一般住民一二戸計三〇戸の電気導入を昭和二八年完了した。開拓地は長い長いトンネルからようやく抜け出し大人も子供も欣喜雀躍した。これで楠河村の無灯火地区は解消したのであるが、一般住民も含めた国補の取り扱いについて、若干法に触れ、会計検査院の指摘を受け、当面の責任者である開拓農協長西川源一郎氏は苦境に立たされたが、「無灯火は、文化的な人間生活上、致命傷である。」旨を涙ながらに強調し、どうやら収束を見るに至った。


  3 飲用水施設

 水運びの重労働から解放

 入植当初、飲用水は渓流水を竹樋などで引いたり、一〇〇m以上もの距離を天秤で担って運んだりしたのであるが、次第に社会情勢が落ち着くに従って、保健衛生の観点等から施設の改善拡充の必要に迫られ、遂に、昭和二九年度から国補事業として飲用水施設がつくられることとなった。
 当初は、少額予算のため、天水依存地区の雨水利用施設が対象となり、本県も、昭和三〇・三一年度と実施した。本格的に深井戸や導配水施設が助成対象となったのは、昭和三二年度以降であり、昭和四二年度末には、五七地区の開拓地で、天水利用施設二四、深井戸四五、導配水施設九三、の箇所を施工し、受益戸数は二六四戸に及び、事業費一、五六七万九、〇〇〇円を要した(資料編p745)。


  4 公共施設
     
 分教場

 入植者が子弟を教育できないようでは困るので、開拓地が僻遠で、既設の小学校まで三㎞以上ある場合は、その分教場を新設するための国補事業が実施され、地区所在の市町村に対して国庫補助金が交付された。その額は、開拓地就学児童一人当たりの計算で、一定基準の建坪に対し、坪当たり二万五、〇〇〇円~二万七、〇〇〇円の事業費の八割であった。
 本県の実施状況は表3-11のとおりである。
 四ッ浜開拓地は昭和三六年より、豊島開拓地は昭和四三年より、御開山開拓地は昭和五二年より児童減少により廃校となった。

 婦人ホーム

 開拓地の特殊性から、日常生活のなかで入植者相互における連帯は、特に大切なことである。入植者の保健衛生、乳幼児の保育、営農指導及び生活改善の場として活用するため、婦人ホームの設置助成が昭和三五年度から始まった。この施設は、いわゆる開拓地における文化センター的な意義をもつものであるが、初年度は中国四国地区の割り当てはわずか一か所であった。けれども、本県の御開山地区の婦人部の活躍はめざましいものがあり、不振開拓地の振興に大いに貢献した実績を高く評価され、金的を射とめ設置された(建坪約四〇坪)。現在も、地区唯一の公共施設として、婦人部活動のみならず営農振興のための話し合いの場としてもまことに効果的に、また有意義に利用されている。
 なお、補助条件としては最寄りの公民館、保育所までの距離がおおむね六㎞以上あり、入植者を主体とした利里戸数が約五〇戸以上ある地区を対象とし、補助面積は八二平方m、補助率五割で実施し、四三年度をもって終了した。本県は御開山地区のみであった。

表3-11 分教場設置状況

表3-11 分教場設置状況