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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

一 近世における開拓

 西条の干拓

 石鎚連峰の断層山脈から瀬戸内海燧灘に流入する河川によって、形成された遠浅の海岸は、早くから干拓工事が行なわれたところである。
 西泉新開は、元和年代に坂元村の庄屋四郎兵衛の子、次郎左衛門によって開発が行なわれたと伝えられる。現在、国鉄石鎚山駅から北、海岸まで四㎞余り、東西はそれより広く水田が開けている。その内、国道一一号線と、後に開発された禎瑞新開にはさまれている約三百haの土地である。なお、局新田・喜三右衛門新田・藤五郎小新田等の新田が西泉新開の東から北へ接続して順次開発された。
 半弥新田は、室川と加茂川の各河口の間東西に新開されたもので、「西条誌」巻之四新田分に

        当村庄屋実之進が家に、古帳一冊に蔵む、表紙に左の如くあり。
             庚万治三年 新居郡内
           西条分五箇所之新田御改帳
             子二月四日 半弥新田分
        五箇所之新田とは、市塚新田・北新田・摺鉢新田・中新田・古川新田で、
        半弥新田と称え、半弥とは一柳半弥殿の事なるべし。

と記していることから、万治三年(一六六〇)ごろ領主一柳直照によって開かれた新田と思われる。田畑高四九二石七斗余で神拝村の庄屋・組頭が支配していた。
 氷見近辺の新田については、「西条誌」によれば、「当村、昔は前神寺の麓、旦という処迄、皆氷見の一村にて有りしが、正保二酉歳、当村の内を分けて、坂元・楢木とす。又同年、一柳監物殿・樽木村辺の海を開発せられ、西泉村を立つ。……。海手に、蛭子新田というあり。大黒新田というあり。その傍に、昔は布袋新田というもありしが、高浪に破られ、名のみ残る。」とあり、中山川に架けられた新兵衛橋を渡り、川の左岸に見渡す水田地帯は、造成者の渡辺多兵衛の名を用いて、多兵衛新田(太兵衛)と呼ばれ、広さ一八町余に及ぶ。なお、多兵衛は延宝五年(一六七七)風早郡から氷見村に移住し、貞享五年(一六八八)に死亡しているので、その年数からみて、此の地に移住して、早速新田の工事に着手したものと思われる。この新田の北に、約六十余町歩の恵美須(現在は蛭子)・大黒新田が造成された。この工事は宝暦年間、大町組の大庄屋田中喜右衛門及び氷見組の大庄屋高橋与一左衛門の協力によって完成されたものである。藩の援助を得る一方、困窮している住民の救済事業のつとめも果たした。なお、明和五年(一七六八)正月二六日に潮留め工事を行なっている。
 氷見新開は、東は猪狩川、西は中山川に限られた土地で、その内に、二人新開・十人新開・三十人新開・大新開・新兵衛新開が含まれる。二人十人など数字は新田開発に協力した人数を、新兵衛新開は、新兵衛が力をいたして開いたことを示している。なお、新兵衛の墓は氷見の岡林山にあり、文化七年(一八一〇)三月八日没したと刻されているので、新田開発の年代も推察される。新兵衛新田の北西部、中山川の堤防沿いに集落があり、旧暦一一月一二日に塩釜神社の祭りが行なわれる。この日が新田造成の記念日であると言い伝えられている。

 禎瑞新田

 前述の多くの新田地帯の北、加茂川と中山川が燧灘に流れ出る河口一帯の干潟を干拓して、三百余町歩の広大な新田を造成したものである。「西条誌 第十巻 禎瑞」に次のように記述されている。『氷見村と西泉村との地先、海の干湾にて有りしを、新に創しなり。安永七戌正月十六日、竹内立左衛門敏(郡奉行・御勝手役・奉行・御留守居等を歴勤)へ被仰付、元掛となりて築(レ点)之同年四月七日鍬初、同じき九年子十二月七日汐留あり、天明元(安永十年この年号に改まる)丑年九月十八日、禎瑞と称侯様仰せ出らる。然れども先年公儀測量方御役人入込之節、又ハ御巡見使等ヘハ、西之手をば氷見村下分、東之手をば西泉村下分と申答へ、(西之手東之手之事下に出す)禎瑞と云フ名号をば不(レ点)申、新闢の事いまだ公達に不(レ点)及を以ての故なるべし。』
 西条藩六代の藩主松平頼謙が、竹内立左衛門を新田御築立御用にして、二万余両の巨費と、延べ五十数万人の人足を使って、安永七年(一七七八)起工し、安永九年汐留、天明元年(一七八一)完工した。東西一六町三二間、南北二五町二十間、提総回り七十八町三十七間。田地総計二三四町三段二畝二一歩。宛米総計一、五八四石四斗四升。家数二〇八軒・人数凡そ一、一七八人と記されている。入植者出身地について、「百姓根元帳」によると、阿波国一九戸、讃岐国四三戸、備後国一戸、石見国一戸、備中国一戸、安芸国一戸、伊予国では西粂領四四戸、小松領二戸・松山領四戸・今治領三戸・天領二戸の計五五戸で、合計一二一戸であった。
 なお、この新田を禎瑞というのは、完工の年に八幡(西禎瑞にある)地域から清冷な湧水が噴出しだしたので、人々が「天より嘉瑞を降し給う」と、瑞兆にちなんでつけたといわれている。

  ○史跡黄金水跡記念碑
 この記念碑は、禎瑞新田開発二百年記念に、西禎瑞八幡南方の水田の中、産山に通じる新道沿いに建てた。表面には「黄金水記念碑 昭和五十二年十一月八日 禎瑞土地改良区」と記され、裏面に、「西条の藩民を飢餓より救うため郡奉行竹内立左衛門は、加茂川中山川猪狩川の三角洲を利して新開地を造成す。安永九年十一月八日北辺堤防の汐止め工事完了の時、天より嘉瑞を下し給いて、清水この地より無限に湧出し渕となり、是を黄金水と呼びしが、後江戸より金泉の名を賜り禎瑞及び嘉母神社の名もここより起る。」文と記 石川梅蔵

  ○嘉母神社と禎瑞新田之碑
 禎瑞新田開発の大工事を始めるに際し、奉行竹内立左衛門は、加茂川・中山川の下流の三角洲の一角に、藩内の祈願社六社の神主を招き、小さい祠を建て神を祀り工事の完成を祈念した。安永九年(一七八〇)一二月潮留めに成功し、天明二年(一七八二)三百町余の新田が見事に完成した時、産土大神とした。これが今日の嘉母神社である。なお、竹内立左衛門は寛政八年二月九日五四歳で亡くなった。その翌年人びとは、その功績と徳をたたえ、嘉母神社の境内に、早苗社の祠を建てて祀っていた。昭和三三年、禎瑞新田開田百八十年記念祭に、この竹内立左衛門を祀る早苗社は本殿に合祀された。

  ○禎瑞新田之碑
 伊予国新居郡禎瑞新田東至神拜村古川西抵氷見村猪狩川南接橘村西泉北斗出燧
 洋其為地三百三町四反二畝餘堤塘不算焉是安永年間西条藩主従四位松平頼謙公
 所使竹内立左衛門敏開拓也埋斥鹵填海東西七百三十間診南北千四百七十間餘役
 夫百三十餘萬人費金二萬餘両三年成功民自四方集居爾来百餘年民益勤地益肥戸
 數殆四百人口近二千為新居郡中第一沃攘松平公之徳澤竹内氏之功績久而愈見有
 志者相謀建碑傅不朽俾余記其事銘日
   賢主能臣 相遇成功 地稱禎瑞 澤垂無窮
     昭和二十九年八月
       従三位子爵 松平頼英 書碑  従三位勲一等 三浦安 撰文

        
 東予市の大新田

 西条市沿岸部の北西に展開する東予市海岸一帯にも、新田開発を思考させる地形並びに地名が見られる。東予市北条は、中山川の北部にあり、江戸時代は、小松藩の領域で、北条新田は元禄期に造成された。その北に、北条新田より早く干拓工事が行なわれた大新田がある。その工事は、松山藩初代の松平定行の企画によると言われ、寛永一二年(一六三五)から二五年の歳月を費やして、万治二年(一六五九)完成した。
 この干拓工事は、新川の改修工事と新田の造成工事を行ない、大新田・北新田合わせて、六三町二反余の田を新開した。さらに港の改修を行ない、この地方の米をはじめ、物産が集散する港として、賑うようになった。
 この地方一帯の新田では、門樋・堤防などによって、海水との隔壁をなしていたので、宝永四年(一七〇七)の地震では、堀川の門樋の被害が、また、安政二年(一八五五)の大地震でも、大きな被害があったことが伝えられている。

 吉海町の新田

 元禄期から享保期にかけて、伊予八藩ではそれぞれ領内の開拓が行なわれた。藩の財政をより豊かにするため、いわゆる殖産興業の政策の一環として、既存の田畑以外に、可耕地を開発させると共に、海岸・河川に沿う干拓を積極的に進めた。また、村落の人口増に伴う土地不足を補うための開発も見られるようになった。 越智郡大島においても、多くの新田開発が盛んであった。遠浅の津倉湾をはじめ、海岸部や近くの島にみられる。元禄二年(一六八九)の検地帳に、八幡新田村の名が初めて見られ、同一三年の領分附伊予国村浦記によると、この新田村の村高は、一〇七石七斗三升六合とある。この村の東にある仁江村でも、古くから開拓が行なわれたが、特に元禄以降の新田開発が盛んで、元禄二年に、田七町二反、畑一町七反。さらに同一〇年には、志津見新田の田九反四畝、畑一町九反が造成されている。
 元禄六年(一六九三)、舫大川口に長さ五町余の沖土手が造られ、海水を隔絶することに成功した。さらに名村から水門までの大川堤(六〇町四〇間)を築造し、元禄一〇年(一六九七)干拓が完成し、幸新田が造成された。面積は田一四町四反と明和二年(一七六五)幸新田田畑野取帳に記されている。この幸新田は、大島における主要な穀倉地となった。
 これらの新田村に隣接する福田・本庄・津倉地区でも新田畑が開かれたことが記されている。

     明治三十二年建之  明尊寺第八世
   五右エ門政広第七世   釈 聖 諦
桧  友次   房吉 長次   米次 与八
   清九郎 類次 政五郎 惣次 権四郎
垣  五郎衛 豊市 元次郎 甚八 豊太郎
   武兵太 村蔵 八蔵   市蔵 和佐次
苗  藤八   豊吉 文吉   太吉 磯七
   嘉太郎 力蔵 房市   清八 庄吉
裔 向上
   常吉   冨吉 喜三衛 常吉 利八
   今治   同   同    同   同
   愛三   幸吉 利吉   千代吉 久次
   宮脇   菊間 同    波止 来島
   寅吉   近松 禎蔵   七郎平 好五郎
   山之内 同   同    同   同
   吉蔵   頼恒 嘉吉   富次 亀五郎
   ハシ
   近太郎


 大西町の新田開発

 大西町九王の富山八幡宮近くの道路脇に、「五衛門新田開拓桧垣政広之碑」がある。裏面に、上のように関係の人名が刻まれている。この五衛門新田は、寛永一七年(一六四一)頃造成されたものである。この地方は、藩政時代松山藩に属し、他の藩と同様に、財政を豊かにするため、新田畑の開拓を施策し、漸次新田畑改めを実施し、収入増を図った。
 「野間郡手鑑」によると、元禄八年(一六九五)から弘化二年(一八四五)の一五〇年間に、一一回の新田畑改めを実施して、田畑の開発が行われていったことを物語っている。
 なお、大西町地域の旧村のそれぞれの中に、新田畑の開拓された土地をあげてみると、九王(弥六新開・若狭新開・五右衛門新田)、紺原(新開・用開・上新開・中新開)、新町(上新開・弥六新開・又兵衛新開・大新田・利右衛門新開)、大井浜(北新開)、宮脇(西新開・東新開・北新田)、脇(田中新開・下新開)、星浦(東新開)、別府(西新開)以上のように数多く見られる。これらの旧村名毎に元禄一三年の石高と明治維新頃の石高を比較してみることによっても、各旧村で新田畑開発の違いが伺える。九王や新町は、低湿地を干拓し田畑を造成した面積が特に多く、九王では五五石余・新町では八二石余のそれぞれ増が見られ、次に脇・星浦・大井浜などでは、それぞれ二〇石以上石高増を示している。
 これら多くの新田畑開拓と同時に、灌漑用水の確保のため、山麓などに多くの池が築造されたことが「野間郡手鑑」などから伺える。また、「検地帳村別表」(享保~元文年間)にも、村毎にそれぞれ池の数なども記述されている。即ち、九王(八)、紺原(五)、新町(五)、大井浜(一)、宮脇(八)、山之内(八)、脇(四)、星之浦(六)、別府(八)。

 松山市の大可賀新田開発

 山西から三津浜に向かう街道、大可賀の道ぶちに、「大可賀新田記」(資料編P702)と「大可賀新田起工五十年記念」の二つの花崗岩の大きな記念碑が建てられている。それらの碑文によれば、旧山西村の西部海岸一帯は、広大な干潟で、荒蕪地であった。松山藩士奥平貞幹は温泉・和気郡の代官をしていた時、新田を開く可能な土地を調べさせた。嘉永四年(一八五一)山西村の庄屋一色義十郎は、山西村が、山西から海岸の砂丘までの東西に細長い村で、田畑も少なく、朝夕海辺一帯の広い砂原を眺めて、何とか田畑に開発できないものかと思索していた。丁度、郡の代官からの開拓可能地調査に際し、自ら積極的に、砂原の広さ、土砂の量、近くの山の石、田を造成した時の給水の仕方など調査したことを基に、藩に新田開発の計画書を提出した。藩では、その計画案を検討した上で、開発の許可を与えた。
 奥平貞幹が起工の責任者となり、新田造成の計画や指導に当たり、庄屋の一色義十郎は、労役人夫の世話、経費などのことを中心に働き、人びとも懸命に働いた。
 この新田造成の工法の特色は、別府村を流れる新川を、海の高洲まで流出させ、その水勢を利用して、土砂を堆積させる方法を用い、経費・労力の削減を図ったことである。この工事に、山西の清水又兵衛・島谷喜三左衛門・清水豊四郎や別府の庄屋内藤友之進らが、協力して工事を進めた。なお、内藤友之進は、別府から水門に至る水路を造成する工事を担当した。
 この大きな工事を完成した奥平貞幹に禄三十石を加増し、庄屋の一色義十郎をはじめ、協力者一同にそれぞれ表賞米が与えられた。なお、藩主が立派に完成した新田畑の造成に対し「大いに賀すべし」と、賞揚したことから、「大可賀」の名がおこり、大可賀新田と呼ばれることになった。
 また、奥平貞幹は代官として、他地方の争いごとなども、立派に治めたりした徳の高い人物として、尊敬されたことなどが、「大可賀新田記」等を参考にして、知ることが出来る。

  嘉永四年(一八五一) 大可賀着工のための請願書を松山藩に提出する。
  嘉永五年(一八五二) 代官奥平貞幹の指令のもと、一色義十郎ら大可賀新田開発に着工する。
  安政二年(一八五五) 大可賀新田の造成工事作業終わり、補強工事を続ける。
  安政五年(一八五八) 新田で米作が可能になったので、着工以来八年目の九月二八日落成式を挙行する。
                田地五〇町二反二畝二六歩の中、約半分二五町一反一畝一三歩を義十郎らに与えられる。
                義十郎はその中、七町九反余をこの年大可賀在住の者に分け、残り一七町余りを新たに
                移住して来る者の作地とする。
  明治四年(一八七一) 大可賀新田、全体的に良田となる。(戸数八三戸、人口四三三人)

 なお、出来上がった新田畑で移住した人びとが、一生けんめい働いたので、義十郎ははじめ二五年で経費を支払う約束であったが、一〇数年で全部支払うことが出来た。奥平貞幹は明治一五年亡くなり、朝美町宝塔寺参道近くの墓に祀られている。また、一色義十郎は、明治一二年亡くなり、時に六二才であった。

 松前地区の新田開発

 松山平野の中心部を流れる重信川下流、左岸一帯の地域と、伊予灘に面する海岸地域(現在の伊予郡松前町)が、江戸期に広く開発された。
 江戸時代の初期、領主となった加藤嘉明は、積極的な領地改造策を推進すると共に、土木技術の向上によって、重信川流域の荒地・未耕地は、漸次開拓され水田或いは畑作地に造成された。特に、重信川の改修による治水と、利水の両面が推進されたため、松前地区の広大な耕地が、順次開かれ今日に至っている。
 慶長年間に行なわれた検地から、明治初期までの新田畑開発の記録(図1-6)を見ると、元禄期以前と、その以後では、それぞれ特色があることに気づく。即ち、元禄期(近世初期)以前は、北川原・筒井を中心に四二町歩の新田に対し、新畑は筒井・中川原・西高柳など四町歩で、水田を中心とした開発であった。また、地域的には、北川原・中川原・大間・西高柳の重信川南岸沿いの村々と、筒井・北黒田の海岸沿いの村々が開発の主な所となっている。
 元禄期以後(近世の中・後期)の開拓については、新田開発が五一町歩、新畑が三二町歩で、畑の造成面積比率が非常に高いこと。地域的に見ると、田及び畑の開拓が全域にわたって盛んに行なわれたことが分かる。また、元禄期までは、全く畑の造成など無かった海岸沿いの浜村に於て、その後八町歩近く造成されていることである。
 元禄以後、畑の開発が海岸沿いの砂丘地帯を中心に多く見られるようになったのは、一つには、用水・排水の土木技術の進んだこと。それから、近世中期以降になって、商品作物の流通経済の発達や、新開の水田・畑の小作地化などによる利益が多くなったことなどがあげられる。
 また、中川原・大間・上高柳・昌農内・北川原など、重信川左岸沿いの地域に、田・畑の造成が多くみられるのは、享保以降重信川堤防の改修を行い、それまで二重堤防構造であったのを、内側の堤防の嵩上げ強化を図り、外側の堤防を取り除き、言うなれば、一重構造に改めていったために(明和九年(一七七二)ごろまでに終わった。)、その外堤内に新たな耕地を造成したことによるものもある。
 新田開発は、各時代の領主の政策や地域住民の働きによって為されるものが多い。また、庄屋とか、商人とか、財力のある地方の有力者が開発事業を手がけた所が各地に見られる。この松前地区においても、近世初期にこの地方の藩主となった加藤嘉明の信任を篤くうけていた豪商、武井宗意が、現在の松前小学校周辺の土地を、藩主から与えられ、開拓した新田がある。今もその名を冠した宗意原組宗意新畑などがある。武井宗意の墓は、宗意原妙寛寺境内にある。

 中野原の開拓

 松山市中野町(旧荏原村)の中野原は、現在美田上畑で、一部は農地以外に利用されている。この地は天正一三年(一五八五)道後湯築城主河野通直が、小早川隆景に降伏した際、南北野田村(現在重信町)に住んでいた浪人達が帰農して、開墾に当たったと言われている。その証として、中野町の氏神は、野田の三島神社である。その後、文禄四年(一五九五)正木城主加藤嘉明の家臣足立重信が命を受け、苦心して伊予川(今の重信川)の改修設計を立て、迂曲を整え、堤防を補強する大工事を施した。そのため、以後水害も減少した。この工事に伴い中野原一帯に新田畑が広く造成された。当時を偲ばせるものとして、慶長九年(一六〇五)の足立重信書簡によれば、重信川の改修工事で開墾した新田の年貢は、一反(一〇a)について米一斗(約一五㎏)とすること。新しく開発した土地に移住した者には、永久に種々の役を免除すること。また、この土地は人家から遠く離れているので、盗人の用心に鉄砲・刀等の所持は差し支えないこと。などが指示されていた。
 前述の松前地区の開墾と同じく、重信川の治水と利水工事に伴う新田畑の開発が行なわれたわけである。

 南予の開拓

 宇和島藩の領域は、宇和海に臨む入江にある狭小な平地が点在し、多くは山地によって占められる地形である。従って、近せ、領内では農村人口よりも漁村の人口増加が多いため、居住地の拡大と共に、食糧増産の必要性が生じた。なお、当時各藩とも財政のため、殖産興業の基盤として、田畑の開墾を奨励推進したが、宇和島藩においても、相当の努力を払った。領内は、前述のように海岸地形が多いため、半島や島々では、海岸の傾斜地の雑木・草を伐り払い、石垣でもって細長い畑や水田を、年々歳々こつこつと上部に向かって開墾の鍬をふるい、所謂「耕して天に到る」と言われる南予独特の段々畑を造り上げた。
 また、南宇和郡の御荘・城辺・一本松地区の陸地部は、比較的なだらかな平地や丘陵性の地形が展開していて、海岸地域ほど開発に困難性は少なかった。なお、海岸地域では、海産物には恵まれていたが、主食に不自由で、開墾された段々畑で、麦・そば・大豆・いも類を栽培し、水利の便が良い土地では水田を造成し、食糧の確保に努めたのである。施肥・収穫など急傾斜の山坂を、全て人の背に負って運搬し、耕作も平地と違って、多くの苦労を要したのである。
 開墾を奨励した宇和島藩では、開墾する場合、当事者の住所氏名・開墾地の場所・面積や使用目的などを記して、庄屋を通じて藩に願い出る、許可制を取っていた。開墾の願書を藩でよく吟味し、適当と認めれば、また庄屋を通して、当事者に許可を与えた。開墾した土地は当事者に用益権があり、始めは、あわ・きび・ひえ・そば・とうきび・豆類などの雑穀を作り、三か年間は年貢を納めなくてよい。いわゆる「鍬下年期」といわれる。それを過ぎると、開墾地相応の税が割り当てられ、納入することになっていた。

図1-1 西条干拓図

図1-1 西条干拓図


図1-2 東予市新田関係図

図1-2 東予市新田関係図


図1-3 吉海町干拓関係図

図1-3 吉海町干拓関係図


図1-4 大西町開拓関係図

図1-4 大西町開拓関係図


図1-5 大可賀新田関係図

図1-5 大可賀新田関係図


図1-6 松前地区旧村別の新田畑開発状況

図1-6 松前地区旧村別の新田畑開発状況


図1-7 松前地区新田関係図

図1-7 松前地区新田関係図


図1-8 中野原開拓関係図

図1-8 中野原開拓関係図