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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 革新技術の開発と普及①


 多収品種

 明治後期の稲作の飛躍―反当収量の増加―は多収品種(相徳・神力・雄町)の普及によるところが大きい。

  1 相     徳

 相徳は抜群の多収品種で、明治の後期に道後平野を中心として広く普及し、米の飛躍的増収の最大要因となった品種である。
 明治二三年に、伊予郡原町村大字川井(現在砥部町)の村上徳太郎(慶応三年・一八六七―昭和一二年一九三七)が自作田で栽培していた相生種から、多蘗、美麗で穂の揃った一株の変種を発見し、翌年その種子を大字七折野中で試作した結果、優秀な特性をもつことが確認され、漸次地方に伝播して明治三四年いらい相徳の名で呼ばれるようになった品種である。相徳の命名者は、村上から種子を分譲されて試作を続けた近隣の稲田万次郎で、原種である相生の相と発見者徳太郎の徳をとったものである。
 村上徳太郎は明治百年の昭和四三年に、その功を賞して農林大臣から顕彰状が贈られ、また昭和四五年に川井の郷戸により同公民館前に頌徳碑が建立された。


      顕彰状

    愛媛県故村上徳太郎殿
  あなたはわが国農林漁業の発展に顕著な業績をあげられたので 明治百年を迎えるにあたりこれを顕賞します
    昭和四三年一一月二三日
    財団法人
    日本農林漁業振興会々長
     農林大臣 西村直己


     頌徳碑文

      村上徳太郎翁
  村上翁は慶応三年二月九日、国造を父として川井に生る 青年の頃より農業に励み農業に熱心で特に稲の改良に努
 力していたが 明治二三年刈取の際 相生種の中に ひときわ穂揃のよい生育良好な一株を発見しその穂を抜き翌年
 その穂を播き肥培管理に全力をあげた結果 耐病性強く多収にして栽培容易な優秀品種の固定に成功しその名を相生
 の相と徳太郎の徳をとり相徳と命名した 相徳種は永く県の奨励品種として広く山間地帯に栽培され我々郷党の受け
 た恩恵は多大であった。翁はその功績により数度表彰の栄に浴されたが こゝに永くその栄誉を讃えその略歴を録し
 て後世に伝える
       昭和四五年三月一二日
          城南農業協同組合長 松田良雄謹書


  附 記
 相徳種発見の「明治二三年」の出典は、菅菊太郎『愛媛県農業史中巻』(昭和一八年刊一〇三頁)であるが、玉井豊『愛媛篤農伝』(昭和四四年刊一六四頁)、『砥部町誌』(昭和五三年刊一〇八四頁)、前記の頌徳碑の碑文は、いずれもこの二三年説をとっている。
 しかし大日本米穀会第一二回大会愛媛協賛会が大正八年四月に発刊の『伊予米』には、「明治二一年同村字田場の稲田の中に一株他に異なりて穂揃良き美麗なるものあるを認め之を採種し………」(同書三八頁)とあり、また『愛媛県誌稿』下巻(大正六年刊七〇〇頁)には、「明治二二年伊予郡原町村大字川井の農業村上徳太郎、自家の田圃に栽培せし相生種中より他より草丈長き一種を発見し……」とあり、菅説のほかに二つの異説がある。
 さらに相徳の命名年も前記の『愛媛篤農伝』には明治二七年(同書一六四頁)とあり、種歴が明確でない。

  2 神     力

 相徳とならび明治後期の稲作の発展に少なからぬ影響を与えた品種に神力がある。神力は明治一〇年に兵庫県揖保郡中島村の丸尾重次郎が、有芒種の程吉の中から無芒の良種三本を発見し、これを原種として栽培したところ、収量が著しく多く米質も中等以上で、米作農家の関心が集まり、器量好の名で関西各府県に急速に普及した品種である。のち「かゝる良品種の現わるるは人の力に非ずして神の賜なり」として明治一九年に地方の有志により神力と命名された。
 本県に導入されたのは明治一九年で、新居郡多喜浜村(現在の新居浜市)の山田一郎が同年四月一八日に兵庫県で開催された塩業会議に出席の際に種籾五合を携え帰ったのが最初で、翌二〇年に県勧業課が一石の種を購入し、各郡に配布して奨励し県内一円に急速に普及した。
 明治四〇年代には栄吾・三宝を完全に駆逐して栽培面積の首位を占めるにいたり、やがて農事試験場により本品種を原種として「伊予神力」が育成された。

  3 雄     町

 相徳・神力に次ぐ多収品種として広く栽培されていた稲に雄町がある。前記の『伊予米』によると、雄町は「岡山県上道郡高嶋村字雄町岸本甚蔵なる人、曾て伯耆の大山に参詣し、途中二本の良種を認め持ち帰りて蕃殖したるものなり。又一説には明治二年頃、服部平蔵なる人、二本の良種を選出し、二本草と命名したるもの雄町の起源なりとも言えり」とあるが、雄町と命名されたのは明治二三年で、本県に伝植された時期は明らかでないが、明治二六年ころ温泉郡・越智郡に導入され漸増したものと考えられる。

 塩水選

 選種技術の塩水選は明治後期の米麦作の改良に大きい役割を果たした技術の一つである。塩水選法が広く一般から注目されるようになったのは、明治一五年に福岡農学校教諭の横井時敬が、イギリスのチャーチの小麦種子の試験を参考にして種籾について行った試験研究成績を公表してからであるが、苦塩を用いて比重の重い良種を選ぶ方法は、古くから全国の農事老練家により実行されていた。
 温泉郡東野村(現在松山市)の丹生谷亮之は、明治の初期から苦塩選を実践していた。越智郡蔵敷村(現在今治市)の原島聴訓も、明治二一年に塩水選を以て試作し、次のような成績をあげている。
 しかし塩水選が一般農家に普及し始めたのは、明治三〇年代の初期である。前述した明治三三年二月に、県農会の主催で開催された稲作講話における農林省農事試験場四国支場の小幡健吉の講説により、塩水選に対する評価が急速に高まり、郡町村で施行規程を定めて積極的な奨励が行われるようになった。

    温泉郡米麦種子塩水選施行準則(明治三三年二月)
第一条  米麦種は塩水選を経たるものにあらざれば播種することを得ず
第二条  米麦種塩水選施行のために一町村内を便宜数区に区画し毎区に委員二名乃至五名を置き一切の事務を掌理せし
       む
       前項の区画並に場所は町村長より町村農会長に協議の上之を定むべし
第三条  委員は町村農会員中に就き町村長、町村農会長協議の上これを選定すべし
       委員は名誉職とし別に報酬を支給せず 但施行中に限り一日二十銭乃至五十銭の日当を支給することを得
第四条  塩水選施行に要する器具類は町村に於て之を準備すべし
第五条  塩水選施行の区画 場所及期日は其都度 町村長より之を関係者に告知すべし
       前項の区画 場所及期日は施行前 町村長よりこれを郡長に報告すべし
第六条  塩水選施行中は町村長これに監臨すべし 但時宜によりては郡吏を派遣し監視せしむることあるべし
第七条  本準則施行に関しては町村長より町村農会長に協議することを要す 其施行に要する経費は町村費を以て之を
       支弁すべし

 明治三三年一〇月に農商務省農事試験場四国支場で開催された四国四県農事試験場長会議で、協議事項の最重要課題として塩水選の普及と実施に関する問題が協議され、翌三四年八月に開催された同会議で、各県場長から県内の実施状況が報告されているが、本県の場長は次のように報告している。
 「塩水選は従来 篤農家に在りては、之を行ケものなきに非ず、且つ之が奨励を加えたりと雖 事態奨励に止まるを以て未だ一般に普及するを得ざりし 然れども漸次施行の気運に向えり」
 この報告によると、明治三四年の時点では、きわめて低い普及率であったことがわかる。明治三六年一〇月に農商務省から各府県の農会に対して農業の改良に関して次の一四項目の必行事項が論達されたが、最も重視されていたのは塩水選である。

      農業改良必行事項
(一)   米麦種子の塩水選       
(二)   麦黒穂の予防         
(三)   短冊型共同苗代        
(四)   通し苗代の廃止        
(五)   稲苗の正条植         
(六)   重要作物果樹蚕種等良種の繁殖 
(七)   良種牧草の栽培        
(八)   夏秋蚕用桑園の特設
(九)   堆肥の改良
(十)   良種農具の普及
(十一) 牛馬耕の実施
(十二) 家禽の飼養
(十三) 耕地整理の励行
(十四) 産業組合の設立

 明治三七年五月に設置された後述の愛媛県戦時農業督励部はこの諭達事項から五項目を選び督励の必行事項としたが、その第一項に米麦種子の塩水選を掲げ指導を開始した。しかし塩水選は短冊苗代 正条植と異なり、罰則の適用を受けない奨励事項であったこともあり、同年度の実行者は全農家の二割弱にとゞまり、籾種量も総種子量の三割に満たない四、二六〇石に過ぎなかったが、翌三八年以降は大半の農家によって励行され、以後 塩水選は必行の技術として完全に定着した。
 前記の小幡健吉の稲作講話を契機として、塩水選に対する関心が高まったころ、温泉郡素鵞村(現松山市)の伊賀金次郎が、使用に軽便な塩水選種器(図2-34)を考案し、村内の農家に使用を勧め、同村大字立花では明治三五年の塩水選はほとんど全農家がこの塩水選種器を使用していた。宣伝と普及のため伊賀は明治三六年二月、県農会に次の解説書を送付しているが、県農会の指導、奨励により伊賀式塩水選種器は広く県内各地で使用され、塩水選の普及に大きい役割を果たした。

    伊賀式塩水選種器解説書
一 構  造  醸造業に使用する角桶に酷似したる木造の桶に、ニヶ所の小柄(所謂角)を附し、底部に金属製の網を張り、尚網
       の垂下を防ぐため支木を綱の下部に附す(製造費凡一円)
一 使用法  一村又は一大字以上等 多量に選種する時 使用するものにして、先四斗樽に餅、雄町、神力用等比重の異なる
       塩水を盛りたるもの三ヶ、或は四ヶを準備し、選種器に籾種五升乃至八升を入れ、之を塩水桶に箱入し能く攪拌して
       不良種を除去し、精選後打揚げて塩水を滴下し、井戸又は川端に於て之に淡水を灌ぐか又は淡水中に入れ充分に
       洗浄して塩分の流出したる後、籾を選種器より取り出す
         選種器三個 人夫二人にて一日に十石の籾を精選する事容易なり
一 効  用  一度この器に入れたる籾は、全く精選を終る迄、他の器に移し又は塩水の入れ替へを為さず、且取扱中 竹籠の
       如く周囲に付着せざるを以て大に労力を省約す 塩水の消費量を非常に節約す(籾種十石を精選するに苦塩汁大凡
       一石二斗代金一円二十銭にて足る)
         役場 農会等にて一般の為めに使用する時は、農民をして安価に選種を為し、且つ塩水選種法を普及せしむる
       事を得


 短冊苗代

 明治三五年から県下の苗代は強制指導により短冊苗代に改められた。在来の苗代は、普通苗代、通し苗代ともに整地した田面に、歩行の足跡を踏切溝として播種するべ夕播が一般的な様式であった。
 西南戦争の直後から苗代の改良熱が高まり、明治一四年に鳴門義民が『害虫図解説』を著して苗代改良の重要性と短冊苗代を説き、同一六年に農商務省農務局が『螟虫図解説』を発表して短冊苗代の奨励を提唱してから短冊苗代に対する関心が喚起された。
 しかし鳴門や農務局の提唱以前から短冊苗代は地方の篤農によって開発され、静岡県では明治一三年から報徳社により奨励されているが、本県でも南宇和郡の二神勝次郎が明治の初期から播床幅を四尺程度に整地し、その間に歩行の容易な通路を設ける短冊型の苗代を考案し実行していた。
 二神は害虫予防のため、苗代に煤を撒布し苗の先端近くまで湛水して二、三日後に落水する独自の防除法を実施していたが、その作業や害虫の捕蛾採卵・注油・施肥などの作業を容易にするために考えだしたのがこの短冊苗代であった。
 明治二三年に福岡県から老農林遠里を招き、県下一四か所で開催した稲作講話会で林が最も力説したのが苗代の改良であったことは前述したが、この講話に刺激された稲作改良熱の台頭と、酒匂常明が学究者の立場から短冊苗代とその利点を説いた『米作新論』の出版(明治二五年)が重なり、明治二〇年代の後半から県内の苗代改良に対する関心が急速に高揚した。
 伊予郡北伊予村(現松前町)では明治三一年に、害虫駆除の徹底とともに、防除作業に不便な在来苗代を廃して短冊苗代にすることを奨励し、明治三二年には村内の全苗代が短冊苗代に改められて近郷から注目された。
 こうした実態を背景にして明治三二年八月に愛媛県害虫駆除予防法施行規則(資料編社会経済上二二~二四頁)が改正され、害虫の駆除予防を施す方法の規定中に「苗代は床地幅四尺(長適宜)、溝幅凡一尺の短冊形に整地すべし」の一項が追加された。
 しかし短冊苗代は旧慣の苗代に比較するとやゝ多くの面積と労力を要することから傍観農家が大半を占め、初年度(明治三三年苗代)は予想に反する不成績に終った。事態を重視した県は、県農会からの強い要請もあり、同三四年一月に前記の予防法施行規則を再び改正し、短冊苗代の不覆行者に対しては同規則の罰則「一円九五銭以下の科料、又は七日以内の拘留」を適用し強硬な態度でのぞむ方針が打ち出された。
 同年の苗代準備期間は、技術者総動員の強圧的な督励となったため、各郡とも大混乱となり各地で騒擾をじゃっ起し多数の違反者、犯罪者を出す結果となったが、この年も全苗代を短冊化する目標は達成することが出来なかった。指導督励の先導役をつとめた農事試験場長は、その実態を次のように考察している。「本年(明治三四年)県令を発し、之が施行を命じ、行政各庁及び各級農会 之が督励を勉めたれども 事創始に属するを以て、或は播種後に於て適宜 踏切を設けしめたるものある等、固より完全を得る能はざりと雖、周到に施行されたるを見る。明年に至らば完全を得るに庶幾からん乎」(県農会報三一号五一頁)
 この二年間の実績から、県はさらに徹底をはかるため明治三五年五月に、改めて「稲苗代田整地規程」を定め、強力な指導を展開した。

  稲苗代田整地規程(明治三五年五月九日県令第二一号)
 第一条 稲苗代田は床地巾四尺以内 長さ適宜の短冊形に整地し其間八寸以上の空地を設くべし
 第二条 稲苗代を設けたるものは其所在地毎に自己の住所氏名を記したる巾三寸 長三尺の木標を建設すべし
 第三条 第一条に違反したる者は壱円九拾五銭以下の科料又は七日以内の拘留に処す

 本規程による強権的な指導督励で、初年度には新居郡ほか六郡で一三七名の違反者が処罰されたが、翌三六年には、例外的な一部の地方、少数の農家を除き苗代のほぼ全面積か短冊苗代に改められ、明治三七年以降は督励も不要となり、林遠里の来県から一三年目、県の指導開始から四年目にして県下の苗代は完全に短冊苗代に改善された。
 短冊苗代は、苗代の共同化、集合化(共同苗代、集合苗代)と一体的に奨励された。共同苗代は害虫防除の一環として早くから各郡で奨励されていた。明治三二年八月に定めた喜多郡農会の「害虫駆除予防規約」は、稲田の害虫駆除のため実行すべき諸事項の中に「共同苗代を設くること」を第一項に掲げている。(同規約八項)
 また県農会(会長有友正親)は明治三四年八月に短冊苗代を共同で実施することを献策した次の上申書を知事に提出している。(県農会報二九号二八頁)

      共同短冊苗代奨励の儀に付き上申(明治三四年八月五日)

 害虫予防の事たる一人一部の精励は効果少なく、却て労して効なきの慨あり。須らく一村一部落に於て二反歩以上の苗代田を共同整地せしめ、以て害虫駆除予防の実を督励せば其効果を収むること今日より多々なるべし。元来 共同短冊苗代の利便は、其形式一様一律に整製せられ、適当の苗代地を選定するを得。配水灌漑の便は勿論、害虫を発見すること速にして機を逸せず、同時に全般に向て防除の成績を挙ぐるを得べし。而して此事や其利便を唱導して弁難排斥するものなきに拘らず、殆んど其之を実際に行うものなきは、旧慣を脱却する能はざると、多少費用を要するより躊躇するに外ならず。今若し費用補給の途を啓き、督励示導宜しきを得ば一躍旧慣を離去して実施普及するは賭を見るよりも明なりと信ず。希くば是れが奨励の方法を制定あらんことを請う。
 右は緊急の事件と思料致候に付 速に御調査、御採用相成度此段上申候也


 この上申により、共同苗代、集合苗代は短冊苗代の指導と並行して奨励され、明治三六年には県内の四八六か所、三七年には六三一か所で実施された。しかし三年にして目的を達した短冊化に比較すると、共同化、集合化は罰則の適用から除外されていたこともあり、普及率はきわめて低く、短冊化が完了した明治三七年でも、実践者は農家の一九%、苗代面積の三%弱にとどまっていた。
 短冊苗代、共同苗代の奨励に続き、共同苗代に参加しない個人苗代の集合化を促進するため、明治三八年二月に「害虫駆除予防法施行規則」(資料編社会経済上二九~三一貢)が改正され、苗代田は一人一か所に設置し、特別な事情で二か所以上に設ける場合は知事の許可が必要となった。
 この規則改正により、明治の後期から大正の中期にかけて、個人苗代の集合化のほか、共同による苗代の団地化か進み、共同集合苗代が一般的な形式となったが、知事の許可には繁雑な手続きを必要としたので、世界大戦に因る労働力の減少に加え、害虫駆除技術が普及して慣行化した大正後期には、規則の改正を要望する声が高まり、昭和時代になると共同の大規模集合苗代は次第に解体し、個人苗代へ復帰する地方もあったが、労力不足が深刻となり、食糧増産が緊急課題となった日中戦争下では再び大規模集合苗代が各地で復活した。

 正条植

 本県の田植形式は、山間地の棚田など少面積の特殊田を除き、ほとんど全水田が明治三九年以降 正条植に改良された。正条植の考え方は古くから存在し、近世の農書にも正条植を説いているものが数多く見られる。『耕稼春秋』(宝永四年・一七〇七)、『農事遺書』(宝永六年・一七〇九)、『耕作噺』(安永五年・一七七六)、『穂に穂』(天明六年・一七八六)、『私家農業談』(寛政元年・一七八九)、『農業蒙訓』(天保一一年・一八四〇)などがその例であり、元禄一〇年(一六九七)刊の『農業全書』には片正条植の風景を描いた挿絵が掲載されている。『親民鑑月集』(寛永六年・一六二九―承応三年一六五四)の第一〇章「喩農業将基事」の中にも正条植を想わせる「稲を手並よく植え」の記述があり、正条植あるいはその考え方の源流は記録で見るかぎりでは中世末―近世初期にさかのぼると言える。

 大原幽学(寛政九年一七九七―安政五年一八五八)は千葉県香取郡中和村で縄を用いて整然と植える田植を実践し、同時代に静岡県でも二宮尊徳の指導で報徳植(縄を使用する正条植)が普及していた。
 本県では越智郡蔵敷村の原島聴訓が明治一〇年ころ、縄を使う正条植を指導しているが、本県の田植技術は早くから進歩し、明治初期には定規や張縄こそ使用していなかったが、稲の株筋はほとんど正条に等しい植え方になっていた。明治一〇年代末に松山、今治近郷では、水田除草に田打転車を使用しているが、乱雑植では転車の使用は不可能で、当時の田植が正条植か片正条植に近いものであったことを示している。
 本県で縄または定規を使用する本格的な正条植が始まったのは明治三〇年である。この年の三月に越智郡農会の主催で開催された農事講話で、講師として招かれた農林省農事試験場四国支場の小幡健吉技師が正条植について講述したことは前述したが、この講話に基づき、郡内諸所に試験田を設置し正条植の現地実証試験が実施された。たまたまこの年は浮塵子の異常発生で一般稲作は大惨害を蒙る凶作となったが、正条植試験田の被害は極めて軽微であった。この実績から正条植に対する関心と評価が高まり、年ごとに試作者が増加し、今治以東の道前平野一円に広く普及した。
 松山近郷では明治三一年に温泉郡余土村(現松山市)の鶴本多次郎・房五郎父子により試作されたのが嚆矢であるが、これが近隣へ急速に波及し、明治三五、六年ころ余土村では全村の田植が正条植に改良された。余土村では当初から多次郎が考案した「余土式正条植器」と呼ばれた独白の定規を使用していたが、改廃の困難な慣行農法が短斯間に改革されたのはこの田植器が使用されたからである。温泉郡農会は明治三六年に余土式正条植器を管内の全町村に配布し、実地指導教師を派遣して普及につとめた。
 しかし明治三六年の県下の正条植面積はわずかに一、九一六町歩で、翌三七年には三、四七三町歩に急増しているが、作付総面積に対する比率は七%にすぎない低率であった。
 明治三七年二月の日露の開戦と同時に、県は戦時下の農業を督励するため、愛媛県戦時農業督励部を設置した。督励部は稲麦種子の塩水選ほか五項目の督励事項を掲げたが、田植の正条植は含まれていなかった。そのため県は前述した明治三八年二月の害虫駆除予防法施行規則の改正にあたり、稲作人の履行すべき事項(規則第三条)に新たに正条植を加え、違反者には短冊苗代と同様に科料または拘留の罰則を適用する積極的な方針をたて、強力な指導督励を開始した。
 初年度は違反者の続出と混乱が予想され、県農会から知事に対して「本年度に限り特に縦横 何れかを正条になしたるものは之を咎めず、両者共に正条となさざる者に限り制裁を加え、以て明治三九年より県令を厳守する」ことを要望する陳情書が提出されたが、戦争を背景にした督励部員の強力な指導により、烈しい生産者の反発抵抗と、頻発する紛擾の中で多くの犠牲者を出しながら作付のほぼ全面積が正条植で実施された。
 この年の六月二二日に挙行された宇和島和霊神社の田植祭も、督励と実演を兼ね神田数枚中の一枚を選び、県農会技術者の指導で地方の有志、青年により定規を用いた模範正条植で行われた。
 和霊神社の田植祭は、当時の三輪田幸松神官の談話では「起源に就ては明瞭なる記録なきも今から百余年前に……」とあるが、現存する同神社の田植祭由来伝説によると「寛政二年(一七九〇)五月、宇和島藩医浅野旧庵(三輪田神官談話では浅野道安)祭神山家公が当藩赴任の当時、前代の虐政に依り人民塗炭の苦境に呻吟しつつあるを救済せんが為め専心勧業に尽されし徳を追想し、神田奉納の上 執行せしに基因す」とある。
 この伝説に従うと、明治三八年の田植祭は一一六回目に当るが、当時は拝観のため四方 四、五里の遠隔地から農業者が群集する盛大な催であった。この日の正条田植祭は多大の反響をよび、南予におけるその後の普及に大きい影響を与えた。(県農会報 明治三八年七六号三五頁:和霊神社の御田植式と正条植)
 翌明治三九年は、後述のように農業督励部が発足(戦時農業督励部を農業督励部に改組)し、正条植が重点指導事項となったこともあり、現地の督励はさらに厳しさを増し、乱雑植の田には赤旗を立てて注意を促すほか、不正条植の田は植え終った苗を抜きとり正条植に改植させる徹底した指導が行われた。農業督励部の総力を傾注した指導で、猫額大の山田、強湿田など一部の特殊田を除き、県内の水田はほぼ全面積が正条植に改められた。
 生産者の激しい抵抗と紛じょうの中で、全国的に展開された明治後期の県令農政(サーベル農政)を横井時敬は次のように論評している。「今現に地方の農業政策を観察する時は、濫りに県令に依頼して以て之を禁止し 彼を強行すること甚多く、正条植の如きは田植に際して株間の整然だとを必要とし、或は歪み、或は曲るを禁ずるものにて、農業より見て一小瑣事に過ぎざるのみ(中略)立憲政治主義とは相一致するものにあらざるや必せり」(日本農業発達史第五巻三五七頁)
 しかし正条植は、稲の生育が均一となり、通風、通光が良好となって収量、品質が向上する現実的成果をもたらしたほか、本来の目的とした病虫害防除に加え、栽培密度、施肥、除草など、関連する各分野での新しい技術の研究開発を促す誘因となり、副次的には除草機の開発、水田の区画整理を促進する要因ともなり、稲作史上まれに見る飛躍的発展の原動力となったことは、その後の歴史で明らかである。
 正条植により古来の慣行を継承していた明治前期の稲作は大きく変ぼうし、その後に展開した近代的日本型稲作の基盤が形成された。


表2-35 塩水選試験

表2-35 塩水選試験


表2-36 明治三七年米塩水選実績調

表2-36 明治三七年米塩水選実績調


図2-34 伊賀式塩水選種器

図2-34 伊賀式塩水選種器


図2-35 べた播き苗代・短冊播き苗代

図2-35 べた播き苗代・短冊播き苗代


表2-37 明治三五年短冊苗代犯罪人調

表2-37 明治三五年短冊苗代犯罪人調


表2-38 短冊苗代調査

表2-38 短冊苗代調査


表2-39 共同苗代調

表2-39 共同苗代調


表2-40 正条植調

表2-40 正条植調


図2-36 櫛形定規による田植

図2-36 櫛形定規による田植